京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

ボローニャ復元映画祭(IL CINEMA RITROVATO)

 15回目を数える当コラム『シネマテークにしねまっていこ』では、我がボローニャが映画の街であることを折に触れ主張してきました。この街の映画事情を、他の町のそれとは一線を画したものにしているもの、それがボローニャ市立シネマテーク、通称チネテカであることは、すでに皆さんの知るところかと思います。

 今回は、僕がボローニャを映画の街、さらに言えば「映画復元の街」であると声高に叫ぶもうひとつの理由、「ボローニャ復元映画祭」(IL CINEMA RITROVATO、画像下)について、ちょっと書いてみようと思います。

 1960年代から現在のボローニャ市立シネマテークの母体となる団体の活動は始まりました。発案は当時のボローニャの知識層らで、映画批評家であり制作にも関わったレンツォ・レンツィ(Renzo Renzi、チネテカの図書館の名前として我々はその名を記憶しています)やヴィットリオ・ボアリーニ(Vittorio Boarini、チネテカの前代表でボローニャ大学で現在も教鞭をとる)が主導を取り、当時の優秀なふたりの若者、現在のチネテカの代表ジャン・ルーカ・ファリネッリ(Gian Luca Farinelli)やボローニャの現像ラボの創設に携わったニコーラ・マッツァンティ(Nicola Mazzanti)、そして指導役として、僕がこちらで世話になっている教授ミケーレ・カノーザ(Michele Canosa)などが関わったと聞いたことがあります。このチネテカの創設とほぼ時を同じくして、ボローニャから程近いポッレッタ・テルメ市(Porretta Terme)で「自由な映画の国際展示会」(Mostra internazionale del cinema libero)が開催され、この映画祭がボローニャ復元映画祭の原型となります。チネテカのHP上では、今年の映画祭は、「自由な映画の国際展示会」として36回、復元映画祭として21回を数えると記されています。

 復元映画祭の正式名称である“cinema ritrovato”は、「ふたたび見出された映画」を意味し、世界各国の「認知されていない作品、誤って認知されている作品、再発見された作品、復元された作品」を取り上げています。便宜的にこのコラムでは「復元映画祭」としていますが、その守備範囲は何も復元に限ったものではなく、どちらかと言えば重点は、広い意味での映画、つまり作品や監督、ジャンルや映画史を含む「“Cinema”としての映画」*1の「再発見・再評価」にあることはお分かりいただけるかと思います。結局はその中で、復元が大きな役割を果たしてはいるのですけれども。

 去年、同映画祭に初めて参加した印象を少し。8日間の映画祭期間中、初日を除けば毎日、朝9時ごろから真夜中まで上映は続きます。その間、休憩は上映の合間の数分と、お昼休み2時間弱。日中の上映は、リュミエールの2スクリーンをメインとし、いくつかの長編が、チネテカから遠くないチネマ・アルレッキーノ(Cinema Arlecchino)で上映されました。これらの上映は日が沈んでも続き、それに輪をかけて夜間は、特別イベントとして市立劇場(チネテカから遠い)での上映も数日行われ、とどめとして、街の中心マッジョーレ広場(チネテカから走って10分)に設置された巨大スクリーンでも上映されます。印象を端的に言えば、それは「間違いなく狂気の沙汰」であり、「身体は最低でも3つ必要」です。リュミエールのマストロヤンニ上映室とスコセッシ上映室にそれぞれ入りびたるふたつ、アルレッキーノと市立劇場と野外上映を駆け回り、合間を見つけて、チネテカの図書館で販売会で古本や映画保存関連の書籍を探すためにひとつ。結論として、期間中のすべての作品を鑑賞することは不可能なのです。同じような経験は、スクリーンがメインとサブの2箇所にあったポルデノーネ無声映画祭や、市内数箇所の一般映画館で上映される山形ドキュメンタリー映画祭で体験したことはありますが、前者はスクリーンの数において、後者は僕の個人的な関心において、ボローニャの映画祭に及びません。その結果、どういうことが起こるか? 「ふたたび見出された映画」を「ふたたび失う」という悲劇。上映プリントは存在するわけですから、鑑賞機会が完全にないわけではありません。しかし、昨年のプログラムで言えば、1906年特集やフリーズ・グリーン(Friese-Greene)の色映画、ジェルメーヌ・デュラック(Germaine Dulac)やウィリアム・S・ハート(William S. Hart)らの豊かなラインナップが、この先何度も、様々な機会で繰り返し上映されるとは考えにくいのです。

 しかし、ボローニャの映画祭における狂気とジレンマは、それを乗り越えた時に「狂喜」へと変貌を遂げます。見逃したくない作品ばかりの映画祭は、どれを見ても楽しめる、ということを意味します。特定の関心を持って映画祭に望むのであれば、腰を落ち着けてそれに没頭し、映画なら何でも良いという僕みたいなタイプは、気の赴くままフットワーク軽く上映室の間を飛び回れば良いのです。この映画祭に限らず、世の中のすべての映画を見つくすことは、土台不可能なのですから。

 何を見ても楽しめるから何でも良い、これは映画祭初体験だった昨年の方針であると同時に、今年の映画祭に向けた反省点でもあります。映像に身を任せながらも、思ったものです、「ぼけっと見てても素晴らしいこれらの作品の、映画史的重要性をもっと知りたい」、と。パンフレットも発売されますが、立派過ぎるほど立派なので、上映前のちょっとした時間には読みきれない。必然的に上映後に読み返すことになり、「ああ、そうだったのか」などと言う間もなく次の上映が始まる。一日の上映が終わったあとでは、分厚いパンフレットを読む気力も残っていない。「来年(つまり今年)は、もっと調査して臨むことにしよう」、そう決意して、去年は目の前の映像を全信頼して、それ以外の情報はほとんど丸投げだったのを覚えています。その良し悪しは各人の判断に委ねるとしても、作品について学ぶには少なからぬ文字情報、作品外情報が必要です。相手に打ち勝つためには、まず相手を知るべきで、狂気を狂喜に変えるためには勉強が必要となります。以下は、チネテカのHPにある今年の特集と作品に対する言及を要約、必要に応じて補足したものです。*2

【チャーリー・チャップリン関連】
 チャップリン(Charles Chaplin)の没後30年にあたる今年は、今月6月から、街を挙げてのチャップリン関連イベント「チャップリニアーナ」(Chapliniana、「チャップリンの」、「チャップリン的」の意)が始まりました。7月からはチャップリンについてのインターネット・データベースも開設されるとの情報があります。『キッド』(The Kid、1921年)や『街の灯』(City Lights、1931年)、『モダン・タイムス』(Modern Times、1936年)が市立劇場でオーケストラ付きで上映されるのを始めとして、『黄金狂時代』(The Gold Rush、1925年)や『サーカス』(The Circus、1928年)がマッジョーレ広場での野外上映で、また、最後の監督作品『伯爵夫人』(A Countess from Hong Kong、1967年)の最新復元プリントが上映されます。チャップリンのアーカイヴがあるボローニャならではの充実した企画です。

【アスタ・ニールセン回顧上映】
 1996年にルドルフ・ヴァレンティノ(Rodolfo Valentino)を取り上げて以来続く俳優特集では、シネマテーク・フランセーズの創設者アンリ・ラングロワ(Henri Langlois)の詩的定義によれば「ボードレールの娘」であり「北のサラ・ベルナール*3であるアスタ・ニールセン(Asta Nielsen、1881-1972)の特集が組まれます。注目は、『女ハムレット』(Hamlet、1921年)の最新の復元版と、『ザパタのギャング(訳は英題より筆者)』(Zapatas Bande、1914年)のカラー・プリントです。5年目を迎える「100年前の映画」特集で、ニールセンのもっとも古い素材を目にすることができるようです。

【監督特集】
 それぞれが生きた時代にそれぞれに過小評価され、映画史の名誉にかけて今日再評価が進む3人の監督、マイケル・カーティス(Michael Curtiz、1886-1962)、サッシャ・ギトリ(Sacha Guitry、1885-1957)、ラッファエッロ・マタラッツォ(Raffaello Matarazzo、1909-1966)が取り上げられます。

 マイケル・カーティスのアメリカ時代の無声映画は、それ以前のヨーロッパ時代のそれよりも知られていません。『人生サーカス』(The Third Degree、1926年)や『ノアの箱舟』(Noah’s Ark、1928年)の復元プリントのような極めて珍しい作品、次いで、『モーリー・ルーヴァンの奇妙な愛(訳は筆者)』(The Strange Love of Molly Louvain、1932年)、『好奇心旺盛な花嫁の場合(訳は筆者)』(The Case of the Curious Bride、1935年)、ワーナー社特有のスピード、輝き、監督術が良く見て取れる『偽者紳士』(Jimmy the Gent、1934年)、そして何より驚愕の『暁の耕地』(The Cabin in the Cotton、1932年)といった初期サウンド時代の秀作が上映されます。

 1930年代に50歳で映画界デビューを果たすギトリは、僕は名前さえ知らなかった監督です。ロシアで生まれ、演劇界で仕事を始め、他界するまでフランスで活躍したようです。ギトリ作品は、『夢を見ましょう』(Faisons un rêve、1937年)や『グッドラック!(訳は英題より筆者)』(Bonne chance!、1935年)といった初期作品、『喜劇役者(訳は筆者)』(Le Comédien、1948年)と『マリブランという女(訳は筆者)』(La Malibran、1944年)の40年代の作品、ミシェル・シモン(Michel Simon)が一人二役をこなす『ある正直者の一生(訳は筆者)』(La vie d’un honnête homme、1953年)が上映されます。

 「ふたたび見出された」ではなく「初めて見出された」のは、サッシャ・ギトリだけではありません。イタリア人監督ラッファエッロ・マタラッツォについても、名前さえ知りませんでした。ただし、この監督については解説にもあるように、「イタリア人以外の観客には(一部の選ばれたフランス人シネフィルを除けば)、ほとんど知られていない作家」のようです。ネオレアリズモ期にあったイタリアで、「マタラッツォの映画は、社会とその興奮の隠されたメカニズムを深く根源的に理解する上での挑戦と補足として提示された」とのことです。マタラッツォの処女作であり、ニーノ・ロータ(Nino Rota)のデビューでもある『人々の列車(訳は筆者)』(Treno popolare、1933年)から始まる特集は、『鎖(訳は筆者)』(Catene、1949年)、『苦しみ(訳は筆者)』(Tormento、1953年)、『孤児たち(訳は筆者)』(Figli di nessuno、1951年)、そしてヒッチコックAlfred Hitchcock)の『めまい』(Vertigo、1958年)の先駆けとも言える『白い天使(訳は筆者)』(L’angelo bianco、1955年)を含む、アメデオ・ナッツァーリ(Amedeo Nazzari)とイヴォンヌ・サンソン(Yvonne Sanson)という役者のコンビと共に制作した7本(マタラッツォのメロドラマの黄金期に重なるようです)へと続きます。後の大女優たちがこぞってデビューする、イタリアの50年代という、僕の個人的な興味とも重なります。

【40年代と50年代の世界のメロドラマ】
 上記のラッファエッロ・マタラッツォ特集は、1940年代から50年代にかけての各国のメロドラマを取り上げるこの特集の、イタリア代表でもあります。作品は、フランク・ボーゼージの『永遠に君を愛す』(I’ve Always Loved You、Frank Borzage、1946年)、イギリスのメロドラマ『灰色の男』(The Man in Grey、レスリー・アーリス<Leslie Arliss>、1943年)、メキシコが世界に誇るエミリオ・フェルナンデス監督『愛しい人(訳は筆者)』(Enamorada、Emilio Fernandez、1946年)、ジャン・グレミヨン(Jean Gremillon)の『不思議なX婦人(訳は筆者)』(L’étrange Madame X、1951年)、ハッセ・エクマンによる『ヒヤシンスを持った少女(訳は英題より筆者)』(Flicka och hyacinter<Girl with Hyacints>、Hasse Ekman、1950年)、フィンランド映画『愛の十字架(訳は英題より筆者)』(Rakkauden risti<Cross of Love>、Teuvo Tulio、1946年)などが挙げられています。

シネマスコープ
 ボローニャの復元映画祭では、世界に知れ渡る有名作品も切り口を変えて紹介されます。今年は、当コラムでも何度か取り上げた「シネマスコープ」がテーマのようです。チネマ・アルレッキーノの巨大スクリーンで上映されるシネスコ映画は、以下。『恐怖の土曜日』(Violent Saturday、リチャード・フライシャー<Richard Fleischer>、1955年)、『暗黒外の女』(Party Girl、ニコラス・レイ<Nicholas Ray>、1958年)、『大空の凱歌』(Battle Hymn、ダグラス・サーク<Douglas Sirk>、1957年)、『中国門(訳は筆者)』(China Gate、サミュエル・フラー<Samuel Fuller>、1957年)、『軍法会議』(The Court Martial of Billy Mitchell、オットー・プレミンジャー<Otto Preminger>、1955年)、『最後の銃撃』(The Last Hunt、リチャード・ブルックス<Richard Brooks>、1956年)。これらに、珍しいマグネット式サウンド・トラックによる『ワーロック』(Warlock、エドワード・ディミトリク<Edward Dmytryk>、1959年)とプレスリー(Elvis Presley)主演『燃える平原児』(Flaming Star、ドン・シーゲル<Don Siegel>、1960年)が続きます。

【ウェスタン特集】
 「ウェスタンの日」と名づけられたこの特集では、シネスコ特集で最後に取り上げた3作品に加え、ローレル&ハーディー(Laurel&Hardy)の秀作のひとつで、ようやく復元に取り付けた『西からの道(訳は筆者)』(Way Out West、James W. Horne、1937年)と『夕陽のガンマン』(Per qualche dollaro in più、セルジョ・レオーネ<Sergio Leone>、1965年)が上映されます。昨年のウィリアム・S・スチュアート(William S. Stuart)特集を、若干軽んじていたことは、昨年の失敗のひとつです。

【ふたたび見出された映画と復元された映画】
 「今年は、かつてないほどに豊富なセクションになる」と宣言されたこの特集では、ルビッチ(Ernst Lubitsch)の『私が死んだ時(訳は英題より筆者)』(Als Ich Tot War <When I Was Dead>、1916年)、オーストリアで復元された『アルプス颪』(Blind Husbands、エリッヒ・フォン・シュトロハイム<Erich von Stroheim>、1919年)、セシル・B・デミルの『ダイナマイト』(Dynamite、Cecil B. DeMille、1929年)、モーリッツ・スティルレル(Mauritz Stiller)の『運命の子(訳は英題より筆者)』(Madame de Thèbes <The Son of Destiny>、1915年)、“Schatten der Weldtstadt”(Willi Wolf監督、1925年)、ポーランドから『強い男(訳は英題より筆者)』(Mocny czlowiek<A Strong Man>、Henryk Szaro)、もっとも注目すべきは、スウェーデンを代表する3人の監督、Georg af Klerckerとヴィクトル・シェーストレム(Victor Sjöström)、前述スティルレルが役者として競演した『人生の春(訳は英題より筆者)』(I livets vår <The Spring of Life>、Paul Garbagni、1912年)とのことです。イタリアからは、フランチェスコ・ベルトリーニ(Francesco Bertolini)とアドルフォ・パドヴァン(Adolfo Padovan)の共同監督による2作品『地獄(訳は筆者)』(Inferno、1911年)と『オデッセイ(訳は筆者)』(Odissea、1911年)、そして、昨年に続き「マチステ」ものから、『皇帝マチステ(訳は筆者)』(Maciste imperatore、グイード・ブリニョーネ<Guido Brignone>、1924年)が参加します。『カビリア』から10年、マチステを演じるバルトロメオ・パガーノ(Bartolomeo Pagano)は相変わらず元気なのか、気になるところです。*4解説にあるギオーネ・プロジェクト(il progetto Ghione)とはいったい?

 サウンド・トラックが修復された作品では、キューブリックの『博士の異常な愛』(Dr. Strangelove、Stanley Kubrick、1964年)、プレミンジャーの『ある殺人』(Anatomy of a Murder、1959年)、カサヴェテスの『フェイシズ』(Faces、John Cassavetes、1968年)、ボーゼージの『ますらを』(No Greater Glory、1934年)、そして、ベン・ギャザラ(Ben Gazzara)の衝撃の銀幕デビュー作『その奇妙な奴(訳は筆者)』(The Strange One、John Garfein、1957年)が取り上げられます。

【そのほかのイベント】
 期間中、チネテカの図書館では、書籍、映像ソフト、映画関連グッズの販売も行なわれます。これがあるために、体力回復のための貴重な時間である昼食の休憩は、僕にとっては「あってないようなもの」と化すわけです。また、復元映画祭DVDアワードは今年で、4回目を数えます(詳しくは追って報告予定)。

 この夏、ボローニャでは国際フィルム・アーカイヴ連盟(Fédération Internationale des Archives du Film)主催の映画保存サマー・スクール(Film Restoration Summer School)が開催されます。僕も応募し、見事、落選した垂涎的企画です。参加者は、映画祭終了後、ラボでの研修が開始します。「ボローニャ復元映画祭は、シネマテークの映画祭として誕生しました。各アーカイヴの未来のアーキヴィストの養成に協力できることを大変喜ばしく、また光栄に思います」と、解説にはあります。そこに僕もちょっとでいいから混ぜてほしかったんですけど、ね。まあ、何か情報があれば報告します。

 映画の誕生から70年以上も過ぎてから生まれた僕にとっては、プログラムのほぼすべてが再発見である以前に発見であるため、実のところ、相当のエネルギーを要する映画祭でもあります。1日1本のペースで映画を見ても、数日後には忘れてしまう機能不全的な側面を持つ僕の脳みそですので、1日10時間以上スクリーンの前に座っているとなると、しかもそれが8日間も続くとなると、どうしてもメモを取る必要があります。折に触れ、できることなら作品ごとに、例え厳しくても上映室の明かりが灯るたびに、最低でも1日の終わりに、自分の中で消化していかなければなりません。「映画は忘れるからこそ愛しい」とは言いますが、できることなら忘れたくないのです。

 そんなわけで、当コラムの筆者である私、オールドファッション幹太が、自身のブログ『Kanta Canta La Vita』上で、6月30日から7月7日までの8日間毎日、世界一早い日本語による映画祭参加報告をします。今回の投稿を書き終えた時点で、実のところ途方に暮れましたが、がんばります、自身のためではありますがご期待ください。

※オールドファッション幹太のブログ  KANTA CANTA LA VITA

*1:イタリア語では、「映画」を“cinema”、「映画作品とフィルム」を“film”、「物体としてのフィルム」をさらに限定して “pellicola”、という風に使い分けます。「映画に行こうよ」という時は“cinema”を、「映画を見に行こうよ」という時は“film”を使います。テレビで映画を見てもそれは“film”ですし、「俺、フィルムのあのぺらっとした感じが好きなんだ」という時は“pellicola”を使います。使い分けに慣れると便利です。

*2: 補足については、All CinemaとThe Internt Movie Databaseの各ホームページを主に参照しました。

*3:サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt)は、昨年特集されたフランスの舞台女優です。ラングロワの定義については、解説のイタリア語“figlia di Baudelaire”と “la Sarah Bernhardt del Nord”を翻訳しました。

*4:『カビリア』(Cabiria、Giovanni Pastrone、1914年)で初めてスクリーン上に登場した愛すべき勇敢なる下僕マチステ(Maciste)は、その後、彼を主人公にした作品がシリーズ化されるほど人気を博しました。史実にも伝説にも、もちろん神話にも出てきませんが、『カビリア』での存在感は、カビリアを凌駕しています。60年代に復活する金髪と青い目のマチステものが、あくまでそのパガーノ扮する人気者マチステの復刻版であったことは言うに及びません。日本では過去に、京都映画祭で数本のマチステ作品が上映されました。