京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『ペッピーノの百歩』③ 〜パゾリーニの孤独〜

 今回はイタリアの知識人ピエル・パオロ・パゾリーニ(Pier Paolo Pasolini)についてです。特に彼の政治的スタンスに焦点を当てます。なぜパゾリーニなのかというと、映画『ペッピーノの百歩』の中で、主人公ペッピーノがパゾリーニの本を読んでいる場面があり、ペッピーノの政治活動の土台にはパゾリーニの影響もあったのかな、と思ったからです。また、個人的にパゾリーニの政治的側面について調べてみたかった、というのもあります。
 やや映画との関連が薄いようにも思いますが、パゾリーニの考え方を通して、映画の舞台となった戦後イタリアの思想状況の一端に触れることは、映画理解の助けになるものと考えています。

 パゾリーニとはどんな人か? 彼は1922年、伝統的に左翼勢力が強い町、ボローニャ(Bologna)に生まれます。彼の父親カルロ・アルベルト・パゾリーニ(Carlo Alberto Pasolini)はラヴェンナ(Ravenna)の没落した貴族出身の職業軍人で、また彼の母親のスザンナ・コルッシ(Susanna Colussi)は小学校の教師をしていました。
 パゾリーニの幼少期は穏やかなものではなかったようです。父親の逮捕*1や度重なる引越しなど、彼にとって苦い経験がつづきました。一方で、彼はフリウリ(Friuli)地方の自然に感化され、幼い頃から詩を書き始め、またドストエフスキートルストイなどの作家から影響を受けます。
 1942年、パゾリーニは『カザルサ詩集』(“Poesie a Casarsa”)というフリウリ語*2で書いた詩集を自費出版し、その詩が高く評価されます。パゾリーニはイタリアの地方特有の文化を重要視しており、自らが中心メンバーとなって創刊した文芸誌上で反文化的な政策を推し進める国家を糾弾する文章を掲載するようになりました。こうして、彼は徐々に共産主義的な考え方に傾いていきます。
 1944年、パゾリーニ周辺はあわただしくなりました。連合軍の空爆がつづき、イタリア社会共和国*3パルチザンの対立が始まります。しかし、彼はそうした国内の動きから距離を置き、フリウリで教師として過ごしました。一方、パゾリーニの弟はパルチザンに参加し、その活動の中で命を落とします。
 戦後、パゾリーニの心は、さらに共産党へと近づいていきます。1947年、彼はイタリア共産党PCI)に入党し、新聞「リベルタ」(Libertà)に自身の立場を次のように表明します。「私見では、現在においては共産主義のみが、新たな文化を提供できると考えている」と。また、彼はいくつかのデモに参加しており、1949年の3月にはパリの平和会議に出席しています。
 同年10月、彼は未成年へのわいせつ行為により告発*4されます。その結果、教職を失ってしまい、共産党からも除名され、小さな町での暮らしは居心地の悪いものになります。そうして、彼は逃げるように、母と共にローマに移り住みました。ローマでは金銭的にも苦しい生活が続き、自殺も考えるほどだったということですが、チネチッタ(Cinecittà)でエキストラとして働いたり、新聞や雑誌に記事を寄稿してしのぎ、ようやくローマ郊外のチャンピーノ(Ciampino)で教師の職を得ます。
 そのローマ郊外のスラム街(Borgate)で、彼はプロレタリアートよりも貧しい生活を送る人々(sottoproletariati)の姿を目にします。それを通して、パゾリーニは民衆の生活への関心を強めていきます。たとえば、彼の最初の小説『生命(いのち)ある若者』(“Ragazzi Di Vita”、 1955、原題の直訳は「不良少年」あるいは「ごろつき」)や初監督となった映画『アッカットーネ』(“Accattone”、1961、下の写真は一場面)では、貧しい民衆の無軌道な生活がリアルに描かれています。

 1960年代後半から1970年代初頭にかけて、イタリアでは学生運動が激化します(映画の舞台となっているのはこの時代)。こうした運動に対するパゾリーニの見方はどのようなものだったのかというと、彼は学生達のイデオロギー的動機を受け入れながらも、「彼らは人類学的に中産階級であり、革命的な試みには失敗する運命にある」と考えていました。彼は、むしろ貧困層の出身で教育を受けられない警察官たちに対してシンパシーを感じ、一方の学生達を「左翼ファシズム」の支持者と見なしていました。もしかしたら、パゾリーニは学生(ブルジョア)と警官(プロレタリアート)の対立に、「階級闘争」を見ていたのかもしれません。
  また、パゾリーニは消費主義(consumismo)*5を激しく批判しました。彼は消費主義を1960年代後期から急速にイタリアの社会を破壊した元凶と考えます。産業化(ブルジョア化)する以前の文化に「純潔さ」を見ており、それが次々に失われていると感じたのです。さらに、彼は北イタリアによる南イタリアの文化的支配や、イタリアの方言の消滅などにも抵抗しました。
  1975年11月、ローマ近郊のオスティア(Ostia)海岸で、パゾリーニの死体が発見されます。何度も車でひかれるなど、惨殺でした。犯人は反共主義者ともマフィアとも言われており、真相は闇の中です。ちなみに、その約2年後の1978年3月、ペッピーノがシチリアで暗殺されます。

 思想の中身に多少の違いがあるにせよ、ペッピーノもパゾリーニと同様に、既存の価値への反抗を試みた人であったと言えます。ペッピーノは、政治活動に身を投じることなく、家族・恋愛・音楽が中心の生活を楽しむことだってできたはずです。にもかかわらず、それらを犠牲にしてまで活動を続ける。保守派からの痛烈な批判にも堪えなければなりませんし、挫折感を味わうこともあるでしょう。しかし、それに毅然と立ち向かい、新たな文化を追い求めた。知識人の孤独を感じますね…。

 今回で映画『ペッピーノの百歩』に関するコラムは終了です。第一回でペッピーノとマフィアについて、第二回でシチリアとマフィアの関係について、第三回でパゾリーニについて書きました。みなさんの映画理解のお役に立てたでしょうか?
 さて、ここで今後のコラムの方向性について述べておきます。初回で映画を通してイタリア社会を見ていくと書いたのですが、この方針を止めたいと思います。映画に縛られず、イタリア社会一般について、おもしろいなと感じたものを書いていくことにしました。ただ、内容としては今まで通り「イタリア社会」についてです。それから、コラムはできるだけ一回で完結するようにします。このコラムは毎月一回のペースなのですが、ひとつのものについて長期にわたって書くのは、前後関係の把握など読みづらい部分があると思いますので。
以上、若干の方針の転換をお許しください。


=参考資料=
 ピエル・パオロ・パゾリーニ、『テオレマ<定理>』、講談社、1970年
 ピエル・パオロ・パゾリーニ、『生命(いのち)ある若者』、講談社文芸文庫、1999年
生命ある若者 (講談社文芸文庫) アッカトーネ [DVD] テオレマ [DVD]

*1:ギャンブルによる借金が原因とされる。

*2:北イタリアのフリウリ地方で話されている方言。ちなみにパゾリーニの母親はフリウリの出身者。パゾリーニはフリウリ語(地方語)の保護に熱心であった。

*3:ムッソリーニが1943年9月に樹立した北イタリアの国家で、事実上ドイツの傀儡政権。通称サロー(Salò)共和国。連合軍やパルチザンの抵抗により、1945年の4月に崩壊。ちなみに、遺作の映画となった『ソドムの市』(“Salò o le 120 giornate di Sodoma”、1975年)は、原題(直訳すると「サロー、あるいはソドムの120日」)からもわかるように、コモ湖畔のこの共和国を舞台にしている。

*4:その後、無罪となっている。

*5:個人の幸せを、「財の所有と消費」と考える立場。