京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『葬式の名人』短評

FM COCOLO CIAO 765 朝8時台半ばのCIAO CINEMA 10月8日放送分
映画『葬式の名人』短評です。

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28歳、シングルマザーの雪子は、安アパートで小学生の息子あきおとつましい二人暮らし。ある日、高校時代の同級生、吉田くんの訃報が彼女のもとに届きます。彼は、茨木高校野球部史上屈指のピッチャーでしたが、かつて右腕を壊し、高校卒業後は海外を放浪。久々に帰国して母校に立ち寄った矢先の死でした。吉田とバッテリーを組み、今は母校の教師となっている豊川など、卒業から10年ぶりに顔を合わせる同級生たちですが、混み合う葬儀場が塞がっているせいで、彼らはやむなく茨木高校へ友の遺体を運び、間に合せの通夜を行おうとするのですが…
 
茨木市の市制70周年記念事業として、市の全面協力で製作されたこの作品。雪子を前田敦子、豊川を高良健吾、そして亡き友の吉田を白洲迅しらすじん)が演じています。監督は樋口尚文電通のコピーライターだった方ですが、僕は優れた映画評論家として認識しています。評論もいろいろ読んできましたし。映画監督としては、これが2本目。

ロマンポルノと実録やくざ映画―禁じられた70年代日本映画 (平凡社新書) チャップリン 作品とその生涯 (中公文庫 お) 

で、キーマンは、プロデュースと脚本を担当した大野裕之。大野さんは、日本、いや、世界を代表するチャップリン研究者。僕はかつてイタリアのとある映画祭で彼がその功績を讃えられているところを客として見た経験があります。一方で、彼はとっても便利というミュージカル劇団を京都で長年主宰しているんですが、大野さんの出身が茨木高校。その大先輩が、文豪川端康成というわけ。
 
今作では、その川端康成のエッセイや小説をモチーフに物語が構築されています。
 
僕は大野さんから送っていただいたサンプルDVDで公開前に一度、そして日曜夜に梅田ブルク7でちゃんと自腹で観てまいりました。それでは、映画短評、いってみよう!

豪華キャストに惹かれて観に行った人は、わりと高い確率で面食らっている様子、番組に届いたCIAOリスナーの感想からもうかがうことができます。やれお話がツギハギで脚本がなってないだの、途中で出てくるファンタジックな演出に興を削がれただの。予算が少ないからか、自主映画の粋を出ていないなんて声もあります。なるほど。確かにウェルメイドな大作をメインに観ている人は、慣れない展開に驚いたことでしょう。でも、僕はそんな演出や物語展開を浮世離れしたものと表現したい。
 
そもそも、設定そのものが、浮世離れしているんですよ。死んでしまった吉田は、怪我に泣いて野球部をドロップアウト。美術を志した後、進学校だけれど大学には行かずに渡米。母校にフラっとやって来て、偶然とは言え、ボールを追いかけて事故で亡くなる。「浮世離れ」の意味を改めて考えると、世間の常識からかけ離れた言動や事柄のこと。周囲のことを頓着せずに我が道をいくってことでもある。浮世離れな人生を駆け抜けた吉田の葬式です。結果として、ライフスタイルの生き方もそうだけど、あの世への「逝き方」もゴーイングマイウェイなんです。それをお定まりの演出で映画にしてどうするんですか。

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同級生たちは棺桶担いであっちをうろうろ、こっちをうろうろ。この設定には、ヒッチコックの『ハリーの災難』を連想させるところもありつつ、茨木高校に実際にあるという古墳時代の石棺を使ったギャグや、死体がまさかの行方不明ってくだりにも、ニンマリ。そして、もの言わぬ死者という欠落を中心に、関係者が思い出の輪をドーナツ状に広げていく構成も、それ自体珍しいものではないけれど、そこに川端康成の作品群を掛け合わせることで奥行きが出ていました。
 
一方、僕にだって気になるところは、そりゃありました。代表的なのは、その演劇っぽさです。今の映画はワンカットがとにかく短いものが多いんですけど、これはあまりカットを割らない。それ自体はいいんだけど、大野さんが演劇畑の人であることも影響しているのか、特に室内の大人数のシーンは舞台の演出だろうってのが多かったです。こっちでこんなボリュームで喋ってたら、奥でも聴こえてるはずなのに、そこはスルーみたいなのって、完全に演劇の文法なんで、多用されると違和感が出てきます。説明ゼリフも多くて、もう少しブラッシュアップしてほしかった。演劇なら気にならないんだろうけど。でも、そこも余韻をあえてカットするような切れのある編集が救っていたし、致命的では決してないと思います。

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後半の幽霊まがいの一連のシーンだって、もともと川端のモチーフも素っ頓狂なんで、映画もそうなってます。あの敢えての古臭いCG使いも笑えます。そして、夜のグラウンドでメインの3人が再会したと思ったら、またしてもあるきっかけで闇に文字通り淡く消えていく吉田の映像なんて、今も目に焼き付いています。
 
号泣したり、ドッカンドッカン笑ったりするようなものではないし、胸をかきむしるようなメッセージがあるわけではないですが、軽妙で愛おしい1本です。初めて観た後、何日かした後に朝起きて、ふとこの映画のことを思い出したんです。まるで、死んだ誰かの思い出が、不意に頭をよぎるように。
 
以上、そこそこ浮世離れした人生を送っているような気もする僕の短評でした。

僕がこの映画を思い出した時に、ふっと浮かんできました。お葬式の様子を、亡くなった人の視点で歌う珍しい曲です。


さ〜て、次回、2019年10月15日(火)に扱う映画は、『ヒキタさん! ご懐妊ですよ』となりました。そうそう、FM802からFM COCOLOに引っ越しをして、作品の選定システムが変わりました。スタジオには「映画おみくじ」と賽銭箱が設置され、僕は毎週300円のお賽銭を払いつつ、放送中にその場でおみくじを引いて、公開中の作品6本の中から、翌週の課題作が決まります。映画神社ってことですね。『ジョーカー』が観たかったのが本音ではあるけれど、結果的には「葬式」から「ご懐妊」と、なんだか命の循環を感じる滑り出しとなりました。

 

それにしても、賽銭箱にたまっていくお金、僕のポケットマネーはどうしようかなぁ。ある程度の金額になったら、使い道を考えないと。あなたも鑑賞したら #まちゃお765 を付けての感想Tweetをよろしくです。

『アド・アストラ』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2019年9月26日放送分
映画『アド・アストラ』短評のDJ's カット版です。

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舞台は、そう遠くない未来。主人公ロイの父は、地球外知的生命体の存在を探求し続け、宇宙探査のパイオニアとして遥か彼方へと飛び立ったのですが、16年後、地球から実に43億キロ離れた太陽系の彼方で行方不明になります。ロイは父の後を追うように宇宙飛行士として活躍していたのですが、ある日、宇宙から到達したサージと言われる電気嵐のおかげで、地球は惨事に見舞われます。そんな折、宇宙軍の上層部からロイにもたらされた知らせは、父が実は海王星で生存していて、地球に壊滅的な被害を及ぼしかねない計画に関わっている可能性があること。ロイは父を説得するため、宇宙へ旅立つのですが…

スペース カウボーイ(字幕版) アルマゲドン (字幕版)

 ロイを演じるのは、2週前に『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でそのあまりのかっこよさに言及したばかりのブラッド・ピット。今作は彼が抱える会社プランBエンターテインメントの制作ということで、プロデュースもブラピが手掛けています。ロイの父を演じるのは、トミー・リー・ジョーンズ。日本では缶コーヒーを飲む宇宙人として知られていますが、かつては『スペース・カウボーイ』にも出演していました。その時に共演していたドナルド・サザーランドが、ロイの父の同僚として登場するので、映画ファンはニヤリです。他にも、『アルマゲドン』のリヴ・タイラーがロイの別れた妻を演じています。

インターステラー(字幕版) ダンケルク(字幕版) 

残念ながら受賞は逃しましたが、今月閉幕したヴェネツィア国際映画祭で初上映された話題作です。監督・脚本は、そのヴェネツィアで銀獅子賞獲得経験のあるジェームズ・グレイ。撮影は、オランダのホイテ・ヴァン・ホイテマ。『インターステラー』『007 スペクター』『ダンケルク』の撮影監督です。
 
それでは、制限時間3分の短評、そろそろいってみよう!

まずはタイトルの『アド・アストラ』ですが、冒頭にテロップで示されるように、英語にすればTo The Stars「星々のかなたへ」という意味のラテン語です。あえてラテン語にすることによって、重厚な雰囲気、神話的なムードを醸しているんだと思いますが、それもそのはずで、これは『インターステラー』や、まして『スター・ウォーズ』とはまるで違う、宇宙を舞台にした内省的な旅の物語です。一応ジャンル上はSFにはなるものの、わくわくする輝かしい未来を見せるフィクションというよりは、現状の宇宙開発の延長にあるファクト=事実に基づいているし、テーマとしてはサイエンス=科学というよりは、精神の話なんです。だから、広大な宇宙空間やそこにポツンと小さく浮かぶ人間なんかの絵面は、むしろ僕らの脳内に広がる内なる世界の比喩のようにすら見えてきます。
 
かといって、抽象的で退屈な作品というわけでは決してない。序盤、地球の大気圏ギリギリに浮かぶ巨大な宇宙アンテナの外で作業中にサージを受けて落下するロイ。月面の荒野で火蓋が切られる西部劇的なカーアクション。何度か起こる宇宙船内でのバトルなど、手に汗握る、背筋が寒くなる場面もあちこちに効果的に配置されています。だから、見せ場はちゃんとあるんだけど、全体として、主題が哲学的だってことです。

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こういう宇宙ものですから、必ず引き合いに出されるのは、去年このコーナーでもIMAXリバイバル上映を扱ったキューブリック68年の『2001年宇宙の旅』。画面構成や宇宙服のヘルメットに映るイメージの活用など、映像的にはもちろん影響下にありますが、50年経った今、テーマはこちらは随分違います。「2001年」では、人が生み出したAIに人が翻弄されるという図式がありましたけど、今作ではむしろ人間そのものの孤独とか、人と人との心の距離、もっと言えば、人間を人間たらしめるものは何かってことだと思います。探究心を突き詰めた結果、どんな生物もいない宇宙の果てで、人の心はどうなるのか。その意味で同時に振り返りたいのは、監督や共同脚本家がインタビューで語っている通り、コッポラの映画『地獄の黙示録』とその原作となったジョゼフ・コンラッドの小説『闇の奥』です。

地獄の黙示録 特別完全版 [AmazonDVDコレクション] [Blu-ray] 闇の奥 (光文社古典新訳文庫) 

ロイは厭世的で、批判精神が旺盛、だけれども、常に冷静沈着、それがゆえに心拍数も上がらない人物として描かれています。そんな彼が、英雄たる父に会いに、地球、月、火星、海王星と、宇宙の奥へ奥へと旅立つ。そこで次々と遭遇するのは、人間と文明の闇です。恐らくはロイの予想を越えた闇。だから、これは一種の地獄めぐりでもあるんです。最初からほぼ最後まで、作品には常に死の気配が漂っていますね。あるいは死そのものも目撃することになる。しかし、考えてみれば、ロイはもともと死んだように生きてきた人です。シンプルにまとめればただの「行って来い」のこの物語の中で、人間のアイデンティティ・クライシスをいくつも目撃する中で、闇の奥で、無重力で、絶望の先にかすかな希望を見出し、宙に浮いていた人生の意味にタッチして、生きる喜びに重力を与えて着地することはできるのか。死んだ目をした彼は生き返ることができるのか。そのあたりがポイントですかね。

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いくぶん抽象的な表現をしましたが、それぐらい文学的な内容を感覚的に経験させてくれる作品です。何より、ホイテ・ヴァン・ホイテマの生み出す映像の圧倒的な美しさは大きなスクリーンで観ないといけないし、練られたサントラと宇宙ならではの無音も映画館でないと味わえません。さらには、やはりブラピです。初めて宇宙へ行ったブラピ。ヘルメットを被っている場面が多いので、必然的に表現は顔に集約されます。クローズアップでこれでもかと堪能できるブラピの顔面力。眉毛や頬の動きで見事に伝えきる演技には仰天です。
 
じっくり鑑賞して秋の夜長に余韻に浸るには最高の『アド・アストラ』。あなたも、いざ宇宙へ。

 

 もちろん、サントラからではなく、僕の鑑賞後の余韻はこういうテンポ、雰囲気なんだよなって感じで、今年のグラミー賞最優秀カントリーソングであるSpace Cowboy / Kacey Musgravesをお送りしました。トミー・リー・ジョーンズドナルド・サザーランドが出てるってので、どうしたって『スペース・カウボーイ』も意識しますしね。
 
さて、Ciao Amici!では1年半、そしてFM802では前の番組Ciao! MUSICAの頃から合わせると、計6年半にわたって、毎週実施してきた映画短評も、これが最後。放送では、毎週お告げをくれていた109シネマズ大阪エキスポシティ、箕面HAT神戸それぞれの映画の女神様からリクエストまでいただき、僕としてはそりゃもう感無量でした。そして、何より、毎週の課題作につきあってくれたリスナーのひとりひとりに感謝申し上げます。ありがとうございました。

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↑ 109シネマズ大阪エキスポシティでの試写会MCに備える僕(笑)
 
なんか、もうラジオでの映画評はやらないみたいになっていますが、10月1日からは姉妹局FM COCOLOの新番組CIAO 765(月ー木、6時ー11時ちょっと前)に舞台を移して、これからも毎週実施していきますので、変わらぬご愛顧、よろしくお願いします。課題作の選定方法などやり方を変更するつもりですので、まずは初日の10月1日(火)、朝8時台にそのあたりをまとめてお話しますね。ということで、すみませんが、映画評は1週お休みいたします。

cocolo.jp

『記憶にございません!』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2019年9月19日放送分
映画『記憶にございません!』短評のDJ's カット版です。

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憲政史上最悪の総理大臣として、支持率2.5%という驚くべき低空飛行を続ける黒田啓介。尊大で傲慢。自己顕示欲が強く、金と権力を心底愛し、不正にも躊躇なく手を染める。態度も悪く、都合が悪くなると「記憶にございません」と開き直る。野党第2党の女性党首とは良からぬ関係にあって、妻には愛想をつかされ、息子にも一切尊敬されていない。あらゆる面で見どころのない黒田総理は、ある日、演説中に市民からの投石を額に受けて病院にかつぎこまれる。大事にはいたらなかったものの、目覚めると記憶がない。子どもの頃のことは何となく覚えているものの、大臣たちの顔も名前も、本会議場の場所も、家族や秘書たちも、ひいては自分が総理大臣であることすら忘れてしまい、ただの善良な普通のおじさんに変貌。さあ、どうなる!?
 
監督・脚本は三谷幸喜。60周年アニバーサリーのフジテレビと東宝がタッグを組んだ作品ということで、三谷監督が一緒にドラマを作ってきた元フジテレビの石原隆、そして東宝の社長市川南が製作を担当しています。キャストはいつものように、錚々たる面々が揃いました。黒田総理を中井貴一、夫人を石田ゆり子、首相秘書官をディーン・フジオカ小池栄子がそれぞれ演じるほか、斉藤由貴木村佳乃、吉田羊、田中圭寺島進梶原善ROLLY草刈正雄佐藤浩市なども演技を披露しています。

ラヂオの時間 王様のレストラン Blu-ray BOX 

先週のタランティーノに続き、三谷作品も、実はこのコーナーで評するのは、この6年半で初となります。基本的なスタンスをお伝えしておくと、熱心とまではいかないけれど、僕は結構なファンです。エッセイもそこそこ読んでるし、ドラマも『王様のレストラン』『古畑任三郎』『HR』あたりはリアルタイムで追っかけて観てましたし、監督作も『清須会議』を除いて、すべて観てます。舞台も初期を中心に観ていて、DVDを持っているものもある。ですが、正直なところ、監督作については、そう高く評価していなくて、いまだに97年のデビュー作『ラヂオの時間』が一番好きっていう感じです。そんな僕が今作をどう観たのか。
 
それでは、制限時間3分の短評、そろそろいってみよう!

三谷幸喜は稀代の映画マニアで、ビリー・ワイルダーが好きだってことも有名な話です。一方で、もちろん演劇が好きで、テレビも好き。要はお話、広い意味でのフィクションが好きなんだろうと思うんですよね。というのも、これまでの監督作を観ている限り、映画というフォーマットの特徴を活かしたというよりは、むしろ演劇っぽいカメラワークと演出が多くて、映画としてはどうなんだっていうところを中心に映画ファンの不評を買っていたんだと思います。その意味で、映画監督としては、お世辞にもうまいっていうタイプではないんですね。
 
では、今作はどうだったのか? やはりですね、良くも悪くも記憶に残らない演出が多かったです。今思い出してみても、良かったところ、いまいちかなってところ、それぞれ画面・映像がどうっていうより、物語とか衣装とか役者の動きなんです。でも、ここはこれまででも屈指だったんじゃないかと感じたのは、リズムです。それも、編集のリズム。演劇的な間と映画のそれは違うと僕は思うんですけど、今作の小気味いい全体のテンポは、編集によるところが大きいと思うし、その意味で映画としてこなれています。全幅の信頼をおく、主に常連の役者たちにのびのびと演技をしてもらい、それを編集で引き立たせていました。

デーヴ (字幕版)  

とはいえ、なんだかんだと、これは脚本の勝利です。93年、アイヴァン・ライトマン監督の『デーヴ』という、再起不能の大統領の影武者を、善良な市民がさせられるハメになるっていうコメディがあって、三谷監督はそこから着想を得ての構想13年なんて言われてますが、観ていて誰もが思うのは、実在の日本の政治家たちやその周辺で働く、というか暗躍する人物ですよ。最初にご丁寧に注意書きが示されます。「この映画はフィクションです」という、普通なら最後に出されるお決まりのもの。こういう趣旨の言葉が続きます。「実在する名前や人物が出てきたとしても、たまたまです」。これがもう風刺なんですよ。
 
かつてのロッキード事件から、モリカケ問題にいたるまで、日本の政治家が何度「記憶にない」と開き直ってきたことか。冷静に考えれば要らないだろうっていうハコモノを作ってきたか。そんなことをどうしたって意識させます。夫人の口が軽いってのもそうだし。挙句の果てには、プロモーション初期に、僕もびっくりしましたけど、安倍首相に作品を見せたうえで、「(映画の首相が記憶をなくす前の)悪い総理の時代に、消費税を上げるというのがちょっとこう、かすったな」なんて感想を引き出してますからね。よくやったよなと思います。

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そして、僕もしっかり笑ってしまったところがいくつもありました。野党第二党の党首、吉田羊から「合併しましょ」と色気たっぷりに抱きつかれるくだり。草刈正雄はどのシーンもうまかったし、通訳の常に淡々とした口調もクスクスしました。しかも、演じた宮澤エマは宮沢喜一元首相の孫ですよ。すごいキャスティング!
 
でも、全体として、笑いのツボは人によって違うとはいえ、大仕掛けのギャグや大胆な衣装やメイクよりも、細かい掛け合いやなんかでニヤリさせる小さな笑いを重ねているところのほうが、確実に機能していました。映画だからと張り切っているフシがある。肩に力が入っているというか。さらに、記憶を失ったことで人が変わる黒田総理を描くなら、ここはもっと以前の酷さ、ダメっぷりを、ニュース映像や他の人の回想を駆使して、つまりもっと時間を操作して、黒田自身に逐一ギョッとさせるという手もあったかもしれません。映画ならではのギャップの笑いですね。
 
ただ、ウェルメイドなコメディーの少ない日本映画において、三谷監督、名刺代わりの一本には十分になっていると思います。面白かった!
 
もちろん、映画では使われていませんが、テイラーの最新アルバムにはこんな曲があったなと思い出したので、短評の後にオンエアしましたよ。
あなたがいたことを忘れてしまった…

ローマに消えた男(字幕版)

ついでながら、三谷監督はまず観てないだろうけど、イタリア映画の『ローマに消えた男』のことも思い出しました。野党第一党の党首が突然失踪したことに困り果てた側近が、双子の兄弟を担ぎ出して替え玉とするんです。すると、周囲からも市民からも、突如人が変わったように見え、支持者を増やしていく。こちらはコメディーとは言えないトーンですが、これはこれで味わい深いので、ぜひ。


さ〜て、次回、2019年9月26日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『アド・アストラ』です。先週の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でそのかっこよさをこれでもかと見せつけた男ブラッド・ピットが、またしても登場。ワンハリを観ていたく感銘を受けた802の50代男性ディレクターが、「最近ブラピの真似をしてのアメカジなファッションなんだ」とドヤ顔で僕にアピールしてきたんですが、これを観たら、今度は宇宙服で出勤してくる可能性が高いですね。これは楽しみだ。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

 

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2019年9月12日放送分

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舞台は1969年のハリウッド。主要な登場人物は3人です。50年代からTV俳優として西部劇などで人気を博していたリック・ダルトンですが、現在は悪役となる機会が増え、そのキャリアに明るい展望を見いだせずにいます。そのリックの相棒が、スタントマンのクリフ・ブース。リックの危険なアクションシーンでいつもスタントを務めるばかりか、運転手や身の回りの雑用としても働く良き友達です。ある日、ハリウッド郊外にあるリックの邸宅の隣に、世界が注目する気鋭の映画監督ロマン・ポランスキーと、その妻シャロン・テートが引っ越してきます。ふたりの輝きを目にしたリックは、イタリアでマカロニ・ウェスタンの作品に主演して一花咲かせることを決意するなど、3人はそれぞれの暮らしを送りながら、迎えたのが8月9日。映画史、そしてアメリカ犯罪史においても重要な事件当日を迎えます。

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製作・監督・脚本は、名匠として知られるクエンティン・タランティーノ。リック・ダルトンレオナルド・ディカプリオ。クリフ・ブースをブラッド・ピットが演じます。ふたりはそれぞれ、『ジャンゴ 繋がれざる者』『イングロリアス・バスターズ』でタランティーノ作品への出演がありましたが、言わずと知れた大スターのふたりが共演するのは、これが初めてのことです。まずこのキャスティングを成功させたタランティーノの力にしびれます。さらに、実在の人物シャロン・テートを演じるのは『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』のマーゴット・ロビーです。他にも、アル・パチーノアメリカの俳優をヨーロッパに送り込む代理人のような人物マーヴィン・シュワーズ役で参加していることも付け加えておきましょう。
 
今年5月のカンヌ国際映画祭のコンペに出品されて好評を博したものの、主だった賞は獲得できませんでした。ただ、僕が好きな小さな賞、秀でた演技を見せた犬に贈られるパルム・ドールならぬパルム・ドッグ賞を、クリフの愛犬でピットブルのブランディが受け取っています。
 
僕がこうしてFM802で映画短評をするようになって6年半ほどになりますが、タランティーノ作品は実は一度も扱ってないんですよね。前作の『ヘイトフル・エイト』に女神様のお告げが下らなかったんです。なので、タランティーノの特徴も踏まえつつ…
 
それでは、制限時間3分の短評、そろそろいってみよう!
 
よく知られたエピソードですが、63年生まれのタランティーノは母親の影響で映画好きだったことに加え、20代前半をビデオショップの店員として過ごしたことで、そこで浴びるように映画を鑑賞しました。四方田犬彦という作家が『映画史への招待』という本の中で、こんな趣旨のことを書いています。「いわゆる世界の名作だけを集めて、山の頂と頂とを連ねていけば映画の発展が語れるというものではない」。映画史を編纂していくのは映画学者の仕事ですが、僕が思うに、タランティーノは低い山々、つまりはB級だったり駄作だったりとされる映画にも深い知識と愛情を持っていて、引用やパロディーという手法でそれを自分の作品にふんだんに取り込むわけです。従って、物語は通俗的だし、一見ジャンル映画的なんだけど、結果として高い山、つまり名作をこしらえちゃうんです。その意味で、膨大な過去作に好きな時に触れられるようになったビデオ時代のシネフィル監督という言い方もできるし、同様のことを音楽でもやってのけるという意味で、総合的にヒップホップ以降の映画の申し子という言い方をされることもあります。

映画史への招待 

そんな作家性が凝縮された1本と言えるのが、今作です。50年代から60年代いっぱいまでのハリウッドの映画業界、そして街の変化。そこに蠢く、下り坂、上り坂、それぞれの俳優。そして、スタントマンに代表される、直接表には出ないけれど映画作りを支える裏方などなど。メジャーな映画会社の勢いに陰りが見え、インディー系の名作が映画史を塗り替え、ベトナム戦争は泥沼化し始めつつ、ヒッピームーブメントはその吸引力を失いかけている。そんな69年のハリウッドそのものを、タランティーノはフィルムに焼き付けることに成功しています。当時の音楽をふんだんに使い、ファッションにも気を配り、ブルース・リーポランスキースティーブ・マックイーン、そしてシャロン・テートといった実在の人物と、モデルはいるけれどフィクションである人物をうまくミックスしながら、カメラワークや編集のタイミング、ナレーションのトーンまで含めた当時の映画技法をベースに、Once upon a time in Hollywood、つまり「昔々ハリウッドで」という寓話を作ってみせたわけです。だから、事実そのものではないが、大いにあり得たエピソードが連なっています。それを観ているだけで、まず無類に楽しいし、スタイリッシュだし、カッコいいんです。本人の言う集大成的な位置づけというのも大いにうなづけます。で、大事なのは、彼が立派な研究家であり、マニアなんだけど、観客を置いてかないってことです。別に知識がない人も、若い人も、自分の生まれていない時代の遠く離れた夢の街ハリウッドなのに、なぜか懐かしいと感じるような、不思議なデジャヴ満載なんですよ。

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何しろ、スケッチ風のシーンが多いので、「ワンハリ」鑑賞者飲み会があれば、何杯でも飲んで、三日三晩は過ごせるんじゃないかというくらいに多彩な語り口がある中、僕が触れるとすれば、リックとクリフのイタリア行きでしょう。実際、60年代はイタリア製の西部劇、日本で言うマカロニ・ウェスタンが大量生産されていて、とんでも映画も多い中、たとえばクリント・イーストウッドはそこで名を上げてハリウッドに戻ったといういきさつもあります。当初リックは「イタリア野郎の映画になんて出るくらいなら死んだほうがマシだ」なんて言って都落ちのイメージを嫌っていたのが、結局はローマでチヤホヤされて楽しんで映画いっぱい撮って、飯がうまいから7キロ太り、挙句の果てに結婚までして帰ってくるっていう。イタリア大好きやんっていうくだりでした。考えたら、タランティーノもディカプリオもイタリア系だしねっていうのも面白い。
 
とまぁ、こんな風にクスッと笑えるところがエンドロールまでたっぷりな一方で、仕事のキャリアを考える上での不安や自己嫌悪、老い、もっと言えば死を意識させるところも付きまといます。そして、8月9日を迎える。ここで、虚実入り交じるこの映画の設定、寓話であることが結実します。つまり、あり得たかも知れないハリウッドであれば、あの凄惨・残忍なできごとだって、こうなってもいいんじゃないか。ぼやかして言ってますが、要はフィクションの力で、歴史の闇に光を差し込んだ、タランティーノ渾身の救済の映画でもあるんです。あのクライマックスには誰もが度肝を抜かれるはず。
 
これから何度も見返すことになるだろう作品ですが、舞台の69年から半世紀というこの公開のタイミングでスクリーンで観ておくべきでしょう。
 
とにかく使用曲数の多いサントラの中から、今日はDeep PurpleのHushをチョイスしました。僕の世代なら、Kula Shakerのバージョンで知っている人が多いでしょうね。ちなみに、ディープ・パープルもオリジナルではないんですが、68年から69年にかけてヒットさせました。音楽はカーラジオなど、物語内で実際に鳴っているものも多くて、ラジオのジングルがまたかっこいいのです。
 

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リックが出ていたイタリアの架空の映画ポスター2枚。僕が右側ので思い出したのは、イタリアの名優ヴィットリオ・ガスマンがフランスのジャン・ルイ・トランティニャンと共演した『追い越し野郎』(Il sorpasso)です。

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実際のところタランティーノが意識したのかはさておき、こういう想像を膨らませる余地が山ほどあるのは間違いないです。

さ〜て、次回、2019年9月19日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『記憶にございません』です。三谷幸喜監督は、僕は作品によって好き嫌いがはっきり分かれちゃうんですが、今回はいかに? 笑わせてもらえるかしら? あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

『劇場版おっさんずラブ 〜LOVE or DEAD〜』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2019年9月5日放送分
映画『劇場版おっさんずラブ 〜LOVE or DEAD〜』短評のDJ's カット版です。

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もともとは2016年の年末にテレビ朝日が単発のドラマとして放送したものが反響を呼び、昨年の春、土曜日のナイトドラマ枠で連続ドラマに拡大し、それが一大ブームを巻き起こしたのは記憶に新しいところです。不動産会社に務めるモテない男、33歳の春田創一が、会社の上司である黒澤武蔵、そして後輩の牧凌太、2人の男性から告白されるという、年齢は超えるが、性別は超えない、三角関係のラブコメディー。Twitterで世界トレンド1位となるなど、大旋風を巻き起こしました。今回は、連ドラが終わって1年後を描いた劇場版となります。
 
香港でのプロジェクトを終え、帰国した春田創一。天空不動産第二営業所へ戻ると、熱い歓迎を受けるのですが、そこへ会社が新たに発足した大規模な複合リゾート施設のプロジェクトチームGenius7のメンバーが割り込んできます。リーダーの狸穴が率いるGenius7には、本社に異動したという牧凌太の姿も。動揺する春田ですが、新入社員の山田正義(ジャスティス)が彼を元気づけます。さらには、黒澤部長も焼けぼっくいに火がついたように春田に猛アプローチ。5角関係に発展した恋とプロジェクトの行方は?

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田中圭吉田鋼太郎林遣都が、それぞれ春田、黒澤、牧を演じるというキャスト陣はもちろん続投。そこに、狸穴プロジェクトリーダーの沢村一樹、新入社員ジャスティスの志尊淳という新たな役者も加わりました。
 
監督は、バラエティ番組出身で、ドラマ版の演出も手掛けていた、79年生まれと若手の瑠東東一郎。脚本も、ドラマ版から変わらず、こちらも監督と同い年で40歳の徳尾浩司です。
 
僕はドラマを観ていなかったので、お告げを受けてから劇場へ向かう前に予習しておきたいなとは思ったものの、すみません、スケジュールがそれを許さなかったので、簡単におさらいできるダイジェスト動画的なものに目を通しつつ、あとは知識としてどんな設定なのかってところは何とか押さえての鑑賞となりました。それでは、制限時間3分の短評、そろそろいってみよう!
 
 
おっさんずラブ」未体験の人が抱いてしまう先入観として、「要するにボーイズ・ラブBLものなんでしょう」っていうのがあると思います。それはそうなんだけど、実はBLそのものに焦点を当てることが本質ではないんですよね。これはウィキペディアにも出ている脚本の徳尾さんの発言ですが、「男性同士の恋愛の中で萌えを提示するというよりは、男女の恋愛と同様に『恋愛ドラマを描く』というところが出発点」なんだと。つまりは、あくまで普通のラブコメをやろうってことですよ。性的マイノリティーの恋愛だからといって、特殊なものとして扱うのではなく、どんな恋愛にも普遍的な要素を抽出して物語を組み立てることで、結果として恋愛の多様性を当たり前に感じてもらうようにしようということですね。それはこの企画に通底する価値観だと思います。その多様性ってのには、ゲイだけではなく、年の差の大きな恋愛だったり、数は多いのに後ろめたさを覚えがちなオフィスラブだったりも含まれます。要は、恋愛ってもっと自由でいいんじゃないかっことを、わりとあっけらかんと描写しているのが新鮮で評価されたってことじゃないでしょうか。それが証拠に、本当ならそこにつきまとう社会通念上の葛藤や性生活は物語から周到にカットされていて、食い足りなさを覚える一方で、どんな恋愛でも同列に扱っているのが特徴でしょう。

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さて、大枠を踏まえたところで、劇場版について具体的に言及します。はっきり言っちゃいますが、映像面での目新しさはないです。監督もドラマ版から交代していないですし、もともとテレビマンということもあり、画作りがスクリーンという大画面の醍醐味を活かしたものになっていないんです。冒頭の指輪を巡る香港での追っかけも、クライマックスの廃工場での救出劇も、特にアクション描写はカット割りから俳優の動かし方から、お世辞にもうまいとは言えないぎこちなさがつきまとっています。リゾート施設建設予定地を示す空撮映像も明らかに使いまわしているし、花火大会のシーンの合成もこれみよがしなだけで、全体として、お金をかけたはずなのに空回りしている印象は否めません。

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お話自体も、劇場版なんでとりあえずスケールアップしときましたって感じで、この設定が持っているちんまりした魅力を削いでしまっているんですよね。だって、基本的に小さな話なはずでしょ? オフィスラブですもん。部内とその周辺でくっついたり離れたりしてる、そのぐしゃぐしゃした感じが面白いのに、強引にスケールを大きくしようとするから、どうしてもチグハグになっています。

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なんて具合に、テレビよりも映画をよく観ている人には正直しんどいシーンが多いのは間違いないんですが、実はそこも計算のうちというか、製作陣はこれまたあっけらかんと開き直って撮っているようにも感じました。「とりあえずスケールアップしときました(笑)」みたいな、「すべてひっくるめてのコントでござい!」っていう感じ。とりわけクライマックスの誘拐&救出劇なんて、コントそのものじゃないですか。なんですか、あの時限爆弾のふざけた設定は? 現在地を巡る騒動は? だいたいがポスターでも、燃え盛る炎がハートの形してるんだもの。みんなリアクションが過剰だしさ。っていう意図もわかるんだけど、僕としては、あのサウナシーンのようなバカっぽいけど、それが故に愛おしいやり取りをどんどんやってほしかったです。むしろ、「劇場版なのにスケールアップしませんでしが、何か?(笑)」ってな方向で、彼らのちまちました恋愛模様を生活とともに見せてほしかった気はします。

 

と、主に演出に触れました。同様に、脚本にも色々言いたいことはありますが、そろそろ時間いっぱい。新キャラのミスリードのうまさとか、旧キャラへの愛情のなさとか、やはり良い面と悪い面がありますが、ドラマから引き続いて、こうしたテーマの作品に多くの人が接するという事態そのものは僕は大歓迎していますので、ぜひあなたも劇場でご覧ください。
 
主題歌については、さすがはスキマスイッチという出来栄えで、切なさを醸すサウンドメイクと、歌詞が物語をなぞるのではなく程よい距離感で示唆する言葉のチョイスになっていました。
 

 さ〜て、次回、2019年9月12日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』です。さぁさぁさぁ! やってまいりましたよ、タランティーノ監督最新作。しかも、ブラピとディカプリオの顔合わせ。そのうえ、映画業界の裏側を描くってんですから、期待が高まらないわけがない。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

『ロケットマン』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2019年8月29日放送分
映画『ロケットマン』短評のDJ's カット版です。

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ロンドン郊外の町ピナーで、両親の愛を得られず育った少年レジナルド・ドワイト。誰にも教わっていないのにすらすらピアノが弾けてしまうなど、音楽の才能に恵まれていた彼は、国立音楽院に入学します。寂しさを紛らわせるためにロックにのめり込み、プロのミュージシャンになろうと、エルトン・ジョンと名乗るようになります。レコード会社に掛け合ったエルトンは、そこで同じく音楽の道を志していたバーニー・トーピンと巡り合い、ふたりは作詞バーニー、作曲・歌エルトンというコンビを組み、あれよあれよと成功への階段を駆け上がるのですが… 

キック・アス (字幕版) キングスマン: ゴールデン・サークル (字幕版)

今もなお現役で活躍するエルトン・ジョンの半生をミュージカル・ファンタジーとして描いてみせた監督は、あの『ボヘミアン・ラプソディー』のメガホンをブライアン・シンガーから途中で受け取って傑作へと仕上げたデクスター・フレッチャー。プロデューサーは、『キック・アス』や『キングスマン』を製作監督したマシュー・ヴォーンと、ヴォーンがかねてより大ファンだったというエルトン・ジョン本人。考えたら、エルトンは『キングスマン:ゴールデン・サークル』に出て大暴れしてましたから、信頼関係も構築されていたわけです。

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さらにさらに、主役、つまりエルトンに扮して歌声まで披露したのは、タロン・エジャトン。『キングスマン』シリーズの若きスパイ、エグジーを演じて大ブレイクし、『ゴールデン・サークル』では奇しくも、誘拐されたエルトン・ジョンを救出するという流れになってたわけですから、もうこれはタロン・エジャトンしかいないだろうっていうキャスティングだったんじゃないでしょうか。
 
それでは、制限時間3分の短評、そろそろいってみよう!

どうしたって『ボヘミアン・ラプソディー』と比較してしまうことにはなりますよね。UKロックの伝説的人物の伝記ものだし、フレディー・マーキュリーもエルトン・ジョンも性的マイノリティーのゲイだし、成功してからの奇抜なパフォーマンスや薬物依存、そしてスタッフとのトラブルなど、その人生を彩るトピックも似通っています。世界的に知られるヒットをたくさん持っているので、音楽映画としてその曲が全編で鳴りまくるのを楽しむという点も同じ。監督も同じなわけですから。似たような映画なんだろうなと思うじゃないですか(ポスターも対を成すようだし)。しかも、こと日本においては、エルトンの人気・知名度QUEENに少し劣るからなぁ、なんて余計な心配すらしながら劇場へ向かったところ、やっぱり観てみないことにはわかりませんよ。これが素晴らしかった。『ボヘミアン・ラプソディー』とはむしろかなり違った演出の映画で、なんならこっちの方が好きだって人もたくさん出てくるんじゃないかと僕は感じています。

ボヘミアン・ラプソディ (字幕版) f:id:djmasao:20190828151949j:plain

演出の決定的な違いは、こういうことです。『ロケットマン』は自分語りなんです。冒頭、アルコール依存症のグループセラピーの部屋へと悪魔モチーフの奇抜なステージ衣装に身を包んで入ってくる。というより、乗り込んでくる勢い。他の患者やセラピストと車座になって、落ち着きなく自分の人生を振り返っていく。つまりは、長い回想という構造を採用しているわけです。こうすることで、視点は主観となり、客観的な事実や、時系列からわりと自由になれるという利点があります。『ボヘミアン・ラプソディー』だと、史実と違うとか、順序や年号がおかしいといった声がファンから上がりましたが、『ロケットマン』の場合は最初から主観なんで、そんなことを意識して集中できなくなる人はいないんじゃないかな。これは英語のキャッチコピーですけど、based on true fantasyというフレーズが使われているんです。普通は、based on truthですよ。「史実に基づく物語」。ところが、これは「実在のファンタジーに基づく」ってこと。面白い表現ですよね。そして、これがまさにその通りというミュージカルになっています。

 
ボヘミアン・ラプソディー』の場合、主演のラミ・マレックは撮影現場でこそ歌っていたものの、完成した作品ではフレディーの本物の声をはめ込んでいました。あれは音楽を全編に使った劇映画でしたから。一方で『ロケットマン』の場合は、ミュージカルです。だから、歌声も主演のタロンのものが使われています。考えてみたら、タロン・エジャトンはアニメ映画『SING/シング』であのゴリラを担当していて、その時もエルトンの『I’m Still Standing』を歌っていました。エルトンは彼の歌唱力を非常に高く評価していて、安心して自分の歌を預けました。まとめれば、これはいわゆるリアルを追求した伝記映画ではなく、エルトンの音楽を使ってファンタジックに人生を表現するミュージカルなんです。その分、映像的な仕掛けもたくさん。誰もが忘れられないのは、『Crocodile Rock』のライブシーンでエルトンもお客も宙にふわっと浮いてしまう演出。プールやスタジアムでも映画ならではの表現を駆使していました。考えたら、プロデューサーは『キングスマン』のマシュー・ヴォーンとエルトンのふたりなんだもの。普通にやるわけないんですよ。そこがこの映画の何より楽しいところ。

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ただ、その楽しさは、コントラストとしてエルトンの強烈な孤独もより浮き彫りにします。両親に愛されなかったこと。異性愛者であるソングライティングのパートナー、バーニーへの切ない恋と友情。衣装がきらびやかになればなるほど、彼の心は反対に影が差していたことが、映画的説得力をもって十全に伝わってくる。ミュージカルというジャンルでないと表現できないやり方で、文字通り身体を使って歌でもってエモーショナルに描かれる。そんな波乱万丈の人生を送ってきた彼が、その後Sirとして認められ、社会貢献活動も行い、フレディーとは違って、今も生きているんです。音楽を作り、パートナーと養子の子育てをしている。He’s Still Standingなんです。『キングスマン:ゴールデン・サークル』での大立ち回りで爆笑をかっさらいもする。僕はそのことに深い感動を覚えました。
 
別にエルトンのファンでなくとも、彼の曲を知らなくとも、若い人でも、間違いなく楽しめます。特に難点も見当たらない傑作音楽映画がまた誕生したことをここに宣言します。

 

せっかくなんでと、オリジナルではなく、タロン・エジャトンの歌声をサントラからピックアップして放送しました。作詞家バーニーと一緒に作ってきた数々の名曲は、その多くが実はすごくプライベートな人生そのものを反映していたということにも震えます。もちろん、必ずしもエルトンの人生に寄せて聴かずとも良いことは、それぞれの歌の記録的な大ヒットが証明しているんですが、この映画を観ると、「そういうことだったのか」と心動かさずにはいられません。アカデミー賞でもきっと主要賞を獲得するだろうし、マサデミーの方でもかなり堅いのが現状ですよ。
 
 さ〜て、次回、2019年9月5日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『劇場版おっさんずラブ 〜LOVE or DEAD〜』です。これまた性的マイノリティーのお話ですが、毛色はもちろんまったく違う。僕はドラマを追いかけていなかったんですが、たとえすべて見返さなくとも、お話自体は基本的に独立しているようですね。僕は来週は休暇のため放送そのものは代演してもらうのですが、このコーナーについては事前収録したものをオンエアします。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

『ドッグマン』レビュー

どうも、僕です。野村雅夫です。現在公開中というイタリア映画をまた紹介できることがとても嬉しい。しかも、強烈なインパクトを残す作品。僕も公式サイトに以下のようなコメントを載せている『ドッグマン』です。今年4月、イタリア映画祭2019の告知を兼ねてTBSラジオ アフター6ジャンクションに出演した際にも軽く話題にしていましたが、今回はオールドファッション幹太がレビューを書いてくれました。以下、映画とあわせてお楽しみあれ。

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カンヌ国際映画祭の最高賞であるパルム・ドールに次ぐ審査員特別グランプリを『ゴモラ』(Gomorra/2008年)と『リアリティ』(Reality/2012年)で二度受賞しているマッテオ・ガッローネMatteo Garrone監督。『剥製師』(L’imbalsamatore/2002年)が2003年のイタリア映画祭で上映されたのを見たときから、チクチクといつまでも後に残るトゲのような不思議な後味のサスペンス映画を撮らせたらすごい才能を発揮する若手監督(当時30代なかばだったと思います)が出てきたなあと思っていたら、その後のカンヌでの揺るがぬ評価を経て、気がつけば2015年のグロくて美しい『五日物語−3つの王国と3人の女−』(Il racconto dei racconti)で世界的に活躍する大監督になっていた。

ゴモラ [DVD] 五日物語-3つの王国と3人の女-(字幕版)

史劇 パーフェクトコレクション ポンペイ最後の日 DVD10枚組 ACC-085 蝶々夫人 1955年・有楽座の館名入り初版映画パンフレット カルミネ・ガローネ監督 八千草薫 二コラ・フィラクリディ 田中路子

マッテオ以前、イタリア映画のガッローネといえば、(スペルはlとrが違うけど)サイレント歴史劇代表作のひとつ『ポンペイ最後の日』(Gli ultimi giorni di Pompei/1926年)や、50年代に八千草薫はじめ宝塚歌劇団チネチッタに呼んで撮った『蝶々夫人』(1954年)の監督カルミネ・ガッローネと決まっていた(繰り返すが、こちらはGallone)。ところがいまや日本で一番知られているのは、現代イタリア映画の旗振り役とも言えるマッテオ・ガッローネであることは誰も否定しない。そんな押しも押される大監督の一人となったマッテオ・ガッローネ監督がまたまたとんでもない作品を届けてくれました。それが今日紹介する『ドッグマン』(Dogman/2018年)です。

 

主人公のマルチェッロは海岸の町で犬専用トリミングサロン「ドッグマン」を営んでいる。サロンとは名ばかりで、ずっと昔の精神病院か冴えない研究をしている実験室を思わせる、薄汚れたこの町にお似合いの仕事場だ。しかし彼は、そこでの仕事を愛している。客である犬たちや飼い犬ジャックを愛している。別れた妻との間のひとり娘をこよなく愛している。そして仕事終わりにバールで仲間たちとたむろする時間、友人とサッカーボールを追いかける時間を愛している。

 

ところがそんなマルチェッロのささやかながら愛情に満ちた日常に暗い陰を落とす存在が冒頭から登場する。ドラッグ(コカイン)と悪友シモーネ。

 

マルチェッロ自身がドラッグをやめたがっている素振りはなく、むしろ積極的に楽しんでいるようだ。シモーネについては、マルチェッロの友達という言葉は誤りかもしれない。あるいはマルチェッロは、シモーネにとって単なるドラッグの共有元で、暴力でねじ伏せて言うことを聞かせる下僕としか思っていないようにも見える。それでもマルチェッロは、ドラッグと手を切らないようにシモーネとの関係もズルズルと続けてしまう。友情のカスのようなものが、二人の腐れ縁にハサミを入れることを拒ませる。

 

それでもひとつのできごとをきっかけに噛み合った破滅の歯車は加速度的に回り始め、マルチェッロは自ら突き進むように、あるいはどうしようもなく引き摺り込まれるようにある計画を実行に移す。

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マルチェッロを演じるマルチェッロ・フォンテがとにかくすごいです。そして言うまでもなくそんなマルチェッロ・フォンテを(どす黒く)輝かせたマッテオ・ガッローネ監督の演出手腕はキレてます。事実、脚本を固めすぎずにフォンテはじめとする演者たちと話し合いながら、共同作業として撮影を進めていったのだとか。 

 

フォンテの演技は「演技」というにはあまりにも生々しく、娘に微笑み返す父親の歪んだ笑顔、暗闇の中でニヤニヤ笑っている顔、呆然と立ち尽くす無表情、無意識の顔面の痙攣、誰にも届くことのない虚しい叫び、そうしたひとつひとつの表現が、まさに冒頭「いつまでも後に残るトゲ」と書いたように、何度も夢の中でよみがえりそうで、本当に怖いです。

 

そしてそんな鬼気迫るマルチェッロ・フォンテの演技は、カンヌで主演男優賞という誰の目にも明らかな評価を獲得しました。今も昔もイタリア人俳優の代名詞であり、カンヌ男優賞の先輩であるマルチェッロ・マストロヤンニやヴィットリオ・ガスマンとは違う、(そして直近で受賞した少し年下のエリオ・ジェルマーノとも違う)イタリア映画史にいつまでも残る(トゲと呼ぶにはあまりに素晴らしい)存在感を示したと思います。

 

さらに演技賞のノミネートがあるすれば、シモーネを演じたエドアルド・ペッシェも良かったのですが、あえてジャックほか無名の犬たちを忘れることができません。むき出しの牙やCGかなと思ってしまうほどの巨体、檻の中から聞こえる鳴き声、マルチェッロの「アモーレ」という呼びかけに対する無関心など、この映画にはじめから終わりまで漂う不吉な臭いはまちがいなく彼らが作り出したものです。ヴィットリオ・デ・シーカの『ウンベルト・D』(Umberto D./1952年)以来ひさしぶりに、犬に演技賞をあげたくなる気持ちは、見た人にはわかってもらえるはず。

ウンベルトD Blu-ray

マッテオ・ガッローネの映画の「画作り」は『リアリティ』と『五日物語〜』でキャリアの頂点といっても良いほどに実験し尽くしひとつの完成形を見ますが、『ドッグマン』ではそれ以前の『剥製師』や『ゴモラ』に近い形を採用している印象です。つまり被写体にいやらしいほどにつきまとう手持ちカメラと、冷酷な固定カメラのロングショットの合わせ技。ただ、役者の演技と「ドッグマン」周辺の不毛な風景との化学変化で、その切れ味は成熟からさらなる洗練の領域に到達しているんじゃないかな(このロケ地は『ゴモラ』の時に見つけたのだとか)。違う撮影監督を起用しても現れる「ガッローネらしい映像」というのは、やはり彼の持ち味・彼の才能によるところが大きいのではないでしょうか。

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マッテオ・ガッローネは最新作でなんと「ピノッキオ」を取り上げるのだとか。しかも、マルチェッロ・フォンテも起用されているようです。どうしてもロベルト・ベニーニ監督作品を思い浮かべてしまうのだけど、まさか、フォンテがピノッキオ役ってことはないよね? それ、最高なんですけど。

 

文:オールドファッション幹太