京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

シネマテークに潜入 その3 〜チネテカ後編〜

 エルマンノ・オルミ監督の『時は止まりぬ(訳は筆者)』(Il tempo si è fermato、Ermanno Olmi、1959年)はやっぱり良かったですね。しばしばスクリーン上で焦点が安定しなかったのは、劣化のせいでフィルムが波打っていたからでしょう。見所のひとつとも言えるワイド・スクリーンの超ロングショット・パノラマが一部失われていましたが、そこはたくましい想像力を持つ僕です。目というレンズを通じて、脳みそで「きっとこういう風に美しい」と想像し、本来のあるべき映像を思い描きながら、心というフィルムに焼き付けて楽しみました。映画の復元とはひとりの監督が作った作品をもう一度作り直すことだ、ということはよく言われることですが、あるいは僕もヴァーチャルに映画修復をしていたのかも知れません。

 さて前回は、リーヴァ・ディ・レーノ通り(via Riva di Reno)にあるボローニャ市立シネマテーク(当コラムではチネテカと呼んでいます)の便宜的な「本館」を見学しました。映画の上映のみならず、所蔵する映画関連資料の展示をもその務めとする「シネマテーク」の一側面を垣間見ることができたと思います。「シネマテークとは何か」、このことを明らかにしていくのがこのコラムの目的のひとつです。

 ところで、チネテカ本館のあるリーヴァ・ディ・レーノ通りは、日本語に訳せば「レーノ川の岸辺通り」とでもなりましょうか、その名が示すとおり、ボローニャの西を流れるレーノ川と密接な関わりがあります。ボローニャ市の中心部からボローニャグリエルモ・マルコーニ空港へ向かう途中で渡るあの川です。初夏から秋口にかけては川辺で日光浴を楽しむ人々の姿をよく目にします。ボローニャ人にとっては重要な河川で、その重要性は市民の余暇のためのみならず、古くは人や物資の運搬に用いられた歴史からも明らかです。そのレーノ川と市街地の物流を可能にしていたのがレーノ川水路(Canale di Reno)で、ボローニャに暮らす人々の中でも意外に知る人は少ないですが、中央分離帯の駐車場を挟むように車線が対向している現在のリーヴァ・ディ・レーノ通りの下を今もこの水路は流れているのです。したがって、今ではその実感を失ってしまいましたが、この通りは「レーノ川(に端を発する水路)の岸辺」なのです*1。流れを下るように通りを進むと裏通りの所々でレーノ川の水流を眺めることができるます。海からも川からも離れたボローニャの旧市街地に水の流れを見る感動は、水の都ヴェネツィアの潤沢な運河のそれとはまったく違っていて、これはこれでなかなか味わい深いものです(写真下)。

 さて、前置きが長くなりましたが今回は、本館1階で現在開催中のイベントにも目を通して行きましょう。5月10日から、『写真によるボローニャのABC(訳は筆者)』(Alfabeto fotografico di Bologna)という写真の展示が開催されています(写真下)。前回少し触れたエンリーコ・パスクアーリ(Enrico Pasquali)の展示と同じく、ボローニャのチネテカ内にある写真アーカイヴの企画です。『芸術の製造工場 第1部(訳は筆者)』(Manifattura delle Arti ? Parte Prima)という副題の付いた今回の展示は、チネテカの本館と分館の前史を取り上げたもので、チネテカそれ自体ではなくその建物周辺の歴史を辿ることを可能にしています。この展示を見た後では、チネテカ一帯、さらにレーノ川の水路とその上のリーヴァ・ディ・レーノ通りについてもう少し詳しくなれるのではないでしょうか。

 2005年6月からチネテカが中心となり始まったプロジェクト『写真によるボローニャのABC』は、写真アーカイヴに保存されている写真資料を一般に公開することを目指し運営されています。2007年内にはインターネット上でのアクセスが可能になると今回の展示の案内にはあり、現在は、素材のクリーニング、カタログ化、デジタル化が進められているとのことです。これにより、1986年から今日までチネテカが企画した展示をはじめとする800,000点にものぼる写真素材にアクセスできるようになるのです。

 今回の企画『芸術の製造工場』は、 “le arti del Novecento”(20世紀の芸術)が現在のチネテカ周辺地帯に根を下ろした背景を探る企画とも言えます。もちろんそこには、先に触れたレーノ川の運河による物流が大きな役割を果たしたことが不可分に結びついています。では、ここで言う「20世紀の芸術」とは何でしょう。その答えは写真展に目を通すことによってそれは明らかになるはずです。

 写真展は本館1階のホールの向かい合った壁に2部構成で展示されています。左側に先に触れたような概説がありますので、そちらから見て行きましょう。

 運河が建造された正確な時代は明らかにされていませんが、1527年には運河の両岸を結ぶ橋の上にサンタ・マリア・デッラ・ヴィズィタツィオーネ・アル・ポンテ・デッレ・ラーメ教会(Santuario di Santa Maria della Visitazione al Ponte delle Lame)が建設されていますので、少なくともそれ以前であることは確かです。現在チネテカの本館とラボになっている建物の原型は、992年から修道院として用いられた場所にあります。1799年まで複数の修道院がまとまってあったようです。1801年からはこの修道院跡地でたばこ工場が創業され、 1960年に閉鎖されるまで続きます。工場の建設が、世界的な産業革命とほぼ時を同じくし、フランス革命戦争におけるイタリア戦役の直後であることは興味深いです。機械化が進んだたばこ工場の工員数、1831年には400名だったものが後に600名にのぼり、1865年には1159名に達します。1830 年代は写真関連の発明が活発になる時代*2とも重なります。今回の展示でもっとも古い写真は1904年のものですが、19世紀から20世紀にかけての、社会の激動と技術の激変の時代が縮図としてこの展示ホールにはあるように感じられ、やや興奮してきました。

 工場自体は19世紀に作られましたが、写真に写るのは20世紀の工員たちの姿で、働いているのは主に女性です。たばこ製造に携わる彼女たちの手作業ひとつひとつの行程をこの企画では「芸術」と呼ぶのでしょう。モノトーンの作業服に身を包む彼女たちの作業の様子、笑顔、真剣なまなざし、はにかみ顔、鋭いカメラ目線。同じ女性たちが、福利厚生なのでしょうか、着飾って劇場に集う様子、財務大臣が工場に訪れた際の歓迎の様子などなど。彼女たちが働いていたのは、まさに今、僕が写真を眺めているこのホールなのです。

 1931年からは、それまで水の流れを眺めることができた水路に「ふた」をする工事が始まります。その模様を伝える写真や新聞記事も展示されています。この工事は1950年代中頃に完成し、現在のリーヴァ・ディ・レーノ通りの姿になったようです。写真で見る限り、水路を挟むようにしてあったリーヴァ・ディ・レーノ通りの趣もなかなかのものですが、やはり時代の流れなのでしょうか、人口の増加とそれに伴う交通量の増加によって、水路の表面はアスファルトで覆われ、道幅の拡張と駐車場の確保が優先されることになったのです。人と物を運んだ水流は、車に代表される産業革命の産物に取って代わられたと言っても良さそうです。現在も流れている水の真上に、駐車場があることはとても象徴的です(画像、右がチネテカ、奥にあるのが橋の上の教会、駐車している自動車の下を水は流れています)。たばこ工場の写真の特集の最後には、一冊の本のコピーが展示されています。『古くて新しいボローニャの心(役は筆者)』(Cuore di Bologna vecchia e nuova、Mario Sandri、pp.231-pp.238、1938年)と題された本に収められた『煙草の蒼い煙(役は筆者)』(Fumo azzurro di sigarette)の数ページで、そこにはこの界隈の朝の風景が描写されています。それまで静かだった通りに、朝5時を過ぎると賑やかさが戻ってくる、女工たちの出勤の時間なのだ、といった記述だったと記憶しています。恐らく彼女たちは、「ねえねえ、今晩、劇場に行く?」などと言って仕事に向かったのでしょう*3

 続いて展示は、なにやら肉々しい写真のそれへと変わります。それもそのはず、牛を解体している写真です。説明によると、アッツォ・ガルディーノ通りにある現在のチネテカ分館(上映室や図書館があるところ)の建物は、1806年から1974年の間、地域の精肉を一手に引き受けていた精肉場だったとのことです。確かに、ボローニャに来て間もない頃、車に乗り合わせたボローニャ出身だと言う中年のおじさんが言ってました、「あそこは堵殺場だった」と。1946 年の写真に目をやると、それは間違いなく現在映画と写真関連の書物が収められている図書館の内部で、あの特徴的な丸窓がそれを証明しています。もちろん本はなく、その代わりに壁のあちこちからフックがぶら下がっています。別の写真ではそのフックに巨大な肉塊が多数吊られています。最近図書館には行ってませんが、次行く時には必ずこのフックと、そこに下がられていたであろう牛を思い返してしまいそうです。ううむ。現在の分館の中庭になっている部分の写真もあります。建物の壁に身を寄せる牛たちの群れ、悲しそうな瞳で見ているよ、「ドナドナ」の歌が聞えそうです。ううむ。先日見たエルマンノ・オルミ監督の『状況(訳は筆者)』(La circostanza、Ermanno Olmi、1974年)のワン・シーン(牛の堵殺の場面です)で寒気を催したのは、あるいは映像の力だけではなかったのかも知れないなどと想像してしまいます。現在の図書館内でチェーザレ・ザヴァッティーニ(Cesare Zavattini)のコーナーがある壁に、真っ二つの牛がぶら下がった写真もあります。ううむ。内臓処理の作業、空気で膨らまされた内臓の写真は70年代のもので、10世紀起源の本館に比べそう遠い過去ではありません。ううむ。いつも目にするチネテカの正門に “Macello pubblico”(公営堵殺場)と書かれた写真は1961年のものです。

 家畜の堵殺と「20世紀の芸術」がどう関係するのかはまっきりしませんが、オルミ監督の『木靴の樹』(L’albero degli zoccoli、1978年)での豚の解体シーンを見る限り、明らかにそれは専門職です。あの映画も確か、19世紀の集団農場を舞台としていたはずです。機械化されていない職人による手作業というその意味において、その手さばきは確かに「芸術的」である印象は受けたのを覚えています。

 かつて人を運び物を運んだレーノ川の水上輸送が、その役目を終えるのと時を同じくして、たばこ工場も閉鎖されました。その跡地を引き継いだボローニャ市立シネマテークが、その魅力という見えない運河で人を集め、たばこ産業で賑わっていた街の産業の牽引役を引き受けたと考えるのは、客観性を欠いた空想でしょうか? それまで家畜の命を奪い、それによって人々に命を与えていた精肉場が街の郊外に移転した後、その建物は今では映画の命を救い、それによって人々の命を満たしていると考えるのは、膨らみすぎた想像でしょうか? あるいはそうかも知れません。それでも、世界にその名を轟かすシネマテークを擁する街に暮らすひとりの映画好きとしては、そう考えることは精神的に健康ですし、居心地が良いのです。生ハムの豚やパルミジャーノ・チーズの牛と聞いてボローニャを思う人は少なく、たばことボローニャが結びつく人はさらに少ないです。しかし、ボローニャと聞いてチネテカを思い浮かべる人は、明らかにそれよりは多いだろうというぼんやりとした確信があります。その意味で、チネテカ以前史とチネテカの関係に対する僕の解釈も、ひとつの歴史であると言えるのではないでしょうか。

 誰より僕自身がシネマテークの魅力に惹かれて見えない水路によって運ばれてきた人間のひとりです。そんな僕にチネテカとシネマテークの新しい側面を教えてくれたのも、やはりボローニャ市立シネマテーク「チネテカ・ボローニャ」でした。

 今回の企画は、一見するととても地味で集客はそれほど望めそうにありません。事実、僕が訪れた際にも、来客はおろか、場内の灯りさえ点いていなかったくらいです。タフそうな受付のおばさんに、写真展を見に来た旨を伝えると、思い出したように点灯してくれた次第です。6月1日から街の中心で始まったチャップリン関連イベントとは大違いです。それでも、ボローニャが好きで、チネテカが好きな僕にとってはとても興味深く、知ることの多い企画でした。

 9月に第2部が始まるとき、僕はもうすでにこの街にはいません。この目と身体でもって体験できないことは残念ですが、気を落とすことはありません。冒頭で記したように、2007年中にはインターネットで閲覧できるようになるからです。思うことが思うようには進まないことはこの際触れないことにしましょう。川から街の中心に運河を引いたり、橋の上に教会を立てたり、芸術的にたばこを箱詰めしたり牛の解体ができる人々の国なのです。恐ろしく時間を必要とするかも知れませんが、僕も気の長さではなかなかのものですよ。

*オールドファッション幹太のブログ  KANTA CANTA LA VITA

*1: 教会を中心にして、街の外に向かって伸びるいくつかの主要道路と同心円状の通りいう構造は、イタリアの都市ではそう珍しくありません。そのひとつの例であるボローニャにあっては、西側にあるリーヴァ・ディ・レーノ通りの不規則性が目立ちます。ボローニャの旧市街地の地図を眺めてまず気がつきますし、実際に歩いてみても方向感覚を失ってしまうような印象があるのはその不規則性によるものかと考えます。街の歴史においてはずいぶん早い段階からこの運河があったのではないかということはその点からも想像できます。元からある家々を片っ端から潰して水路を作るようなことはあまりしないんじゃないでしょうか。街の北西部にはポルト(Porto、「港」の意)という地域もあります。いずれも水に近い地域だったことは明らかです。

*2:ジョセフ・ニセフォール・ニエプス(Joseph Nicephore Niepce)によるヘリオグラフィは1926年ごろ、ニエプスの協力者であったルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(Louis Jacque Mande Daguerre)によるダゲレオタイプの発明は1839年。世界初のネガ/ポジ式であるウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(William Henry Fox Talbot)のカロタイプは1841年。ダルボットが研究を始めた時期はダゲールより早い。

*3:“Ragazzoli, andaggna all’Arena?”というほとんど決まり文句になった挨拶が、劇場の写真の説明には記されています。方言なのでしょう、こういう言い方は僕たち外国人にはできません。「みんな、アリーナに行くでしょ?」ということです。