仕事の関係で、パンの耳をたくさんもらえるのである。
毎回そこそこ大量のパンの耳をもらえるため、ここのところ、パンの耳が僕の主食になりつつある。僕は普段自炊する派なのだが、ここ数ヶ月パンを買ったことはないし、なんならご飯すら炊かなくても十分なほどの炭水化物を、パンの耳から摂取できる。
なんだか、だめな気がする。
そもそも、パンの耳を毎日食べている、という状況が精神衛生上好ましくない。
「ああ、俺は、今、パンの耳を食べているんだなあ」
ということを意識してしまうともうだめだ。
「昨日も食ったなあ。明日もきっと、食うんだろうなあ」
ダウン、ダウンである。
より正確に言えば「28歳の青年が、明けても暮れても、もらいもののパンの耳を食べている」ということになるのだ。どう考えてもよろしくない。深く考えれば考えるほどよろしくない。考えまいとしても、部屋にはパンの耳があふれているのだから、どうしても目に飛び込んできてしまう。季節柄、かびが生えて、しょうがなく捨ててしまうこともしばしばだ。それでも我が家からはパンの耳がなくならない。むしろ増え続けている。食べる以上に、捨てる以上に、もらうからだ。いかん、いかんぞ!
(写真は、パンの耳をついばむスズメ。やけに親近感を覚えてしまう)
先日、千林商店街にあるドトールでかのうと話をした。かのうというのは僕がやっているコントユニット『かのうとおっさん』の相方である。もう10年来のつきあいになるが、『パンの耳』に関するこの深い悩みを相談すると、
「だめな男ね…」と、容赦ない。
「要は考え方しだいよ。パンの『耳』を食べていると思うからいけないの。パンの『最先端』を食べていると思いなさいな」
最先端!
よくはわからないが、グラビア界で言えばリア・ディゾンのようなものか。ゴルフ界で言えば宮里藍のようなものか。なんか、いい気がしてきた。
「ああ、俺は、今、パンの『最先端』を食べているのだ。昨日も食った。明日もきっと、食ってみせる!」
なんか、いい気がしてきた。
俺、やれるよ!
いけるよ!
気分をよくした僕は、お礼の意味も込めて彼女にパンの耳をおすそわけすることにした。遠慮はいらない、いくらでもあるのだ。
「ありがとう、いただくわ、パンの『EDGE』」
EDGE!
「ふふ、エッジのきいた、いいパンだわ」
そう口にするだけで、彼女の手にしたパンの耳がいいものに思えてくる。なんだかあげてしまったことが惜しくすらある。
まったく言葉は魔物である。口当たりのよい言葉は我々の目を簡単に曇らせる。
なにせ、それはただのパンの耳なのだ。