京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

小説『最後の手紙』レビュー 〈核〉に人生を翻弄された女性の物語

どうも、僕です。ポンデ雅夫こと、野村雅夫です。 先月手に取ったのが、イタリアの作家が日本を舞台に書いた小説『最後の手紙』。帯にも出てくる言葉「別れがつらいのは、それだけ多くのものを受け取ったから」は、丸10年僕が在籍したFM802での最後の生放送で引用させてもらいました。

 

 

訳は例によって例のごとく、関口英子さん。小社のメンバーのほとんどが学んだ大阪外国語大学(現在の大阪大学国語学部)イタリア語学科の大先輩なわけですが、今回は共訳。僕に面識はないんですが、横山千里さんも、やはり先輩とのこと。しかも、著者のアントニエッタ・パストーレさんは、かつて我が外大で教鞭をとり、訳のお二方はその教え子なのだとか。なかなかない座組ですよ。静かに興奮した僕は、せっかくならと、女性のメンバー、シナモン陽子にレビューを依頼しました。彼女も僕の同級生なので、後輩である僕たちがリスペクトを込めてお届けする。

 

別れた夫の思い出のみを胸に戦後を生きた女性。
その遺品の手紙が語り出す、悲しい真実とは。
イタリア人の目を通して描く、実話に基づいた「原爆と戦争」の傷跡――

日本人男性と結婚したイタリア人の著者は、結婚の挨拶に広島を訪れた。
義理の叔母ゆり子と話すうち、別れた夫を想い続けるゆり子に興味をひかれていく。深く愛し合っていたふたりは、なぜ引き裂かれてしまったのか。

村上春樹作品の翻訳者が綴った感涙のノンフィクション・ノベル

「二人の悲劇を歴史のせいにするのは、虫が良すぎる事だと分かっています。ですが、幸せになる事は、強い人間だけに与えられた権利なのでしょうか。」
(本文より) 

 

最後の手紙

最後の手紙

 

   『最後の手紙』は、「わたし」によって語られる「ゆり子」の物語である。

 

イタリア人である「わたし」がゆり子と初めて会ったのは1979年のことで、その時、ゆり子は57歳であった。二人がそこから親しい関係を築いていったわけではない。頻繁に顔を合わせる間柄でもなかった。広島県出身の日本人男性とパリで知り合い、結婚した「わたし」は、夫の母親である眞砂子と気が合った。ゆり子は彼女の妹であった。

 

1977年から生活の拠点を日本に移した「わたし」は、1979年、大阪の眞砂子の家で初めてゆり子に会う。再会したのは3年後の1982年で、「わたし」が眞砂子と一緒に数日間、広島の江田島を訪ねたときであった。ゆり子は、この島にある広い平屋造りの生家にひとりで暮らしていた。

 

「わたし」は、ゆり子とそれ以上の接点を持っていない。だが、彼女の持つ雰囲気やその佇まいに「わたし」は惹かれるものを感じていた。ゆり子はいちど結婚したけれど別れたという断片的な情報や、周囲の人たちが彼女に見せる気遣いから、過去に何かがあったことを「わたし」は察する。ゆり子に何があったのか? 江田島で過ごした数日間の出来事を通して、そして眞砂子から聞く話によって、「わたし」はゆり子の来し方を少しずつ理解してゆく。

 

かつてゆり子は、海軍兵学校の学生であった島津嘉昭と知り合い、心を通わせた。1944年春に結婚する頃には士官となっていた彼は、やがて出征する。彼からの便りが途絶えて久しくなった頃、ゆり子は連絡船に乗って広島へと渡った。それが、1945年8月6日の朝のことであった。「本能的に、あと三十分早く着いていたら、自分も命を落としていただろうと悟っていた」。1947年に甲状腺に悪性の腫瘍が見つかり、しばらくしてさらに白血病も発症した。

 

「わたし」はその後離婚し、1993年にイタリアへ帰国。だが眞砂子とは連絡を取り続けていた。この二人の揺るぎない信頼関係こそが物語を成立させている。

 

1995年、ゆり子は73歳でこの世を去った。生前、彼女が誰にも明かすことのなかった秘密を、その4年後に「わたし」は眞砂子から知らされる。原題『愛しいゆり子へ』(Mia amata Yuriko)と邦題『最後の手紙』はこの秘密に関係している。

f:id:djmasao:20191026213347j:plain f:id:djmasao:20191026213401j:plain

著者アントニエッタ・パストーレによる付記では、この小説が実話に基づいていることが明らかにされている。何も語らずに亡くなった一人の被爆者の人生が、表現者を得て、このような物語として紡がれた。そのめぐり合わせに驚く。

 

この作品は、日本と深く関わりをもったパストーレ自身の記録でもある。ほぼ著者自身のものと思われる日本社会の観察や戦争に関する考察は、本書の読みどころのひとつである。

 

付記によれば、この小説は2011年3月の原発事故を受けて書かれた。現在またあらたに、核に生を翻弄される人々がいることへの危惧が本書には込められている。

 

文:シナモン陽子

 

f:id:djmasao:20191028203421j:plain

↑ イタリアでももちろん大人気の村上春樹を多く訳しているアントニエッタ・パストーレ。彼女の翻訳術に迫ったインタビューはこちら。イタリア語だけど、興味のある方はぜひ。

いかがだっただろう。広島・長崎に続き、福島という美しき土地の名を、FUKUSHIMAというアルファベットで、そう、核と放射能の代名詞として世界に知らしめることになるにいたったことに、僕は改めてうなだれてしまいもした。読後、パストーレさんが筆を執った意味に、あなたも思いを致してほしい。

『トスカーナの幸せレシピ』レビュー

どうも、僕です。野村雅夫です。今月11日にYEBIS GARDEN CINEMAで封切られ、現在全国順次公開中のイタリア映画『トスカーナの幸せレシピ』。また1本、こうしてイタリアの作品が日本に紹介されたことを記念して、京都ドーナッツクラブでは2本のレビューを順次こちらで綴ります。まずは、関東在住で、メンバーの中ではいち早く鑑賞したココナツくにこによる文章を、オフィシャルサイトから引用したあらすじに続いてどうぞ。(セサミあゆみによる2本目のレビューは、11月6日にアップしました)

f:id:djmasao:20191022203536j:plain

海外の超一流店で料理の腕を磨き、開業したレストランも成功させた人気シェフのアルトゥーロ(ヴィニーチョ・マルキオーニ)。しかし、共同経営者に店の権利を奪われたことで暴力事件を起こし、順風満帆だった人生から転落。地位も名誉も信頼も失った彼は、社会奉仕活動を命じられ、自立支援施設「サン・ドナート園」でアスペルガー症候群の若者たちに料理を教えることになった。 無邪気な生徒たちと、少々荒っぽい気質の料理人の間には、初日からギクシャクした空気が流れる。だがそんな生徒のなかに、ほんの少し味見をしただけで食材やスパイスを完璧に言い当てられる「絶対味覚」を持つ天才青年グイードルイージ・フェデーレ)がいた。祖父母に育てられたグイードが料理人として自立できれば、家族も安心するだろうと考えた施設で働く自立支援者のアンナ(ヴァレリア・ソラリーノ)の後押しもあり、グイードは「若手料理人コンテスト」へ出場することになった。アルトゥーロを運転手にして、グイードは祖父母のオンボロ自動車に乗り込み、コンテストが開催されるトスカーナまでの奇妙な二人旅が始まる。

 

監督:フランチェスコ・ファラスキ

脚本:フィリッポ・ボローニャ、ウーゴ・キーティ、フランチェスコ・ファラスキ

出演:ヴィニーチョ・マルキオーニ、ヴァレリア・ソラリーノ、ルイージ・フェデーレ

原題:Quanto basta

配給:ハーク

2018年、92分

短気な元一流シェフのアルトゥーロと、アスペルガー症候群の青年、グイードが料理を通じて友情を育む物語。トスカーナの美しい景色を背景に、笑いや感動をQtanto basta(程々)に織り込んだイタリアらしい、心温まる映画である。

 

傷害罪で逮捕されたアルトゥーロは減刑の条件として社会奉仕活動を命じられ、障害者支援センターで料理を教えることになる。そこで出会ったのが僅かな味見で食材と調味料を全て言い当てることのできる、絶対味覚の持ち主グイード。そんな彼がトスカーナで開催される若手料理コンテストに出場することになり、指導役のアルトゥーロと共に初めての旅行に出発するが…

f:id:djmasao:20191022204505p:plain

全体的に物語がうまく行き過ぎている感じがするが、意外にも深みのある映画である。アスペルガー症候群とは、知的障害を伴わない自閉症の一つで近年、年齢を問わず拡大している障害の一種。見た目では判断しにくく、世間の認知度も低いため、いじめやトラブルになることが多い。そんな中、口が悪く怒りっぽい中年男と世間知らずで融通の利かない青年が感化し合うのが新鮮だ。付添人のはずが、逆に主人公が人間性を取り戻していく様に、観客は胸が熱くなる。そのほか恋愛面においてもQuanto basta(程々)を上手に効かせるあたり、さすがはアモーレ(愛)の国、イタリアである。近頃発達障害者の社会適応が問題になる中、本作品がアスペルガーを知るきっかけとなり、一つの生き方に囚われない多様性を理解する社会になって欲しいと思う。

 

とはいえ世間にはどうしても理解し合えない人達もいるわけで… その辺りの演出も見事だった。また脇役陣も素晴らしく、旅する2人を大きな愛で見守る自立支援責任者兼心理学者のアンナや、アルトゥーロの師である伝説の料理人チェルソも良い味を出していた。本作は、日頃生きづらさを感じている人、人生の意味を見い出したい人に特にお勧めである。きっと誰もが鑑賞後に、何らかのヒントを得られることだろう。

 

最後に欲を言うならタイトルにもうひと工夫欲しかった。さすがに邦題で「適量」あるいは「程々」の漢字二文字は厳しかったのかもしれないが、『トスカーナの幸せレシピ』だとどうも違和感を感じるのは私だけなのだろうか。

 

文:ココナツくにこ

『ジョーカー』短評

FM COCOLO CIAO 765 朝8時台半ばのCIAO CINEMA 10月22日放送分
映画『ジョーカー』短評のDJ'sカット版です。

f:id:djmasao:20191021220611j:plain

1981年のゴッサムシティ。アーサー・フレックは、場末のアパートで病気がちの母と二人暮らし。コメディアンを目指しながら、派遣のピエロとして働くことで、糊口をしのいでいます。緊迫した状況になると笑いだしてしまうなど、精神的な持病を抱えていることもあり、市の福祉サービスから支給される薬で症状を抑えてはいたものの、それも市の方針転換により打ち切りとなります。街へ出れば、いわれなき暴力や偏見にさらされる中、ある日、ピエロの同僚から、護身用にと拳銃を受け取るのですが…

ダークナイト (字幕版) ハングオーバー! 消えた花婿と史上最悪の二日酔い (字幕版) 

DCコミックスのご存知「バットマン」シリーズに登場するヴィラン=悪役のジョーカー。彼がいかにして生まれたのかを描く前日譚です。がしかし、それはあくまで形式的なことというべきで、鑑賞にあたって特に予備知識の必要を感じないほど、ほぼ独立した物語となっています。アーサー=ジョーカーを演じるのは、ホアキン・フェニックス。そのアーサーが憧れるテレビの人気トーク番組「マレー・フランクリン・ショー」の司会者マレー・フランクリンをロバート・デ・ニーロが担当しています。監督・脚本は、「ハングオーバー」シリーズで知られる、現在48歳のトッド・フィリップス。さらに、ブラッドリー・クーパーが監督と一緒に製作に名を連ねています。
 
先月7日まで開催されていたヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞に輝きました。日本でも公開から2週連続で観客動員数1位を記録していますが、これだけの話題作ということで、僕は先週映画おみくじを引く前に、地元MOVIX京都で観ていました。それでは、映画短評、今週もいってみよう!

この企画を耳にした時に、人気も評価もマーベルの後塵を拝しているDCの起爆剤となれば面白いことになりそうだと思う反面、監督がコメディー畑のトッド・フィリップスなのはなぜなんだろうか、そしてなぜ今ジョーカーなのか、すんなりとはわからずにいました。ところが、鑑賞後、いや、鑑賞中から膝を打つことしきりでした。打ちすぎて、膝がほんのり赤くなったくらいです。まず、トッド・フィリップスのように振り切れたコメディーを手がけられる人は、現実の社会の歪み、そして笑える話の向こうにある悲劇にも敏感であるということ。劇中でチャップリンが何度か引用されていましたが、彼も悲劇と喜劇、そして社会批評を同時に扱えた才人でした。そして、なぜ今ジョーカーかってことですが、このジョーカー誕生の物語がとても今日的だってことです。考えるまでもなく、今のアメリカは国境に壁を作り、国内にも見えない壁をいくつも作って社会の分断が進行しています。日本も社会の格差はずんずん進行中。南に目をやれば、香港では民主化運動が収束の気配を見せないでいます。僕たちは80年代の架空の都市ゴッサムシティで起こるできごとを観るんですが、そこには僕たちが生きる現在が透けて見えるんです。

モダン・タイムス Modern Times [Blu-ray] 

僕の嫌いな言葉に自己責任ってのがあります。この映画を観て、アーサーに「自己責任だよ」と吐き捨てることができる人がいるでしょうか。確かに、暴力はいけないことですよ。彼の取る行動の多くは、褒められたものではないです。でも、彼にかけられた優しい言葉は数えるほどしかなく、差し伸べられたのは救いの手ではなく、拳銃でした。これでもかと彼という存在を絡め取っていく理不尽な出来事と状況を前にして、僕たちには笑うことも糾弾することもできないのではないでしょうか。自己責任と人が口にする時、そこに巣食う価値観は無関心です。アーサーは社会の誰からも関心を持たれない中、人々に笑いを提供しようとして涙を流します。

イコライザー (字幕版) 

僕は思いましたよ。ここにデンゼル・ワシントン演じるイコライザーがいればなぁって(笑)
アーサーを気にかけてくれる圧倒的な力と優しさを持つ人がいればなぁって。でも、いるのは、彼をあざ笑い、無下にする人ばかりです。光と闇が強烈に明滅する深夜の地下鉄。ドラマが悲劇へとアクセルを踏み込むできごとが起こるんですが、あの照明はまさに彼の心の揺れを代弁していました。
 
それで言えば、あの急すぎる階段もすごかった。社会の理不尽な厳しさと、そこで生きる辛さ、一歩間違えばたやすく転げ落ちる恐怖を映像で端的に示していました。同様に、坂道の見せ方もうまかったです。さらには、精神的な持病を抱えるアーサーの幻覚を編集でうまく表現していましたね。ハッとギョッとさせられたし、あれほどの絶望はここしばらく味わったことのないってレベルでした。

f:id:djmasao:20191021221712j:plain

でも、それもこれも、もちろん、ホアキン・フェニックスの怪演があってのこと。あの痩せこけた身体。ピエロのメイクをしてもよくわかる悲しみ。不気味さの向こうにある優しさ。相反するものを常に同居させていました。
 
ただ、僕が真に恐ろしかったのは、アーサー個人の物語が一気に社会的なものへと変貌していく後半です。偽善的なメディアがアーサーをさらに追い込むのと同時に、民衆の怒りと鬱憤が一気に沸点へ。あの爆発的な負のエネルギーの中にあっては、スーパーヴィランたるジョーカーですら簡単に身を隠せるのだという現実でした。

f:id:djmasao:20191021221508j:plain

それにしても、『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』のデニーロをキャスティングしたのは、映画史的に考えてみても深みがあって見事だったし、チャップリンの特に『モダン・タイムズ』を引用してみせたのは、あれから80年経った今も、個人の尊厳が社会によって奪われるというテーマが有効であるということを僕たちに実感させてくれました。
 
アーサーがピエロ派遣会社を去る時、出入り口に掲げられた「Don’t forget to smile」という札のforget toをマジックで塗りつぶし、「Don’t smile」としてしまったあの絵が、僕の脳裏に焼き付いて離れません。恐ろしい作品が世に出てしまったとも言えるし、出るべくして出たとも言える大傑作でした。

f:id:djmasao:20191021221627j:plain

でも、今話してきたような僕の優等生的な解釈も成り立つのと同時に、トッド・フィリップスの演出が見事なのは、起こった出来事のどこまでが事実で、どこからがアーサーの幻想なのかが逐一ぼかされていることです。だからこそ、みんな眠れなくなるんですよ。わからなくて、考えちゃうから。ってな僕らのもやもや自体をジョーカーがどこかからあざ笑っているようでもあり、トータルとして、やはり徹底してジョーカー映画だってことも言えるのがすごい。サントラにもあったチャップリンのスマイルを、今日は小野リサのカバーでお送りします。
 さっき、僕はイコライザーがいればなぁって言いましたけど、悪人を成敗するイコライザーや、それこそバットマンと、アーサーの取る行動は何が違うんですかっていう見方もできちゃうほど、両義的でもあります。いやはや、とんでもないよ!


さ〜て、次回、2019年10月29日(火)に扱う映画は、スタジオの映画おみくじを引いた結果、『イエスタデイ』となりましたよ! 今月からおみくじスタイルになったことで、毎度お賽銭をマジで300円取られるのは辛いところですが、その分、観たいものが当たるとテンションが急上昇するという利点があることを発見しました。むふふ。やったぜ。まぁ、ジョン・ウィックも観たかったんですが、これはプライベートにとどめるしかなさそう。ともかく、あなたも鑑賞したら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。

『ヒキタさん! ご懐妊ですよ』短評

FM COCOLO CIAO 765 朝8時台半ばのCIAO CINEMA 10月15日放送分
映画『ヒキタさん! ご懐妊ですよ』短評のDJ'sカット版です。

f:id:djmasao:20191013153915p:plain

49歳の作家、ヒキタクニオは、一回り以上年下の妻、サチと二人暮らし。夫婦円満、仲睦まじいふたりは、子どもは作らずにやっていこうと決めていましたが、ふとした拍子に心変わりしたサチが「ヒキタさんの子どもが見たい」と打ち明けたことで、ふたりの妊活が始まります。ところが、ファーストステップであるタイミング法を取り入れてみるものの、1年経っても授かりません。それではと、ふたりはクリニックで検査を受けることに。すると、不妊の原因はサチではなくクニオにあるとわかります。そこからふたりのさらなる奮闘が始まるのですが…
作家ヒキタクニオが2012年に光文社新書で発表したエッセイ『「ヒキタさん! ご懐妊ですよ」ー男45歳・不妊治療はじめました』を、『ぱいかじ南海作戦』や『オケ老人!』で知られる細川徹監督が脚本も書いて映画化。主人公のヒキタを、これが実は映画初主演となる松重豊が演じる他、サチを北川景子、担当編集者を濱田岳、サチの父親を伊東四朗、夫婦の担当医を山中崇(たかし)がそれぞれ担当しています。プロデュースは、前田浩子。彼女は『スワロウテイル』でプロデューサーとしてデビューした人ですが、タランティーノの『キル・ビル』にも関わりつつ、『百万円と苦虫女』など、硬軟、そして洋邦問わず、映画的嗅覚に相当優れている方とお見受けしました。公式サイトでは、監督との対談も読めるので、ぜひ。
 
大作、話題作がたくさん劇場にかかる中、僕につきあって観に行ってくれた皆さん、ありがとうございます。調べて驚いたのが、たとえば梅田ではまったくかかってないし、僕の住んでいる京都市内でも中心部の劇場ではどこもやっていなかったんですよ。そんな中、僕は先週木曜の昼下がり、MOVIX尼崎でばっちり観てまいりました。それでは、4分弱でお送りする映画短評、今週もいってみよう!

僕は今40歳ということで、周囲の友達にも色んなケースが当然ながらあります。好むと好まざるとにかかわらず、シングルでいる人。結婚はしたけれど、子どもは作らない選択をしている人。妊娠を望んではいるものの、なかなか授からず、ヒキタ夫婦のように、妊活にいそしむ人。それから、若い時に子どもが生まれた人、アラフォーになってから授かった人、子だくさんの人などなど。僕の身の回りだけでも、千差万別ですよ。この作品は、そのどのケースの人にとっても満足度の高いものになっていると思います。晩婚化、少子化という社会問題にも直結するし、性や人生設計にまつわるナイーブなテーマでありながら、深刻になりすぎず、かといって軽んじることなく、ちょうどいい加減でヒキタ夫婦を笑いながら涙しながら応援できるような作りになっているんです。というわけで、脚本と監督、いずれもを手がけた細川徹さんの手腕の一端を見ていきたいんですが、その前に、一言だけ言わせてください。
 
役者が全員、うますぎる!
 
松重豊にしろ、北川景子にしろ、まちゃおに言われなくても、うまいのは知ってるって話でしょうが、本作での演技は出色です。なおかつ、ラーメン屋の兄ちゃんや、サチの両親、そして出版社のスタッフたち、看護師、そしてクリニックでふと出会うような、名前がはっきり出てこないような役にいたるまで、みんなそれぞれの人生を生きてるんだってことが伝わってくるんです。あの世界を、あの現実をそれぞれのやり方で生きてるってことがわかるんです。たとえば、濱田岳演じる担当編集者が自分の私生活を語る時のバツの悪そうな顔。そして、クリニックの受付でヒキタさんが握手をする看護師の手つき。こうした仕草や細かい顔の表情がどれひとつ取っても、そこにさり気なくも強烈な実在感を与えているんです。

f:id:djmasao:20191013161046j:plain

とまぁ、演技のことは枚挙にいとまがないんですが、それもこれも話運びと演出の巧みさがあってのこと。基本的には、作りはオーソドックスで、劇映画の基本である、繰り返しとそこで生じる差異・違いをベースにしています。ロボット掃除機、カレンダー、飼っているクラゲ、壁の張り紙、ヒキタさんが自分の体液を運搬する様子、クリニックの小窓に提出する様子、そしてジョギング。そして、サチの親との対話。編集者たちとの対話。いずれも何度も画面に出てくるんだけれども、似たようなシチュエーションでありながら、ひとつとして同じではない。その差異が伏線となり、その回収となって、彼らの人生における非日常的な日常生活を立体的に描写します。これを徹底してやっているんです。役者も役者で、似たような場面だからこそ、それぞれ異なったアプローチが求められるし、それに愚直に対応した結果、さっき触れたような一級の演技がスクリーンに焼き付いていると言えます。しかも、誰もクドクドと説明しないし、想像の余地を残しているからこそ、多くの観客に付け入る隙きを与えています。

f:id:djmasao:20191013161109j:plain

音楽も良かったです。大間々昴さんという88年生まれの新進の音楽家なんですが、バンドサウンドのサントラは英語詞の上質なインディー・ロックのテイストで、爽やかで切ないし、ホーンセクションのラテンのリズムもお手のもの。適切な距離感で物語を彩っていました。
 
考えてみれば、タイトルで究極のネタバレをしている本作ですが、この物語が描いているのは、子どもが生まれるか否かではないとも言えるんです。ふたりの人間としての成長であり、当たり前だけど、大人も成長するし、それが仕事にまつわるものには限らないってことですよ。そして、究極に一般的・普遍的なことを言えば、生きるって困難だらけだけど楽しいじゃんってこと。
 
スタジオの映画神社よ、ありがとうと心から感謝できる良作でございました。みんなして応援しようって言いたくなる一本を、ぜひあなたもお近くの、いや、遠くとも劇場で観てください。
 
 不妊治療そのものが、劇映画の題材となることはまだまだ少ないわけですが、特に男性のものとなると、輪をかけて僕の記憶にも引っかかりません。例外は、イタリア映画『モニカ・ベルッチの恋愛マニュアル』。ラジオDJの放送が各エピソードを紡いでいくオムニバス作品ですが、そこでやはりラジオDJとして実際に有名なファビオ・ヴォーロが、イタリアからわざわざバルセロナまで不妊治療を受けに行くというお話がありました。こちらもやはり、軽妙なタッチ。僕はローマの映画館で鑑賞したんですが、劇場では観客がどっかんどっかん笑っていたことを覚えています。全体としてもとても面白いので、比較してみると良いかもしれません。それにしても、イタリアと日本は色んな社会問題を共有する相似形の国だと前から思っていたけれど、人口のせいなのか何なのか、必ずと言っていいほど、その問題を先んじてイタリアが経験するんです。この映画は2007年ですからね。その意味でも、イタリア映画の鑑賞は、僕たちの社会の行く末を垣間見るようで面白いですよ。

モニカ・ベルッチの恋愛マニュアル [DVD]

さ〜て、次回、2019年10月22日(火)に扱う映画は、スタジオの映画おみくじを引いた結果、『ジョーカー』となりました。やったやった! 当たりました。でも、これはこれで観るにはいいけど、評するのは大変そうだ。ま、あなたも鑑賞したら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。

『葬式の名人』短評

FM COCOLO CIAO 765 朝8時台半ばのCIAO CINEMA 10月8日放送分
映画『葬式の名人』短評です。

f:id:djmasao:20191007215759j:plain

28歳、シングルマザーの雪子は、安アパートで小学生の息子あきおとつましい二人暮らし。ある日、高校時代の同級生、吉田くんの訃報が彼女のもとに届きます。彼は、茨木高校野球部史上屈指のピッチャーでしたが、かつて右腕を壊し、高校卒業後は海外を放浪。久々に帰国して母校に立ち寄った矢先の死でした。吉田とバッテリーを組み、今は母校の教師となっている豊川など、卒業から10年ぶりに顔を合わせる同級生たちですが、混み合う葬儀場が塞がっているせいで、彼らはやむなく茨木高校へ友の遺体を運び、間に合せの通夜を行おうとするのですが…
 
茨木市の市制70周年記念事業として、市の全面協力で製作されたこの作品。雪子を前田敦子、豊川を高良健吾、そして亡き友の吉田を白洲迅しらすじん)が演じています。監督は樋口尚文電通のコピーライターだった方ですが、僕は優れた映画評論家として認識しています。評論もいろいろ読んできましたし。映画監督としては、これが2本目。

ロマンポルノと実録やくざ映画―禁じられた70年代日本映画 (平凡社新書) チャップリン 作品とその生涯 (中公文庫 お) 

で、キーマンは、プロデュースと脚本を担当した大野裕之。大野さんは、日本、いや、世界を代表するチャップリン研究者。僕はかつてイタリアのとある映画祭で彼がその功績を讃えられているところを客として見た経験があります。一方で、彼はとっても便利というミュージカル劇団を京都で長年主宰しているんですが、大野さんの出身が茨木高校。その大先輩が、文豪川端康成というわけ。
 
今作では、その川端康成のエッセイや小説をモチーフに物語が構築されています。
 
僕は大野さんから送っていただいたサンプルDVDで公開前に一度、そして日曜夜に梅田ブルク7でちゃんと自腹で観てまいりました。それでは、映画短評、いってみよう!

豪華キャストに惹かれて観に行った人は、わりと高い確率で面食らっている様子、番組に届いたCIAOリスナーの感想からもうかがうことができます。やれお話がツギハギで脚本がなってないだの、途中で出てくるファンタジックな演出に興を削がれただの。予算が少ないからか、自主映画の粋を出ていないなんて声もあります。なるほど。確かにウェルメイドな大作をメインに観ている人は、慣れない展開に驚いたことでしょう。でも、僕はそんな演出や物語展開を浮世離れしたものと表現したい。
 
そもそも、設定そのものが、浮世離れしているんですよ。死んでしまった吉田は、怪我に泣いて野球部をドロップアウト。美術を志した後、進学校だけれど大学には行かずに渡米。母校にフラっとやって来て、偶然とは言え、ボールを追いかけて事故で亡くなる。「浮世離れ」の意味を改めて考えると、世間の常識からかけ離れた言動や事柄のこと。周囲のことを頓着せずに我が道をいくってことでもある。浮世離れな人生を駆け抜けた吉田の葬式です。結果として、ライフスタイルの生き方もそうだけど、あの世への「逝き方」もゴーイングマイウェイなんです。それをお定まりの演出で映画にしてどうするんですか。

f:id:djmasao:20191007220806j:plain

同級生たちは棺桶担いであっちをうろうろ、こっちをうろうろ。この設定には、ヒッチコックの『ハリーの災難』を連想させるところもありつつ、茨木高校に実際にあるという古墳時代の石棺を使ったギャグや、死体がまさかの行方不明ってくだりにも、ニンマリ。そして、もの言わぬ死者という欠落を中心に、関係者が思い出の輪をドーナツ状に広げていく構成も、それ自体珍しいものではないけれど、そこに川端康成の作品群を掛け合わせることで奥行きが出ていました。
 
一方、僕にだって気になるところは、そりゃありました。代表的なのは、その演劇っぽさです。今の映画はワンカットがとにかく短いものが多いんですけど、これはあまりカットを割らない。それ自体はいいんだけど、大野さんが演劇畑の人であることも影響しているのか、特に室内の大人数のシーンは舞台の演出だろうってのが多かったです。こっちでこんなボリュームで喋ってたら、奥でも聴こえてるはずなのに、そこはスルーみたいなのって、完全に演劇の文法なんで、多用されると違和感が出てきます。説明ゼリフも多くて、もう少しブラッシュアップしてほしかった。演劇なら気にならないんだろうけど。でも、そこも余韻をあえてカットするような切れのある編集が救っていたし、致命的では決してないと思います。

f:id:djmasao:20191007220919j:plain

後半の幽霊まがいの一連のシーンだって、もともと川端のモチーフも素っ頓狂なんで、映画もそうなってます。あの敢えての古臭いCG使いも笑えます。そして、夜のグラウンドでメインの3人が再会したと思ったら、またしてもあるきっかけで闇に文字通り淡く消えていく吉田の映像なんて、今も目に焼き付いています。
 
号泣したり、ドッカンドッカン笑ったりするようなものではないし、胸をかきむしるようなメッセージがあるわけではないですが、軽妙で愛おしい1本です。初めて観た後、何日かした後に朝起きて、ふとこの映画のことを思い出したんです。まるで、死んだ誰かの思い出が、不意に頭をよぎるように。
 
以上、そこそこ浮世離れした人生を送っているような気もする僕の短評でした。

僕がこの映画を思い出した時に、ふっと浮かんできました。お葬式の様子を、亡くなった人の視点で歌う珍しい曲です。


さ〜て、次回、2019年10月15日(火)に扱う映画は、『ヒキタさん! ご懐妊ですよ』となりました。そうそう、FM802からFM COCOLOに引っ越しをして、作品の選定システムが変わりました。スタジオには「映画おみくじ」と賽銭箱が設置され、僕は毎週300円のお賽銭を払いつつ、放送中にその場でおみくじを引いて、公開中の作品6本の中から、翌週の課題作が決まります。映画神社ってことですね。『ジョーカー』が観たかったのが本音ではあるけれど、結果的には「葬式」から「ご懐妊」と、なんだか命の循環を感じる滑り出しとなりました。

 

それにしても、賽銭箱にたまっていくお金、僕のポケットマネーはどうしようかなぁ。ある程度の金額になったら、使い道を考えないと。あなたも鑑賞したら #まちゃお765 を付けての感想Tweetをよろしくです。

『アド・アストラ』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2019年9月26日放送分
映画『アド・アストラ』短評のDJ's カット版です。

f:id:djmasao:20190926193144j:plain

舞台は、そう遠くない未来。主人公ロイの父は、地球外知的生命体の存在を探求し続け、宇宙探査のパイオニアとして遥か彼方へと飛び立ったのですが、16年後、地球から実に43億キロ離れた太陽系の彼方で行方不明になります。ロイは父の後を追うように宇宙飛行士として活躍していたのですが、ある日、宇宙から到達したサージと言われる電気嵐のおかげで、地球は惨事に見舞われます。そんな折、宇宙軍の上層部からロイにもたらされた知らせは、父が実は海王星で生存していて、地球に壊滅的な被害を及ぼしかねない計画に関わっている可能性があること。ロイは父を説得するため、宇宙へ旅立つのですが…

スペース カウボーイ(字幕版) アルマゲドン (字幕版)

 ロイを演じるのは、2週前に『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でそのあまりのかっこよさに言及したばかりのブラッド・ピット。今作は彼が抱える会社プランBエンターテインメントの制作ということで、プロデュースもブラピが手掛けています。ロイの父を演じるのは、トミー・リー・ジョーンズ。日本では缶コーヒーを飲む宇宙人として知られていますが、かつては『スペース・カウボーイ』にも出演していました。その時に共演していたドナルド・サザーランドが、ロイの父の同僚として登場するので、映画ファンはニヤリです。他にも、『アルマゲドン』のリヴ・タイラーがロイの別れた妻を演じています。

インターステラー(字幕版) ダンケルク(字幕版) 

残念ながら受賞は逃しましたが、今月閉幕したヴェネツィア国際映画祭で初上映された話題作です。監督・脚本は、そのヴェネツィアで銀獅子賞獲得経験のあるジェームズ・グレイ。撮影は、オランダのホイテ・ヴァン・ホイテマ。『インターステラー』『007 スペクター』『ダンケルク』の撮影監督です。
 
それでは、制限時間3分の短評、そろそろいってみよう!

まずはタイトルの『アド・アストラ』ですが、冒頭にテロップで示されるように、英語にすればTo The Stars「星々のかなたへ」という意味のラテン語です。あえてラテン語にすることによって、重厚な雰囲気、神話的なムードを醸しているんだと思いますが、それもそのはずで、これは『インターステラー』や、まして『スター・ウォーズ』とはまるで違う、宇宙を舞台にした内省的な旅の物語です。一応ジャンル上はSFにはなるものの、わくわくする輝かしい未来を見せるフィクションというよりは、現状の宇宙開発の延長にあるファクト=事実に基づいているし、テーマとしてはサイエンス=科学というよりは、精神の話なんです。だから、広大な宇宙空間やそこにポツンと小さく浮かぶ人間なんかの絵面は、むしろ僕らの脳内に広がる内なる世界の比喩のようにすら見えてきます。
 
かといって、抽象的で退屈な作品というわけでは決してない。序盤、地球の大気圏ギリギリに浮かぶ巨大な宇宙アンテナの外で作業中にサージを受けて落下するロイ。月面の荒野で火蓋が切られる西部劇的なカーアクション。何度か起こる宇宙船内でのバトルなど、手に汗握る、背筋が寒くなる場面もあちこちに効果的に配置されています。だから、見せ場はちゃんとあるんだけど、全体として、主題が哲学的だってことです。

f:id:djmasao:20190926195152j:plain

こういう宇宙ものですから、必ず引き合いに出されるのは、去年このコーナーでもIMAXリバイバル上映を扱ったキューブリック68年の『2001年宇宙の旅』。画面構成や宇宙服のヘルメットに映るイメージの活用など、映像的にはもちろん影響下にありますが、50年経った今、テーマはこちらは随分違います。「2001年」では、人が生み出したAIに人が翻弄されるという図式がありましたけど、今作ではむしろ人間そのものの孤独とか、人と人との心の距離、もっと言えば、人間を人間たらしめるものは何かってことだと思います。探究心を突き詰めた結果、どんな生物もいない宇宙の果てで、人の心はどうなるのか。その意味で同時に振り返りたいのは、監督や共同脚本家がインタビューで語っている通り、コッポラの映画『地獄の黙示録』とその原作となったジョゼフ・コンラッドの小説『闇の奥』です。

地獄の黙示録 特別完全版 [AmazonDVDコレクション] [Blu-ray] 闇の奥 (光文社古典新訳文庫) 

ロイは厭世的で、批判精神が旺盛、だけれども、常に冷静沈着、それがゆえに心拍数も上がらない人物として描かれています。そんな彼が、英雄たる父に会いに、地球、月、火星、海王星と、宇宙の奥へ奥へと旅立つ。そこで次々と遭遇するのは、人間と文明の闇です。恐らくはロイの予想を越えた闇。だから、これは一種の地獄めぐりでもあるんです。最初からほぼ最後まで、作品には常に死の気配が漂っていますね。あるいは死そのものも目撃することになる。しかし、考えてみれば、ロイはもともと死んだように生きてきた人です。シンプルにまとめればただの「行って来い」のこの物語の中で、人間のアイデンティティ・クライシスをいくつも目撃する中で、闇の奥で、無重力で、絶望の先にかすかな希望を見出し、宙に浮いていた人生の意味にタッチして、生きる喜びに重力を与えて着地することはできるのか。死んだ目をした彼は生き返ることができるのか。そのあたりがポイントですかね。

f:id:djmasao:20190926195421j:plain

いくぶん抽象的な表現をしましたが、それぐらい文学的な内容を感覚的に経験させてくれる作品です。何より、ホイテ・ヴァン・ホイテマの生み出す映像の圧倒的な美しさは大きなスクリーンで観ないといけないし、練られたサントラと宇宙ならではの無音も映画館でないと味わえません。さらには、やはりブラピです。初めて宇宙へ行ったブラピ。ヘルメットを被っている場面が多いので、必然的に表現は顔に集約されます。クローズアップでこれでもかと堪能できるブラピの顔面力。眉毛や頬の動きで見事に伝えきる演技には仰天です。
 
じっくり鑑賞して秋の夜長に余韻に浸るには最高の『アド・アストラ』。あなたも、いざ宇宙へ。

 

 もちろん、サントラからではなく、僕の鑑賞後の余韻はこういうテンポ、雰囲気なんだよなって感じで、今年のグラミー賞最優秀カントリーソングであるSpace Cowboy / Kacey Musgravesをお送りしました。トミー・リー・ジョーンズドナルド・サザーランドが出てるってので、どうしたって『スペース・カウボーイ』も意識しますしね。
 
さて、Ciao Amici!では1年半、そしてFM802では前の番組Ciao! MUSICAの頃から合わせると、計6年半にわたって、毎週実施してきた映画短評も、これが最後。放送では、毎週お告げをくれていた109シネマズ大阪エキスポシティ、箕面HAT神戸それぞれの映画の女神様からリクエストまでいただき、僕としてはそりゃもう感無量でした。そして、何より、毎週の課題作につきあってくれたリスナーのひとりひとりに感謝申し上げます。ありがとうございました。

f:id:djmasao:20190926195549j:plain

↑ 109シネマズ大阪エキスポシティでの試写会MCに備える僕(笑)
 
なんか、もうラジオでの映画評はやらないみたいになっていますが、10月1日からは姉妹局FM COCOLOの新番組CIAO 765(月ー木、6時ー11時ちょっと前)に舞台を移して、これからも毎週実施していきますので、変わらぬご愛顧、よろしくお願いします。課題作の選定方法などやり方を変更するつもりですので、まずは初日の10月1日(火)、朝8時台にそのあたりをまとめてお話しますね。ということで、すみませんが、映画評は1週お休みいたします。

cocolo.jp

『記憶にございません!』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2019年9月19日放送分
映画『記憶にございません!』短評のDJ's カット版です。

f:id:djmasao:20190918225056j:plain

憲政史上最悪の総理大臣として、支持率2.5%という驚くべき低空飛行を続ける黒田啓介。尊大で傲慢。自己顕示欲が強く、金と権力を心底愛し、不正にも躊躇なく手を染める。態度も悪く、都合が悪くなると「記憶にございません」と開き直る。野党第2党の女性党首とは良からぬ関係にあって、妻には愛想をつかされ、息子にも一切尊敬されていない。あらゆる面で見どころのない黒田総理は、ある日、演説中に市民からの投石を額に受けて病院にかつぎこまれる。大事にはいたらなかったものの、目覚めると記憶がない。子どもの頃のことは何となく覚えているものの、大臣たちの顔も名前も、本会議場の場所も、家族や秘書たちも、ひいては自分が総理大臣であることすら忘れてしまい、ただの善良な普通のおじさんに変貌。さあ、どうなる!?
 
監督・脚本は三谷幸喜。60周年アニバーサリーのフジテレビと東宝がタッグを組んだ作品ということで、三谷監督が一緒にドラマを作ってきた元フジテレビの石原隆、そして東宝の社長市川南が製作を担当しています。キャストはいつものように、錚々たる面々が揃いました。黒田総理を中井貴一、夫人を石田ゆり子、首相秘書官をディーン・フジオカ小池栄子がそれぞれ演じるほか、斉藤由貴木村佳乃、吉田羊、田中圭寺島進梶原善ROLLY草刈正雄佐藤浩市なども演技を披露しています。

ラヂオの時間 王様のレストラン Blu-ray BOX 

先週のタランティーノに続き、三谷作品も、実はこのコーナーで評するのは、この6年半で初となります。基本的なスタンスをお伝えしておくと、熱心とまではいかないけれど、僕は結構なファンです。エッセイもそこそこ読んでるし、ドラマも『王様のレストラン』『古畑任三郎』『HR』あたりはリアルタイムで追っかけて観てましたし、監督作も『清須会議』を除いて、すべて観てます。舞台も初期を中心に観ていて、DVDを持っているものもある。ですが、正直なところ、監督作については、そう高く評価していなくて、いまだに97年のデビュー作『ラヂオの時間』が一番好きっていう感じです。そんな僕が今作をどう観たのか。
 
それでは、制限時間3分の短評、そろそろいってみよう!

三谷幸喜は稀代の映画マニアで、ビリー・ワイルダーが好きだってことも有名な話です。一方で、もちろん演劇が好きで、テレビも好き。要はお話、広い意味でのフィクションが好きなんだろうと思うんですよね。というのも、これまでの監督作を観ている限り、映画というフォーマットの特徴を活かしたというよりは、むしろ演劇っぽいカメラワークと演出が多くて、映画としてはどうなんだっていうところを中心に映画ファンの不評を買っていたんだと思います。その意味で、映画監督としては、お世辞にもうまいっていうタイプではないんですね。
 
では、今作はどうだったのか? やはりですね、良くも悪くも記憶に残らない演出が多かったです。今思い出してみても、良かったところ、いまいちかなってところ、それぞれ画面・映像がどうっていうより、物語とか衣装とか役者の動きなんです。でも、ここはこれまででも屈指だったんじゃないかと感じたのは、リズムです。それも、編集のリズム。演劇的な間と映画のそれは違うと僕は思うんですけど、今作の小気味いい全体のテンポは、編集によるところが大きいと思うし、その意味で映画としてこなれています。全幅の信頼をおく、主に常連の役者たちにのびのびと演技をしてもらい、それを編集で引き立たせていました。

デーヴ (字幕版)  

とはいえ、なんだかんだと、これは脚本の勝利です。93年、アイヴァン・ライトマン監督の『デーヴ』という、再起不能の大統領の影武者を、善良な市民がさせられるハメになるっていうコメディがあって、三谷監督はそこから着想を得ての構想13年なんて言われてますが、観ていて誰もが思うのは、実在の日本の政治家たちやその周辺で働く、というか暗躍する人物ですよ。最初にご丁寧に注意書きが示されます。「この映画はフィクションです」という、普通なら最後に出されるお決まりのもの。こういう趣旨の言葉が続きます。「実在する名前や人物が出てきたとしても、たまたまです」。これがもう風刺なんですよ。
 
かつてのロッキード事件から、モリカケ問題にいたるまで、日本の政治家が何度「記憶にない」と開き直ってきたことか。冷静に考えれば要らないだろうっていうハコモノを作ってきたか。そんなことをどうしたって意識させます。夫人の口が軽いってのもそうだし。挙句の果てには、プロモーション初期に、僕もびっくりしましたけど、安倍首相に作品を見せたうえで、「(映画の首相が記憶をなくす前の)悪い総理の時代に、消費税を上げるというのがちょっとこう、かすったな」なんて感想を引き出してますからね。よくやったよなと思います。

f:id:djmasao:20190918231149j:plain

そして、僕もしっかり笑ってしまったところがいくつもありました。野党第二党の党首、吉田羊から「合併しましょ」と色気たっぷりに抱きつかれるくだり。草刈正雄はどのシーンもうまかったし、通訳の常に淡々とした口調もクスクスしました。しかも、演じた宮澤エマは宮沢喜一元首相の孫ですよ。すごいキャスティング!
 
でも、全体として、笑いのツボは人によって違うとはいえ、大仕掛けのギャグや大胆な衣装やメイクよりも、細かい掛け合いやなんかでニヤリさせる小さな笑いを重ねているところのほうが、確実に機能していました。映画だからと張り切っているフシがある。肩に力が入っているというか。さらに、記憶を失ったことで人が変わる黒田総理を描くなら、ここはもっと以前の酷さ、ダメっぷりを、ニュース映像や他の人の回想を駆使して、つまりもっと時間を操作して、黒田自身に逐一ギョッとさせるという手もあったかもしれません。映画ならではのギャップの笑いですね。
 
ただ、ウェルメイドなコメディーの少ない日本映画において、三谷監督、名刺代わりの一本には十分になっていると思います。面白かった!
 
もちろん、映画では使われていませんが、テイラーの最新アルバムにはこんな曲があったなと思い出したので、短評の後にオンエアしましたよ。
あなたがいたことを忘れてしまった…

ローマに消えた男(字幕版)

ついでながら、三谷監督はまず観てないだろうけど、イタリア映画の『ローマに消えた男』のことも思い出しました。野党第一党の党首が突然失踪したことに困り果てた側近が、双子の兄弟を担ぎ出して替え玉とするんです。すると、周囲からも市民からも、突如人が変わったように見え、支持者を増やしていく。こちらはコメディーとは言えないトーンですが、これはこれで味わい深いので、ぜひ。


さ〜て、次回、2019年9月26日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『アド・アストラ』です。先週の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でそのかっこよさをこれでもかと見せつけた男ブラッド・ピットが、またしても登場。ワンハリを観ていたく感銘を受けた802の50代男性ディレクターが、「最近ブラピの真似をしてのアメカジなファッションなんだ」とドヤ顔で僕にアピールしてきたんですが、これを観たら、今度は宇宙服で出勤してくる可能性が高いですね。これは楽しみだ。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!