京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝紹介グループ「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM802で行っている映画短評について綴ります。

シネマテークにしねまっていこ 

「しねまっていく」
【しねまっていく/シネマっていく/CINEMAっていく】 動詞 カ行五段活用
*古くは「きねまっていく」 
*動ラ五「しねまる」の連用形+接続助詞「て」+補助動詞「いく」と同音異義
*しばしば以下の?〜?のみが言葉の持つ意味と捉えられがちだが、本来的には?〜?以外にも「シネマテークに関する全ての行為」を示す動詞である
①[シネマテークに]行く
②[シネマテークに]通いつめる、(シネマテークの)常連になる 
③[シネマテークに]潜り込む 
④(稀)[シネマテークで]モギリのお姉ちゃんと仲良くなる
⑤(稀)[シネマテークで]働く、働きたがる 
⑥(⑤から転じて)[シネマテークの]ぬしになる [シネマテークに]居座る
(ブリジトバル堂出版『映和中辞典』*1より)

 昨年2005年々末以降、イタリア中北部の街ボローニャでは、若者たちの間で劇的に再評価の進んだ「しねまっていく」という動詞の使用が、一種の社会現象として注目を集めています。映画に関心を持つボローニャ在住日本人留学生に限定された現象とは言え、当の動詞のみならずその対象である「シネマテーク」への再評価気運の高まりは、2005年11月20日付『ガッゼッタ・ディ・コッリ・ボロニェージ』紙*2の社会面の見出しにある“Buttiamo via i libri, e CINETECHIAMO!!*3 ”(書を捨てよ、シネマテークに行こう!)”という一文を引用するまでもなく、ここボローニャに暮らす一留学生である僕にも肌身に感じられ、微力ながらコラムとして世界に発信しようと思い立った次第です。

 戦後60年が過ぎた日本においては耳慣れないこの動詞「しねまっていく」ですが、そもそもその日本語としての起源は古く、1936年フランスは映画の都パリにおいて、数人の映画好きの青年たちによって「シネマテーク・フランセーズ」(Cinémathèque Française)が設立された当時から、日本国内外を問わず、日本人映画愛好家たちの間では日常の挨拶代わりに用いられていたという記録が残っています。さらに1937年、異父姉弟(貞淑な姉阿瀬テイと、その情熱的な弟内藤礼人)の禁断の愛を描いて世に議論の渦を巻き起こした山中敏八著『燃えんばかりの熱情』*4 では、その冒頭、後に実際の血縁関係にさえないことが判る悲劇の姉弟の間で次のようなやり取りが見られます。

 「もう、礼人さんたら。きねまっていってばかりじゃ駄目よ。たまには勉強なさい」
 「へへへ、なんだ姉さんか。僕にとったら、きねまっていくことが勉学なんだよ」

 一部で普及した旧形「きねまっていく」が用いられていることも注目に値しますが、さらに重要なのは、外来語規制のみならず言論統制までもが横行した戦時中に刊行(ああ、勇気ある街捨出版)された同小説第2版では、以下のように修正・加筆が加えられていることです。

 「もう、礼人さんたら。映画ばかり見てちゃ駄目よ。たまには勉強なさい」
 「へへへ、なんだ姉さんか。僕にとったら、活動に通うことが勉学なんだよ」

 「し(き)ねまっていく」という表現とその多義性を放棄し、「きねまっていてばかりじゃ→映画ばかり見てちゃ」、「きねまっていくこと→活動に通うこと」という具合に「翻訳」することで急場をしのいだ著者の苦心と、そうまでして再版にこだわった彼の「燃えんばかりの熱情」を垣間見ることができます。現在絶版発禁になっている『燃えんばかりの熱情』の、山中の望んだ本来の形での再版は、今日における「再考シネマテーク」という潮流における一つの灯火となることに疑いの余地はなく、一日も早いその実現を切に願っております。

 昨今の「しねまっていく(とシネマテーク)」再評価の上昇気流に身を任せるようにして始まりました当コラムですが、次回以降、「そもそもシネマテークとは何か」、「シネマテークがなぜ今再評価されるのか」、「日本におけるシネマテークとその発展史」など、シネマテークにまつわる「あれやこれや」について、僕の最も身近なシネマテークボローニャ市立シネマテーク「チネテーカ・ディ・ボローニャ」(Cineteca di Bologna)、通称『リュミエール』での実体験を交えてお送りいたします。

 さあさあ皆さん、「シネマテークにしねまっていこ!!」

※オールドファッション幹太のブログ  KANTA CANTA LA VITA

*1:『映和中辞典』、第2版、ブリジトバル堂、1992年

*2:Gazzetta di Colli Bolognesi, n.1898, 20 novembre 2006

*3:本来イタリア語にはcinetecareという動詞は存在しないが、日本語の「しねまっていく」を「逆輸入」したもの、さらには、ややもすれば遅すぎた再評価を揶揄するきらいがある。

*4:『燃えんばかりの熱情』、山中敏八、街捨出版、1937年初版(第二版は1942年)