京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

自動車を景観の一部として捉える    (旧ウェブサイトコラム『ローマで夜だった』)

 どうも、ポンデ雅夫です。僕はカーマニアというほどではないけれど、自動車をこよなく愛している。乗るのも見るのも。

 ただし、エンジンをはじめとする車の内部の話になると、とたんに感覚でしか表現できなくなってしまう。「あの車はぶろろ〜んとしてるね」とか、「僕の車はもっさりしてるんだ」とか、急に擬音語・擬態語の類が頻発するようになって、関西人丸出しになってしまうのだ。だいたい、トルクがどうとか言われても、ちんぷんかんぷんなんだからしょうがない。それに、わかろうという気にもなってないから、手のほどこしようがないのだ。

 それから、F1の話もダメだ。レースには興味はあるんだけど、やっぱりどうもテクニカルな話が多すぎて、何だか熱くなれない。じゃぁ、僕は車の何が好きなのかというと、それは実用性とデザイン性につきる。

 実用性というのは、最小限でいい。大人が4人乗れて、フットワークが軽くて、長く付き合える。それで十分だと思う。余計な機能は必要ない。基本に忠実であればあるほど好ましい。

 デザインについては一概に言えないけれど、無難であるというのは美徳ではないと僕は思う。実用性を保持しつつも、遊び心がほしい。運転するという行為によって、運転手と車との間に対話が成立するようなのが理想だ。色についてもそうだ。例えば日本では、グレイやシルバーの売れ行きが圧倒的に多いというデータをどこかで読んだことがある。家族の意見を集計して、構成人数で割ると、そういう色の選択になるらしい。その結果、家族の誰もが好きでも嫌いでもないというような無難な色の車が売れて行く。そのようにして購入された車は、非常にかわいそうである。結局のところ、家族の誰からも深く愛されることがないからだ。

 機能とデザインの調和というのは、口で言うほど簡単な問題ではないというのは百も承知だ。機能といったって、ユーザーによって求めるものが違うし、デザインといったって、それぞれに好みがある。別の表現をすれば、僕が評価するのは、コンセプトがはっきりしている車ということになるだろうか。ゴーイング・マイ・ウェイ。「他の車はどんなんか知りまへんけど、あたしはこないな方針でやらしてもろてます」というような車がいいのだ。

 話を本題に移すと、イタリアにはそんな車が多かったような気がしてならないのだ。それも、ほんの最近まで。車事情というのはお国柄を如実に反映すると言ったりするけれど、その意見を鵜呑みにするのであれば、イタリア人のメンタリティーにも少なからず変化が生まれてきたということなのだろうか。

 以前のイタリアの車にはもっと表情があった。まず、古い車が多かった。どの車もそれぞれの歴史を抱えていた。車が2台並んで駐車してあったりすると、互いに寄り添って思い出話に興じている2人の老人に見えるほどだった。老人には皺が生えるように、古い車にはそれぞれに傷があった。でも、不思議にそんな傷が悪い印象を与えることはなかった。新しい車も、そんな中にあっては謙虚そうだった。「諸先輩方からいろいろと学ばせていただきます」といった雰囲気があった。古い車が多いというのは、別に新車に乗り換える経済力がなかったということではなくて、単純に人々が自分の車に愛着を持っていたということだと思う。故障してもちゃんと修理して乗り続ける人が大勢を占めていたのだから。よくできた道具というものは、愛情をこめて使い込んでやれば、必ず持ち主に応えてくれる。そのことをこの国の人たちはよくわかっていたんだと思う。どの町にも車の修理屋さんが多いのはその証拠だろう。もっとも、最近では肩身の狭そうなところが目立つけれど。

 それが今ではどうだろう。僕は昨年の秋にローマにやってきて愕然とした。3年ぶりのイタリアだったのだけれど、街を走る車から表情がかき消されているように思えたのだ。これでは日本とほとんど変わらないじゃないか。まず何よりも古い車の姿が見当たらない。ショールームからそのまま飛び出してきたような新しい車ばかりだ。ほんの少し前まで、イタリアの町は自動車博物館みたいだったのに…。

 それから、ローマの旧市街のようなところで抜群の機動力を発揮していた小型車が少ない。中型以上の車の占める割合が高い。おかげで何だか町が少し狭く思える。そんな中で唯一鼻息も荒々しく抜群の存在感を誇示しているのが、スマートだろう(写真下)。こいつはかつてのチンクエチェント並みの普及率だ(ポンデ雅夫調べ)。僕はスマートが立て続けに7台横切って行くのを目撃したことがある。

 いったいこの変化は何なのだろうか。すぐに思いつく原因は2つほどある。

 1つは環境問題だ。古い車は燃費が悪く、排ガスを撒き散らす。一定の水準をクリアしない車には乗らせない。数年前にイタリアでこんな法律が発布された。そのせいで、古い車はマフラーの辺りに特別な装置を取り付けないと乗り続けることが困難になったのだ。確かに実際問題として空気がすこぶる悪くなっていたのだから、致し方ない処置だったとは思う。イタリアは日本以上に車社会だから、都会の空気汚染はひどかった。けれど、その特別な装置が現実的な値段ではなかったせいで、結果として古い車はそのほとんどがスクラップになってしまったのだ。機械としてはまだまだ使えたのにも関わらず。これは非常に残念なことだと思う。

 それから、2つ目は経済のお話。といっても、僕は数字の計算が大の苦手だから、詳しいことは何も言えないのだけれど、EU統合以降、やはりイタリアもグローバリゼーションの論理にきっちりと組み込まれて、高度資本主義的な価値観をがっちりと受け入れざるを得なくなってしまったのではないかと僕は思うのだ。要するに、新しいものをどんどんと消費しなさいということです。古いものにしがみついてないで、みんなと足並みを揃えつつ、定期的に身の回りのものをリニューアルしていきなさい。もっと簡単に言えば、使い捨てなさいということだろう。

 どちらの原因も僕の憶測に過ぎないし、もしかすると見当外れなことを書いているのかもしれない。けれど、ただひとつ確かなのは、近頃僕が目にするイタリアの道路が、まったくもってつまらないということだ。

 環境のことは誰が何と言おうと大事な問題だし、きっと高度資本主義的価値観も大事なことなんだろう。でも、その結果として車がつまらなくなるというのは悲しいことだ。少なくとも僕にとっては。

  車社会というのは、別の言い方をすれば、車が風景の一部となる社会である。イタリアは景観保護にとてつもなく敏感な国である。法律もきっちりと整備されていて、風景は公共の財産という認識が定着している。それならば、車ももっと面白くならないか。今ローマを走っている車は平板で無難なものばかりで、風景に彩を添えるどころか、ただの邪魔者だ。

 だいたいフィアットを始めとする国産メーカーがだらしないのがいかん。断固として、いかんのであります。ぼんやりとしてるから、外国のメーカーがここまで幅を利かせてしまうのだ。イタリアのメーカーがイタリアの景色にジャストフィットのラインアップを立ち上げる。売れそうな気がするんだけど、そんな風に考えるのは僕を始めとするごくごく少数の人間だけなんだろうか…。
 写真はかつてローマ市内を縦横無尽に駆け巡っていたフィアット・500(チンクエチェント)。今や、その愛らしくもたくましい勇姿を見ることは少ない。