京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『ワンダーウーマン』短評

FM802 Ciao! MUSICA 2017年9月1日放送分
 『ワンダーウーマン』短評のDJ's カット版です。

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マーベル・シネマティック・ユニバースに対して、こちらはDCエクステンデッド・ユニバース、DCEU 4作目。『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』にチラッと出ていたキャラクターの単独作。
 
女しかいない孤島で、プリンセスとして、そして戦士として育てられたダイアナ。ある日、島に不時着した飛行機の男性パイロットを救い、彼から第一次世界大戦が起きていることを知らされます。世界を平和に導くという自分の民族の使命感を覚えたダイアナは、アメリカ人のパイロットと戦場へと向かいます。

 

バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生 アルティメット・エディション(吹替版) モンスター (字幕版)

監督は、シャーリーズ・セロン主演『モンスター』のパティ・ジェンキンス。女性です。これが久し振りの長編で2本目。監督が実写化するなら「私がやる」と強く手を挙げたようですが、大抜擢ですね。ダイアナ/ワンダーウーマンイスラエル出身のガル・ガドット、そして、お相手の男性トレバーをクリス・パインが演じています。
 
それでは、3分間の映画短評、今週もいってみよう!

あらすじを読んでいた時点で、設定にいくつか疑問があったんです。まず、女だけしかいない島っていったい何なんだ! どこにあるんだ! 行ってみたいぞ! これが初の単独作となるので、ダイアナの出自については、前半でわりと時間を割いて描かれていました。普通に考えたら、どうやって子どもが生まれるんだとか思うじゃないですか。これは設定の段階なんでネタバレにはならないでしょう。ギリシャ神話にゼウスってのがいますね。神々の親玉的な。その息子にアレスという戦いの神がいる。さらに、そのアレスから人間を守るために作られたアマゾン族という女性ばかりの種族がいる。ワンダーウーマンは、その末裔なんです。アマゾン族は、アレスが現れた時に彼を撃退するために訓練を積み続ける戦闘集団です。どうやら、殺されたりしない限りはずっと生き続けるようでして、映画のスタートは現代のパリ。ワンダーウーマンは自分の写った1枚の集合写真から、第一次大戦の頃の思い出を偲ぶという、壮大なフラッシュバックの構成なんですね。彼女がそのエリートとしての血筋と使命に目覚めてヒロインになっていく、成熟していくプロセスが描かれる。
 
この時点で疑問は山ほど湧いてきます。アマゾン族は人類の歴史とパラレルに生き続けてきたから武器が剣と盾と弓矢ってのはまだいいとして、世界史にあるような人類の戦争の歴史にどう絡んできたんだろう。飛行機が不時着したけど、あの島と世界の境界線のアバウトさは何なんだ。島から出たことがないから世間知らず、文明知らず、男知らずなのはいいとして、それでどうやってあんなにたくさんの言語が話せるんだろう。どれもこれも、設定はかなりアバウトです。詰めて考えると、クラクラしてきます。ただ、じゃあ、映画として破綻してるかっていうと、そうではないんですよ。そこが凄いなと思うんだけど、しっかり面白いし、興味が持続するんです。中だるみしないんです。
 
それはなぜかと考えると、ガル・ガドットが体現するワンダーウーマンそのものの問答無用の魅力と、映画全体のバランスが良いからですね。神話的要素、第一次大戦歴史ものの要素、カルチャーギャップをベースにしたコミカルな要素と軽い恋愛要素、そして、あくまで肉体を軸にしたアクロバティックなアクション要素。かなりごった煮なんだけど、どの具材も丁寧に下処理されてるから、火の通りも良くて、ずっと食べ続けられる。そして、どの具材も火を通しすぎて煮崩れしたりしてないから、口当たりがいいんです。悪く言えば、正面から向き合いきれてないんだけど、良く言えば、それぞれの要素のいなし方がうまい。さっき挙げた各要素を掘り下げすぎない。だから、矛盾や疑問も、あまり深く意識しないで済む。シリーズ1本目として、それって大事なことですよ。やっぱり、1本目から眉間にシワを寄せるのもしんどいしね。
 
でも、なんだかんだ、やっぱり、全体のダシに当たる、肝心のワンダーウーマンを演じるガル・ガドットがすごいんでしょうね。どんな服も着こなすし、すっとぼけた言動を取る時はチャーミングだし、髪型を変えて、露出度を上げて戦う時の頼れる感じ、意志の強さにも説得力があるし。
 
そのうえで、ヒーロー映画ですから、戦闘シーンも色々あるんだけど、いくらCGを使おうと、あくまで肉体重視のアクロバティックな戦いだから、荒唐無稽なんだけど、いい意味で人間離れしすぎておらず、しかも、だんだん戦闘が激しくなるように持っていってるから、ちゃんとラスボスまで戦闘シーンで飽きないようになってる。
 
がしかし、終わってみると、やっぱり疑問は疑問のままたくさん残ってるのも、また事実。エンディングで当然、現代にまた戻るんだけど、彼女は第二次大戦の時どうしてたんだろうとか、よくわかりません。それはまた次作ってことなのかしら。あと、仕方ないっちゃ仕方ないけど、ワンダーウーマン以外の魅力ありそうな男性キャラがその魅力を発揮できずじまいだったのはもったいないなぁ。奴らは人間だから、次作以降、時代が変わると出てこないんだろうなぁ。
 
とまぁ、気になるところはたくさんありますが、マーベルに比べると分が悪いDCEUの救世主としてワンダーウーマンが登場したってことは間違いなく、そして嬉しく断言できる1本でした。

さ〜て、次回、9月8日(金)の109シネマズ FRIDAY NEW CINEMA CLUBで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『新感染 ファイナル・エクスプレス』です。この夏は『ザ・マミー』に出てくるゾンビでずっこけた僕なんで、こちらにはしっかりビビらせてほしいところ。あなたも観たら #ciao802を付けてのTweetをよろしく!

『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』短評

FM802 Ciao! MUSICA 2017年8月25日放送分

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海辺の町に暮らす中学1年の典道。夏休みの登校日。町の花火大会を控え、打ち上げ花火は横から見ると丸いのか、平べったいのか、という素朴な疑問についてクラスメートたちと言い争っていた。クラスの高嶺の花、なずなは、母親の再婚が決まって、夏休みのうちに転校をすることに。なずなに密かに恋心を抱いている典道は、親に振り回されたくないなずなから駆け落ちしようと誘われ、それを機に時間が巻き戻る不思議な経験をする。
 
世にも奇妙な物語」の後釜として93年に放送されたオムニバスドラマシリーズ「if もしも」の中で異彩を放ったエピソードが原作。脚本・演出の岩井俊二知名度を一気に高めたこの作品は、95年に劇場公開され、さらにカルト化しました。今回、ヒットメーカーたるプロデューサー川村元気が劇場アニメ化を企画。原作の岩井俊二が脚本に大根仁を指名。総監督は『魔法少女まどか☆マギカ』の新房昭之。見事に注目を集める座組なだけに、劇場公開後、さっそく賛否両論渦巻く格好です。
 
今週はアニメ「打ち上げ花火」をもちろんスクリーンで観るだけでなく、原作実写映画をDVDで鑑賞し、岩井俊二による24年越しのノベライズを角川文庫で読むなど、僕も負けじと複数の角度からこの物語を検証してまいりました。それでは、制限時間3分間の短評を今週もスタート!

本屋さんに行ってみると一目瞭然ですが、実は今、角川文庫から2冊のノベライズが出てるんです。ひとつは、岩井俊二が今回のアニメ化に合わせて書いたもの。もうひとつは、大根仁のペンによるもの。岩井俊二版の表紙は、93年のドラマで主演したふたり、山崎裕太(やまざきゆうた)が漕ぐ自転車の後ろに奥菜恵が座っている写真。懐かしいなぁと思う間もなく、僕はそのタイトルに驚きました。『少年たちは花火を横から見たかった』なんですよ。さっき言ったオムニバスドラマ「if もしも」のタイトルは、一部を除いて、すべて「AかBか」という二択になってるんです。あとがきを読んでわかりました。岩井俊二は、当時、このお題を拡大解釈し過ぎた結果、悪く言えば、他の演出家とは違うアプローチで奇をてらった結果、まったく「もしも」の話になっていないぞと当時のプロデューサーから指摘されて、苦肉の策として書き直したものが脚本になった。そこで、今回のノベライズでは、原点に立ち返って、ifというギミックを使わずに、少年少女の淡い夏の一日を文章にしたためた。だから、タイトルが違うんです。
 
話を戻して、アニメ版はどうなっているかというと、岩井俊二とはまったく逆のベクトルでして、ifという仕掛けをさらに膨らませる選択をしています。まず、実写にはなかった不思議な玉が登場。投げるとタイムリープして、その1日の意に沿わなかった部分からやり直すことになります。投げた玉がアップになる時、その内部で電球のフィラメントのようなものが見えるんですけど、そこにifという文字が一瞬だけどはっきりと見えるんです。つまり、93年のあのドラマシリーズコンセプトを強く押し出したアニメ版アップデートと言えます。
 
前置きが長くなった分、いきなり核心にいきます。アニメ化は成功してるのか。僕は面白く観たんですけど、面食らうお客さんが多いのはよくわかるし、その意味では、夏休み興行としては合格点ギリギリという感じがします。実写の尺はとても短くて45分。岩井版ノベライズも、文庫で160ページ。僕は、京都からサマソニまでの行き帰りで読み終えました。それだけ小さな話なんです。それを、アニメでは倍の90分にしました。一応、劇場にかけるんで、それくらいは尺がほしいという判断でしょう。では、どうやって倍にしたか。ごくごく簡単に言えば、ストーリーに小ネタを付けて、アニメ表現ならではの飛躍でボリューム感を出しています。結果、ところどころ、いや、後半は大部分がもう実験映画みたいになってきて、面食らうどころか置いてけぼりになる観客が続出するのも、さもありなんです。僕はそれも含めて楽しんだんですけど、そんなマニアックな楽しみ方をするのは少数派でしょう。
 
実写との決定的な違いである、タイムマシンとしてのif玉。あれを取っ掛かりに、映画を観た方は思い出してください、画面内は丸いもの、円形のもの、円を描くもののオンパレードです。灯台、虫眼鏡、プールでのターン、ゴルフボールとカップ、学校の校舎、螺旋階段、風力発電の風車、そしてもちろん、花火。カメラも弧を描いて動かす場面がありました。こういう似た形のものをリンクさせてどんどん物語をドライブさせていくマッチカットという手法はとても映画的で面白いし、謎としか言いようがないミュージカル的なずなの妄想シーンも興味深いんですけど、僕が残念に思ったのは、そうやって語り口を変えても、物語のテーマ、エッセンスそのものは特に深みを増してないことです。だから、オシャレしてみましたってだけで、重ね着した結果、あれ着ぶくれしてないかと思う人がいてもしょうがない。
 
ローティーンの男女の自分をうまくコントロールできない未熟さ。男女のマセ具合のずれってな淡いテーマを描くには、今回の製作陣の作戦が少々大人すぎる。むしろ、尺を伸ばすなら、岩井俊二のノベライズにあるように、全体を回想形式にしてしまう方が妥当でしょう。アニメ版は、せっかくアニメにするんだし、とか、岩井さんとはまた違った角度から、とか考え過ぎた気がします。もっと正面から打ち上げ花火を見ても良かったんじゃないかな。

オープンエンディングにポカンとしたり苛立ったりする人がいるのはわかるけれど、僕はアリどころか好ましく思いました。そこに至るまでの脱線で振り落とされた人には、「なんなんだよ」って絶対なりますけど、逆にこの話にオープンエンド意外あり得るのかって思うんです。「もしかして…」って想像させてナンボのもんですよ。
 
ただ、それを言っちゃおしまいなのは十二分に承知で言わせてちょうだい。僕はあの絵は苦手です。あの制服もしんどい。いかにも深夜アニメっぽすぎて… たとえば前半のプールの場面でも、急にギャグ漫画的に絵が変化したり、急にキラキラになったり、急にハイパーリアリズム的に写実的になったりと、僕みたいなアニメ素人にはついていけないですね。絵のタッチが饒舌すぎて、冷めちゃうんです。
 
とか何とか、まるでアニメ化は企画倒れかのように評を展開しましたけど、同じ話をメディアや作家を変えるとどうなるか、時代を経るとどうなるかという壮大な実験とも言えるこの「打ち上げ花火」を、僕はしっかり楽しんだし、愛でることができました。とても興味深い。ご覧になる方は、短い話なんで、ぜひ小説や実写版と比較してみてください。

さ〜て、次回、9月1日(金)の109シネマズ FRIDAY NEW CINEMA CLUBで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『ワンダーウーマン』です。彼女については、天然系の女戦士という情報しか、まだ頭に入っていないんですが、大丈夫でしょうか。でも、これが1作目だから、ドンと構えて観に行けばいいんだよね! きっと! 観たら #ciao802を付けてのTweetをよろしく!

『スパイダーマン:ホームカミング』短評

FM802 Ciao! MUSICA 2017年8月18日放送分
『スパイダーマン:ホームカミング』短評のDJ's カット版です。

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マーベル・コミックの大人気キャラクター、ご存知スパイダーマン。2002年からのサム・ライミ監督版、2012年からのマーク・ウェブ版に続き、これが2度目のリブート、3度目のシリーズ化となります。キャラクターの権利を持っているのが、実はマーベル・スタジオではなくて、ソニー・ピクチャーズだということで、これまではソニーがマーベルトは別に手がけていたんですが、昨年の『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』から、アイアンマンなど人気キャラがうごめく世界MCUマーベル・シネマティック・ユニバースと電撃的な合流を果たしまして(あのシーンには笑わされましたね)、今回は単独作で新しいスパイディーが本格デビューとなりました。サブタイトルのホームカミングを、マーベルというホームへ帰ってきたという意味に取る人もいます。

スパイダーマン (字幕版) アメイジング・スパイダーマン (字幕版)

 ベルリンでのアベンジャーズ同士の戦いに参加し、キャプテン・アメリカのシールドを奪ったことで調子に乗っているスパイダーマン。スーツを脱げば、15歳の高校生ピーター・パーカー。アイアンマンことトニー・スタークから受け取った特性スーツを身に着け、彼は言わばヒーロー見習いとして、部活かサークルのような感覚で、住んでいるニューヨークご近所の治安を守る活動にいそしんでいた。そんな中、トニー・スタークに恨みを抱く敵バルチャーが暗躍。その動きを掴んだピーターは、トニー・スタークの忠告を無視して独自にバルチャーを封じ込めようとするのだが…

 
監督は、これが長編3本目の大抜擢、ジョン・ワッツスパイダーマンを、これまでで一番役の年齢に近い21歳のトム・ホランド、そして、悪役バルチャーをマイケル・キートンが演じています。
 
鉄の先輩と蜘蛛の後輩がせめぎ合う様子を僕がどう観たのか。それでは、制限時間3分間の短評を今週もスタート!

このコーナーでは7月頭の『パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊』から、いわゆる夏休み映画を続けざまに扱ってきましたけど、断言します。この夏の大本命が遅ればせながら登場です。パイレーツだミニオンジョジョだと、もう夏のキャラ祭ですけど、1本の映画としてのクオリティーがぶっちぎりに高いです。キャラの魅力とは別に、作品として良くできてる。なんなら、アメージングよりよっぽどアメージングで、これまで最高のスパイダーマンだという評価もありまして、僕も同じ考えです。
 
ヒーローものの宿命ですけど、シリーズ化すればするほど、どうしても敵がどんどん強くなっていく。すると、街や国、ひいては地球そのものが危機に陥るような、とんでもなくデカい話になりがちで、それに合わせて主役もどんどん力をつけるから、力のインフレが起きて何が何やら、僕らのしょうもない現実から何光年も離れた遥か彼方の出来事のように思えてくる。そして、パワーがでかくなる分、当然街が破壊されたり、市民の犠牲も出てくるので、「正義とは何か」みたいな話になって、ヒーローが悩み始める。最終的には、話はもう現実感がないのに、観ているとこっちまでしんどくなるほど重々しいテイストになっちゃう。全部あてはまらずとも、こんなような映画、ありますよね?
 
今回のスパイダーマンは、逆です。身のこなしだけじゃなしに、テイストも軽い軽い! そもそも、ピーター・パーカーは、アベンジャーズの誰よりも若くて未熟なんです。高校生だもの。友達とレゴでデス・スター作りたいし、好きな女の子もいるし、部活もある。普通はこれだけでも大変なのに、そこにプラスして、何よりも楽しいヒーローという活動もこっそりやってる。結構忙しいんですよね。そこで、ジョン・ワッツ監督は、例のスパイダーマン誕生のエピソードや、叔父さんを亡くしてしまうという悲劇を、なんと、あっさりカット。これが英断でした。確かに、クラス内のカースト的な嫌なことも描いてるんだけど、僕がいいなと思ったのは、ここでのピーターが、「僕には僕の活躍できる場があって、学校なんて狭い世界でどのポジションにいるかなんて大したことじゃない」という感じを、調子には乗ってるけど、鼻持ちならない奴にはならないように描けているんですよ。その証拠に、学校なんてどうでもいいとはなってない。ピーターがゾッコンなリズに対しては、彼なりに本気だし、親友のネッドともいいバディ感が出てる。要するに、世界を俺が救うんだっていう孤高のヒーローになりきれていないのが、僕らをくすぐるんです。そこに人間味が出るし、笑いが生まれる。
 
笑いと言えば、アメイジングスパイダーマンの時も、とにかくよく喋ってましたけど、今回はセリフ量がまた増えてましたね。独り言が多いこと! 僕も一人っ子だからわかるんだけど、自分を客体化して、セルフツッコミをしたり、自分の行動を実況するような言葉をブツブツ(普通は心の中でだけど)喋ることで、孤独を紛らわせたり、自分の内面のバランスを保ってるんだと思います。そういうキャラクターの特性をうまく引き出しているのが、彼が自撮りしている動画とか、スーツに仕込まれたAIです。2017年の今っぽさも出せるし、スパイディーの個性も際立つ見事な設定でした。
 
優れたヒーロー映画には、目が離せない悪役が欠かせません。その意味で、今作のバルチャー、マイケル・キートンは絶妙です。彼が悪事に手を染めるきっかけと動機には、同情する余地もあるんですよね。むしろ、「トニー・スターク、お前よぉ、ヒーローなんだったら、もうちょっと社会全体の調和ってもんを考えようぜ」と僕らにツッコませるような感じで、このバルチャーのジキルとハイド的な怖さは、この前の『ザ・マミー』の本家本元のはずのジキルを上回ってました。悪役にも理があるってのは別に目新しくないんだけど、今回はさらに中盤であっと驚く展開が待ち受けてるんで、さらにゾクッとするし、さらに同情度合いが増すという。よくできてる!
 
メイおばさんの色気とか、トニー・スタークの部下のハッピーとの軽妙なやり取りとか、リズとの淡い関係とか、食い気味でポップな編集のうまさとか、過去作関連作オマージュの嫌味がない出し方とか、音楽の使い所とか、ダサい回想シーンが無いとか、もう褒めるところばかり。
 
ただ、冷静になって考えると、要素が多くて展開が早いからついつい忘れてたけど、ピーターがどう成長したのかっていう内面の変化については描き切れてないから、最後の方のトニー・スタークとのやり取りは唐突だし、ヴァルチャーに対してどう思っていたのかという描写がないのも、ヴァルチャーに同乗しちゃった分、僕は不満です。
 
それでも! 僕はノリノリで楽しめました。スパイダーマンって、建物がなかったら、そっか、走るしかないんだ、とか、ゲラゲラ笑いました。最後の奴の決断も、僕は応援したくなるし、次回への期待を高めつつ、これ単体としてもしっかりまとまっているという、シリーズもの、しかもリブートもの、しかももっとドデカイお話の中に後から参加しての1作目という無理難題に、最高に近い形で回答してみせた痛快作でした。

COP CAR/コップ・カー(字幕版)

若手のジョン・ワッツ監督は、前作の『コップ・カー』がまた超絶オススメなので、こちらもぜひ。

さ〜て、次回、8月25日(金)の109シネマズ FRIDAY NEW CINEMA CLUBで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』です。岩井俊二のあの映像を90年代にギリギリレンタルで観た世代の僕です。この作品は、それこそいろんな角度から語り甲斐があるんじゃないかしら。観たら #ciao802を付けてのTweetをよろしく!

『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』短評

FM802 Ciao! MUSICA 2017年8月11日放送分

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連載スタートから30年。現在も第8部が続いています。熱狂的なファンが多い荒木飛呂彦ジョジョが、アニメ化、ゲーム化を経て、満を持しての実写映画化。大河ドラマばりに、いやそれ以上に時代と場所を超えて成立するこの壮大な物語の中で、日本のひとつの街をベースに進行する、つまり最も実写化しやすいだろう第4部がチョイスされました。それでも話は長いので、今回は第一章と銘打っています。ただ、現時点では何部作になるのか、発表はされておりません。
 
杜王町に暮らす高校生の東方仗助。母と警察官の祖父の3人で暮らしている。仗助はスタンドと呼ばれる特殊能力の持ち主。触れるだけで他人の怪我を治し、破壊されたものを修復できます。ある日、仗助の甥だという年上の男、空条承太郎が現れ、そのスタンドの正体を仗助に教えます。時を同じくして、平和だった杜王町では、連続変死事件が発生。どうやら自分とは別のスタンド使いによる犯行だと知った仗助は、町を守るために立ち上がります。
 
仗助を山崎賢人が演じる他、神木隆之介小松菜奈岡田将生新田真剣佑伊勢谷友介山田孝之など、豪華キャストが揃い踏み。監督は、漫画実写化請負人の三池崇史
 
それでは、制限時間3分間の短評を今週もスタート!

20世紀少年』の映画化くらいから顕著な気がするんですけど、ファンが多い漫画ほど、役者にコスプレをさせるようにして、実写で再現しようとしている。それに対して、こいつはOK、こいつはダメと、まるで映画と漫画を見比べて答え合わせをさせるような作り方が目立ちます。下手をすると、漫画のコマ割りを踏襲したようなカット割りやアクションまであって、映画が漫画をトレースする格好になってしまっている。でも、それって、何のための映画化なんだと僕は思うわけですよ。百歩譲って、アニメ化はトレースに近くても構わない。でも、実写にするなら、映画ならではの表現を目指さないと。
 
そういう考えを持つ僕からすれば、今回もやっぱりコスプレ色が強すぎて、正直、馴染むのに時間がかかりました。どう考えても、承太郎の後頭部は実写にすると、おかしいでしょ。ただ、演技に関しては、概ね僕は期待以上に楽しめました。特に、神木隆之介のうまさは、際立ってました。彼が演じるのは、転校生にして映画全体の狂言回しである広瀬康一。康一は、あの奇妙な世界を徐々に知ることで最も変化するキャラクターなんだけど、その分、表情や姿勢まで含め、持ち前の演技の幅の広さを発揮していました。
 
スペインでのロケも、馴染んではきたけど、やっぱり違和感は拭えません。前半から中盤にかけて、山田孝之演じるアンジェロとの闘いくらいまでは、ロングショットもちょいちょい入れてるし、明らかにヨーロッパの町並みに日本語の看板とか、オリジナルの標識も貼っつけたりして、杜王町の無国籍感、それこそ奇妙、ビザールな雰囲気を出していたとも言えます。ただし、後半、特に虹村兄弟との対決あたりになってくると、もう西洋風でしかないうえ、途中からやたらセリフも多くなって画面が硬直化するんです。必然的に映画そのもののリズムもおかしくなるんで、アクションと絵の動きでどう見せるのかという計算が、後半はもっと必要だったはず。
 
一方、スタンドはもうバッチリ。一連のCGはうまく画面に溶け込んでました。バッド・カンパニーの進撃場面は僕が1番アガったところ。「こら確かに怖いわ!」って思えるくらいに、アングルもスピード感も申し分なかったです。コマ撮りアニメを観るような、現実だけど現実でない奇妙さがあったからでしょう。
 
最後に脚本。もちろん、話もキャラも端折ってます。小松菜奈の由花子とか、出て来る順序も変えてます。それが原作と違うからどうとかいうのは、僕にはどうでも良い。それより、映画として構成し直した時に、たとえば警察官のおじいちゃんと仗助の関係とか、虹村兄弟やアンジェロの父親への思いなど、よりタイトな尺の映画だからこそ、父と息子というテーマを軸にしたかったという意図は明確だし、そこは評価できます。
 
ただ、匙を投げるようで悪いですけど、第二章も観ないと判断できないよってくらいに、1本の映画としては成立してないのは、それってどうなのって話です。続きが来月公開っていうなら、まだしも。第一章だけではまとまってないし、現時点では、まだビバ実写化と叫べる要素少なめ、トレース要素多め。とりあえず、評価保留といたします。


さ〜て、次回、8月18日(金)の109シネマズ FRIDAY NEW CINEMA CLUBで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『スパイダーマン ホームカミング』です。これもまたしてもシリーズ化するんやろうねぇ。何作続くかはよく知らんけど、とにかく、1本だけ観ても、それだけで楽しめるものを作ってほしい。僕はそう切に願います。観たら #ciao802を付けてのTweetをよろしく!

 

『ザ・マミー 呪われた砂漠の王女』短評

FM802 Ciao! MUSICA 2017年8月4日放送分
『ザ・マミー 呪われた砂漠の王女』短評のDJ's カット版です。

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MCU(マーヴェル・シネマティック・ユニバース)やDCEU(DCエクステンデッド・ユニバース)、そしてキングコングなどのモンスターバースなど、各配給会社が、現在ヒットめがけてしのぎを削っているのが、ユニバース構想と呼ばれる映画シリーズです。さまざまなキャラクターたちによる物語が、実はひとつの世界の壮大な物語の中に与するというようなもののこと。各作品単体でも楽しめるけれど、組み合わせて考えるとより楽しめるという特徴があるので、配給会社としては、あてるとデカいんですよね。昨年、007もスピンオフを作ってユニバース化するかもなんてニュースも出ました。その功罪はとりあえず脇へ置くとして、この『ザ・マミー』は、ユニバーサル・ピクチャーズが往年のモンスター映画をリメイクする「ダーク・ユニバース」の第一作という位置づけです。

ミイラ再生 (初回限定生産) [DVD] ハムナプトラ失われた砂漠の都 (字幕版)

オリジナルは1932年の『ミイラ再生』という作品。それが99年からの『ハムナプトラ』へと展開し、今回また仕切り直してやってみようと。
 
トム・クルーズ演じる米軍の関係者ニックは、世界あちこちの戦闘地域で貴重な古代遺跡からでた品を掠め取って闇市場へ流して儲けている男。中東で武装グループによる襲撃を受けた彼は、ひょんなことから古代エジプトの墓を発見。考古学者の女性ジェニーと共に、その棺をイギリスへ輸送中、葬られていた古代エジプトの女王アマネットが蘇り、大惨事が幕を開けます。
 
監督は、『ミッション・インポッシブル3』や『オール・ユー・ニード・イズ・キル』など、名だたるビッグバジェット作品に脚本参加しているアレックス・カーツマン、43歳です。監督としては2本目となります。
 
それでは、制限時間3分間の短評を今週もスタート!

このキャリアにして、最近出る作品のクオリティーが軒並み高くて、アクションもますますキレが増している印象のトム・クルーズ最新作ということで、また日本にはファンも多いですから、期待している方も多いでしょうし、僕もそのひとりなんですが、ほとんど前情報なしに観に行ったこともあり、正直なところ、結構消化不良な感覚を僕は持っています。
 
まず、脚本にかなり難があります。おかしいなぁ。『ジュラシック・パーク』『ミッション・インポッシブル』『宇宙戦争』『スパイダーマン』のデヴィッド・コープや、『ユージュアル・サスペクツ』でアカデミー脚本賞を獲ったり、最近だと『ミッション・インポッシブル/ローグ・ネイション』なんて傑作も脚本・監督してるクリストファー・マッカリーが脚本を手がけてるんですよ。なぜ、こうなる?

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何が問題って、まず王女アマネットの呪いがもうひとつピンと来ないことなんですよ。プロローグとして描かれる部分なんですけど、要するに彼女は王になり損ね、死の神セトってのに魂を売り、世界を意のままにしようとしたところ、その企みがバレて生き埋めというか、生きたまま棺に入れられてしまったということなんだけど、それから数千年が経って呪いの力で蘇ったと。それはいいとして、彼女が何をしたいのかがどうにも伝わってこないんです。あと、鳥や蜘蛛を操ったり、ニックの意識下に入り込んで呪いをかけてセトに憑依されるっていうんだけど、彼女のそういう能力によって何がどうなったら、こういうことが引き起こされて危ないんだというロジックが全然わからないんで、次から次へと惨事が起こっても、大変なのはわかるけど、いまいち危機の正体が伝わらないんで、事態の全体像がつかめなくて入り込めないんですよね。

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それから、ニックとヒロインのジェニーの関係もチグハグな印象が拭えない。最初は騙されたって言って怒っていたジェニーが、命を救ってもらったからニックはいい人ってことで手のひらを返して恋人みたいになるんだけど、その感覚が今ひとつこちらには伝わってないから! 
 
ダーク・ユニバースなわけで、これから色んなキャラクターが出てくるのは理解できるんだけど、それにしたって、あのモンスターを封じ込めるという謎の組織「プロディジウム」の役割も、それを仕切るラッセル・クロウ演じるジキル博士の存在も、唐突だし、何しろ目的がもうひとつこれも伝わらないんで、同じく大変なことが起こっても、大変なのはわかるけど、それが結局何がどうして危ないのかという全体像がよくわからないんです。
 
中世の十字軍の騎士たちの墓がロンドンでこれまた発見されてっていうエピソードも面白いんだけど、なんかこう取ってつけた感じが否めない。
 
肝心のニックも、1作目だからしょうがないのかもしれないけど、こずるい男という当初の設定が活かされないまま、あれよあれよと呪いをかけられて、素のニックについてよくわからないまま事態が進行するから、どうしても僕らは置いてけぼりになるんです。
 
やっぱりプロローグが問題なんですよ。全体を貫く意志なり野望のようなものがうまく提示されていないので、何が起きても、ただのパニックに終わってしまう。だから、トム・クルーズラッセル・クロウもせっかくがんばってるのに、そのシーンが映画全体の中でうまく機能していないんだよなぁ。
 
ジャンル的にも、インディー・ジョーンズ的なアドベンチャー、ミイラというかゾンビもの、パニック、アクションといった要素をブレンドしてるんだけど、うまく混ざりきってはいません。
 
まとめると、ダーク・ユニバースの出だしは、ちょっとつまづいてますね。焦点が定まってないし、芯が見えない。今後、フランケンシュタイン、半魚人、透明人間と、ジョニー・デップハビエル・バルデムといった『パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊』コンビを巻き込んで続いていく模様ですが、全体の構想をしっかり練って立て直していく必要がありそうです。


さ〜て、次回、8月11日(金)の109シネマズ FRIDAY NEW CINEMA CLUBで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』です。何を隠そう、僕マチャオ、ジョジョ弱者です。大丈夫なんでしょうか。僕みたいなズブの素人も、熱心なファンも、観たら #ciao802を付けてのTweetをよろしく!

『怪盗グルーのミニオン大脱走』短評

FM802 Ciao! MUSICA 2017年7月28日放送分
『怪盗グルーのミニオン大脱走』短評のDJ's カット版です。

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ユニバーサル・スタジオとイルミネーション・スタジオがタッグを組む人気アニメ「怪盗グルー」シリーズ第3弾。このコーナーでは、2年前にスピンオフというか、シリーズ前日譚となる『ミニオンズ』を扱いました。街中で見かけるポスターを観ても、ミニオンばかり押してるんですけど、邦題にあるように、あくまでも主役は怪盗グルーです。ミニオン達はサブキャラです。
 
悪事から足を洗い、反悪党同盟に所属していたグルー。今作の悪役バルタザール・ブラットによる世界一のダイヤ強奪を阻止できなかったミスから、反悪党同盟を追い出されてしまいます。悪さをせずに家族と仲良く暮らすグルーに魅力を感じなくなったミニオンたちは、新たなボスを求めて旅に出ていったきり… そんな折、グルーにはドルーという双子の弟がいたことが判明。ブラットをとっちめようと力を合わせるのだが…
 
監督は、もとピクサーで、『ミニオンズ』でもメガホンを取ったカイル・バルダです。
 
それでは、制限時間3分間の短評を今週もスタート!

僕が『ミニオンズ』評を振り返ると、シーンひとつひとつはよくできていても、それが有機的につながった物語になっていない。あれは人間の言葉を話さないミニオンが主人公だったので、セリフに制約がある分、ストーリーテリングの難易度が相当高かったわけですけど、今回はあくまでも怪盗グルーシリーズですから、話は比較的まとめやすいはずです。ところが、今回も似た欠点を持っているように思います。個々のシーンの組み立ては、アニメならではの飛躍もあるし、同じイルミネーションの快作『SING/シング』ばりに音楽使いもハマってるし、見ていて愉快です。いわゆるスラップスティックなドタバタのノリも冴えてる。ディズニー・ピクサーより、笑いの種類が悪いから、大人もニンマリできる。でも、シーンとシーンの継ぎ目とか、どのシーンをどの順番でどれくらいの尺で組み立てるかという脚本全体の構成は、やっぱり強引です。
 
特に今回とある理由で逮捕までされてしまうミニオンたちのエピソードは、邦題ではメインだけど、たとえばあらすじを作るなら、もはや省けるレベルなんですよ。いや、あの部分の話は笑えるし、ミニオンたちの乗り物なんて、愉快だからもうちょっと観たいくらいだったんだけど、物語として必要なのかと問われると「さほど…」と言わざるをえないです。この感じ、何か最近味わったぞ… どの映画だろう… 『パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊』のジャック・スパロウだ! ストーリー的にはたいして必要ないレベルなんだけど、一応主役みたいな。ま、ミニオンは主役じゃないけどさ。
 
ただ、フォローしておくと、物語の意図はわかります。こうありたいという理想とそうなってはいない現実のギャップを埋めようとする物語。悪役のバルタザールが代表で、自分の輝いていた80年代からファッション、音楽、価値観がアップデートされないままでいて、現実はもう21世紀になってるのに、彼の中では時代が止まったまま。かつてテレビで子役スターだったのに、あっさりと見捨てられたという恨みが噴出する。つまり、こんなはずじゃなかったのに、世間はどうしてわからないんだという。
 
同様のことが、グルーと生き別れたドルーにも言えます。ドルーにしてみれば最高の悪党だった父の遺志を次ぎたいという理想を胸にいだいているけれど、あまりに鈍くさく、悪党としてのスキルがないため、現実はまったく理想に追いつかない。ミニオンたちは、理想の悪党を探しているから、今回は更生したグルーに愛想を尽かして旅の途中。そしてグルーの子供たちにも、同じく理想問題がありましたね。
 
このテーマで見ていくと、実はグルーだけが、その理想に近づいているから、どうにも映画全体のエネルギーが弱いんですよ。彼の理想は、少しずつ増えた家族と仲睦まじく暮らすことでしょ? ほとんど叶ってる。強いて言えば、正義のために働くと、今ひとつ活躍できないっていう。だからこそ、今回はグルーとドルーで、欠点を補い合って、とりあえず共通の敵であるバルタザールに向かう。こんな風に、一応、それぞれの葛藤が繋がったり交錯するようにしてはいるんだけど、肝心の主役グルーの理想への推進力が弱いので、話が転がりきらない。
 
って、このシリーズにそういうロジカルな展開を求めるのは野暮だって言われたらそれまでなんですけど、僕は気になりました。アニメならではの奇想天外な飛躍も、キャラクターの魅力も、ファレルを引き込んだりする音楽使いの上手さもトップクラスのイルミネーション・スタジオなんで、ここはひとつ、脚本をブラッシュアップできる人材を調達してから、とりあえずの続編『ミニオンズ2』に着手してほしいところです。そうすれば、さらなる高みへ一気に進めるし、僕はこういう悪ガキ心を呼び覚ます毒っ気のあるアニメが好きなんで、そんな最強イルミネーションの作品を観てみたい。『SING/シング』を超える代表作をミニオン絡みで観てみたいという理想を最後に表明しておきます。

さ〜て、次回、8月4日(金)の109シネマズ FRIDAY NEW CINEMA CLUBで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『ザ・マミー 呪われた砂漠の王女』です。なんか、Twitterでの短い広告動画に出てくる、あのおびただしい数の鳥たち! ヒッチコックの『鳥』を思い出して怖いんですけど〜。あなたも観たら #ciao802を付けてのTweetをよろしく!
 
 
 

欧米で社会現象化の小説『リラとわたし』クロスレビュー

 翻訳家集団でもある京都ドーナッツクラブのメンバーは、定期的に開く会議の場で、イタリア文学の最新事情について情報交換をすることがある。そこで何度か話題にのぼっていた作家が、エレナ・フェッランテだ。

 イタリアとアメリカでそれぞれ100万部以上を売り上げ、世界40カ国以上での出版が決定した『リラとわたし』。「ナポリの物語1」という副題が付いているが、全4部にわたる大作。ドラマシリーズ化もされるという。各種雑誌やブックレビューはもちろん、ヒラリー・クリントンや俳優のジェームズ・フランコが絶賛し、もはや社会現象化しているにも関わらず、実はフェッランテは公衆の面前に姿を現すことはなく、女性の名前ではあるが、その性別すら明かされていない正体不明の作家なのだ。サリンジャーじゃないんだから! 

 名実ともにイタリアを代表する(謎の)作家となったフェッランテの代表作が、いよいよ日本にもやって来た。原文に真摯でありながら読みやすい訳で僕も(嫉妬混じりに)リスペクトする飯田亮介氏のフィルターを通って。

 この『リラとわたし』出版を記念して、京都ドーナッツクラブでは、ふたりの30代女性メンバーがそれぞれ異なる切り口でレビューを書いた。この作品が、多くの人の現代イタリア文学への入口となりますようにと願いを込めつつ。

 野村雅夫akaポンデ雅夫

リラとわたし (ナポリの物語(1))

リラとわたし (ナポリの物語(1))

 

*「ココナッツくにこ」の場合* 

 60代の作家エレナはある日、長年の親友リラが失踪したことを知る。エレナは直感で事件がリラの意図的な仕業であると確信する。そして過去の記憶を辿りながら、エレナは親友との物語を静かに語り始める… 本書は1950年代のイタリア・ナポリを舞台に、対照的な二人の少女の成長を描いた作品。本好きで勤勉なエレナと頭脳明晰な反逆児リラ。強い絆で結ばれた二人は助け合いながらも、唯一無二のライバルとして生涯の友情を育んでゆく。

 著者のエレナ・フェッランテは1943年、イタリア・ナポリ生まれの作家で、デビュー作は1992年の“L'amore molesto”(「愛に戸惑って」)。2011年に発表した『リラとわたし』をはじめとするナポリ四部作が世界的ベストセラーになり、現在40カ国以上での刊行が決定している。2016年にはタイム誌により「世界で最も影響力のある100人」に選出された。本書は初の日本語によるシリーズ一作目。著者はデビュー以来、性別すら明かさない覆面作家として名高い。

 物語はリラの失踪後、二人の幼年期から思春期までが描かれている。日々の生活を心豊かにしてくれる女友達の存在に心癒される二人。だがそんな仲のいい友人同士でも嫉妬心や競争心といった複雑な心情を伴うのが常である。そんな人間の性を著者は赤裸々に描き出す。同時に母娘の確執にも触れ、母に怯える娘の心情をまるで実体験のように綴る。こうして親友を“羨望の的”に、母親を“恐怖の対象”として対極化させることで、多感な思春期の心情を実に上手く描いている。他にも“優越感への欲”や、“格付け”といった無意識うちに行われる行為についても人間の本質を突いており、著者の鋭い洞察力がうかがえる。

 こうした負の感情を互いに持ちつつも、エレナとリラの友情は壊れるどころか日増しに強くなってゆく。二人の間には常に絶対的な信頼と愛情が存在するのであった。この二つが二人の生命力といっていい程の強さを放つ。「孤独」という言葉をよく耳にする現代の希薄な人間関係とは全くもって正反対である。現代人が忘れかけている人との真の絆というものを、本書は私達に教えてくれる。人によっては過去の友情を思い出す人もいるだろう。

 そんな健気な二人の友情を際立たせているのが当時の時代背景である。日常的な暴力と貧困にあえぐ1950年代のナポリは男性優位の社会。女性の地位は低く、生活基盤は地元住民との密接な繋がりが必要不可欠であった。商売ともなれば地元有力者との関わりは避けて通れず、これが後のリラの結婚に影響を及ぼすことになる。結婚式という地域の一大イベントの裏でうごめくビジネスと金。物語後半では愛情と打算が渦巻く世界に二人は翻弄される。

 最後に物語の鍵を握る「靴」の存在について触れておきたい。靴職人の娘であるリラは兄と共に一足の靴を作る。世界でただ一足しかないこの靴をリラの未来の夫がある日、多額の金で購入する。ところがこの「二人の恋の貴重な証人となるはずの靴」が、予想外の展開を招く。この映画さながらの小物使いのテクニックには恐れ入る。正体不明のミステリアスな著者が放つ仕掛けをぜひ皆さんにも味わって頂きたく思う。確実に興味をそそられるはずだ。

 本書は現在、世界でシリーズ累計550万部を突破し、アメリカとイタリアでミリオンセラーを記録。既にTVドラマや舞台化も決定している。覆面作家の本が売れているこの現象、海の向こうでは「フェッランテ・フェノミナン」と呼ぶそうだ。果たして日本ではどうか。一度読んだら病みつきになる『リラとわたし』、この夏お勧めの一冊である。

L'amica geniale

L'amica geniale

 

 *「チョコチップゆうこ」の場合*

 「向上心のない者は馬鹿だ」

 この言葉に出会ったのは、夏目漱石の本を読んだからではない。

 私が中学の時の担任教師が、宿題や諸々のプリント類に毎度毎度印字していたのだ。それはそれは常にキツイ女性教師だった。宿題を忘れた生徒にはビンタで応えていた。今なら大問題になりかねないのだろうが、20年前にはこんな教師もチラホラいたものだ。だから当時の私は「なんかまたキツイ言い方してるなー」くらいにしか感じていなかった。この『リラとわたし』を読むうちに、そんな思い出が蘇ってきた。 

 この物語は、戦後間もないイタリア・ナポリの貧しい地区で育つふたりの少女の成長を描いたものだ。話は主に「わたし」であるほうのエレナの言葉で綴られている。

 このふたりの小学校の先生がまだ幼いエレナに語った言葉がある。私が冒頭のフレーズを思い出したきっかけだ。進路の話の際、唐突に「平民」とは何かをエレナに問うのだが、彼女の答えに先生はこう加える。

 「(平民という)身分に甘んじる人間がいるとすれば、つまり自分も、自分の息子たちも、そのまた息子たちもずっと平民でいいと考えるとしたら、その人間にはまるで価値がないわ」

 もちろん、幼い彼女にはその意味を掴みきれない。先生は「平民」を相当に惨めな存在というが、彼女にとっては古代ローマ時代の階級のひとつにすぎなかった。

 タイプは違えど勉強のできるふたりは、先生からも大いに褒められ期待されていた。しかし、一生懸命勉強してふたりで本を書いてお金持ちになろう、という無邪気な発想さえしていた幼い少女たちも、貧困や時代の流れといった自分たちでは変えようのない現実によって次第に別々の道を歩くことになる。手段は異なるが、ふたりが求めていたのは「力」だ。貧しくて、暴力的で、古臭い、自分たちを取り巻く現実を変える力。現状に甘んじず、力を手に入れようともがく姿が彼女たちの成長とともに描かれている。

 私は当初スローペースで読み進めていたのだが、だんだんとページをめくる手が止まらなくなり、一気に最後のページにたどり着いてしまった。

 なぜか。それは、彼女たちが成長する過程で味わう気持ち、特に嫉妬、劣等感、優越感、挫折といった口に出しづらい気持ちが、私もいつかどこかで感じたことがあるものだからだ。「となりのあの子のほうが可愛いよね」とか、「勉強したってどうせあの子が一番とるだろうな」とか、認めたくないけど認めざるを得なかった、少しだけもやもやした気持ちを思い出してしまう。だから彼女たちに早く成長してほしくて、どんな風に成長するのかを知りたくて、ついついページをめくってしまうのだ。私だって成長しているはずだから、と思いながら。

 この物語は四部作の一作目なのだが、リラもエレナも幼いながらに自分たちなりの方法で上を目指して努力し、その努力が節目を迎えるところで終わる。その努力の結果を聞いてエレナは「平民」の意味を思い知るのだが、身分に甘んじず上に向かっていこうとしていた矢先だっただけに切ない。それでも、先生のあの言葉はキツイ言い方だけれども彼女への愛があったから発せられたことに気づくのではないだろうか。気づいたとして、さてそれからどう進んでいくのか。どんな力を手に入れるのか。それは続編でのお楽しみだ。

 そういえば、ただキツイだけの教師だと思っていたあの私の担任も、冒頭の言葉の裏には生徒たちへの愛情を込めていたのかもしれない。苦手意識しかなかったけれど、そういえば英語の課題で私が当時好きだったリンドバークの某曲を英訳した時は、いま思えば拙い訳だったけれど絶賛してくれて、私の外国語への興味を深めてくれたような気がする。『リラとわたし』を読んで、思いがけず先生に感謝することにもなった。