京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年11月29日放送分

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J・K・ローリング文学史に残るベストセラー小説とその映画『ハリー・ポッター』シリーズの前日譚的な位置づけの、こちらは大人版というべき「ファンタスティック・ビースト」。Ciao MUSICAの頃、2016年11月25日に短評した『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』を皮切りに、こちらは全5部作の予定で製作が進められていまして、今作は2本目となります。
 
90年代にハリー・ポッターが使うことになるホグワーツ魔法魔術学校の教科書『幻の動物とその生息地』を編纂した、魔法動物学者ニュート・スキャマンダーが一応の主人公。彼は世界中を旅して魔法動物を集め、4次元ポケット的な不思議なトランクに詰め込んでいます。前作は1926年のニューヨークを舞台にしていましたが、今回はあの騒動を経て、翌1927年の物語。ロンドンに戻っていたニュートは、魔法動物を調査するため、今度はパリへ向かう準備をしていました。そこへ訪ねてきたのが、魔法使いのクイニーと人間のジェイコブ。結婚を視野につきあっているふたりでしたが、魔法使いとノーマジ(人間)の結婚は認められておらず、苦悶したふたりは大喧嘩。クイニーはパリで闇祓いをしている姉ティナの下へ向かいます。一方、アメリカで捕らえられていた闇の魔法使いグリンデルバルドが、ヨーロッパへ移送中に脱走して、やはりパリへ。ダンブルドア先生は、「黒い魔法使いを倒せるのは君だけだ」と教え子のニュートに告げるのですが、果たしてグリンデルバルドは何を企んでいるのか?

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監督はハリー・ポッター5作目から一貫してデヴィッド・イェーツ。そして、このシリーズの脚本は、原作者J・K・ローリングが自ら執筆しています。ニュートをエディ・レッドメインダンブルドアジュード・ロウ、ティナをキャサリン・ウォーターストン、ジェイコブをダン・フォグラーが引き続き演じる他、今回は黒い魔法使いの親玉的なグリンデルバルド役のジョニー・デップが大暴れします。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

前作を僕がどう評価していたか、先に軽くまとめます。魔法動物たちの顔見世興行としてシリーズの幕を開けながら、人間と魔法使いの世界を大胆に交錯させて、むしろ人間の現代史のダークな側面を浮かび上がらせながら描いた、チャーミングで苦い味わいの、なかなか見事な1本でした。
 
このシリーズは1945年がゴールとなると発表されています。第一次大戦の終わりから、第二次大戦が始まって終わるまでってことですね。今回は黒い魔法使いの親玉グリンデルバルドがパリで何をするって、ヒトラーばりの演説を打って、魔法使いが人間たちをどう扱うべきかという内容で、ここがポイントですけど、魔法使いたちの分断を煽るわけです。さらに、人間たちがどういう奴らかってことを説く場面で、まるで第二次大戦を予知するかのように、戦車やら原子爆弾のようなキノコ雲まで見せていく。ローリングはこのシリーズで「人間とは何か」と解釈することを大きな目的としているようですが、こうした僕たちの闇、業の部分をグリンデルバルドに重ねながら、いよいよ本題に入ってきたなという印象です。

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前作で大きなウェイトを占めていた魔法動物たちのキャラ紹介が、今作ではこれから歴史の渦に運命的に巻き込まれていくだろう魔法使いたちのキャラ紹介にスライドしています。なので、前作のあのかわいらしく滑稽なやり取りは鳴りを潜めていて、代わりに魔法使いたちそれぞれが胸に抱える葛藤と背負っているキツい運命が続々と語られていくので、明らかにダークかつシリアスなファンタジーへと様変わり。結構、面食らう人も多いと思います。必然的にニュートやジェイコブの存在感は相対的に薄くなり、グリンデルバルドが一応の主人公に昇格した格好です。このあたり、はっきり言って、構成がうまいとは言い難いです。どれがサイドストーリーなのかメインなのか、かなりわかりにくいので、映画全体の求心力が弱いんですね。

 
加えて、前作では観客にあまり要求していなかった観客のハリー・ポッター知識がかなり問われるんです。僕みたいなハリポタ弱者にとっては、「その魔法は何?」とか「そんな動物おったんや」とか、かなり戸惑いました。もちろんシリーズなんで、観てない方が悪いってことなんだろうけど、全体としては情報の交通整理がうまくいっていないと言われても仕方はないと思います。軸が見えにくいし、エピソードも小ネタも多いので、セリフがどうしても増えちゃってるし、説明不足も目立つ。これは前作でも言ったことですが、魔法の万能っぷりが度を越しているところもあって、「そんなことができちゃうんだったらさ」とぼやきたくもなります。最後に次作へのフリとして出てくる強大なパワーも、もう魔法がインフレを起こしてるんでビビらないんですよ。ドラゴンボールがZになった時に近いというか、天下一武道会でキャッキャやってた頃が懐かしいなという記憶を僕はなぞることになってしまいました。
 
とはいえ、大人気シリーズです。やっぱり続きは観たい。次が出る前に、僕もハリー・ポッターの原作に手を延ばそうかなと考え始めているところです。

ハリー・ポッターシリーズ全巻セット

さ〜て、次回、12月6日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『くるみ割り人形と秘密の王国』です。クリスマス・シーズンに入っていくので、ファンタジーが続きますね。ディズニーですよ。できばえやいかに? あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

映画『人魚の眠る家』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年11月22日放送分
映画『人魚の眠る家』短評のDJ's カット版です。

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自宅でフラワーアレンジメントの仕事をしながら娘と息子を育てる薫子。IT機器メーカーを経営する和昌。ふたりの関係は冷え切っていて、娘の小学校受験が終われば離婚することになっていました。ある日、娘の瑞穂が遊んでいたプールで溺れ、意識が戻らなくなります。医師から提案された脳死判定を受け入れられず、夫婦は先の見えない延命治療をスタートさせます。和昌は自社の先端技術で娘の身体を動かせるのではないかと気づき、若手研究員の星野に実験を指示。本人の意志とは無関係に身体を動かされる瑞穂は、意識がないことを除けば、健やかに成長していくのですが、それによって家族や職場の人間関係には次第に亀裂が入っていきます。

人魚の眠る家 (幻冬舎文庫)

毎年何本も小説が映像化される作家東野圭吾が、自身のデビュー30周年を記念して3年前に出版した同名小説を、テレビドラマ出身の篠崎絵里子が脚色し、堤幸彦がメガホンを取って映画化しました。主人公の薫子を篠原涼子、夫の和昌を西島秀俊が演じる他、若手研究員として坂口健太郎、そのガールフレンドとして川栄李奈、さらには山口紗弥加田中泯松坂慶子田中哲司などが脇を固めています。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

発売から1ヶ月で27万部を売ったベストセラー小説を、映画会社、出版社、テレビ局、広告代理店、webメディアなどがお金を出し合って映画にするという、典型的な日本型製作委員会方式。あまりにもできすぎた構図で、ひねくれ者の僕はちょっと身構えてしまう上、監督は近年の作品をこのコーナーで高くは評価してこなかった堤幸彦ということで、劇場へ向かう僕の足取りはそこそこ重めでしたが…
 
開映したらもう最後まで食い入るように観て、脳死を巡って命をどう扱うかという倫理、その法律面での日本の特殊性、さらには臓器移植について、しっかり考えさせられてしまいました。サスペンス、ホラーの香りをまとわせてエンターテイメントとして成立させながらも、全体としてはヒューマンドラマとして人の心理をある程度深いところまで多面的に描写し、そこに社会的なメッセージを含ませるという、そのまとまりは評価に値します。

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いわゆる植物状態にある娘。脳以外は正常に機能しているので、意識はないけれど、身体は温かい。ただ、人工呼吸器を外せば、そのまま死にいたってしまう。いつか目を覚ますことを信じて延命治療を続けるのか、それとも脳死判定をして、場合によっては臓器移植のドナーになることを選ぶのか。脳の機能停止をもって死とするのか、あくまで心臓が止まることをもって死とするのか。突如降ってわいたこの問題に翻弄される家族。たとえ予め話し合っていたとしても、いざとなったら決断が揺らぎそうな究極の選択ですから、話し合っていなかったとしたら、周囲の精神的な混乱はなおさらです。ただ眠っているだけに見える娘に寄り添うことを決めた薫子。電気信号を使って筋肉を動かす自社のテクノロジーを応用して、娘の健康状態を保とうとする和昌と、その技術を瑞穂に活用しながら疑似家族化していく研究員。事故現場にいながら救えなかった祖母。弟、いとこ、おば。それぞれの心理と関係性、そして研究員のガールフレンドの視線に代表される周囲というか世間の目。
 
こうしたものが、時間とともに緩やかに変化していく様子を堤監督は表現しようとしています。具体的には、それぞれのシーンの天候、照明、音楽、そしてここが堤演出っぽいんだけど、画質にまで画質にまで変化をつけてあるんですね。ちょっとやりすぎだろうと感じてしまうところもあるものの、そうした視点の変化と心理描写を文字通り色分けするだけでなく、そこにジャンルの違いまで盛り込んでくるところがうまいあたりでした。簡単に言えば、献身的な愛情が、部外者から見ればホラーに見えることもあるということですね。リスナーのかばじゅんこさんがツイートで指摘する通り、我が子の体を動かしてやる健康状態を保つ行為が、人をマリオネットのようにしてしまう人魚というより人形にしてしまう、科学と倫理が背中合わせになっている部分です。
 
篠原涼子の演技はお見事でした。『SUNNY 強い気持ち・強い愛』の好演もあいまって、今後主役級の映画での配役が増えるんじゃないでしょうか。子供演出も良かったです。人間関係の緊張が一気に高まるクライマックスも、倫理的なピークとぴたり重なるし、問題提起としてとてもいい効果をもたらしていたと思います。それだけに、エンディングの物語としてのきれいな着地はかなり拙速です。どういう決断をどんな心の整理の末に下したのかってことを、僕はもっと突き詰めるべきだったと考えています。でないと、これじゃきれいごとに逃げたという批判は免れないです。
 
あなたも持っているだろう免許証やマイナンバーカードには、臓器提供意思表示の欄があるのをご存知でしょうか。あなた自身やあなたの身の回りの人が不慮の事態に陥った場合にどうするのか。しんどいけれど考えておかねばならない問題です。僕は僕の考えのもと、意思を表示していますが、スルーしてしまっている人は、まずはこの映画を観て考えてみてください。いただけない部分もあると指摘しましたが、考える入口となるエンターテイメントとして、どう判断するにせよ、観ておくべき一本です。

関連作として、イタリア映画界の巨匠マルコ・ベロッキオの『眠れる美女』を挙げておきます。こちらはさらに多面的に、宗教、政治、そして個人の想いを丁寧に描いていて、日本でもDVDやネットレンタルが気軽にできる作品として、鑑賞を強く勧めます。

眠れる美女(字幕版)


さ〜て、次回、11月29日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』です。またシリーズ物がカムバック。前作も評しましたが、今回はどんなあんばいなのか。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

映画『ボヘミアン・ラプソディ』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年11月8日放送分
映画『ボヘミアン・ラプソディ』短評のDJ's カット版です。

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73年にデビューし、今もなお多くの人を魅了するイギリスのロックバンド、クイーン。不世出のボーカリストフレディ・マーキュリーがどのようにしてメンバーと出会い、バンドが結成されたのかという逸話。名曲誕生の秘話。バンドの成長と崩壊の危機。血の繋がった家族、友人、恋人たちとの関係といった私生活。伝説的に語り継がれる1985年のチャリティーコンサート「ライヴエイド」でのパフォーマンス。HIVウィルスへの罹患、AIDS発症。フレディ・マーキュリーの波乱に満ちた人生のうち、ロックと関わる20代以降の半生を描いた伝記映画です。

ユージュアル・サスペクツ (字幕版)

映画の製作そのものも、かなりの紆余曲折を経ていまして、企画が発表されたのは2010年ですから、公開までに8年もかかりました。当初フレディを演じる予定だったサシャ・バロン・コーエンが、映画のテーマ設定を巡って製作側と意見が合わずにこのプロジェクトを去るなどし、結局撮影が始まったのは、昨年の9月でした。監督は『ユージュアル・サスペクツ』や「X-メン」シリーズのブライアン・シンガーで撮影の大部分を行いましたが、キャストやスタッフと色々揉めたようで、途中降板。デクスター・フレッチャーがその穴を埋めました。フレディ・マーキュリーを最終的に担当した俳優は、エジプト系アメリカ人で『ナイト ミュージアム』などのラミ・マレック
 
音楽面ではブライアン・メイロジャー・テイラーがプロデュースに関わっていて、クイーンの28曲がバンドの歴史に寄り添っています。
 
それでは、特にクイーンに詳しくはなく、曲は好きなものも多いけれどファンとはとても言い出せない僕野村雅夫がどう観たのか。制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

先に僕のスタンスを表明しておくと、音楽を題材にした伝記ベースのフィクションとして、相当高いレベルの作品だと思っています。
 
まず、音楽映画として、よくできてますよね。20世紀フォックスのファンファーレをブライアン・メイロジャー・テイラーがクイーンそのものとしか言いようがないサウンドで奏でるオープニングから心くすぐられるし、134分の上映時間中に30近いクイーンの曲をバンドの歴史にうまく寄り添う形で、時にストレートに、そして時にシンボリックに配置して、たっぷりと大音響で音楽そのものを楽しめる喜びがあります。
 
そして、伝記映画としても、よくできてます。誰もが知っているようなメインのエピソードと、ライトな客層にとっては新鮮な逸話の配分・バランスをうまく取っています。さっきも言ったように、僕はクイーンのことをさほど知らなかったので、より製作側の思惑通りに感動しました。ここで持ち上がってくるのが、コアなファン達からの批判でして、あの人物が出てこないとか、あの出来事が無視されているとか、時系列を映画に都合良く並べ替えているとかいった指摘がその代表です。

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気持ちはわからなくもないんです。これまでドキュメンタリーも作られているし、パートナーのひとりだったジム・ハットンによる手記や関連本もあるので、詳しくなればなるほど、これでは不完全だと思うことだと思います。ただ、2時間強の映画としてまとめるには一定の取捨選択が必要ですよね。省かれるエピソードが出てくるのはやむを得ない。史実に忠実にするあまり、観客の感動を損なうようでは本末転倒でしょう。
 
これは他のメンバーも関わるプロジェクトなので、フレディーを軸にバンドの歴史をまとめることに主軸があるわけで、彼らのキャリアの到達点とも言えるライブエイドにクライマックスを持ってくるのは必然だし、そこでそれまでのエピソードを回収するという王道の構成にしたのは英断でした。そのうえで、ある種のフラッシュバックとして彼らのヒット曲を機能させました。歌詞がフレディやバンドの道のりとリンクする、というより、観客の頭の中でリンクさせるように演出している脚本の手腕は輝いていました。

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さらに言えば、エピソードをチョイスする段階での恣意性(身も蓋もなく表現すればご都合)も介在してきます。これは当然のことです。フレディはとても多面的な人物だったので、全方位ではなく、そのどこかにスポットを当てなければならない。おそらくはそのスポットの当て方で、たとえばサシャ・バロン・コーエンは納得がいかなかったのでしょう。わりと幅広い層の観客を想定してあるので、HIVに罹患する経緯であったり、ドラッグの描写などは、示唆する程度にとどめてオブラートに包み、誰でも見やすいように配慮してあります。マネージメントやレコード会社の人間で明らかに悪役として一面的に描かれている人物も出てきます。ただ、それもフィクションなら当然のことですよね。
 
フレディの女性のパートナーであるメアリーをヒロインのように描くことに対する批判もあります。異性愛的な、マジョリティーの価値観で物語をくるむことで、フレディの人生や表現への理解を妨げているという指摘。僕はこれも的外れではないと思うけれど、その批判もまた一面的です。この映画を観て、それこそ異性愛者がLGBTへの差別感情を強めるとは思えないんです。むしろ、その理解を深める一助になっているはずです。
 
フレディが型にハマらない男だったと映画的にわからせる演出も、ちゃんとあちこちに張り巡らせてあります。僕が気づいたのは、フレディのピアノ。白鍵と黒鍵が逆で、黒ベースに白がある。サングラスに映り込む逆像も多用されていました。
 
これは関西の映画宣伝ならびにライターをしている田辺ユウキさんがFacebookで書いていたことを拝借しますが、歯が出ていること、愛の対象、彼が股下から観客及び世界を逆さまに観ることなど、色んな「逆」を見せている。

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それから、猫がピアノの上を歩くところは、フレディの愛するものが文字通り不協和音を奏でるのも、その後の展開を映画的にうまくリードしてました。
 
役者たちの物真似を遥かに超えるなりきりぶりには、圧倒されるし、登場人物たちの視線や何気ない仕草だけで、その時の人間関係をそっくり僕らに伝えてしまう演出も確かでした。特にブライアン・メイの視線や顔の傾け方とか、もう笑っちゃうレベルで似てるし、顔が物語ってましたね。僕はだんだん彼に感情移入して、終わる頃にはノムライアン・メイと化して涙していました。

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結局、この映画は、フレディ、そしてクイーンとその周辺の人物がいかに時々の思惑やしがらみや常識を超えて、広い意味でのファミリーとなったかということと、彼らの音楽が、なぜ彼らにしか鳴らしえないものだったのかを余すことなく描き、クイーンの評価を今新たに高める作品として、見事な出来栄えだということを僕は断言します。

放送では、サウンドトラックから『Radio Ga Ga』ライブエイド・バージョンをオンエアしました。名曲「ボヘミアン・ラプソディ」の誕生秘話として、6分という長尺はラジオにそぐわないからダメだとレコード会社にリリースを反対される場面があります。そこでフレディは、親しいラジオDJのところに曲を持って行って、オンエアの直談判をしてかけてもらうところがあるんです。

 

そんでもって、ライブエイドみたいな全世界に映像を中継するようなライブでも、この『Radio Ga Ga』をセットリストに入れていたことに、ラジオに携わる僕としてはかなりグッときたのです。

さ〜て、次回、11月22日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『人魚の眠る家』です。人の命とか、倫理観に触れる物語なんだろうなということくらいの、かなりうすぼんやりした知識ですが、とりあえず行ってきます。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

映画『ヴェノム/VENOM』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年11月8日放送分
映画『ヴェノム/VENOM』短評のDJ's カット版です。

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医療や宇宙開発など、最先端の科学研究で知られるライフ財団が、その裏で人体実験を行っているという噂を聞きつけたジャーナリスト、エディ・ブロック。真相を暴くべく、代表に突っ込んだ質問をしたところ、彼は業界を干され、財団の訴訟に関わっていた弁護士のガールフレンドに振られ、社会的に転落してしまいます。自暴自棄になっていたエディのもとに、ある日届いたのは、ライフ財団研究員からの内部告発。施設に忍び込んで人体実験の証拠を押さえるうち、彼は財団が宇宙から持ち帰ったシンビオートと呼ばれるドロドロした生命体と接触。そのまま寄生されて特殊能力が身につくと共に、その声が幻聴のように聞こえるようになります。
 
スパイダーマン映画化の権利を持つソニー・ピクチャーズが、マーベルのキャラクターを使って新たに構想するユニバースの1作目と位置づけられています。要するに、このヴェノムもそうですけど、スパイダーマンにまつわるキャラクターを、スピンオフというよりは、それぞれ単体で勝負するシリーズにしていきつつ、スパイダーマン本体とも、それこそ蜘蛛の巣のように複合的に繋げていこうということだと思います。

スパイダーマン3 (字幕版) ゾンビランド (字幕版)

 サム・ライミが2007年に手がけていた『スパイダーマン3』に敵として登場したヴェノムではありますが、はっきり言って、事前の知識は特に要りません。これが新しいユニバースの1本目なんで、構える必要なし。主役のエディを『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のトム・ハーディが、ガールフレンドをミシェル・ウィリアムズ、そしてライフ財団のトップであるドレイクを『ナイトクローラー』や『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』のリズ・アーメッドが演じています。そして、監督は『ゾンビランド』や『L.A. ギャング ストーリー』のルーベン・フライシャーです。

 
それでは、相も変わらずアメコミに対していつもわりとフラットかつクールめな僕野村雅夫がどう観たのか。制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

マーベル史上最も残虐とか謳われてたし、ポスターのビジュアルもしっかり気持ち悪いし、ヘタレな僕は『クワイエット・プレイス』の時みたいに、また両手で顔を覆うことになると思って覚悟して出向いたんですけど、あれはキャッチコピーのミスリードですね。思ったよりはグロくない。もちろん、ネバネバした形の定まらないやつが人間の身体に寄生するっていう気持ち悪さはあるけど、PG12指定なんで、『デッドプール2』よりもマイルドということになりますね。血しぶきなんて、まったく出ないですから。ただ、それを良しとするかどうかは、好みの分かれるところでしょう。描写に腰が引けているという見方もできるでしょうが、僕としては、むしろこれは『スパイダーマン』の世界観としては、ありだと思ってます。

スパイダーマン:ホームカミング (字幕版)

ほら、スパイダーマンはこの間のホームカミングもそうでしたけど、とにかくゴチャゴチャとくっちゃべってるじゃないですか。その軽口が、ユーモア、ウィットに溢れていて面白いっていう。ほら、ホームカミングだったら、ハイテクスーツに人工知能的なものが内蔵されていて、それまではスパイダーマンひとりの小言だったものが、途中から対話になる面白さがありましたけど、今回はエディとヴェノムの漫才みたいな掛け合いがひとつの大きな魅力になっていきます。はっきり、バディーものなんですよね。
 
ジャーナリストとして、テレビカメラの前では舌鋒鋭いエディが、実は普段はそこそこ腰の引けた男であるというギャップがまずあって、そこにヴェノムとドッキングして特殊能力を身につけることで、以前なら見て見ぬ振りをしていたような身の回りの悪事にも解決に乗り出す。あのガタイのいい男が、意外と腰抜けで、その実人格者でヒューマニスト。そういうエディの魅力を、すったもんだを繰り返しながらヴェノムが引っ張り出すのが面白いです。
 
たとえば、ある目的で高層ビルに潜り込む必要が生じた時に、ヴェノムがその能力を発揮して一気に壁をよじ登るんだけど、エディからしたら、そういうのは怖いからやめてほしい。だから、帰りは窓を突き破って空中へダイヴしようとするヴェノムを抑え込んで、普通にエレベーターで降りるとか爆笑でした。
 
アクションも基本的に楽しかったです。舞台となる坂の街サンフランシスコの特徴を要所でうまく画面に活かしていました。バイクチェイスのシーンもそうだし、ただエディが歩いてるだけでも、坂道の線が画面を斜めに横切ることで何となく不安に感じさせるとか、さりげないところにも工夫がありました。

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ただ、脚本ははっきり言って、かなり力づくです。決定的なところとして、シンビオートというエイリアンが結局何なのか、そしてヴェノムの考えていることとその変化がよくわからないんです。たとえば、お腹空いたっていうんだけど、特に手当たり次第って感じもないし… 寄生する先、宿主との相性があるっていうんだけど、その説明も曖昧。そして、途中からえらくものわかりがいいんですよね、ヴェノムは。なんでそうなったの? 
 
どうやらシンビオートにも社会があって、そこには世渡り上手もいれば、負け犬もいるっていうんだけど、それならそれで、少なくとも中盤くらいのところで、シンビオートの中のエリートであるライオットがどんな奴かってことをヴェノムに語らせるなりなんなりしておかないと、クライマックス直前になって急にそんな話しされても、ついていけないですよ。そのクライマックスも、いきなりものすごいハンドルの切り方をするので、振り落とされそうになります。だって、いきなり地球レベルの危険が湧いてきて、それを阻止するためのタイムリミット5分て! 短か! バイクとドローンのチェイスシーンの方がよっぽど長いやん!
 
あと、ガールフレンドがいけ好かないので、エディは振られてもI Miss Youってなってるけど、僕からすれば、あんな強欲弁護士は放っておけと言いたい。
 
本編は90分ちょいしかなくて、そのコンパクトさは僕は好きでしたけど、せっかくの面白いキャラクターと設定を活かすための脚本が練りきれていないかなと僕は思ってます。次作でその設定や物語展開の面白さを提示できないと、興味が先に立って集中力が持続した今回のようにうまくはいかないぞと釘は差しておきます。とはいえ、なんだかんだで笑って観てたので普通に次も観たいんですけどね。

リスナーからの感想が一際多かった今週。詳しくはTwitterで #まちゃお802 で検索をかけてみて覗いてみてほしいんですが、うちのディレクターの一言がうまかったです。

バディーものっていうか、「二人羽織り映画」! 確かに!


さ〜て、次回、11月15日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『ボヘミアン・ラプソディ』です。曲が32も使われて、フレディの波乱万丈の人生に「心臓に鳥肌が立つ」らしいです。どんだけ~! あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

 

『search/サーチ』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年11月1日放送分
映画『search/サーチ』短評のDJ's カット版です。

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アメリカ、カリフォルニア州シリコンバレーの中心地サンノゼ。友達の家で泊りがけのテスト勉強をしていた16歳の女子高校生マーゴットが忽然と姿を消します。父デビッドは当初思春期の気まぐれぐらいに思っていたものの、翌日学校に行っていないことを知って慌てます。警察に通報して捜査が始まるものの、彼も独自に調査をスタート。娘のパソコンを閲覧してSNSにログインしてみると、父の知らなかった娘の交友関係や悩みが浮き彫りに。膨大な情報の中から真実を掴み、父は娘を救い出せるのか。
 
全編パソコンの画面を通して語られることで話題を集めているこの作品。監督のアニーシュ・チャガンティーは現在まだ27歳のインド系アメリカ人。これが劇場長編デビュー作。映画制作を学んでいた南カリフォルニア大学で当時指導助手をしていた脚本家のセヴ・オハニアンと共同で脚本を執筆したこの作品は、インディペンデント映画の祭典にして新人の登竜門であるサンダンス映画祭で観客賞など複数の賞を獲得。主役はアジア系で、スター俳優のいない映画ながら、当初9館だけだった公開規模はあれよあれよと全米1100館へと拡大して、堂々のヒットを飛ばしました。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、そろそろいってみよう!

トム・ハンクスメグ・ライアンが共演した98年のヒット『ユー・ガット・メール』がひとつのターニング・ポイントだったと思いますが、登場人物の考えていることをテキスト情報として観客に見せるという手法は、古くから手紙を小道具とすることで存在していました。『ユー・ガット・メール』も、実は文通で恋を育む1940年の映画『桃色の店』(エルンスト・ルビッチ)のリメイクでしたからね。手紙やメモがPCメール、携帯メール、チャット、ラインへと様変わりし、今ではスカイプやフェイスタイムなど、ビデオ電話もあって、映画でもそうした通信技術を物語に取り込んできました。文字情報が画面に出てくることは実際に多いですよね。安直なものも多いですけど、それはともかくとして、今挙げたものは、基本的に一対一のコミュニケーションなのに対して、TwitterFacebookInstagramなどSNSの特徴は、そのメッセージが特定の誰かに向けたものではないということでしょう。公開された日記のようなもので、そこには書き手の声にはならない気持ちが表現されていることもしばしば。もちろん、そこには本音を装った嘘も混じります。ベクトルがはっきりしていた手紙から考えれば、どれだけ複雑で混沌としていることか。さらには、スマホが登場したことで、人物の位置情報が残り、街中に点在するカメラが市民の動きを記録する。この映画は、こうした現代に飛び交う膨大なデータログ、つまりデジタルな記録・履歴とリアルタイムの交信だけで映画を成立させようという実験的な野心作です。

ユー・ガット・メール (字幕版) 街角 桃色の店 [DVD]

それと同時に、ミステリーとしてよく練られていて優れています。マーゴットはなぜいなくなったのか。誰かにさらわれたのか。手をかけられたのか。あるいは自分の意志なのか。そこには誰かの関与があるのか。失踪からの時間が長くなればなるほど、場合によっては生存も危うくなるわけで、ハラハラドキドキ。父の焦りも手に取るように伝わるし、予想が空振りに終わった時の悔しさと安堵感が入り混じった気持ちの複雑さ。真相はなかなか先が読めないし、伏線がしっかり後で回収される快感もある。執筆にあたって多くのクライム・サスペンスを参照して分析したというだけあって、筋立てはよくあるっちゃよくあるものだけど、よくできてます。
 
こういう疑念の声が聞こえてきます。「全編PCモニターってのは、話題作りであって、その必要性って本当にあるの?」。僕はこう答えます。「確かに普通に撮っていたら、普通のミステリーになっていただろうけれど、これはPCモニターを通したからこそ何倍も面白くなり、映画の伝えたいメッセージもよりクリアになっているんだ」と。

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ミステリーで大事なのは、観客に与える情報の量とタイミング、その物語の手綱を作り手がしっかりコントロールすること。たとえば、いかにも怪しそうな人を先に見せておいて、その人こそ犯人だと観客を間違った方向に誘導するミスリードも、このパソコン・モニター限定画面構成だとやりやすいんです。何しろ、僕らの視線はほとんどそのまま父デヴィットのものと一致するので、視野が狭い。なにしろモニターしか映らないので、画面の外、つまり現実に起きていることのほとんどは僕らは想像するしかない。その想像を監督は巧妙にミスリードする。
 
これはタイトルにも関わりますが、父が娘をサーチするために、彼女のライフログをパソコンでサーチすることで、結果として、ある理由から隠されていた彼女の悩みの本質が浮かび上がるようにもなっている。いくら技術が進んでも容易くはないコミュニケーションの難しさと喜び、そして家族愛がこのミステリーのテーマになっているんだけど、それはこの語りの手法とプロセスだからこそ、より説得力を持つんです。そのうえで、親が子を想うことのやるせなさとすばらしさを同時に味わえるラストなんて、もう最高でしょ。
 
画面は退屈するんじゃないのか。なんなら、それこそNetflixかなんかで、PCモニターで観るのがいいんじゃないかというのは間違いですね。この映画、撮影はたった13日で終わってるんだけど、編集と画面構成には何ヶ月もかけている。スクリーンの中にマルチ画面で出てくるすべての文字情報と画像が、実はかなり高度にデザイン化されていて、退屈とは程遠いどころか、驚くことにそのバランスが美しくもあるという。
 
また、この手のものは技術が日進月歩で進んでいくので、同時代にリアルタイムで観るべきでもあります。その意味で、面白さは僕が保証するので、これはもう迷わず映画館へお出かけください。

劇中には、Justin BieberとTwenty One Pilotsの名前が会話の中に出てきました。彼らがどれほど向こうのティーンネイジャーの心を撃ち抜いているかを教えてくれましたが、ここは父デヴィッドが独自捜査の途中で何度も娘に対して思っただろう「What Do You Mean?」という気持ちを汲んで(笑)、この曲をオンエアしました。
 
番組に届いた感想の数々で触れているリスナーもいたんですが、オープニングがそれだけで涙モノでしたね。この映画自体のチュートリアルであり、そこで家族の歴史をうまく提示し、あの一連のシーンがパソコンやネットの進化の振り返りにもなっていて圧巻。無駄なセリフもなく、あそこでしっかりテンポも作ってしまう見事な導入でした。
 
あと、これは文字演出としてベタっちゃベタですが、伝えようとしてやめておくといった、ためらい表現にはラインやショートメッセージは向いてるんですよね。そこにもしっかり伏線を用意してあるし、最後の一言ならぬ、ためらったけど最後に結局送信する言葉にもしっかりグッときてしまった僕です。


さ〜て、次回、11月8日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『ヴェノム』です。怖いよ〜。寄生する地球外生命体なんて、絶対にヤダ! 怖いもの見たさで観てきます。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

映画『2001年宇宙の旅』へのささやかなガイド

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年10月25日放送分
映画『2001年宇宙の旅』短評、というか、ささやかな鑑賞ガイドのDJ's カット版です。

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今回は番組のオープニングでも、実は作品についてというか、途中で入るインターミッションにまつわるエピソードに触れたので、そちらも掲載しておきます。

 

今日の映画短評課題作『2001年宇宙の旅』。初めて観たのはいつだったっけか。小学校か中学校か、その頃に親が借りてきたビデオでだったと思います。とにかく、それまで少ないながら観ていたどの映画とも違うし、とにかく途中から怖くて仕方ないし、最後にはもう何がなんだかで衝撃を受けました。
 
大学生になってからは、中古のビデオ屋レーザーディスク2枚組を買ってきて、ジャケットがかっこいいから部屋に飾ったりしながら、当時まだ持っていたプレーヤーで何度か鑑賞。ただ、LDなんで、どうしても容量が少ないから、途中でよっこいせと裏返さないといけないし、さらに「2001年」は尺が長いから途中でディスクの入れ替えすらあるという。せっかくの映画がぶつ切れでした。
 
がしかし、今回の109シネマズ大阪エキスポシティ、僕呼んで大仏IMAXで鑑賞してみて、この映画にはそもそもインターミッション、つまりは休憩が入っているということに気付かされました。あの末恐ろしすぎる場面の後、不意にINTERMISSIONと画面が切り替わり、客席の電気が灯るではありませんか。
 
測ってなかったけど、10分くらいかな。「こんなの初めて〜」と戸惑う人もいるでしょうね、あれは。ただ、古い映画では実はわりと当たり前の話で、国にもよるのですが、僕のよく知るイタリアだと、90年代まで普通にありました。劇場でも、現在前半上映中みたいなランプが点灯していたり。
 
休憩中はみんなお手洗いに行ったり、劇場の売店でお酒を買って飲みながら、途中までの感想を喋ったり。あれはあれで、なかなか趣があります。僕がローマの映画館で体験した最大の衝撃は、途中休憩中に、「これ、良かったら」みたいなノリで映画館の人にみかんをもらったことですね。
 
アナログレコードなら、A面とB面で一度休憩が入るみたいな、あの不便だけど豊かな時間。2018年の僕らはもう失ってるよなって気づきましたね。

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400万年前の類人猿からヒトへの進化。人類の宇宙探索。我々の科学を超越する存在たる謎の石版モノリスに導かれるようにして、HAL9000というAIが制御する宇宙船は、ボーマン船長、プール飛行士、そして3名の冬眠する飛行士を乗せて、木星へと旅立つ。順風満帆に見えたその旅に、HAL9000のトラブルによって惨事が起きる。
 
1968年にアメリカで初公開された今作。その4年前、早熟の天才キューブリックが36歳の時、「語り草になるような、いいSF映画を作る可能性」について語り合いたいとコンタクトを取ったのが、一世代上で47歳だったSF作家の巨匠アーサー・C・クラーク。ふたりは徹底的に議論を重ね、NASAIBMなど40に及ぶ研究機関や企業への徹底的なリサーチを重ね、CGが無かった当時の映画界が持てるあらゆる技術を駆使し、撮影期間だけで2年を要しました。その結果、舞台となった2001年よりも未来に生きる僕たちでさえ未だに語り草にしているわけです。上映時間140分程で、人類の夜明けから未来までを、陶酔させる映像美と研ぎ澄まされた音使いでシンボリックに描き出す、これぞ唯一無二なスタンリー・キューブリックの代表作。この作品に言及しない映画史なんてないですからね。公開から半世紀を経て、SF映画の金字塔が、IMAXの巨大スクリーンに映し出されています。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、というか、今週ばかりは名作の入口をほのかに照らすガイドといったところかな。とにかく、そろそろ出発です!

ものすごく大雑把に言えば、SFの最大の命題は、「我々人間はどこから来て、どこへ向かうのか」というものだと思います。「2001年宇宙の旅」は、「人間とは何か」という問いに正面から取り組んでいることが、今も傑作と言われる所以です。
 
原題は『2001:a space odyssey』。古代ギリシャの詩人ホメーロス叙事詩オデュッセイア』から借用されました。トロイア戦争から凱旋するオデュッセウスが、地中海の船旅の途中、魔物たちと戦い、幾多の困難で乗組員と船を失い、それでも帰国を果たす冒険譚です。
 
この映画はそれぞれ登場人物の異なる3つのパートに別れています。で、『オデュッセイア』になぞらえられたのは、最後の部分ですね。前半の2パートは、導入として機能していて、人間が知恵・技術と引き換えに背負い込んでしまった「業」という負のイメージを、ほぼセリフ無しで僕らに伝えます。
 
象徴的なのは、猿たちが動物の骨を拾い、それが武器になると気づき、実際に暴力を行使。宙に放り投げたその白い骨から、パッと白い宇宙船へと繋がるあの2カット。この編集、つなぎは、被写体のアクションや形が似ているもの同士を結びつけていくマッチカットという手法で、その究極のお手本として、よく教科書に載ってます。ふたつ、類似点があるんです。色形だけでなく、骨も宇宙船も武器であること。宇宙開発はそもそも軍事目的が発端だとよく言われますよね。
 
そんな導入を経て、映画は核心である3部へ。オデュッセイアに登場する怪物が、ここではAIに取って代わります。今でこそAIをモチーフにした映画は盛んに作られていますが、2001年はその先駆けであり、今もその深いテーマ性から最先端でもある。人がAIを生み出すというのは何を意味するのか。今も議論は続いているわけですからね。ただ、誤解しないで。ただただ哲学的な映画ではまったくない。

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第三部は特に、優れたサスペンス、あるいはスリラーとしても機能しています。あの休憩前後の緊張感ときたら。血なんか一切流れないのに、超怖い。僕なんか、一昨日久々に観てから、HAL9000の外見と似通った、よく建物の壁面に埋め込まれてる非常警報設備の赤いランプが怖くて仕方ないですからね。
 
先ほど、3幕それぞれ登場人物が違うと言いましたが、ひとつ共通して出てくるものがある。映画史上でも最大の謎と言える、あの黒い石版モノリスです。これが鍵です。ただ、簡単には開けられない。モノリスは、解釈を生みだす道標でもあるし、解釈を吸い込むブラックホールでもあるんです。その色んな解釈についてはここでは割愛しますけどね。
 
この映画の後、宇宙舞台だったり『猿の惑星』のような文明批評ものが盛んに作られます。『スター・トレック』『スター・ウォーズ』『エイリアン』、果ては『インターステラー』『メッセージ』など。映画史にその名を刻んだ作品で、「2001年」の影響を受けていないものはありません。それは、テーマだけではなく、演出や技術的にも言えます。宇宙空間の見せ方、キューブリック印とも言えるシンメトリーな構図とそれが崩れる効果。宇宙服のヘルメットへの映り込みまですべて計算する徹底した映像の仕掛け。クラシック音楽の絶妙な使い方と、沈黙の音とも言うべき無音使いや、それを際立たせる呼吸の音。後半のトリップ体験と言える実験映画的な色彩と音の洪水。一度観たら忘れられません。
 
確かに難解と言われる作品ですが、すぐに答えを求めなくていい。自分の解釈ができなくてもいい。だって、キューブリックはあえて、用意したナレーションやオリジナルのサントラをすべて捨てたんです。彼がしたかったのは、問いかけであって、説明じゃない。物語をなぞるのではなく、体験をしてほしかったんです。キューブリックからの時空を越えた挑戦、あなたも受けて立ってください。そうだ、宇宙行こう!

短評の後に何をオンエアするか迷いましたが、歌詞の一部がもろに『2001年宇宙の旅』なこの曲を選びました。懐かしいですねぇ。1990年!

 

関連書籍として、アーサー・C・クラークの小説版もあるにはあるのですが、そこに答えを求めるのではなく、やはり映画は映画として、あえて説明を省いた意味を踏まえながら自分で解釈を膨らませたり、それを友達と共有するのがよろしいかと。

決定版 2001年宇宙の旅 (ハヤカワ文庫SF) 映画の見方がわかる本―『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで (映画秘宝COLLECTION)

映画の解説も色々あるとは思うんですが、立花隆のと町山智浩の文章は一読に値すると思います。ただ、それもあくまで参考程度に。それほどに、多義的な作品なので。

さ〜て、次回、11月1日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『search/サーチ』です。噂によれば、パソコンのモニターだけで映画が成立するという実験作だとか。面白そうだ。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

映画『音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年10月18日放送分

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4オクターブの音域と驚異的な声量を誇るロックシンガーのシン。スター街道まっしぐらの彼でしたが、その声は実は声帯ドーピングという喉に負担のかかり過ぎる方法で作られたものでした。長年にわたるドーピングの無理がたたってボロボロになっていたシンの喉は限界間近。そんな時、彼は歌声が小さすぎて何を歌っているのかろくに聞き取れないストリートミュージシャンのふうかと出会い、彼女の姿に自分を重ねるようになっていきます。ふたりの声はどうなるのか。そして、ミュージシャンとしてのふたりの行方は?
 
監督・脚本は三木聡。このコーナーで彼の作品を扱うのは初めてなので、軽くどんな仕事をしてきた方か触れておくと… もともとは放送作家として、タモリ倶楽部ダウンタウンのごっつええ感じトリビアの泉など大ヒット番組に関わりながら、シティボーイズの舞台演出を手がけました。その後、ドラマ演出にも活躍の場を展開します。2006年の「時効警察」が代表作。映画は2005年の『イン・ザ・プール』が長編デビュー作。他にも『転々』や『インスタント沼』など、笑いの小ネタを無尽蔵に挟み込む独特な作風で知られています。

イン・ザ・プール 転々

前提として言っておくと、僕は三木聡作品で好きなものも結構あります。とりわけ、一見何の変哲もない人物が、あくまで日常的な風景の中で生きているのに、いつの間にか得体の知れない体験をしてしまったり、その人の深層心理が表面化してシュールな展開を見せていくタイプのものが、僕は観ていて痛快に感じます。彼の演出の基礎となる笑いと物語の大小の歯車が噛み合った時の突き抜けっぷりは素晴らしいと思います。
 
シンとふうかを、阿部サダヲ吉岡里帆が担当。千葉雄大小峠英二、さらにはふせえり松尾スズキ麻生久美子岩松了など、三木聡作品常連のキャストも揃いました。音楽映画ということで、HYDEいしわたり淳治あいみょん、KenKen、never young beach橋本絵莉子と、802ゆかりのミュージシャンたちも、サントラへの曲提供や演奏、あるいは出演をしていて、それも話題になっています。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

タイトルからもわかるように、最大のモチーフは声です。ふうかはなぜ声が小さいのか。生まれつきのことではなくて、簡単に言えば、自分に自信が持てないでいるから、どうしても周囲の目ばかりを気にして、その結果として堂々と歌えない。その姿を見て、しんとしては、そんなんなら、音楽なんてやめちまえ、と。ふうかの自信のなさは行動にも現れています。たとえば、このギターはまだ弾きなれてないから、今回のオーディションはやめとく、とかね。そこで、「やらない理由を探すな」という、最大のメッセージが登場します。本当にやりたいんだったら、一度とことんやってみないと始まらない。力は試せない。その通りだと僕も思います。だけど、そのメッセージを声の大小だけに集約させているのが、僕は最大の問題だとも思ってます。
 
これは僕が予告で感じていた疑問なんですけど、声が小さいとダメなのかと。確かにストリートで弾き語るなら、せめてストロークするギターに負けないくらいの声を出せよタコっていうツッコミが成立するのはわかりますよ。あとは、シンがやってるようなラウドロックも、そりゃ声がデカくないとダメだろうし、デスボイスのひとつもできないと話にならない。でもさ、ふうかのやってる音楽って、そういうんじゃないでしょ? 音楽ジャンルは何もロックばかりじゃないんだし、ステージに立つならマイクがあるわけで、ある程度の声量はあるに越したことはないけど、より問われるのは表現力と説得力でしょう。こうした疑問は解消されるどころか、気づけば精神論にすり替えられるんです。ロックだロックじゃないってなぼんやりした話になっちゃう。どうも、話として、声のシンボルが機能しきってないから、乗り切れないんだと僕は分析してます。

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僕が三木作品で評価している笑いと物語の歯車が噛み合う場面は、あるにはありました。店構えも店主も料理も怪しすぎる「喜びそば」のくだりなんかは最たる例です。この店はやめておこうというふうかに対して、ふせえり演じる魔女みたいなおばさんは、食ってみようぜと誘う。その結果、めちゃうま! 食べログの評価ばかりをあてにして、自分の味覚が置いてきぼりになりがちな風潮へのツッコミになってるし、それがまたふうかの何かと弱腰なスタンスとも合致してるから、笑いに意味があります。ただ、その他はもうどれもこれもテンションで押し切る笑いばかりで、やりたいだけになっちゃっていたのは残念でした。急に入るギャグ、ショートコント風の過剰な芝居が、物語から完全に浮遊してる。ハイテンションでの罵詈雑言、キレ芸みたいなのも、あまり使いすぎるとしんどくなるじゃないですか。映像の流れも同様で、やたらカメラがガチャガチャして、せっかくの「喜びそば」の場面だって、導入で無意味にカメラをひっくり返したりするもんだから、ただでさえ筋が弱い物語なのに、余計に集中できなくなります。
 
あと、一連の韓国のシーン、あれは本当に必要なんですか? 妙なステレオタイプを補強するだけに思えて、笑えないし快くもないし、まったくもって誰得でした。
 
やたら部品の数が多い車に乗って、豪華には見えるんだけど、エンジンをかけたら、途中でガソリンタンクもアクセルペダルも吹っ飛んで失速。慣性の法則で最後まで走りきりはしたものの、ドライブの爽快さからはほど遠いみたいな、そんな印象を受けてしまいました。


さ〜て、次回、10月25日(月)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、なんと『2001年宇宙の旅』です。マジか… どの映画史の本も触れるようなスタンリー・キューブリックの超のつく名作に何を言えばいいんだ、僕は… 製作から50周年。IMAXで観られる貴重な機会をとにかく楽しむ、というか、浴びるようにして体験することにしましょう。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!