京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝紹介グループ「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM802で行っている映画短評について綴ります。

むかしむかしアテネで 〜『丘のうえの民主政』を読んで〜 

 「民主主義」というと、なんだか良いもの、価値あるものというイメージで捉えられています。日本や欧米では「民主主義の深化」が模索されたり、はたまた独裁制を脱したばかりの途上国の「民主化」が叫ばれたりするわけで、大枠では「民主主義っていいよね」、と一般的に解されているようです。

 そんな現代(とくに冷戦後)の世界で大人気の民主主義というアイデアですが、その一つの源流(直接民主政)が、古代ギリシアアテネの実践に遡ることができるということはよく知られています。今から2500年も前に、すでに(現在のものと単純比較できませんが)民主政という社会のしくみが実践されていたわけですから驚きです。
でも実際、彼ら古代アテネ人は、どのように民主主義を機能させていたのでしょうか。気になるところです。そこで今回は、橋場弦の『丘のうえの民主政―古代アテネの実験』(東京大学出版会、2004年)という本にしたがい、古代ギリシアアテネで行われていた民主政について少し見てみたいと思います。

 さて、ある集団内で意思決定が求められるとき、人間はいろんな方法で決定を下します。たとえば、頭がよくていろんなことに詳しい人が決めるとか、一部の金持ちや専門家たちが決めるとか、絶対的な権威やカリスマが一人で判断しちゃうとか、いろいろあります。しかし、古代アテネ人はこうした方法をとりませんでした。アテネには民会(エクレシア)という最高議決機関があり、この民会にはアテネ市民であれば、だれでも参加し発言する機会が与えられ、財産や土地の多少に関係なく、一人一票の平等な投票権が保障されていたのです*1。まさに直接民主政の原型がここにあるわけで、有史以来、大部分の時期においては、こうした民主的意思決定の方法が採用されてこなかったことを考えるにつけ、古代アテネの実践は、かなり特異な政治のしくみを採用していたといえるかもしれません。

 ただ、いくつかアテネの民主政に疑問を感じるところもあります。たとえば、古代アテネの一般市民は、上の写真のような丘に集まり、議論していたわけですが、ポイントはその数が数千人を越えていたらしく、かなり大規模な集会だったということです。ここで思うのは、全員に十分な発言の機会が与えられていたのか、ということです。そもそも数千人規模なのですから、全員が発言していたら、時間がいくらあっても足りません。そうすると、議論は何人もの発言者がいれかわりたちかわり演壇に上がって自分の意見を述べるとのことですが、こういった演壇まで上がってくる者は結局、なにかしら政治に関する知識があり、自らの見解に自信をもつ一部の者ではないか、とも感じます。つまり、逆に自分の意見をもってはいるが、発言する勇気がない、どうせ発言しても嘲笑されるだけだろうと感じ、自ら発言を抑えてしまう者があらわれてくる、ということも考えられなくもありません。

 また、意見発信は一方向であった、というのも引っかかるところです。つまり、発言者同士が差し向かいで討論するのではなく、民会の議論は、橋場の言葉によると「モノローグの連続」であったらしく、コミュニケーションの双方向性はなかった、もしくは希薄だったのかなとも想像します。つまり、発言をする機会がなかった者としては、民会(エクレシア)という空間でさまざま意見を一方的に受信するというだけであり、現代社会のマスメディア的一方向性を想起しなくもありません。

 あともうひとつ、古代アテネの民主政を支えていたのは、活動的市民たるアテネ人の存在だったということです。橋場によると、「市民の日常的な関心は、つねにこれら(=外交問題)に向けられていた」と書いており、古代アテネ人の政治への関心の高さが窺えます。また、橋場は「ポリス市民はわれわれの想像以上に政治意識が高く、また自律的な市民であった。(中略)生産労働に専念するのは奴隷や在留外国人にふさわしいとされ、政治や軍事そして裁判に参加できることこそ、市民の特権であり名誉であった」*2とも述べています。市民たるものは政治的問題に高い関心をもち、積極的に議論を行い、生産労働は奴隷や在留外国人にまかせておく、ということです。「最大利潤を追求することだけに目を血走らせて生きるのは、市民にあるまじきふるまい」であったわけです。とすると、アテネ型の民主政には、こうした一般市民の公共意識の高さが前提とされている、といえそうです。

 と、いくつか疑問点はあるものの、古代アテネの民主政は現代の民主主義を考える上でも、まだまだ学ぶことがありそうです。実際、審議型民主主義という新たな民主主義モデルを唱えるアメリカの政治学者ジェームズ・S・フィッシュキンなども、古代アテネの民主政から多大なインスピレーションを得ています。また、古代アテネの民主政は、歴史的に紀元前4世紀には消滅してしまうのですが、橋場はこの民主政が滅んだ原因について、「民主政がそれ自体に内在する欠陥によって自滅したというよりも、むしろ外部からの圧力(=マケドニアの軍事的制圧)を受けて崩壊したという説明モデルのほうに、より真実らしいものがあるように思われる」としており、理念としての民主政を否定することはありません。

*1:ただし、ここで注意しなければならないのは、一般市民とは市民権をもつ成人男子のことを指し、女性や奴隷、在留外国人は排除されていたことです。こういった点は、古代アテネの民主政を手放しで理想化する立場に対する牽制になっているようです。

*2:民会での議題は主として外交問題であり、経済政策が議論の対象になることはあまりなかったらしいです。あくまで、外交問題などの政治分野を主たるテーマとして据え、討議していたのです。これに関して、橋場は「近代市民が経済人(ホモ・エコノミクス)であるとされるのに対し、政治にたずさわることを本務としたポリス市民の真面目がここに見いだされる」と述べています。