京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝紹介グループ「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM802で行っている映画短評について綴ります。

食卓における炭水化物の適切なポジション  (旧ウェブサイトコラム『ローマから遠く離れて』)

ローマから遠く離れて半年弱、不思議と特に郷愁のようなものを感じることはない。それは同じ時期にあの長靴型の半島で共に悪戦苦闘したファンシーやオールドファッションやシナモンといった大阪ドーナッツクラブのメンバーにも言えることである。それまでに長くても数か月しか海外に身を置いたことのない人間が、急に2年の長きにわたって異文化圏に逗留するのだから、いくら机上の知識を詰め込んだ脳を携えていたとしても、これはなかなか骨の折れることなわけで、しかもその場所が何につけても機能不全で何かとトラブルには事欠かないことで悪名を猛々しく轟かせるイタリアとあっては、骨が折れるといった生易しい表現ではいささか不十分である。複雑骨折ぐらいが穏当だろう。そう、重傷なのである。僕らはそれぞれに重度の傷を負ったのである。傷は癒さねばならない。そうやって、僕たちは好むと好まざるとにかかわらず住み慣れた大阪の地で心と身体の負荷を解放し、2007年の下半期を癒しの月日と意味づけた。昨今の癒しブームの中で忘れられかけていることだが、「癒」という字の部首は「病垂(やまいだれ)」である。僕らが郷愁とは無縁であることを少しはご理解いただけただろうか?

 さて、年が明けても相変わらずの長い前置きをキーボードタッチの余韻も冷めやらぬままに翻すようで恐縮だが、これまた去年までの在伊メンバーが口を揃えて言うには、あの国が恋しくなるにはまだ時期尚早だが、ひとつだけ例外を挙げるならば、それはあの豊潤な食文化にまつわるあれやこれやである。ひとつだけと言っておきながらあれやこれやはないだろうというのは至極まっとうな指摘であろうが、要するに食はわけ隔てなく恋しいということで僕らは一致したわけだ。イタリア料理なんざ、今の日本なら毎日でも食べる機会はあるだろうだって? 怒るよ、僕らは。クアンティティーじゃないんだよ。クオリティーなんだよ、問題は。この『ローマから遠く離れて』第1回では、イタリア料理への恋しさに追い打ちと拍車のダブルパンチをかけたエピソードを紹介したい。

 年の瀬の昼下がり、僕は遅めの昼食を取るため、大阪市営地下鉄北大阪急行分水嶺として名高い江坂駅界隈へ足を運んだ。その日の狙いは餃子。おいおい、イタリアンの話じゃないのかという横槍を握りしめた読者も多いとは思うが、しばしお待ちを。あの日は確かおおつごもりまで8日間、俗に言うクリスマス・イブイブというやつだが、僕にとっては3が付く日だから「みんみん」の餃子が半額の日だ。張り切って腹を空かせて出向いたのだが、店を覗き込むとどういうわけか閑古鳥が鳴いている。サングラスを外して目の焦点を店の奥から手前の窓ガラスに切り替えると、そこには本日休業の文字が。その横には3が付く日は半額というのぼりが風にたなびいている。どういうことだ。よりによって3の付く日に休むなよ。僕は裏切られた気持ちで中華を諦め、今度はザ・丼へと歩を進めた。中を覗き込むと海鮮に人が群がってぱくぱくやっている。外を振り返ると客が4人も並んでいる。どういうことだ。なんだってこの寒いのにみんなで冷たい海の幸に舌鼓を打ってるんだ。もういい加減お昼には遅い時間だってのに。それとも何か、みんな「みんみん」から流れてきたのか。みんな餃子で泣きを見たのか。ザ・丼がイブイブに混んでいる理由にいくら思いを巡らせてみても、店内から引き揚げてくる客はおらず、僕の身体はしんしんと冷え込む一方だ。だめだ、ひとつもいいことがない。僕が矢面たまらず行列を抜けて歩き出すや、後ろから来たおじいちゃんの自転車に轢かれそうになった。よりによってじいさんにだ。いいことがないばかりか、やなことが相次いできたぞ。僕はこの流れを吹き飛ばす力をつけるべく、インドに救いを求めた。そうだ、今の僕に必要なのは何よりもスパイスだ。ピリッとしたい。この辺が日本のすごいところである。中華がだめでも、和食がだめでも、カレーが食えるのだ。中日印と吹田市江坂だけで3カ国も渡り歩ける。落ち着いて考えればなかなかできることではないはずだ。しかも僕が向かったカレー屋さんはインド人シェフ。心が躍って来た。一刻も早くインドの扉をノックしたい。ドアノブに手をかけたい。そんな僕の張り切りとは裏腹に、扉にはノブがなかった。自動ドアだったのだ。入り口で面食らっていると、インド人の給仕が自動ドアを手動で重そうに開けて、カレー屋のくせにクールな調子でこう言い放った。「すみません。お昼は14時半までなんです。今14時40分。残念です」。残念に思うくらいなら入れてくれないかと思ったが、店内を覗き込むと中央の大テーブルで店員たちが見たことのないカードゲームに興じていた。既に憩いモードの彼らに労働を強いるのは忍びない。僕はおずおずと引き下がった。

 これぐらいでへこたれている場合ではない。いくら僕の悪運が知り合いの間でつとに有名だとしてもだ。そう言えばこの前なんか、知り合いの知り合いとして初めて出会った人に、「あ、ポンデさんですよね、運の悪い」って言われてしまったくらいだ。あれにはへこたれた。へこみにへこんだ。ただ、今へこんでいるのは気持ちよりも胃袋だ。こいつを満たさないことには何も始まらない。ぼやぼやしていると江坂中の食事処が暖簾を下げそうな気がしてきて、僕は次の目的地をイタリアに切り替えた。と、眼に飛び込んできたのは緑白赤の馴染みの三色旗。迷わず直行だ。近づいてみるといたるところにトレコローリをあしらうというありがちなミステイクを犯してはいるが、この時間でもまだ開いているのだからここは大目に見よう。何よりも硝子窓の向こうであんぐりと口を開けたナポリ顔負けの石釜が頼もしい。僕はほとんど吸い込まれるようにして扉に手をかけたが、そこに書かれた文字が行く手を阻んだ。アスペルジュ。どうやら店の名前らしい。アスパラガスのことだとは理解できるが、これはどう考えてもフランス語である。イタリア語ならアスパラジだ。ここはどこだ。僕はいったいどこへ向かおうとしているんだ。イタリア料理アスペルジュ、名物はナポリのピザ。イタリアなのかフランスなのか、ナポリなのか江坂なのか。僕はもう眩暈がしてきた。ただ、これは僕の経験則なのだけれど、外国料理店で料理名ならまだしも店名から間違っている店ではあまり愉快な思いをしたことがないので、涙を飲んで石釜とはおさらばすることにした。

 いよいよまずい。空腹は最大の調味料だとは言うが、この調子だとどんなに濃い味付けの一皿が来ても調味料が勝ってしまいかねない。台無しだ。どこだ。僕はいったいどこへ行けばいいんだ。朦朧とした意識の中で、「ここだよ、ここだよ」と手を差し伸べられた気がした。それもそのはず、眼を凝らせば、遠くには「クアクア」(クア<qua>というのは、イタリア語で「ここ」という意味である)の文字が。別のイタリア料理店だ。しかもまだ開いている。入らない理由が見当たらない。5軒目にしてようやく、僕は料理屋の扉を自分で開けた。

 店内にはイタリアのポップスが流れ、いやがうえにも気分は高まる。ファミレス風のしつらえが気にはなるが、今は贅沢を言っている場合ではない。メニューを高速で解析し、胃袋と迅速かつ慎重に話し合った結果、僕はおススメランチコース大盛りを注文した。内容は、前菜の盛り合わせ・パスタ大盛り・デザート・フォカッチャ・コーヒーだ。さて、のらりくらりと言葉を葛折(つづらおり)に綴ってきたこの文章は、ここからがようやく本題である。まずは今一度メニューを吟味していただきたい。炭水化物はどれか。正解はふたつ。そう、パスタとフォカッチャである。フォカッチャと言えば、港町ジェノヴァを擁するリグーリア(Liguria)州が誇る郷土料理のモチっとした厚めのプレーンピザである。ハーブや塩で味付けをしてある場合もあるし、オリーブがころころ混入していてそのままで軽い昼食にしてしまえるスナックでもあるが、こういったレストランで、しかもコースに組み込まれるのはあくまでプレーンのものであり、それはひとえにパンの代役を担うことになる。だとすれば、問題のフォカッチャはいったいどの皿と一緒に僕の前に顔を出すべきか。このコースなら答えはひとつしかない。前菜の盛り合わせである。デザートやコーヒーは論外だし、大盛りのパスタと一緒に出されても炭水化物がかち合ってしまう。一方で前菜は言わばおかずなわけだから、それだけを食べるには少々味も濃いし、どうしても炭水化物がほしくなる。僕はこれを自明のことだと思っていたのだけれど、そうは問屋が卸さなかったのだ。

 まずは前菜だ。ただし、フォカッチャは来ない。しばらく待ってみようかとも思ったが、さんざっぱら歩いたせいで食欲は決壊寸前だ。僕は欲望ではなく欲求に従い、一品また一品とフォークでついばみ始めた。フォカッチャ君は追っ付け来るだろうという願いも虚しく、皿は瞬く間に空となった。仕方あるまい。口腔内の余韻で遅れてきたフォカッチャ君をたしなむことにしようと腹をくくろうとしていると、なんとパスタが先にやってきた。大盛りと言うよりは特盛りに近い。たまらず「すみません、フォカッチャは?」と女性の給仕係に問いかけてみると、ウェイターが後ろから「お待たせしました」といってフォカッチャ君を連れてきた。その姿はまるでサウナから今しがた出てきたおっさんのようで、蒸気がもわもわと立ち込めていた。僕は湯上りを待っていたその妻のような気分で、「遅いよ」とつぶやいた。しかし、出てきたものは仕方ない。問題はどう平らげるかだ。考えた結果、僕はパスタを二口ごとにフォカッチャを一口という作戦に出た。思ったほど悪くはなかったが、フォカッチャを口に運ぶたびに感じるちぐはぐな印象は、結局デザートの段になっても拭い去ることができなかった。もちろんイタリアではこんなことはなかった。パンは前菜に合わせて持ってくる。それが相性というものだ。炭水化物がタッグを組めるのはお好み焼きと白ご飯やラーメンと天津飯といったアジアの料理に限られるというのが今までの僕の常識であった。それがこんなにもあっさり打ち崩されるなんて。いくら大阪が粉もん文化を礼賛するからと言って、それを遠い異国の料理にまではびこらせるのは度が過ぎていると思うのは僕だけだろうか? 炭水化物というのは胃袋内でもっとも大きな風呂敷を広げる態度のでかい栄養素である。こいつがあまりにのさばると、他の栄養素は手も足も出ない。そんな自己主張の強いデカブツにうまく協調性を持たせるには、食事の総量や宴の時間の長短に合わせて、奴にうまいポジションをあてがわねばならないのである。今回の僕のエピソードだとわかりにくい向きもあったかもしれないけれど、皆さんの周りにもいるでしょう? たっぷり楽しもうぜと盛りあがって飛び込んだ居酒屋で、いきなり「あ、えーとね、とりあえず生と焼きおにぎり」なんて言っちゃう困りものが。僕はまさにそれと同じ論理でフォカッチャ君の出番ミスを糾弾しているのである。食事にも順列と組み合わせというものがある。この文章に結論のようなものがあるとするならば、これからの時代、料理にもちょっとした数学的センスが必要だというのがそれだ。

 店を出る際に軽く注意してやろうかと思ったのだけれど、レジで向い合せになってみると、給仕のお姉さんは憎らしいほどに美人だった。気づけば笑顔で店を出てしまっていた。2008年はこういうところを何とかしたいといきなり反省の正月だ。