京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『僕のワンダフル・ライフ』短評

FM802 Ciao! MUSICA 2017年10月6日放送分
 『僕のワンダフル・ライフ』短評のDJ's カット版です。

f:id:djmasao:20171006134131j:plain

ゴールデン・レトリバーの子犬ベイリーは、命の恩人である少年イーサンを慕い、やがてふたりは固い絆で結ばれていく。けれど、犬の寿命は人間よりもずっと短いもの。息を引き取ったベイリーは、生まれ変わってみると、犬種や性別は違うものの、意識はそのまま。いつかイーサンに逢いたい。そんな想いとともに、ベイリーは何度も生まれ変わっていく。

マイライフ・アズ・ア・ドッグ Blu-ray ギルバート・グレイプ [DVD]

監督は、『HACHI 約束の犬』や『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』など、ワンちゃん映画はお手のもの、スウェーデン出身のラッセ・ハルストレム、現在71歳。彼は、初期の名作『やかまし村の子どもたち』なんかを観ればわかるように、子ども演出にも長けています。そして、映画ファンには、ディカプリオが名を上げた『ギルバート・グレイプ』や『サイダーハウス・ルール』でよく知られてますし、僕の映画評では、3年前に『マダム・マロリーと魔法のスパイス』という、これまた素晴らしい作品を扱っています。

マダム・マロリーと魔法のスパイス(字幕版) 野良犬トビーの愛すべき転生 (新潮文庫)

 原作は、脚本にも加わっているW・ブルース・キャメロンという作家のベストセラー『野良犬トビーの愛すべき転生』。日本では新潮文庫から出ています。

 
名前で客を呼べるようなスターが出ているわけでもないのに、観客動員ランキング初週は、『亜人』に次いで2位。ある意味、これも犬のエンドレス・リピート・ライフとも言えますけどね。
 
それでは、犬には噛まれたことは3度ほどあっても飼ったことは1度もない男、犬には特に思い入れのない野村雅夫が3分間で吠えまくる映画短評、今週もいってみよう!

最愛の飼い主に会うために、50年で3回生まれ変わったベイリーの物語。90秒の予告編を観れば、だいたい分かりますってなほどに、設定は突飛だけど、話はシンプルです。だからこそ、演出で失敗して下手をこくと、説得力を持たせられず、先の読める展開でだらだら退屈で目も当てられないものになりかねないんですが、そこはさすがハルストレム。じわじわ手堅く感動させる佳作に仕上げてあります。
 
僕が今回の演出で大事だなと思ったポイント、ハルストレムの手際の良さを2点、挙げていくことにしましょう。
 
まずは、時代の移り変わりの見せ方。先週の『ナミヤ雑貨店の奇蹟』みたいにテロップなんか出しません。あの作品と違って、時代が行ったり来たりしないということもあるけど、こちらがスマートだったのは、それぞれの時代に流行った音楽やファッション、それからニュースを作中にさりげなく配置することで、はっきりいつと分からせずとも、おおよその時代感が伝わってくるということです。キューバ危機があってサイモン&ガーファンクルが流れたり、a-haの“Take on Me”を使ったり。それから、もっと短いスパン、つまりイーサンが少年から青年になるところなんかでは、ベイリーが自分の尻尾を追いかけてくるくる回っているうちにいつの間にか身体が大きくなって何年か経ってるみたいな、これこそ映画だっていうつなぎをしていました。何度かそういうのが出てくるんですけど、つなぎが鮮やかに決まった時には、僕の周辺の座席からは「おお!」っていう感嘆の声が漏れ聞こえてきたくらい。こういうのを映画体験って人は呼ぶんです。小説じゃできない。
 
同様に、時代を経ても、そしてこの作品の場合、身体は入れ替わっても変わることのない習性、記憶っていうのを、人、犬、それぞれのアクションやラグビーボールといった小道具をうまく使って、言語的にではなく、映像的にストンと僕らに理解させるのも好感が持てますね。
 
ただ、言葉という意味では、むしろ喋りすぎだろって批判してる人が多いのもまた事実です。観た人ならわかりますが、この作品は基本的にベイリーのナレーションで進行するんですね。これは判断が難しいところですが、僕はベイリーのユーモラスな語り口が肝だと考えているので、そこは擁護したいんです。というのも、あらすじで言ったように、ベイリーは生まれ変わると、犬種も性別も変わるんです。なので、ナレーションを減らして犬の演技に頼っちゃうと、もうさっぱり感情移入できなくなるし、犬の自己同一性が崩壊するんです。だから、擬人化して喋るってのを逆手に取って、セリフはとことん面白くしてある。
 
ここで、僕の考える本作の手際の良さをもうひとつ。興醒めするかもしれないけど、犬でなく人間を描いてるってことです。この映画にとって、犬はいないと話にならないけど、犬の話じゃない。ベイリーは当たり前だけど常に犬の目線から人間を観察してるわけで、人間の内面はわからないのに、僕らにはそれが痛いほどわかる。それが味噌です。このズレがユーモアを生むし、時にモーレツに泣かせるわけです。犬ならではだよなと僕が興味を持ったのは、匂い描写です。犬にしてみれば、恋する人間の様子はフェロモンによって一発でわかる。怒っててアドレナリンが出てる時も、匂いでわかる。それをベイリーが解説してみせるから、僕らはつい笑っちゃうし、後半、年老いたイーサンが汗をかくシーンでは、ジーンと来ちゃう。
 
はっきり言って、荒唐無稽な話です。原作も、ペットロスで立ち直れずにいる友だちのために作家が書いたっていうくらいだから、冷ややかに言えば、人間にとって都合のいい話です。だいたい、ベイリーの意識は、なんで少年イーサンとの出会いで培われるの? 輪廻するんなら、その前の命の記憶は? とか考え出すと、これはもう『プロメテウス』か『エイリアン:コヴェナント』かってことになってややこしいわけですよ。でもね、そういうあり得ないフィクションを、上映時間くらいは信じさせてくれるのが映画ってもんでしょ? それをハルストレムは爽やかに手際よくやってのけている。僕だってウルウルきちゃって、犬みたいな目になってたはずです。
 
ご都合主義も目立つし、よく描けている人間とそうでない人間の差がすごすぎて、描かれずじまいのキャラが不憫とか、問題もあるっちゃあるけど、そこは犬目線なんだから、そもそも視野が狭いんだってことで目をつぶります。映画を観る楽しみをいくつも提示してくれたハルストレムに、今回も僕は3回回ってワンと鳴きたいくらいに従順でありたい。野暮な噛みつきは不要です。まだ観てない方は、安心して牙を引っ込めて素直に楽しんじゃってください。

さ〜て、次回、10月13日(金)の109シネマズ FRIDAY NEW CINEMA CLUBで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『ナラタージュ』です。監督は行定勲。番組にお越しいただいたこともあるし、僕は正直なところシンパなんですが、それでも気になったことは遠慮なくツッコんでいく所存。あなたも #ciao802を付けてのTweetをよろしく!

 

 

 

『ナミヤ雑貨店の奇蹟』短評

FM802 Ciao! MUSICA 2017年9月29日放送分
『ナミヤ雑貨店の奇蹟』短評のDJ's カット版です。

f:id:djmasao:20170929131533j:plain

2012年、児童養護施設で育った幼なじみ3人は、ある悪事を働いて逃走中、空き家となっているナミヤ雑貨店に身を隠します。そこは、かつて主人が人々の悩み相談を手紙で引き受けていたお店。ホッとしたのも束の間、店のシャッターから手紙が差し入れられるのを見て仰天。開けてみると、それは1980年から届いた悩み相談だった。3人は戸惑いながらも、店主になり代わって返事をしたためることに。そんな手紙のやり取りから、ナミヤ雑貨店と3人、街の歴史と現在までの流れが浮かび上がり繋がっていきます。
 
原作は、いったい何本映画化されるんだという東野圭吾。監督はピンク映画出身で、2003年、寺島しのぶ主演の『ヴァイブレータ』で一気に株を上げた後、『ストロボ・エッジ』『オオカミ少女と黒王子』『PとJK』など、近年では少女漫画の実写化を多く手がける廣木隆一
 
ナミヤ雑貨店の店主を西田敏行が演じている他、雑貨店に忍び込む幼なじみたちを、山田涼介、村上虹郎が担当。他にも、尾野真千子林遣都成海璃子門脇麦小林薫など、名のある役者たちが揃い踏みです。
 
東野圭吾作品をそう読んでおらず、これも未読の僕野村雅夫が予備知識ゼロで3分間の映画短評、今週もいってみよう!

東野圭吾って、昔はもっとミステリー色が強かったように思うんですけど、いつの頃からか、ジャンルを広げて一般的なエンタメ小説に寄っているっていう印象があります。この話なんか典型だと思いますけど、登場人物たちの「ちょっといい話」みたいなものを特殊な設定で顕にすることが多いのかな。もう謎とかどうでもいいやって感じで、今回であれば、雑貨店のシャッターの郵便受けがなぜ時を繋ぐのかっていうのは、少なくとも映画では「そういうものだから受け止めなさい」ということになってます。それ自体に僕はとやかく言わないんですけど、僕ら観客がファンタジーを「そういうもんだ」と受け止めるのと、過去から手紙が目の前で届くなんて不思議なできごとを登場人物(ここでは幼なじみ3人組)が受け止められるかってのはまったく別の話ですよね。驚いたことに、3人はあまり驚かないんですよ。最初は当然いたずらじゃないのかってリアクションをするんだけど、返事をしたら、また相談の手紙が来る。いよいよいたずらだろってところだけど、シャッター越しに相談者が奏でるメロディーで、「あ、これ本当に32年前と今つながってるんだ」って、彼らも確信が持てるシーンがありましたね。「スゲえってなれよ!」、あるいは「怖い」ってなれよって僕は思ってしまったんです。普通はビビるでしょ? いや、3人も雑貨店を飛び出して夜の街を駆け回るんだけど、そこで走ってないはずの路面電車が身体をすり抜けたり、駆け抜けたはずの商店街に気がついたらループして戻ってたりっていう、どう考えても恐怖体験を重ねます。ますますビビるでしょ。っていう、ファンタジー設定、つまりは映画全体のリアリティーラインがよくわからないのが、少なくとも僕が映画に没入できなかった最大の要因かなと思います。
 
そして、僕が入り込めなかったもうひとつ大きな理由がありまして、それは時間軸の仕掛けによくついていけないっていうこと。2012年のある1日に、手紙がぽんぽん届くんだけど、つながってるのは、1980年のとある1日ではなくて、9月から12月くらいの3ヶ月間の色んな時間なんですよ。それってなぜ? 理由もよくわからないし、そこに対する3人の疑問も特にないようなので、観ている僕だけがわかってないのか、何か見落としているんじゃないかって落ち込むレベルでした。
 
時間の流れを意図的に混乱させることに物語的意味もあった『ダンケルク』と違って、この作品では悪いけど単純に説明がうまく機能していないんですよ。なので、ますます置いてけぼりをくらってしまいました。こうなってしまうと、登場人物と悩み相談が増えていけばいくほど、そのひとつひとつのエピソードにはなるほど共感できる「いい話」はあるものの、なんでこんなことになってるんだというクエスチョンマークが僕の頭上に絶えず浮かんでいる状態になってまして、もう大変です。
 
児童養護施設で火事が起きる場面も、僕は困ったことに結構クールに観ていまして、「え、そこから脱出したらええやん」などと冷水をぶっかけるようなツッコミを脳内でしている始末。
 
さらには、主題歌の問題まで、あくまで僕の中でだけど浮上します。山下達郎の“REBORN”。すばらしい歌ですよ。歌詞も物語にうまくリンクしてるし、さすがは達郎さんです。でもね、これ、実はエンドロールでだけ流れるんじゃなくて、劇中で門脇麦演じる歌手が自分の持ち歌として披露するんですよ。その歌唱力にも僕は特にケチをつけるつもりはないんだけど、困ったことに、どう聞いてもヤマタツ節だから、フィクション感がビンビンに出ちゃう。さらに、よせばいいのに、いきなり特に何の説明もなく海で門脇麦コンテンポラリーダンスを踊っちゃったりするから、さらにフィクション感が増して、「これは何なんだ」となっちゃう。踊りも映像も悪くないのに…
 
まとめましょうか。いい話です。泣けるっていうより、心に沁み入るタイプのエピソードやセリフがいくつも出てくるタイプの映画です。人はもちろん1人じゃなくて、誰か別の人の願いとか言葉で生かされてるんだよなって思える。でも、それを映画ではこう描いてやろうっていう演出的な工夫が、ないとは言わないけど少ないし、それがうまく言っているとは言い難い。人々の時を越えた繋がりという、映画としても面白くなるはずの物語なんだから、それこそ映像の繋がり、シーン同士のつながりももっと練ってほしかったなと思います。
 
追記:ナミヤ雑貨店に3人が忍び込む時に、シャッターの横っちょから入るんですけど、そこに確かにチェーンがかかっていたんです。それが、その後は一旦チェーンは見当たらなくなって、明け方エンディングに近いところでは、またチェーンが… これには何か意味があったんでしょうか。それとも… いずれにしても、タイムマシンの機能を果たしているのはシャッターなのか、あの敷地なのか、それとも街全体なのか、そのあたりは曖昧だったような気がします。小説、演劇、映画と、メディアの特性によって変化させてあるようではあるんですが…

さ〜て、次回、10月6日(金)の109シネマズ FRIDAY NEW CINEMA CLUBで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『僕のワンダフル・ライフ』です。監督は名匠ラッセ・ハルストレム。それにしても、脇役ならまだしも、犬が主人公の作品は久し振りだワン。あなたも #ciao802を付けてのTweetをよろしく!

 

『エイリアン:コヴェナント』短評

FM802 Ciao! MUSICA 2017年9月22日放送分
『エイリアン:コヴェナント』短評のDJ's カット版です。

f:id:djmasao:20170922161849p:plain

泣く子も黙るSFホラーの金字塔、1979年の『エイリアン』。リドリー・スコットジェームズ・キャメロンデヴィッド・フィンチャーとバトンが渡されたシリーズの前日譚3部作として、1の監督リドリー・スコットがメガホンを取った2012年の『プロメテウス』に続く2本目にあたります。

エイリアン/ディレクターズ・カット (字幕版) プロメテウス (字幕版)

 時は2104年。人類が住めるだろう惑星オリガエ6へと向かっていた宇宙船コヴェナント。2000人の人間と人間の胚をコールドスリープ状態にして運んでいるところ。ウォルターというアンドロイドが船の管理を行っていたところ、コヴェナントはニュートリノ爆発に遭遇。船長たちが命を落とす中、ダメージを受けた船を必死で修復していると、音楽と思われる不思議な電波をキャッチ。発信元を探ると、どうやらその星はオリガエ6よりも遥かに近く、入植地の候補として有力かもしれない。新船長の命を受け、小型船で探索に向かった先は、地球に似ているけれど、生き物たちのいない世界だった…

 
かつてシガニー・ウィーバーが演じたリプリーばりのタンクトップ姿を披露する船長の妻に、『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』のキャサリン・ウォーターストーンが配役された他、コヴェナント号に乗り組むアンドロイドのウォルターと『プロメテウス』のアンドロイドのデヴィッドを、マイケル・ファスベンダーが1人2役で演じています。
 
それでは、グロいシーンでは極力薄目にして、それでもキツイ時には目を背けながらも何とか食らいついて鑑賞した僕野村雅夫による3分間の映画短評、今週もいってみよう!

折しも来月末『ブレードランナー2049』、つまりリドリー・スコットのもうひとつの代表作の続編(リドリー・スコットはこちらでは製作総指揮)が公開されるわけですが、このエイリアンの前日譚三部作も、テーマとしては同じアンドロイドなんだなということが、より鮮明になってきた作品です。79年の1本目は、当時の時勢も相まって、エイリアンが象徴する男性社会に対して抵抗を試みる女性というフェミニズム的な解釈が多く存在します。興味のある人は、文春文庫から出ている内田樹の『映画の構造分析』が読みやすくまとめてあるのでオススメします。それから21世紀に入ってAIの技術もずんずん進歩していく中で、リドリー・スコットの興味は、より根源的なテーマ、つまりはクリエーション、創造、ものを生み出すことに移っているのでしょう。
 
前作の『プロメテウス』だと、人類の起源としてのエンジニアという存在が登場しました。が、正直なところ、身体を溶かして川にDNAをばらまくあたりから「ぽかん」となってきまして、わりと理解に苦しんだのは僕だけではないはずです。一方、今回はエイリアン1というゴールへ近づいていることもあり、かなりわかりやすくなってきていて、SFではおなじみのロボット三原則「人間への安全性、命令への服従、自己防衛」なんかも出てきます。この映画の文脈で言えば、人間そっくりのアンドロイドは、人間が生み出したもので、彼らは人間をサポートこそするけれど、何かを独自に生み出してはならないわけです。しかし、あの有能なアンドロイドに学習能力があるばかりか、好奇心まで備わっているとしたら… 現在、これはリアルな話として、AIに小説を書かせるなんて試みがあるわけですけど、好奇心のあるアンドロイドだって、何かクリエイティブなことをしたいと思うのが道理ってもんじゃないのか、と。人間が動植物の遺伝子を操作するように、アンドロイドが生命の根幹にまで興味を持った暁には… 
 
まぁ、こういう「飼い犬に手を噛まれる」みたいな話は『2001年宇宙の旅』にもあるように、SFのスタンダードだと言えると思うし、AIの恐怖はエイリアン1にもあったわけなんで、それ自体に目新しさがあるわけじゃないんですが、さっきも言ったように、AIによって人間の労働環境が大きく変わることがまことしやかに論じられているこのご時世にあっては、この古きテーマがいよいよ現実味を帯びてきて、恐怖がいや増すアクチュアルな問題としてググっと立ち上がってきているということなんですよね。って、ここまで話してきて、エイリアンそのもののについて触れてないじゃないかというツッコミが聞こえてきそうです。だって、しょうがないよ。これ、実態は、「アンドロイド:コヴェナント」って名付けたほうが良い映画だから。
 
いや、もちろん、エイリアンも出てきますよ。やたらすばしっこいちっちゃいチビリアンも出てくるし、おなじみの完成形も出てきます。そして、しっかりグロいです。ショッキングです。特に人間に寄生してからの成長の早さとか、もうウンザリするくらいに怖いです。でも、ビジュアルの言わばエンタメ的怖さよりも、アンドロイドがもたらす精神的ショックの方が、見終わった後はよっぽど大きい。その後味の悪さたるや…
 
ということで、面白くは見たんですけど、いかんせん、アンドロイドを巡る、ある種倫理的なテーマの面白さとは裏腹に、脚本は結構B級感がありますね。誰しもがつっこむのは、お前ら、見知らぬ惑星に降り立つのに、なんでそんなに無防備やねん、と。そして、もっと素朴な疑問も湧いてきます。コヴェナント号は突然のニュートリノ爆発という予期せぬ事態に遭遇したから、その地点で信号をキャッチして、はっきり言って、行き当たりばったりに目的地を変更し、えらい目に遭うわけだけど、もし爆発が起きてなかったら、あの信号はキャッチされないままだった可能性が高いわけでしょ? エイリアンシリーズって、そんな偶然の産物がきっかけだったの? とか… あ、野暮なこと言いました。
 
ただ、B級とされていたホラー映画の価値を一気に押し上げたのがエイリアン1だったわけで、グロ描写よりも脚本の都合の良さというか、こいつらバカなのかっていう乗組員たちの様子、その設定にこそお約束だからと目をつぶってしまえば、かなり楽しめる1本です。スリルはちゃんとあるし。

↑ お願いだから、『カントリー・ロード』は『耳をすませば』だけにしていただきたかった(苦笑)

 

何より、リドリー先生が楽しそうに演出している気がします。これからしばらくは、御年79歳リドリー・スコット大暴れです。ブレードランナー続編、オリエント急行殺人事件リメイクのプロデュース、そして、70年代に起きた石油王の孫誘拐事件を描く監督作が、アメリカで12月に公開されるので、アカデミー賞に絡んでくる可能性も大。『エイリアン:コヴェナント』を観て、あなたも来るべきリドリー祭りに備えてください。

さ〜て、次回、9月29日(金)の109シネマズ FRIDAY NEW CINEMA CLUBで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、またまた東野圭吾作品が映画化、『ナミヤ雑貨店の奇蹟』です。涙を売りにしてるけど、僕はそう簡単に泣かないぞ! なんつって、号泣したりして。あなたも #ciao802を付けてのTweetをよろしく!

 

『ダンケルク』短評

FM802 Ciao! MUSICA 2017年9月15日放送分
『ダンケルク』短評のDJ's カット版です。

f:id:djmasao:20170915172544j:plain

1940年。イギリス・フランスを中心とした連合軍の兵士40万人が、ドーバー海峡に面するフランス北端の町ダンケルクで、南から攻め入るドイツ軍によって包囲されていた。敵が迫る中、兵士たちは海を越えてイギリスへ撤退するべく策を講じます。イギリス側では、民間船の協力も得ながら、救出作戦を開始。空軍パイロットも、戦闘機の数が圧倒的に足りない中を出撃していく。

インセプション (字幕版) インターステラー(字幕版)

 ダークナイト』『インセプション』『インターステラー』などで知られる現代の名匠クリストファー・ノーランが、初めて史実、そして戦争を映画化したものとして話題となっています。脚本もノーラン。音楽は、こちらも世界トップクラスのハンス・ジマー。これまで担当してきた「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズ最新作『最後の海賊』の音楽を弟子筋に作らせ、ジマーは『ダンケルク』に集中するという力の入れよう。フィオン・ホワイトヘッドハリー・スタイルズケネス・ブラナートム・ハーディーらが出演。

 

CGを極力排することで知られるノーランですが、今回は1500人のエキストラを動員した他、なんと厚紙を切り抜いて兵士や乗り物を作るというアナログな方法も導入。撮影は、2017年現在世界で最も解像度の高い映像を撮影できるIMAX70mmフィルムで行われました。
 
それでは、『ダンケルク』ばりに時間との戦いとなる3分間の映画短評、今週もいってみよう!

「こんな戦争映画見たことない!」みたいなことが言われてます。僕もそう思いました。その場にいるかのような臨場感とか、IMAXのデカいカメラを実際の戦闘機に載せて撮影した「リアリティー」の追求ということもあるけれど、僕がここで注目したいのはふたつです。ひとつは、脚本と編集が織りなす珍しい構成。もうひとつは、それがもたらす戦争映画というジャンルそのものへのノーランの批評精神です。
 
まずは、構成から。映画初出演となる、ワン・ダイレクションのハリー・スタイルズなどやケネス・ブラナーなど、俳優陣の名前にも事前情報として目を引かれると思いますが、作品を見始めてしばらくして気づくのは、この映画に主人公はいないということです。陸海空、各エピソードの主役はいるんだけど、その人達が映画全体を貫く主人公とは言えない群像劇です。それ自体は珍しくもないけれど、斬新だったのは時空間の配置。まず大きくふたつの立場があります。連合軍とドイツ軍、ではない! 実はドイツ軍の姿は、一度たりとも出てきません。敵は見えない。ここ重要なんだけど、後でまた触れるとして、じゃあ、どのふたつの立場か。ダンケルクで救助を待つ陸軍兵士。そして、彼らを救う人々。救う側が、さらにふたつに分かれます。つまり、海からと空から。以上、大きく分けてふたつ。そして、それが派生してみっつのエピソードが同時進行します。
 
ここまでも、形式としては比較的普通です。驚かされるのは、クライマックスというか、救出作戦が終了する物語のゴールへ向かう、3つのエピソードのタイムスパンがそれぞれ違うことなんです。救助を待つ側は、1週間。海から救助する側は1日。空から作戦に関わる武隊は、一番短くて1時間。1週間の話と、1日と1時間が同時に語られるわけだから、当然、映画の中では、シーンが変われば、場所が移動するだけでなく、時間も過去に戻ったり、その過去からみればback to the futureになったりと、かなり目まぐるしい、はっきり言えば、混乱を招く構成になってるんです。しかも、ノーランの過去作と照らしてみても、圧倒的にセリフが少なく、状況説明も最低限度までなくしてある。こうすることによって、僕たち観客は、それぞれのエピソードのマズい局面に毎度毎度いきなり放り込まれることになります。だから、先が読めず、ただただ座席でビクビク、オロオロするばかり。これは史実だから、マクロの視点に立てば、いつかどこかで作戦が集結することを僕たちは知っています。でも、ミクロの視点(これが映画の視点)に立てば、この映画に出てくる人々のうち、誰が生き残ることができるのか、それはさっぱり予想できない。まとめれば、この特殊な構成によってノーランが目指したのは、戦争というシチュエーションを借りたサスペンス・スリラーなんです。その恐怖を高めるには、敵は見えないほうがいいということですね。
 
では、なぜノーランはそうしたのか。それが、僕の注目するもうひとつのポイントである、戦争映画というジャンルそのものへの彼の批評精神になります。『ダンケルク』には、たとえば最近のものだと『ハクソー・リッジ』や、既にクラシック化している『プライベート・ライアン』のような血生臭さはありません。常に戦闘中だけれど、グロテスクな描写に重きはまったく置かれていない。
 
この映画への批判として、状況を描くばかりで、ドラマやノーランのメッセージが感じられないというものがありますが、僕は少なくともメッセージは明確にあると思っています。コピーに「生き抜け」とあるように、この映画が僕たちに伝えているのは、戦争のような命に関わる苛烈な状況において、生きて帰ること、撤退することもまた勝利なんだということです。逃げるは恥だが役に立つ。生きること。生かすこと。それが戦争において大事なんだ、と。そして、バットマンも手掛けたノーランですが、戦争映画にはいわゆるわかりやすいヒーローは必要ないと考えたんでしょう。
 
一見、為す術がない絶望的な状況で何を為せばいいのか。これを描くためには、マクロな視点はわずかでいい。むしろ、ミクロ、名も無き登場人物たちと小さな修羅場を次々と共有するような演出を積み重ねることで、それぞれの持ち場での作戦終了時のカタルシスが生まれる。それぞれのタイムスパンが並走するラストでは、僕は目頭が熱くなりました。
 
結論。『ダンケルク』は、スタンダードな演出を良しとしないノーランが生み出した、戦争映画としては異端だが、誰しもが命を賭けさせられる無慈悲な戦争の営みをモザイク画のように構成してみせた、「真に映画的な」意欲作です。

さ〜て、次回、9月22日(金)の109シネマズ FRIDAY NEW CINEMA CLUBで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、ついにエピソード0が来てしまった『エイリアン:コヴェナント』です。怖いよぉ。ヤダよぉ。なんてビクビクしながら、戦慄を覚えてくることにします〜。あなたも #ciao802を付けてのTweetをよろしく!

 

 

『新感染 ファイナル・エクスプレス』短評

FM802 Ciao! MUSICA 2017年9月8日放送分

f:id:djmasao:20170908161025j:plain

昨年のカンヌ国際映画祭ミッドナイト・スクリーニング部門で上映されて反響を呼び、現在こちらも絶賛上映中(にして僕はまだ観られてなくて歯痒い思いでいる)『ベイビー・ドライバー』のエドガー・ライトや、『パシフィック・リム』のギレルモ・デル・トロらが褒め称えた、韓国のゾンビ映画。監督は1978年生まれだから僕と同い年のヨン・サンホ。アニメーションで演出をしてきた人ですが、今作のヒットを受け、日本でも来月、『我は神なり』という2013年の代表作の公開が決まりました。庵野秀明のような経歴ですよね。

「ベイビー・ドライバー」オリジナル・サウンドトラック パシフィック・リム(字幕版)

 ソウル発釜山行きの高速鉄道KTX。韓国北部で突然起きたパンデミックの感染者がひとり乗り込んでしまいます。車内でも瞬く間に感染が拡大。別居中の妻のもとへ幼い娘を連れて向かう父。臨月の妻をいたわる夫。高校野球部の部員とマネージャーのカップルなどを乗せて時速300キロで疾走するKTX。乗客たちは無事に釜山にたどり着けるのか。

ワールド・ウォーZ (字幕版) レッド・ファミリー(字幕版)

 このコーナーでゾンビものを扱うのって、2013年の『ワールド・ウォーZ』以来かな。韓国映画も『レッド・ファミリー』以来、3年ぶり。いずれも、僕は結構評価しておりました。それでは、秒速10文字程度で疾走する3分間の映画短評、今週もいってみよう!

今週はただただ褒めます。できの良いジャンル映画というのは、そのジャンルが要請する決まりごとは踏襲しながらも、技術、演出のアイデア、テーマなど、どこかでその枠をはみ出してしまう。この作品もそうで、ストーリーを30字くらいで要約すると「噛まれると感染してゾンビになるウィルスが蔓延。誰がどうやって生き残るのか」になります。普通じゃねえか。そこがジャンル映画たるゆえんなわけです。それをハイクオリティーで実現するなんてのは当たり前ですよとばかりに、この映画はどんどん新鮮な映画体験を僕らに届けてくれます。
 
大きくふたつに分けると、舞台を列車内に限定した設定の妙。そして、ゾンビじゃなくて人間を描くテーマ的な意志の強さ。
 
設定の方ですが、僕が先週チケットプレゼントで言ってたタイムサスペンス要素は実はほとんどなくて、とにかく高速で移動する「密室」であることが大事でした。それこそ日本の新幹線を想像すればいいんだけど、各車両ごとに扉があって、デッキがある。個室のトイレもある。網棚も忘れないで! 僕は映画が始まって15分くらいで主人公の親子が列車に乗った時点で、「おいおい、こんなに早く乗っちまって、最後までハラハラできるのか」って心配になったんですけど、余裕でした。最初は、ゾンビ映画にありがちな、「わー、やっぱり、ここにおった〜、ぎゃー!」みたいなことかと思ったら、「いや、ここは違うんです」みたいな、ジャンル映画の約束事を踏襲しつつ逆手に取ったりしつつ、そこで車内に乗り合わせた人物紹介まで自然にやっちゃうスマートさ。その後は、その手があったか!のオンパレード。しかも、密室だから、外で何が起こっているのか、正確には把握できないのもポイントなんです。車内のテレビもスマホもあるけど、いまいちよくわからない。このわからないのが怖いんだよね。観客の想像力もうまく動員してくれるから、そこでスケール感を出してる。予算の限界突破ってのは、こうやるんだっていう好例だと思います。
 
そういう汲めど尽きないアイデアの数々だけでもう十分すばらしいのに、テーマまで骨太なんだ。ゾンビを使って、この映画は人間を描いてるんです。そして、社会を批評しているんです。主役のダメパパ、仕事人間、ファンドマネージャーのソグ。彼なんか、ある意味、最初からゾンビですよ。イケメンだし、もちろん、まったく感染してなくても、金のためなら何でもするし、人を蹴落として生きることを良しとする血も涙もない資本主義の悪しき申し子ですから。それに対して、臨月の妻を気遣うソンファは、子どもっぽいところがあるし、ホワイトカラーへの偏見もあるんだけど、とにかく情に厚い。力が強い。そして、何より自己犠牲の精神がある。それがいよいよ本領を発揮し始めるる、駅の一連のシーンでは、思わず「すげぇ」って声を出してしまうくらい痛快で、「こういうのをヒーローって言うんだ、これこそヒーロー映画だ」って、ひとり映画館の暗闇で考えてました。ソンファ最高! 
 
そして、その後の生き残った人間たちの、あの立場の逆転劇も、愚かな人間ども描写として鮮やかだったし、それがまた次なる展開へときっちりつながる様子はお見事。僕らが知らず知らずに感染している利己主義的な価値観に監督が牙をむき出しにして噛み付いているわけです。総じて、高校生カップルや子どもを産む女性、そして幼い女の子など、露骨な競争社会に毒されていない人間は、善良なる人々として描かれていましたが、変化する人間もいましたね。ゾンビと違って、人は学ぶことができるんだということを見せてくれるのも良かった。
 
そして、何より、ゾンビ映画最大の難問。どう終わらせるかについても、この映画は凄かった! ゾンビって死なないというか死んでるというか。だから、簡単に「はい、これでスッキリ」とハッピーエンドにできないジャンルならではの困難があるんだけど、この作品の後味は、ゾンビ映画ならではの尾を引くビターさと、人間を信じたくなる涙まじり、塩気のある淡い甘みがブレンドされていて、ちょっと他では味わったことのない至高の領域に突入しておりました。
 
ほんと、ただただ褒めです。一部の音楽が、この映画には似合わない説明的なものだったことと、後は邦題くらいかな。でも、もうそんなの気にならないです。ゾンビもの苦手な人でも、これなら大丈夫。しっかりエンタメだし、グロすぎないし、ただビビらせるだけの演出もない。とにかくみんな、ダッシュで、いや、電車に乗って109シネマズへ行こう!
 
それにしても、ゾンビが雨のように降ってくるシーンにはまいりました…

溜息の断面図(初回生産限定盤)

番組では、評を整理していて思い浮かんだ、ハルカトミユキの『終わりの始まり』をオンエアしましたよ。もし日本版で主題歌を付けるならと選曲しました。ちなみに、このアルバムには『近眼のゾンビ』という曲もあり。

さ〜て、次回、9月15日(金)の109シネマズ FRIDAY NEW CINEMA CLUBで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、いよいよ出ました、クリストファー・ノーラン監督の『ダンケルク』です。絶賛の声があちこちから聞こえますが、今週に引き続き、ただただ褒める評になるんでしょうか。IMAXで観てきます。あなたも #ciao802を付けてのTweetをよろしく!
 

『ワンダーウーマン』短評

FM802 Ciao! MUSICA 2017年9月1日放送分
 『ワンダーウーマン』短評のDJ's カット版です。

f:id:djmasao:20170901190419j:plain

マーベル・シネマティック・ユニバースに対して、こちらはDCエクステンデッド・ユニバース、DCEU 4作目。『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』にチラッと出ていたキャラクターの単独作。
 
女しかいない孤島で、プリンセスとして、そして戦士として育てられたダイアナ。ある日、島に不時着した飛行機の男性パイロットを救い、彼から第一次世界大戦が起きていることを知らされます。世界を平和に導くという自分の民族の使命感を覚えたダイアナは、アメリカ人のパイロットと戦場へと向かいます。

 

バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生 アルティメット・エディション(吹替版) モンスター (字幕版)

監督は、シャーリーズ・セロン主演『モンスター』のパティ・ジェンキンス。女性です。これが久し振りの長編で2本目。監督が実写化するなら「私がやる」と強く手を挙げたようですが、大抜擢ですね。ダイアナ/ワンダーウーマンイスラエル出身のガル・ガドット、そして、お相手の男性トレバーをクリス・パインが演じています。
 
それでは、3分間の映画短評、今週もいってみよう!

あらすじを読んでいた時点で、設定にいくつか疑問があったんです。まず、女だけしかいない島っていったい何なんだ! どこにあるんだ! 行ってみたいぞ! これが初の単独作となるので、ダイアナの出自については、前半でわりと時間を割いて描かれていました。普通に考えたら、どうやって子どもが生まれるんだとか思うじゃないですか。これは設定の段階なんでネタバレにはならないでしょう。ギリシャ神話にゼウスってのがいますね。神々の親玉的な。その息子にアレスという戦いの神がいる。さらに、そのアレスから人間を守るために作られたアマゾン族という女性ばかりの種族がいる。ワンダーウーマンは、その末裔なんです。アマゾン族は、アレスが現れた時に彼を撃退するために訓練を積み続ける戦闘集団です。どうやら、殺されたりしない限りはずっと生き続けるようでして、映画のスタートは現代のパリ。ワンダーウーマンは自分の写った1枚の集合写真から、第一次大戦の頃の思い出を偲ぶという、壮大なフラッシュバックの構成なんですね。彼女がそのエリートとしての血筋と使命に目覚めてヒロインになっていく、成熟していくプロセスが描かれる。
 
この時点で疑問は山ほど湧いてきます。アマゾン族は人類の歴史とパラレルに生き続けてきたから武器が剣と盾と弓矢ってのはまだいいとして、世界史にあるような人類の戦争の歴史にどう絡んできたんだろう。飛行機が不時着したけど、あの島と世界の境界線のアバウトさは何なんだ。島から出たことがないから世間知らず、文明知らず、男知らずなのはいいとして、それでどうやってあんなにたくさんの言語が話せるんだろう。どれもこれも、設定はかなりアバウトです。詰めて考えると、クラクラしてきます。ただ、じゃあ、映画として破綻してるかっていうと、そうではないんですよ。そこが凄いなと思うんだけど、しっかり面白いし、興味が持続するんです。中だるみしないんです。
 
それはなぜかと考えると、ガル・ガドットが体現するワンダーウーマンそのものの問答無用の魅力と、映画全体のバランスが良いからですね。神話的要素、第一次大戦歴史ものの要素、カルチャーギャップをベースにしたコミカルな要素と軽い恋愛要素、そして、あくまで肉体を軸にしたアクロバティックなアクション要素。かなりごった煮なんだけど、どの具材も丁寧に下処理されてるから、火の通りも良くて、ずっと食べ続けられる。そして、どの具材も火を通しすぎて煮崩れしたりしてないから、口当たりがいいんです。悪く言えば、正面から向き合いきれてないんだけど、良く言えば、それぞれの要素のいなし方がうまい。さっき挙げた各要素を掘り下げすぎない。だから、矛盾や疑問も、あまり深く意識しないで済む。シリーズ1本目として、それって大事なことですよ。やっぱり、1本目から眉間にシワを寄せるのもしんどいしね。
 
でも、なんだかんだ、やっぱり、全体のダシに当たる、肝心のワンダーウーマンを演じるガル・ガドットがすごいんでしょうね。どんな服も着こなすし、すっとぼけた言動を取る時はチャーミングだし、髪型を変えて、露出度を上げて戦う時の頼れる感じ、意志の強さにも説得力があるし。
 
そのうえで、ヒーロー映画ですから、戦闘シーンも色々あるんだけど、いくらCGを使おうと、あくまで肉体重視のアクロバティックな戦いだから、荒唐無稽なんだけど、いい意味で人間離れしすぎておらず、しかも、だんだん戦闘が激しくなるように持っていってるから、ちゃんとラスボスまで戦闘シーンで飽きないようになってる。
 
がしかし、終わってみると、やっぱり疑問は疑問のままたくさん残ってるのも、また事実。エンディングで当然、現代にまた戻るんだけど、彼女は第二次大戦の時どうしてたんだろうとか、よくわかりません。それはまた次作ってことなのかしら。あと、仕方ないっちゃ仕方ないけど、ワンダーウーマン以外の魅力ありそうな男性キャラがその魅力を発揮できずじまいだったのはもったいないなぁ。奴らは人間だから、次作以降、時代が変わると出てこないんだろうなぁ。
 
とまぁ、気になるところはたくさんありますが、マーベルに比べると分が悪いDCEUの救世主としてワンダーウーマンが登場したってことは間違いなく、そして嬉しく断言できる1本でした。

さ〜て、次回、9月8日(金)の109シネマズ FRIDAY NEW CINEMA CLUBで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『新感染 ファイナル・エクスプレス』です。この夏は『ザ・マミー』に出てくるゾンビでずっこけた僕なんで、こちらにはしっかりビビらせてほしいところ。あなたも観たら #ciao802を付けてのTweetをよろしく!

『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』短評

FM802 Ciao! MUSICA 2017年8月25日放送分

f:id:djmasao:20170825185342j:plain

海辺の町に暮らす中学1年の典道。夏休みの登校日。町の花火大会を控え、打ち上げ花火は横から見ると丸いのか、平べったいのか、という素朴な疑問についてクラスメートたちと言い争っていた。クラスの高嶺の花、なずなは、母親の再婚が決まって、夏休みのうちに転校をすることに。なずなに密かに恋心を抱いている典道は、親に振り回されたくないなずなから駆け落ちしようと誘われ、それを機に時間が巻き戻る不思議な経験をする。
 
世にも奇妙な物語」の後釜として93年に放送されたオムニバスドラマシリーズ「if もしも」の中で異彩を放ったエピソードが原作。脚本・演出の岩井俊二知名度を一気に高めたこの作品は、95年に劇場公開され、さらにカルト化しました。今回、ヒットメーカーたるプロデューサー川村元気が劇場アニメ化を企画。原作の岩井俊二が脚本に大根仁を指名。総監督は『魔法少女まどか☆マギカ』の新房昭之。見事に注目を集める座組なだけに、劇場公開後、さっそく賛否両論渦巻く格好です。
 
今週はアニメ「打ち上げ花火」をもちろんスクリーンで観るだけでなく、原作実写映画をDVDで鑑賞し、岩井俊二による24年越しのノベライズを角川文庫で読むなど、僕も負けじと複数の角度からこの物語を検証してまいりました。それでは、制限時間3分間の短評を今週もスタート!

本屋さんに行ってみると一目瞭然ですが、実は今、角川文庫から2冊のノベライズが出てるんです。ひとつは、岩井俊二が今回のアニメ化に合わせて書いたもの。もうひとつは、大根仁のペンによるもの。岩井俊二版の表紙は、93年のドラマで主演したふたり、山崎裕太(やまざきゆうた)が漕ぐ自転車の後ろに奥菜恵が座っている写真。懐かしいなぁと思う間もなく、僕はそのタイトルに驚きました。『少年たちは花火を横から見たかった』なんですよ。さっき言ったオムニバスドラマ「if もしも」のタイトルは、一部を除いて、すべて「AかBか」という二択になってるんです。あとがきを読んでわかりました。岩井俊二は、当時、このお題を拡大解釈し過ぎた結果、悪く言えば、他の演出家とは違うアプローチで奇をてらった結果、まったく「もしも」の話になっていないぞと当時のプロデューサーから指摘されて、苦肉の策として書き直したものが脚本になった。そこで、今回のノベライズでは、原点に立ち返って、ifというギミックを使わずに、少年少女の淡い夏の一日を文章にしたためた。だから、タイトルが違うんです。
 
話を戻して、アニメ版はどうなっているかというと、岩井俊二とはまったく逆のベクトルでして、ifという仕掛けをさらに膨らませる選択をしています。まず、実写にはなかった不思議な玉が登場。投げるとタイムリープして、その1日の意に沿わなかった部分からやり直すことになります。投げた玉がアップになる時、その内部で電球のフィラメントのようなものが見えるんですけど、そこにifという文字が一瞬だけどはっきりと見えるんです。つまり、93年のあのドラマシリーズコンセプトを強く押し出したアニメ版アップデートと言えます。
 
前置きが長くなった分、いきなり核心にいきます。アニメ化は成功してるのか。僕は面白く観たんですけど、面食らうお客さんが多いのはよくわかるし、その意味では、夏休み興行としては合格点ギリギリという感じがします。実写の尺はとても短くて45分。岩井版ノベライズも、文庫で160ページ。僕は、京都からサマソニまでの行き帰りで読み終えました。それだけ小さな話なんです。それを、アニメでは倍の90分にしました。一応、劇場にかけるんで、それくらいは尺がほしいという判断でしょう。では、どうやって倍にしたか。ごくごく簡単に言えば、ストーリーに小ネタを付けて、アニメ表現ならではの飛躍でボリューム感を出しています。結果、ところどころ、いや、後半は大部分がもう実験映画みたいになってきて、面食らうどころか置いてけぼりになる観客が続出するのも、さもありなんです。僕はそれも含めて楽しんだんですけど、そんなマニアックな楽しみ方をするのは少数派でしょう。
 
実写との決定的な違いである、タイムマシンとしてのif玉。あれを取っ掛かりに、映画を観た方は思い出してください、画面内は丸いもの、円形のもの、円を描くもののオンパレードです。灯台、虫眼鏡、プールでのターン、ゴルフボールとカップ、学校の校舎、螺旋階段、風力発電の風車、そしてもちろん、花火。カメラも弧を描いて動かす場面がありました。こういう似た形のものをリンクさせてどんどん物語をドライブさせていくマッチカットという手法はとても映画的で面白いし、謎としか言いようがないミュージカル的なずなの妄想シーンも興味深いんですけど、僕が残念に思ったのは、そうやって語り口を変えても、物語のテーマ、エッセンスそのものは特に深みを増してないことです。だから、オシャレしてみましたってだけで、重ね着した結果、あれ着ぶくれしてないかと思う人がいてもしょうがない。
 
ローティーンの男女の自分をうまくコントロールできない未熟さ。男女のマセ具合のずれってな淡いテーマを描くには、今回の製作陣の作戦が少々大人すぎる。むしろ、尺を伸ばすなら、岩井俊二のノベライズにあるように、全体を回想形式にしてしまう方が妥当でしょう。アニメ版は、せっかくアニメにするんだし、とか、岩井さんとはまた違った角度から、とか考え過ぎた気がします。もっと正面から打ち上げ花火を見ても良かったんじゃないかな。

オープンエンディングにポカンとしたり苛立ったりする人がいるのはわかるけれど、僕はアリどころか好ましく思いました。そこに至るまでの脱線で振り落とされた人には、「なんなんだよ」って絶対なりますけど、逆にこの話にオープンエンド意外あり得るのかって思うんです。「もしかして…」って想像させてナンボのもんですよ。
 
ただ、それを言っちゃおしまいなのは十二分に承知で言わせてちょうだい。僕はあの絵は苦手です。あの制服もしんどい。いかにも深夜アニメっぽすぎて… たとえば前半のプールの場面でも、急にギャグ漫画的に絵が変化したり、急にキラキラになったり、急にハイパーリアリズム的に写実的になったりと、僕みたいなアニメ素人にはついていけないですね。絵のタッチが饒舌すぎて、冷めちゃうんです。
 
とか何とか、まるでアニメ化は企画倒れかのように評を展開しましたけど、同じ話をメディアや作家を変えるとどうなるか、時代を経るとどうなるかという壮大な実験とも言えるこの「打ち上げ花火」を、僕はしっかり楽しんだし、愛でることができました。とても興味深い。ご覧になる方は、短い話なんで、ぜひ小説や実写版と比較してみてください。

さ〜て、次回、9月1日(金)の109シネマズ FRIDAY NEW CINEMA CLUBで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『ワンダーウーマン』です。彼女については、天然系の女戦士という情報しか、まだ頭に入っていないんですが、大丈夫でしょうか。でも、これが1作目だから、ドンと構えて観に行けばいいんだよね! きっと! 観たら #ciao802を付けてのTweetをよろしく!