まずはタイトルの『アド・アストラ』ですが、冒頭にテロップで示されるように、英語にすればTo The Stars「星々のかなたへ」という意味のラテン語です。あえてラテン語にすることによって、重厚な雰囲気、神話的なムードを醸しているんだと思いますが、それもそのはずで、これは『インターステラー』や、まして『スター・ウォーズ』とはまるで違う、宇宙を舞台にした内省的な旅の物語です。一応ジャンル上はSFにはなるものの、わくわくする輝かしい未来を見せるフィクションというよりは、現状の宇宙開発の延長にあるファクト=事実に基づいているし、テーマとしてはサイエンス=科学というよりは、精神の話なんです。だから、広大な宇宙空間やそこにポツンと小さく浮かぶ人間なんかの絵面は、むしろ僕らの脳内に広がる内なる世界の比喩のようにすら見えてきます。
そんな作家性が凝縮された1本と言えるのが、今作です。50年代から60年代いっぱいまでのハリウッドの映画業界、そして街の変化。そこに蠢く、下り坂、上り坂、それぞれの俳優。そして、スタントマンに代表される、直接表には出ないけれど映画作りを支える裏方などなど。メジャーな映画会社の勢いに陰りが見え、インディー系の名作が映画史を塗り替え、ベトナム戦争は泥沼化し始めつつ、ヒッピームーブメントはその吸引力を失いかけている。そんな69年のハリウッドそのものを、タランティーノはフィルムに焼き付けることに成功しています。当時の音楽をふんだんに使い、ファッションにも気を配り、ブルース・リー、ポランスキー、スティーブ・マックイーン、そしてシャロン・テートといった実在の人物と、モデルはいるけれどフィクションである人物をうまくミックスしながら、カメラワークや編集のタイミング、ナレーションのトーンまで含めた当時の映画技法をベースに、Once upon a time in Hollywood、つまり「昔々ハリウッドで」という寓話を作ってみせたわけです。だから、事実そのものではないが、大いにあり得たエピソードが連なっています。それを観ているだけで、まず無類に楽しいし、スタイリッシュだし、カッコいいんです。本人の言う集大成的な位置づけというのも大いにうなづけます。で、大事なのは、彼が立派な研究家であり、マニアなんだけど、観客を置いてかないってことです。別に知識がない人も、若い人も、自分の生まれていない時代の遠く離れた夢の街ハリウッドなのに、なぜか懐かしいと感じるような、不思議なデジャヴ満載なんですよ。
演出の決定的な違いは、こういうことです。『ロケットマン』は自分語りなんです。冒頭、アルコール依存症のグループセラピーの部屋へと悪魔モチーフの奇抜なステージ衣装に身を包んで入ってくる。というより、乗り込んでくる勢い。他の患者やセラピストと車座になって、落ち着きなく自分の人生を振り返っていく。つまりは、長い回想という構造を採用しているわけです。こうすることで、視点は主観となり、客観的な事実や、時系列からわりと自由になれるという利点があります。『ボヘミアン・ラプソディー』だと、史実と違うとか、順序や年号がおかしいといった声がファンから上がりましたが、『ロケットマン』の場合は最初から主観なんで、そんなことを意識して集中できなくなる人はいないんじゃないかな。これは英語のキャッチコピーですけど、based on true fantasyというフレーズが使われているんです。普通は、based on truthですよ。「史実に基づく物語」。ところが、これは「実在のファンタジーに基づく」ってこと。面白い表現ですよね。そして、これがまさにその通りというミュージカルになっています。
『ボヘミアン・ラプソディー』の場合、主演のラミ・マレックは撮影現場でこそ歌っていたものの、完成した作品ではフレディーの本物の声をはめ込んでいました。あれは音楽を全編に使った劇映画でしたから。一方で『ロケットマン』の場合は、ミュージカルです。だから、歌声も主演のタロンのものが使われています。考えてみたら、タロン・エジャトンはアニメ映画『SING/シング』であのゴリラを担当していて、その時もエルトンの『I’m Still Standing』を歌っていました。エルトンは彼の歌唱力を非常に高く評価していて、安心して自分の歌を預けました。まとめれば、これはいわゆるリアルを追求した伝記映画ではなく、エルトンの音楽を使ってファンタジックに人生を表現するミュージカルなんです。その分、映像的な仕掛けもたくさん。誰もが忘れられないのは、『Crocodile Rock』のライブシーンでエルトンもお客も宙にふわっと浮いてしまう演出。プールやスタジアムでも映画ならではの表現を駆使していました。考えたら、プロデューサーは『キングスマン』のマシュー・ヴォーンとエルトンのふたりなんだもの。普通にやるわけないんですよ。そこがこの映画の何より楽しいところ。
ただ、その楽しさは、コントラストとしてエルトンの強烈な孤独もより浮き彫りにします。両親に愛されなかったこと。異性愛者であるソングライティングのパートナー、バーニーへの切ない恋と友情。衣装がきらびやかになればなるほど、彼の心は反対に影が差していたことが、映画的説得力をもって十全に伝わってくる。ミュージカルというジャンルでないと表現できないやり方で、文字通り身体を使って歌でもってエモーショナルに描かれる。そんな波乱万丈の人生を送ってきた彼が、その後Sirとして認められ、社会貢献活動も行い、フレディーとは違って、今も生きているんです。音楽を作り、パートナーと養子の子育てをしている。He’s Still Standingなんです。『キングスマン:ゴールデン・サークル』での大立ち回りで爆笑をかっさらいもする。僕はそのことに深い感動を覚えました。
カンヌ国際映画祭の最高賞であるパルム・ドールに次ぐ審査員特別グランプリを『ゴモラ』(Gomorra/2008年)と『リアリティ』(Reality/2012年)で二度受賞しているマッテオ・ガッローネMatteo Garrone監督。『剥製師』(L’imbalsamatore/2002年)が2003年のイタリア映画祭で上映されたのを見たときから、チクチクといつまでも後に残るトゲのような不思議な後味のサスペンス映画を撮らせたらすごい才能を発揮する若手監督(当時30代なかばだったと思います)が出てきたなあと思っていたら、その後のカンヌでの揺るがぬ評価を経て、気がつけば2015年のグロくて美しい『五日物語−3つの王国と3人の女−』(Il racconto dei racconti)で世界的に活躍する大監督になっていた。
マッテオ以前、イタリア映画のガッローネといえば、(スペルはlとrが違うけど)サイレント歴史劇代表作のひとつ『ポンペイ最後の日』(Gli ultimi giorni di Pompei/1926年)や、50年代に八千草薫はじめ宝塚歌劇団をチネチッタに呼んで撮った『蝶々夫人』(1954年)の監督カルミネ・ガッローネと決まっていた(繰り返すが、こちらはGallone)。ところがいまや日本で一番知られているのは、現代イタリア映画の旗振り役とも言えるマッテオ・ガッローネであることは誰も否定しない。そんな押しも押される大監督の一人となったマッテオ・ガッローネ監督がまたまたとんでもない作品を届けてくれました。それが今日紹介する『ドッグマン』(Dogman/2018年)です。