彼らはミッションを達成できるのか。まさかのチキン屋全国拡大に恋の鞘当てにお決まりの港での逃げる逃走、戦う闘争まで盛り込みます。こうした脚本の妙に加え、イ・ビョンホン監督は要所要所でCMっぽいシズル感のあるキメの構図や、インチキ・マカロニ・ウェスタン、あるいはジョン・ウー的なスローを挟むんだけど、すっかり見慣れた麻薬班の面々を改めてクライマックスでひとりひとり紹介する時を思い出していただきたい。最後の最後で明らかになる、彼らのさらなるぶっ飛び能力の数々と、それまでの不甲斐なさがあったから生まれるギャップの笑い。かっこいい絵なのに爆笑してしまう。そして、最後の一騎打ちは、『紅の豚』のラストばりの、情けなさ(笑)
映画『新聞記者』短評
さ〜て、次回、2020年5月5日(火)も「お家でCIAO CINEMA」です。スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『エクストリーム・ジョブ』でした。1月に公開されて、現在は期間限定先行配信中のこの作品。配信料金が1200円と少々お高いんですが、高い評判を聞くにつけ、その価値はあるでしょ。昼はフライドチキン店で、夜は麻薬潜入捜査官とか、面白いに違いない。そして、おいしいに違いない。そりゃ映画館で観るのがベストですが、家ではフライドチキンを食べながら観られるってのも、この際の利点としましょう。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!
『コロナの時代の僕ら』訳者インタビュー
どうも、僕です。野村雅夫です。新型コロナウイルスの感染があれよあれよと拡大した、僕の生まれた国イタリア。毎朝のFM COCOLO CIAO765で紹介できそうな記事を日本の各紙でチェックしつつ、イタリアのメディアの報道や、あちらの友人や親戚がSNSで発信する情報に目を配っていましたが、膨れ上がる感染者数と死者数に目がくらむような感覚に陥る一方、向こうのラジオの陽気さに少し安堵もしつつ、簡単に言えば、僕は軽く混乱していました。
もっと冷静に、現状を分析した文章はないものか。そんなことをぼんやりと考えていた矢先、僕の好きな作家のひとり、パオロ・ジョルダーノが書いたエッセーが評判を呼んでいるらしいと、今月上旬に知りました。読みたいなと思いながら、例によって、目の前の仕事にかまけていたところへ、しばらくすると、局内でも話題にのぼるようになり、聞けば早川書房が日本での翻訳権を獲得して緊急出版するというではないですか。題して、『コロナの時代の僕ら』。もしかして、話題の小説をどんどん訳している、現地在住の翻訳家、飯田亮介さんの仕事ではないか? 飯田さんはこれまでもジョルダーノの小説を訳してきた方だし、間違いなく信頼できる。編成部のスタッフが早速早川書房の担当編集者に連絡を取って出版前の文章を取り寄せてくれたのです。4月10日から48時間限定で全文公開された数日前のことでした。急いで読むと、数学の専門家でもあるジョルダーノの抑制の効いた、それでも熱を帯びた実直な文章は、染み入るように僕の頭に入ってきて、特に今後を見据えたあとがきには心打たれるものがありました。
ジョルダーノ本人へのインタビューは難しくとも、飯田さんなら、面識はないけれどTwitterで相互フォローしているし、時差の関係で生出演は無理だろうけれど、もしかするとメールでのインタビューなら引き受けてくれるのではないかとアプローチしました。日本で本の出る前日、4月24日(木)にリスナーに向けて改めて本書のことをアナウンスして、週末に飯田さんとやり取りをし、今日27日(月)、僕が質問と答えの双方を読み上げる形でリスナーに披露しました。ただ、FMラジオの生放送ですべてを紹介するには時間が足りず、なおかつ、声に変化がないので伝わりづらいところもあったかもしれないなと、飯田さんの許可を得て、ここに僕らのやり取りの全文を公開することにしました。ぜひ、『コロナの時代の僕ら』と合わせて、お読みください。
と、その前に、飯田さんの略歴を訳書から引用します。
イタリア文学翻訳家。1974年生まれ。日本大学国際関係学部国際文化学科中国文化コース卒。中国雲南省雲南民族学院中文コース履修。イタリア・ペルージャ外国人大学イタリア語コース履修。訳書にジョルダーノ『素数たちの孤独』『兵士たちの肉体』、フェッランテ『リラとわたし』(以上早川書房)他多数。
インタビューの内容の前に、大きな被害を受けて苦しんでいる街、ミラノ近郊、ベルガモ出身の歌手、ロビー・ファッキネッティがリリースしたこのチャリティーソングをオンエアしてから、本の概要を早川書房のサイトから引用して紹介しました。
本書は、イタリアでコロナウイルスの感染が広がり、死者が急激に増えていった本年2月下旬から3月下旬に綴(つづ)られたものです。感染爆発を予感しながらも、最悪の事態を阻めなかったみずからとイタリアの人々、そして人類のふるまいを振り返る、著者の思考と後悔の記録です。
僕らはどこで、何を間違ってしまったのか? 図らずも到来してしまった「コロナの時代」をいかに生きるべきか? 日本の私たちにとってもけっして他人事ではない、とても重要な記録であり、思索です。
以下に27の短いエッセイへのリンクを貼ってあります。お時間のない方はぜひ最後の「著者あとがき」(公開継続中)だけでもお読みください。編集部のおすすめは3章「感染症の数学」、5章「 このまともじゃない非線形の世界で」、27章「日々を数える」ですが、もちろん1章の「地に足を着けたままで」から順番に最後まで読んでいただくのがベストです。
ーパオロ・ジョルダーノのイタリアにおける評価と作風を教えてください。
勉強不足で、彼のイタリア文壇におけるポジション、現在の評価、などはいまひとつわからないのですが、小説家としてはいまだに、「あのベストセラー『素数たちの孤独』のジョルダーノ」、「史上最年少でストレーガ賞」を獲得した作家、として紹介されることが多いようです。「素数」は2008年の作品です。以来、3作の小説作品があり、それぞれ高い評価を受けているようですが、ベストセラーの声は聞こえません。
文体としては静かでミニマルな文章を書く人、という印象があります。けれども冷たいわけではなく、きちんと血が通っている。世界の美しさも醜さもとてもよく見えている優れた観察者という感じでしょうか。静かな感じは村上春樹(あるいは村上が学んだという現代アメリカ文学)にも似ているかもしれません。
ーこのエッセイのスタートは、全国紙への寄稿で、その文章が相当数シェアされたということですが、それ以降は、単行本のための企画として書き進められたんでしょうか。一冊の本になるまでの経緯を教えてください。
COVID−19の流行が始まった時、イタリアでは世論が混乱していたために、自分の理解したことを世に伝えたい、政府の国民に対する指示の理由を数学的な観点から説明してみたい、として記されたのが2月20日の新聞記事でした。
そして、記事の原稿を書き上げた一週間後くらいから、COVID−19の流行を生んだ現代社会の諸問題をまとめておきたい、という使命感にかられ、本書の執筆にいたった、ということのようです。
記事に対する大きな反響もありましたが、今書いておかないと、こうしたことは流行の終了とともに、「のど元過ぎれば」でまた忘れられてしまうのではないかという危機感が強い動機となったようです。そして、元の記事の掲載された(そして今も作者がひんぱんに寄稿する)コリエーレ・デッラ・セーラ紙と、社会問題を新書(ブックレット)のかたちで昔から出してきたエイナウディEinaudi社が共同で企画、出版にいたったようです。
ただしイタリアでは現状、電子書籍しか出ていません。3月末にコリエーレ紙の付録として紙版もいちおうキオスクで販売されましたが、正式な紙版は今は5月まで予定がずれこんでいます。恐らくロックダウンにともなう印刷所の休業等の物理的な問題でしょう。
ーイタリア人が当初の文章を多数シェアしたのはなぜでしょう? 具体的には、どんな感銘を彼らは受けたのでしょう。
おそらく、ですが、ちょうど新型コロナウイルスの流行が今の日本と同じくらいの段階にあり、まだ真偽も不確かな情報が多数錯綜する中で、科学的な視点から、しかも一般の読者にもわかりやすいスタイルで現況をていねいに説明した点が支持されたのではないかと思います。どういうことになっているのか、どうしたらいいのか、が理解できたのでしょう。
ーこのパンデミックを戦争に喩えることを詐欺だとまで表現するあとがき。そのエモーショナルでいて冷徹な反省と未来へ向けた眼差しには心打たれます。忘れたくないこと、そして元に戻って欲しくないことのリスト。僕も作りたいなと思います。個人的にも、社会的な視点でも。飯田さんが訳していて、個人的にグッと来たところ、膝を打ったところなど、感じられた魅力を挙げてください。
今回の作品のリーディングの話が来たのは3月16日でした。その段階でPDFファイルで本文を読んだ時、その内容に感銘はしたのですが、じつを言えば若干のものたりなさも覚えました。というのは、本文に当たる日記的なエッセイが3月4日のもので終了していたのに対し、現実に僕たちは3月10日から全国ロックダウンに既に入っており、感染者数も大幅に増え、事態は作品の内容よりひとつ先の段階に進んでいたからです。
(*飯田さんのお答えにある「リーディング」とは、翻訳家にまず依頼されることの多い、レジュメや資料の作成、及び、作品の評価のこと)
数日後に正式に翻訳の依頼を受け、2週間ほどでいちおう脱稿しましたが、版元の早川書房でも、このままでは内容的にものたりないと思ったらしく、「作者へのインタビューをあとがきとして追加したい、ついてはインタビューをお願いできないか」と僕に求めてきました。
とは言われてもインタビューなど経験もなく、困っていたら、作者のエージェントから、訳者あとがきの参考になれば、とジョルダーノが最近書いた新聞記事がいくつも送られてきました。
そこで出会ったのが、この著者あとがきとなった3月20日の記事です。最初の数段落を読んだだけで、「完璧だ、これで決まりだ、これをあとがきにすれば、この本は完成する」と思いました。「流行が進み、ロックダウンが実行された今、作者はどんな気持ちで過ごしているのだろう」という、本文を読めば当然沸いてくる疑問、つまり、「今ごろジョルダーノは何を考えているのだろう?」への答えがそこに記されていたからです。
今の生活を当然、苦痛に感じながらも、あくまでも今後を見据え、過去を反省し、未来を想像するひとつの機会ととらえる作者の姿勢に、やはり何よりもはっとさせられました。
アメリカの同時多発テロ9.11の際に僕が出会ったイタリア人ジャーナリスト、ティツィアーノ・テルツァーニ(Tiziano Terzani)の『反戦の手紙』のメッセージにも通じる、「今、本当に伝えるべき言葉」の力を感じ、使命感さえ持って夢中で訳し、早川書房の編集者さんに回しました。すると即座に返事があり、あとがきとして掲載が決まったのです。
こういうめぐり逢いの体験は恐らく、一生にそう何度もできるわけではないと思います。この文章のどこに感動したか、と言われると困ってしまうのですが、「これは訳さなきゃいけない」、そう思える歴史的なメッセージを日本に伝える役割を担わせてもらった、そんな訳者冥利に尽きる感動がありました。それは言えると思います。
ーお住まいのモントットーネ村と、ジョルダーノの暮らすローマでは環境がまるで違うと思います。飯田さんが今忘れたくないことは何でしょう?
(*飯田さんは、マルケ州の人口1000人という村にお住まいです。村での様子は、noteに文章を綴っていらして、こちらも非常に興味深いのでオススメですよ)
ありきたりですが、いつまでも続く気がしていた日常が、崩れる時は実にあっさりと崩れるものだ、という驚き、そんな時、自分はとりあえず何もできないものだというふがいなさでしょうか。そして、その一方、人間の世界が大混乱におちいったとしても、庭先の緑から空から、近所の林から遠くに見える山々にいたるまで、自然界はまるで何ごともなかったかのように平然とそこにある。むしろ、いつもに増して美しく見える。そのことに対しても驚きました。当たり前と言えば、当たり前なんですが。また、そうした環境に住んでいる自分の幸運に感謝する気持ちも湧きました。
ー幸か不幸か、こうした形で注目されたジョルダーノ。イタリアには、優れた現代作家がたくさんいるわりには、まだまだ紹介が進んでいないのが実情です。飯田さんにとって、海外文学を読む意義とは?
僕もけっしてイタリア文学に明るい人間ではなく、ふだん、海外文学、と意識して本を読むこともないのですが、あえて意義をあげてみるならば、世界の多様性に触れることができる点がまずひとつ、でも数を読んでいくうちに、「つまるところ、国は違えど、みんな同じ人間なのだ」という理解にきっとたどりつける、そんなところかもしれません。
頭の柔軟で、感性の鋭い読者(特に若い方々)であれば、別に僕みたいに外国語を習ったり、外国で生活などしなくても、きっと翻訳文学に数多く触れるだけで、国際感覚(というか人類という生き物に対する理解)が自然と身につくのではないでしょうか。
ーぜひ、イタリア文学翻訳者の第一人者として、今後も番組に現地のホットなトピックなど、教えていただくような機会が得られれば、とても嬉しいです。今後とも、よろしくお願いします。
こちらこそ、いつもご声援ありがとうございます。また何か機会がありましたら、ぜひお声をかけてください。あと、第一人者はやめましょう(笑) 辞書を引いたら、恐ろしいこと書いてありました。ある分野で『もっとも』優れているひとだそうです。とんでもないです。やっと中堅になれたのかな、ぐらいのつもりでいます。
最後に、せっかくなので、音楽もお好きな飯田さんのリクエストにお応えしたいなと、何かかけたいものはありますかと質問したところ…
「ぱっと思いついたのはこの5曲です。このいずれかをお願いします。今はやはり旅立ちへの憧れとか、いつも歩いていたのに急に遠くなってしまった山々に帰りたい気分が強いので、こういう選曲になりました」
番組では、Minaの曲をかけました。60年代、カンツォーネの時代を代表する歌手として、桑田佳祐、可愛いミーナという曲のタイトルにも登場するMina。悲しいことがあっても、音楽がバンドが心の雲を取り払って青空を魅せてくれるという音楽讃歌です。でも、せっかくいただいたので、他の曲も以下に書き上げておきます。
A estrada do Monte / Madredeus
La banda / Mina
La storia di Serafino / Adriano Celentano
Nomadi / Franco Battiato
道 / Yumirose
以上が、『コロナの時代の僕ら』をめぐる、僕らのやり取りです。何かの参考になれば、これ幸い!
『シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション』短評
1.脚本は王道を貫くこと
2.映画として違和感のない描写に徹すること
3.架空の街に舞台をすまくすり替えていること
『マレフィセント2』短評
1959年のディズニーアニメ『眠れる森の美女』で、オーロラ姫に永遠の眠りの呪いをかけた悪役マレフィセントを主人公に、「実はこういう話でした」と現代の価値観で名作を語り直してみせた前作から数年後の物語です。マレフィセントがオーロラ姫との間に恋愛とも血縁とも違う「真実の愛」を感じて以来、妖精の国で健やかに暮らしていたオーロラ。前作にも登場した隣国のフィリップ王子がやって来て、ふたりは結ばれます。ところが、フィリップの母イングリス王妃はそれを良しとせず、結婚の挨拶に城を訪れたマレフィセントと火花を散らし、やがてそれは大きな炎へと成長することになるのです。
監督は、アカデミー賞で美術賞を2度獲得していたロバート・ストロンバーグから、今回は『コン・ティキ』『パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊』のヨアヒム・ローニングへとバトンタッチされました。メインキャストは変わらず、マレフィセントをアンジェリーナ・ジョリー、オーロラをエル・ファニングが演じる他、イングリス王妃役には、ミシェル・ファイファーが抜擢されました。さらには、我らがギタリストMIYAVIが、マレフィセントと同じ種族のひとりを演じています。
前作は2014年7月にラジオで評して、概ね好意的に捉えていました。単に実写化するだけでなくて、エピソード0からおとぎ話を語り直す、しかも悪役をただ悪に染めないというか、鮮やかに視点を逆転させるのはゾクゾクしました。男の活躍がほぼないってほどに徹底してフェミニズム映画でもありましたが、それ以上に、妖精という異形の者たち、自分とは違う者との共存というディズニーの思想が反映されていて現代的だし、アンジェリーナ・ジョリーの出で立ちが何しろハマっていて、全体として好ましいと話しました。
やはり、結婚から始まることになったこの物語。そこで勃発するのが、マレフィセントと隣国のイングリス王妃による女の戦いです。後に理由は描写されますが、イングリス王妃はとにかく妖精たちを嫌っていて、何なら根絶やしにしたいと目論んでいます。ミシェル・ファイファーがまた見るからに悪そうで怖いんだけど、だいたい思った通りの悪役っぷりを発揮します。マレフィセントとの対比という意味では仕方のないことかもしれませんが、そこが僕には不満と言えば不満ではありました。彼女にもう一歩踏み込んで厚みのある人間像を与えれば、そりゃ最後はあの仕打ちでいいかなと納得できるんだけど、あれだとただただ悪い奴なんで、それじゃ元のマレフィセントのイメージとそう変わりないじゃないかと。第2のマレフィセントかよって。
一方のマレフィセントについては、前作からふたつ変化がありました。ひとつは、主にカラスのディアヴァルとのコンビで見せたかわいさ。本音を隠す時の表情、感動して涙を流しているのにそれを認めないとか、かわいいなぁ。アンジェリーナ・ジョリーのセクシー・ショットも見逃せないし、キャラクターの魅力を深めていたのが、ひとつ。もうひとつは、てっきり妖精だと思っていた彼女の出自が思わず明らかになるところです。角と翼の生えた種族がまさかあんなにいたとは… って、ずいぶん性急で取って付けた印象もありましたが、ああいう部族が出てきたことで、クライマックスの戦闘がスペクタクルとして見ごたえのあるものになったと思います。しかも、小さな妖精は狭い場所に押し込めて、大きなマレフィセントたちはオープンスペースでと、ふたつのドラマを同時進行させることで、映画的にもうまく間を持たせていました。それぞれの空間造形も、さすがはディズニーという代物でした。人間側の戦闘方法が、言っちゃえば化学兵器なんですよ。でも、毒ガスだと目に見えないわけで、赤い粉にしてあることで、これがまた画面に美しさと悲壮感を与えるという仕掛けでしたね。
結局なんの話って、『ズートピア』的な世界観というか、より多様化した生き物、種族の共生です。で、あのフィナーレでしょ? 結局、何とか『眠れる森の美女』に着地するという荒業を成し遂げています。ただ、前作よりも尺が20分近く伸びているわりには、話がまとめきれておらず、特に最後はバタバタしすぎて、そんなトントン拍子に行くかいなって思うし、王妃への対応に拍子抜けっていうか、ずっこけた人もいるでしょう。サブキャラのサブっぷりも著しすぎて、男たちの無能ぶりもやりすぎだろうとは思いました。だいたいマレフィセントが窮地に陥ってからの〜?ってのが、いくらなんでも強引だし、それ、今回取ってつけた能力だからねっていうツッコミは避けられません。でもね、僕は最後におとぎ話に戻してみせたんだと解釈しています。王妃の悪意に満ちたプロパガンダに対し、おとぎ話らしく夢を描くことで幕を引いた。そう捉えると、この映画が好きになります。最後にお願いとしては、もう続編はやめてください。これで十分です。もう映画としてギリギリ崩壊寸前だったんで…
さ〜て、次回、2020年4月21日(火)に扱う作品は? はい、「お家でCIAO CINEMA」が続きます。このコーナーでこれまで扱いそこねた、つまりは僕が外した「準新作」と言えるものをおみくじに入れて、敗者復活的に作品を選んでいきます。で、今回僕が引き当てたのは、『シティーハンター THE MOVIE 史上最香のミッション』でした。北条司の世界観がフランスでどう再現されていたのか。ワクワクと不安が今僕の胸の内で交錯していますよ。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!
『任侠学園』短評
西島秀俊は、僕はカメレオン的な役者さんだと思っていて、彼自身の演技でドヤって見せるのではなく、その物語に溶け込むのがうまい、要は保護色に変色できる方という認識だったんですが、今回もそこがお見事。だからこそ、周囲のサブキャラたちも引き立っていました。そして、とにかく西田敏行の存在感。まぁ、うまいです。圧倒されます。
なんて、基本的に褒めてばかりいますが、難点もなくはないです。まずは機能しているとさっき言ったギャグですが、スベっていると思わざるを得ないところも多いです。ちとテレビ的というか、監督がドラマ畑の人なので、演芸的なところが多くて、映画的カタルシス、つまりは今映画を観ているという絵的な醍醐味を感じるところはあまりないです。役者の力量と個性を尊重、いや、そこに頼った結果、だいたいが既視感のある演技になっていて、それが演芸っぽさにつながるばかりか、作品の個性として迫るものがない。そして、脚本上の問題として、色々盛り込んだ結果、そのどれもが薄味なことも指摘しておきます。たくさん問題が起きるんだけれども、それがひとつひとつ順序良く起きているんですよ。ロールプレイングゲーム的な単純化が起きていて、うまくやれば、笑わせながらも、それぞれの問題の本質をえぐり取って提示することもできるだろうところが、そこまで達していないという食い足りなさがありました。
『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』短評
映画って現実という牢獄からのエスケープという側面もありますよね。自分の暮らしとは違う、別の現実を、たった2時間の虚構であるかもしれないけれど、生きることができるし、その経験はかけがえのないものとなって、観る者の脳裏に刻み込まれる。ルパートがジョンにファンレターを送ったように、ドランが『タイタニック』を観てディカプリオにファンレターを送ったように、その現実と虚構の関係があります。ジョンは自分のアイデンティティに悩む現実を世間に対しては隠す、虚構にしなければいけないという現実もある。最後にリバー・フェニックスのオマージュが出てきますが、ドランが理想としてのスター像をルパートに、あの晴れ晴れとしていたいけな表情に反映させたからでしょう。キャスティングも、役柄と俳優のキャリアをダブらせたりしていて、よく考えられている。こうした入り組んだ、込み入った構図をひとつの物語にまとめようとしたんだと思いますが、その意欲は買うけれど、正直なところ、うまくまとめきらなかったというのも現実だと思います。これ、今のバージョンになる前は尺が4時間に膨れ上がっていたらしいですが、それを編集で何とか強引に2時間にした傷跡があちこちに見受けられる。それぞれのシーン・シークエンス単位では拍手できるところも多いものの、そもそもが語りで成立しているという事情もあってセリフが多く、それぞれのシーンのつながりに継ぎ接ぎ感もある。
とはいえ、あちこちに眼を見張る、耳をダンボにするシーンがあることも事実。最後に流れるThe VerbeのBittersweet Symphonyよろしく、映画的な出来栄えも甘くも苦くもあるなというのが現時点での僕の想いです。って、ちとくさしてるように思うでしょうが、はっきり言って、かなり高度なレベルに達した上でのことだっていう前提がありますので、まだドランを観たことがないという方は、これを機に過去作も含めてぜひ見逃さないようにしてください。
さ〜て、次回、2020年4月6日(火)に扱う作品は、スタジオの映画神社でおみくじを引いた結果、とすんなりいきたいところですが… 新型コロナウィルスCOVID-19をめぐる現況を踏まえ、来週からしばらくは、このコーナーで扱いそこねた、つまりは僕が外した「準新作」と言えるものをおみくじに入れて、言わば敗者復活的に作品を選んでいこうと決めました。基本的に配信やソフト化されているものなので、なんならいつもよりもずっと気軽に観られるかもしれません。普段は映画館へ出かけられていないという方も、これを機に映画をふたつの意味で見直していただければ。
で、僕が引き当てたのは、西島秀俊と西田敏行が共演した変わり種のヤクザもので、コメディーの『任侠学園』でした。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!