京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

ローマン・マンハッタン

正確に言えば、私はそこがニューヨークであることに即座に気づいたわけではなかった。
だいたい私は南北を問わずアメリカ大陸に足を踏み入れたことがないのだ。
確かにマンハッタンの雰囲気はある。
しかし決定的に何かが違う。
時代が古いことはわかる。
当然ながらトレードセンターはない。
それは何とか飲み込むとしてもだ、
エンパイヤステートビルも自由の女神も見当たらないのはどういうことだ?
それに辺り一面に漂う荒涼感は何だ?
どの建物もどうしようもなくうらびれている。

ローマン・マンハッタン

呆然と立ちすくんでいると、クラスメートの一人に肩を叩かれて我に返った。
「ゆず、ここはスコルセーゼ監督の作品のセットだよ」
何セーゼ?
ぽかんと口を開ける私を見た彼は、情報を捕捉してくれた。
「スコルセーゼだよ。ガングズ・オブ・ニュー・ヨルク!」
いくら私でも、おぼろげながらわかってきた。
いくらイタリア人の英語の発音が悪くても、私はカタカナ英語で応戦することができる。
マーティン・スコセッシ監督の『ギャング・オブ・ニューヨーク』でしょ?」
今度は彼がぽかんと口を開ける番だった。
一瞬の間の後、どうやら彼もおぼろげながら私の発音を理解したようだ。
私たちはゆっくりうなずきあった。
そう、ここはあの超大作の撮影現場だったのだ。

となると、今までの疑問も一気に解決する。
あれは19世紀半ばのマンハッタンを舞台にした作品なのだから、
当然ながらエンパイアステートビル自由の女神もましてやトレードセンターなどないわけだ。

余談だが、この作品のラストはとても感動的だ。
丘にディカプリオが立っている。
バックには舞台となったマンハッタンが広がっている。
U2の"The Hands That Built America"という壮大で叙情的なロックが流れてくる。
ストップ・モーションで動かないディカプリオに対して、
バックのマンハッタンは徐々に歴史の波を下り、
最終的にはトレードセンタービルがそびえたったところで終わる。
ニューヨークが作品の描いたような歴史を下敷きに現在に至っているのだと痛感させられる名演出だと思う。
ところが、作品の全米公開が迫った2001年にトレードセンターは崩壊した。
公開は1年後に延期された。
このラストシーンは、当初監督が目指したものよりもシンボリックになってしまったような気がする。

閑話休題
イタリア映画への惜しみない愛を公言してはばからないスコセッシ監督は、
レオナルド・ディカプリオキャメロン・ディアスといったビッグな俳優、
さらには大勢のスタッフを引き連れてこのローマにやってきた。
まるで移民のような規模だ。
撮影期間なんと9ヶ月。
ほぼすべてのシーンをチネチッタで撮影している。

そうだ!思い出した!
このフィルムを公開当時に映画館で観てから、撮影トリビアを収集していたんだ。
セットの中に大量の水を張って港を作り撮影に臨んだとかいった裏話が流布していたものだ。

ん?
ということは、私の立っているこの場所は海だったというわけか?
上の写真を見ていただきたい。
友達が歩いているだだっ広い空間は、すべて港を再現するために確保された場所で、
撮影時には実際に帆船が接岸していたのだ。
写真では影になっていて見にくいけれど、右側には波止場らしきものもある。
もちろん今では水は入っていないけれど、何となく足元が不安になった私はよたよたと波止場へ移動した。

これが撮影時のセットの様子。

それにしても大掛かりなセット。しかも精緻を極めている。
撮影当初は、当の俳優たちでさえ言葉を失ったという。

こんなエピソードもある。
スコセッシ監督の盟友であるジョージ・ルーカスが撮影中のチネチッタ・スタジオを訪ねてきたらしい。
そこで噂の広大なセットを眺め回したルーカスはスコセッシに一言、
「ねぇ、マーティン、今はこういう背景はCGで作れるんだよ」
と言い放ったらしいのだ。

ルーカスの言うことはまことに正しい。
驚くほどCG技術の進んでいるこの時代に、友人が街やら港やらをバカ正直に再現してみせたのだから。
素直に忠告したくなる気持ちはわかる。
しかし、スコセッシはスコセッシで、自分の気持ちに素直だった。
彼はどうしてもイタリアでやりたかったのだ。
バカ正直でもいいじゃないか。
本物の迫力を求めていたのだ。

港の先の広場とそこをぐるりと取り囲む街並み。

だが、なぜイタリアなのか?
どうしてハリウッドでやらないのか?
答えは簡単。
最近のハリウッドの技術は、CGの使用を前提としている。
そこでは昔ながらのアナログなセット作りの技術は期待できない。
思い通りのものはできないかもしれない。
スコセッシはシチリアからニューヨークに渡ってきた自分の祖父母を思い浮かべた。
彼らはテレビから流れるイタリア映画にかじりついていた。
どの作品も画面はざらつき、ずたずたにカットされていた。
それでも、幼いスコセッシはハリウッド映画にはない現実の表現力に驚いた。
大西洋の向こうに、自分のルーツがある。
見事にフィルムメーカーとして名を馳せることになったスコセッシは、改めてそう思った。
移民3世としての血の問題だけでなく、映画人としての素養もイタリアは養ってくれていたのだ。
ハリウッドに浸からず、インディペンデント系の先駆けとして活躍することになった理由がそこにもある。
イタリア映画の中心、チネチッタ
CGにはまったく強くないけれど、昔かたぎの腕利き職人がまだ活躍するスタジオだ。
そう考えたとき、スコセッシには他の選択肢はなかったのだろう。
彼は御年75歳のアルベルト・グリマルディというイタリア人に電話をかけた。
60年代からフェリーニパゾリーニベルトルッチといった巨匠たちの名作、
さらにはマカロニ・ウェスタンの作品を数多く手がけた名プロデューサーである。

『ギャング・オブ・ニュー・ヨーク』の美術監督ダンテ・フェッレッティ。
フェリーニパゾリーニといった世界に名だたる監督たちと仕事をした映画美術界の巨人だ。
彼はスコセッシのほとばしる熱意をしっかりと受け止め、才気溢れる仕事でその想いに応えた。

私が今いる場所こそ、彼らの情熱が結実した場所なのだ。
そう思うと感動的だ。

とんでもない男たち

(中央がフェッレッティ。左はピエル・パオロ・パゾリーニ。右はこれまた有名カメラマン、トニーノ・デッリ・コッリ。
イタリア映画の代表選手たちだ。この写真の撮影時期は定かではないが、パゾリーニの生の三部作のどれかの撮影現場で撮られたオフ・ショットではないだろうか)

ところが、改めてセットを細部まで見つめ直してみると、今ではただの廃墟としか言いようがない。
街の中へふらりと足を向けると、ちゃんと商店が軒を連ね、路地までもが再現されている。
でも、当たり前の話だけれど、室内シーンはスタジオで撮影されるわけだから、ほとんどの建物が裏へ回ればただのハリボテであることが露見する。
しかも、撮影からは既に5年以上の歳月が流れてしまっている。
どうしてすぐに解体されなかったのか、いつ解体される予定なのか、そのあたりのことはわからないが、
ひとつだけ確実に言えるのは、野ざらしのこのセットが確実に朽ち果てていることだ。
そんな中、恐らくは撮影当時と変わっていないだろうと推察されるものがあった。
一番上の写真を今一度見ていただきたい。
画面左に真っ白な巨壁がそびえているのがおわかりいただけると思う。
港の風景をCG合成するために作られたブルースクリーン用の巨大な壁である。
撮影時にはブルーのシートがきっちりと被せられ、編集時にそのブルーを別撮りした港の背景とそっくり入れ替えるのだ。
CGとは言っても最初歩のテクニックではあるが、アナログにこだわった作品のセットの跡地で、CG用の設備だけが真新しく残っていたのは皮肉に思えた。

気づけば、私はなんだか少し悲しくなっていた。
ここには私が大阪のスクリーンで観た世界は広がっていない。
似てはいるけれど、何かが決定的に違っている。
この感覚は何だろう?
映画のロケ地やセットを訪ねるというのは、映画ファンにとっての巡礼だ。
苦労して探し当てても、ほとんどの場合、そこには映画の世界はない。
無味乾燥な現実がのっぺりと広がっているだけだ。
最初はセットに驚いた私だが、徐々にその廃墟さ加減に侘しい気持ちになる。
そういうものだ。
目的を果たしたとたん、巡礼者には徒労感と一抹の寂しさが押し寄せる。
けれど、巡礼に無意味だというわけではない。
人はロケ地を訪れ、想像の世界における映画の優位を肌身で感じることができる。
映画の素晴らしさを再確認し、もう一度フィルムを鑑賞し、また別のロケ地に足を運んでしまう。
そうだ、私も家に帰って、『ギャング・オブ・ニュー・ヨーク』を4年ぶりに観ることにしよう。

そんなことをぼんやりと考えているうち、私は狭い路地に独りでいることに気づいた。

ちょっと待ってよ!
私を置いてかないでよ!
だから方向音痴なんだってば。
出口はどっちよ?
窮地に陥ると、どうしても日本語が口をつく。
ローマにある19世紀のマンハッタンの路地に、21世紀の日本語が虚しく響いた。