京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝紹介グループ「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM802で行っている映画短評について綴ります。

南部人よ、「市民」となれ 〜パットナムの本を読んで〜

 今年の7月にイタリア旅行をしたとき、イタリア半島を北から南へと移動しました。北に位置するミラノ、ジェノヴァヴェネツィアより、中部のローマ、南のナポリへ。北は落ち着いており、洗練されている印象を受ける一方、南部は活気があり、人情味あふれる印象です。北と南どちらが好きかと問われれば、回答に困ってしまうほど、どちらもそれぞれの魅力があります。

 しかし、こと経済や公共サービスという点から、南北を比べてみますと、両者には大きな格差があり、社会問題化していることに気づきます。イタリアの南北格差と言えば、日本でも有名な話で、長年にわたってイタリアを苦しめてきた頭痛の種です。

 では、なぜ、イタリアでは南北格差があるのでしょうか? もっと具体的にいうと、南北間の公共機関のサービスの差、経済格差はどこから来るのでしょうか? この問いに答えるのは容易ではないでしょうが、ひとつの見解を示したのが政治学者ロバート・D・パットナム(Robert David Putnam)です。彼の著書『哲学する民主主義』では、「なぜイタリアで南北格差が生まれたか?」が説明されています。そこで、今回のコラムでは「イタリアの南北格差、パットナムによる解説編」にしたいと思います。

 まず、南北格差といっても具体的にはどういう状態なのかといいますと、たとえば、経済の格差は決定的で、北部は脱工業化している一方、南部では第一次産業への従事率が高く*1、また、失業率も南部の方が圧倒的に高くなっています*2。さらに、南部では、汚職が絶えず、公共サービスもいいかげんです。 この間のイタリア旅行中、ナポリで出会ったおじさんが、「ナポリでは汚職が絶えない。それはこれまでもそうだったし、これからもそうだろう」と言っていたのを覚えています。 また、パットナムは、先ほどの著書の中で、プーリア州(Puglia、南部)とエミリア・ロマーニャ州(Emiglia Romagna、北部)の州庁を比較し、それぞれ「不機嫌そうにだらだら」と仕事をする南部の役人と、「きびきびした礼儀正しい」北部の役人と評しています。どうやら、南イタリアは経済、行政の分野では評判が悪そうです。

 イタリアでは1970年に地方制度改革が行われ、イタリア半島すべての地域(独立国除く)に州制度が導入されました。同様の制度を北にも南にも適用したわけです。それにも関わらず、地域(南と北)によって、そのパフォーマンスが変わってくる。つまり、北と南で「制度」という同じ種を植えても、そこで育つ花は別物になってしまうのです。

 よい花を咲かせるためには何が必要でしょうか? まず、当然よい種(制度)が必要です。そして、花が育つ土壌、つまり、歴史も重要な要素です。北部と南部が歩んだ歴史は同じではないはずですから、それぞれの歴史が制度パフォーマンスに影響を与えるのは当然です。そして、パットナムは、この「制度」と「歴史」という要素に加え、「社会関係資本」という要素を付け加えます。この「社会関係資本」こそ、パットナムが一番強調する点です。彼はこれが制度のパフォーマンスに大きな影響を与えると言うのです。

 「社会関係資本」というと、なんだか小難しい響きがありますが、簡単にいうと、人間のつながり(社会的なネットワーク)のことを指します。ただし、人間のつながりとはいっても、互酬性と信頼がキーワードとなっていて、一方的な関係ではなく、「このことを今あなたにしてあげる、それはあなたが(あるいはおそらく他の誰か)がそのお返しをしてくれることを期待するから」(パットナム、2001、p.16)という関係です。ギヴ・アンド・テイクに基づく市民間のつながり、そこで他人にしてあげたことは自分の利益にもなる、そんな関係です。パットナムによると、協同組合、相互扶助協会、文化団体、自発的労組、スポーツクラブなどがそれにあたるとしています。

 そして、こういった関係が豊かであれば、そこから生まれるアウトプット、つまり、制度のパフォーマンスも向上すると。パットナムは実験データから、イタリア北部と比べて、南部ではこの社会関係資本が希薄だということを発見します。北部では、人々は「市民的徳」や「寛容さ」を備えており、市民団体に積極的に参加し、それが「皆で力を合わせて物事に取り組もうとする努力に対して、責任を共有する感覚、さらに人々がその共通に望む目標を追求する術」(同、p.108)を養っている。一方の南部の人々は「孤絶し、猜疑心にとらわれ」(同、p.110)ており、「道徳以前の家族主義者、恩顧=庇護主義、無法状態、非能率な政府、経済的停滞」(同、p.229)から抜け出せないでいると言います。 北の人は、「オレはお前を信頼してる、だからお前もオレを信頼してくれ。みんなで問題に取り組んでいこう!」といった雰囲気である一方、南の人は「他人なんて、信用できないな。いっしょに行動なんかしたくないよ。裏切られたらどうするんだ」といった感じでしょうか。

 南部では、互いの信頼関係が薄く、市民として共同するということをしない傾向にあるようです。そして、このような相互不信から非協力行動を生んでしまうといった南部の「集合行為のジレンマ」*3に関しても、パットナムは、「自発的な協力」や「信頼」により解決できるという可能性を示唆し、こうした「自発的協力」や「信頼」は「社会関係資本」の蓄積により生まれるものであるとします。

 このように、イタリア南部の問題(経済格差、悪質な公共サービス、政治的汚職)を解決し、より良い民主主義のためには、市民的な共同体をつくり、互酬性と信頼を基礎とする社会資本を蓄積していくことが大切だ、というのがパットナムの主張です。言い換えれば、南部人の市民度の低さが、その社会的問題の原因になっている、と言うわけです。

 以上がパットナムの『哲学する民主主義』の主な内容です。

 ここからは、僕の個人的な読後の感想ですが、個人的には、なによりも「市民の徳」「市民参加」「公共精神」という単語が強調されていたことが印象的でした。パットナムの考えは共同体論者(コミュニタリアン*4たちのそれとかなり近いように感じます。実際、本の中でもウォルツァー(Michael Walzer)の言葉が引用されていますし。

 ただ、こうした論者が言うような、単なる私的利益を越え、共同体の視点に立って公共問題を考えることのできる市民を生み出すにはどうしたらよいのでしょうか? この問いにパットナムは十分に答えていません。また、そもそも、センセーショナルな話題(首相辞任とか?!)にだけは飛びつくが、「市民の徳」や「公共精神」「共同体の視点」なんて言われても困る、オレにはオレの生活があるんだ、自分のことで精一杯だ、という若者が少なくないという現実もあるでしょう(共同体論者はこれを個人主義といって批判する)。


=参考資料=
ロバート・D・パットナム(河田潤一訳)(2001)、『哲学する民主主義』、NTT出版
[http://www.istat.it/:title=イタリア国立統計研究所(Istituto Nazionale di Statistica)ホームページ]
哲学する民主主義―伝統と改革の市民的構造 (叢書「世界認識の最前線」) 政治と情念―より平等なリベラリズムへ グローバルな市民社会に向かって

*1:北中部ではその人口の3%の人が第1次産業(農業)に従事しているのに対して、南部では倍以上の7.2%。イタリア国立統計研究所(ISTAT)の「第2006年次の統計報告書」(Annuario statistico italiano 2006)より。

*2:失業率は、北部で3.4%なのに対して、南部では12%となっている。同様にISTATの「2006年上半期の労働力調査」(Rilevazione sulle forze di lavoro -II trimestre 2006)より。

*3:ホッブズ的な集合行為のジレンマの解決、すなわち、第三者(絶対君主)による相互信頼の実現は、南部イタリアでは失敗に終わった。また、古典的な囚人のジレンマでは、自発的協力を十分に想定していなかった、とパットナムは指摘している(パットナム 2001、p.204)。

*4:個人を越えた共同体がもたらす利益を強調する立場。マイケル・ウォルツァーはその代表的論者のひとり。