京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

ヴィットリオ広場の中心で愛を叫ぶ

 今回は話題のドキュメンタリー映画『ヴィットリオ広場のオーケストラ』(L’orchestra di Piazza Vittorio、2006年画像下)を大胆後取り! 大阪では梅田ガーデンシネマですでに上映されました。知らない人のために説明しておくと、梅田ガーデンシネマとは、梅田の中心部からとても離れた、あまり赴く用事のない梅田スカイビルの中にある映画館で、ヨーロッパなどのマイノリティーなアート映画を大阪で上映する数少ない映画館の一つとして有名です。そんなわけで大阪界隈、少なくとも僕の友達周りでは、マイノリティーなアート映画のことをガーデンシネマ系と呼ぶようになったのです。
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 ところでドキュメンタリー映画とは、ただ現実を追うものではなく、何か伝えたいメッセージを込めて作られるものであると誰かが言っていました。『ヴィットリオ広場』で伝えたいメッセージとは、ローマの、ひいてはイタリア全体の移民問題についてだと思われます。しかしこの移民問題というのはなかなか複雑です。なぜならそれぞれの人種がそれぞれの目的でイタリアにやってきて、それぞれの仕事に従事する。出稼ぎや難民、亡命。根を張るために移住して来たチャイニーズ。留学、遊学のために来る韓国人や日本人。そして彼らは、でっかい水色のビニール袋の上に商品を並べて、パチもんのナイキの靴を売ります。グッチのかばんを売ります。マッサージをします。売春をします。物乞いをします。泥棒をします。地下鉄で楽器を弾きます。中国からの食材ルートで偽りの日本料理屋を営みます。そのすべてがそれぞれのコミューンや黒い組織にコントロールされているようで、ゆえに一口に移民問題と言っても、各民族によって異なった色と大きさの問題が絡まりあって形成されているのが実体です。


 それではヴィットリオ広場周辺地区のケースを文献とともに考えてみましょう。そもそも賑やかな市場だったヴィットリオ広場。その地を題材にした押しも押されぬイタリア文学の名作があります。カルロ・エミリオ・ガッダ(Carlo Emilio Gadda)の『メルラーナ通りのくそみたいな大騒ぎ(訳は筆者)』(Quer pasticciaccio brutto de Via Merlana、1957年、画像右)。広場から一本逸れたところにある大通りのメルラーナで起こった宝石強奪事件と殺人事件の謎を、刑事ドン・チッチョ(Don Ciccio、ふとっちょデカとでも訳しておきましょうか)が究明を試みます。最初に起きた宝石強盗事件の実行犯と思われる男が連行されるシーンでは、ヴィットリオ広場の生き生きした市場が描写されています。

 彼らは、その混乱から、マミアーニ通り、リカソーリ通りの方へ出て行った。魚屋と鶏肉屋の露店のあいだに小さな抜け道があったのだ。ヤリイカコウイカ、ウナギにダツ、もちろんアサリ。それはもうたくさんの海の幸を売っている場所だ。

 やさ男と金髪野郎は、真珠の淡い銀色に光る、やわらかそうなイカの身に目をやった。(それほどまでに、筋全体に細やかな光沢が出されていた)。嗅ごうともしていないのに、ピチピチにゅるりとした海草の匂いがする。循環する、放たれたCl(塩素)−Br(臭素)−I(ヨウ素)、船だまりの活き活きした朝の匂い。それは、底のほうからすでに聞こえている空腹を満たしてくれる皿、ぴっかぴかのフライを約束してくれるのだった。…

 そしてこの小説のすごいのは、犯人を問い詰める場面、つまり事件が未解決のまま物語が終わっているところです。ドン・チッチョが捜査を進めれば進めるほど、事件は複雑に絡まっていきます。そのストーリー展開は、当時のローマの混沌と喧騒をオーバーラップさせたもので、メルラーナ通り(画像左下)の近隣に位置するヴィットリオ広場もまた、その混沌のシンボルとして描かれたのでした。

 そして『メルラーナ通り』の初版から50年経った現在のヴィットリオ広場。市場は移動し、広場には夜間の出入りを禁止するために柵格子が備えられました(画像右上)。そして街では土地を買い占めた中国人が食料品店や服屋を経営し、たどたどしいイタリア語で客の応対をしています。その子供たちがアーチのかかった表通りを騒ぎながら走り抜けます。もうそこは、ほとんどチャイナタウンと呼んでも差し支えありません。中国人を軸に移民居住が形成されている。それがヴィットリオ広場周辺地区の実態です。2007年10月7日付けの『レプブリカ』(La Repubblica)紙に掲載されたトンマーゾ・ピンチョ(Tommaso Pincio)の短編『紙と蛇(訳は筆者)』(Fogli e serpenti)では、現在のヴィットリオ広場が題材にされています。

 ぼくがいつも執筆のために行くバールには、一人の中国人の青年が働いて、蛇に祈りを捧げている。実際は、蛇に祈りを捧げているわけではないのかもしれない。少なくともぼくはそう思っている。すべては、ある日ぼくがこのバールのテーブルについて、持ってきた白い紙から、何かを引きずり出そうとがんばっているときに始まったんだ。つまりは、そのときおばあさんが入ってきてこう言ったんだ。「蛇にお祈りすのはやめなさい。そうじゃなくて神に祈りなさい」。

 まさしく彼に向かって言ったのだ。その中国人の青年に。彼はそのとき会計のレジの前に座っていた。実はというと、ほとんどそこから動かないのだ。その会計のレジの前で何時間も過ごしている。不動のまま少し背中を丸め、重たげな頭を体にぶらさげている。半分寝かかっているように見える。でも、彼は目を見開き、絶えずある正確な一点をじっと見つめ続けているのだから、寝ているわけではないのだ。彼の視線の激しさから判断すると、何かたいへん真面目なことを考えていると言うべきかもしれないが、なにも考えていないだけだとぼくは思っている。レジのボタンを見ていると思ってレジのボタンを見つめているだけだ。

 「聞いてるの?―おばあさんが言った―蛇にお祈りするのはやめて。神様にお祈りなさい」。彼は顔を上げ向き直り、おばあさんに目をやり、なにやら口を動かした。微笑んだのかもしれないが、何をしたわけでもないとぼくは思う。そして彼はふたたびレジのボタンを見つめるのであった。

 ぼくは毎日このバールに行くものだから、ことの顛末を見届けようと心に決めたのだ。明日の『ローマ・ニュース』紙に、ぼくの死亡記事が載るなんて見たことがないだろう。作家、執筆中に東洋の毒蛇に咬まれ、ヴィットリオ広場で果てる、なんてね。「蛇を祈るのには、どういう意味があるんだ?」ぼくはたずねた。 

 ヴィットリオ広場のバールに通う作者と、そこで働く中国人とのディスコミュニケーション。中国人の青年は、不気味で理解できない存在として描かれています。そこには、『メルラーナ通り』で提起された混沌という感覚はまったくなく、代わって、鈍くうごめく不条理さがテーマとされています。話をいったん戻すと、『ヴィットリオ広場のオーケストラ』でもまたそれに通ずるシーンがあります。中盤、ヴィットリオ広場の真ん中で音楽に合わせて中国人の中年カップルがダンスをします。楽しいのか楽しくないのか、やたらと無表情で、切れ味も悪くゆっくりと踊ります。この異様さ、不気味さこそが現在のヴィットリオ広場における移民問題の核だと思われます。

 さらにもう一つ、現在のヴィットリオ広場を描いた作品を紹介しましょう。『ヴィットリオ広場のエレベーターをめぐる市民たちのいざこざ(訳は筆者)』(Scontro di civiltà per un ascensore a piazza Vittorio、2006年)。アパートのエレベーターで起こった殺人事件と、それともともに消えた男、アメデオをめぐって、近隣住民たちが次々と証言をします。ヴィットリオ広場付近で起きた殺人事件というプロットはもちろん『メルラーナ通り』のパロディなのですが、オリジナルと違うところは登場人物の他民族化。サッカー好きのバールのおっさんや、言葉がしゃべれず皿洗いに従事するイラン人、ヴィットリオ広場を舞台にネオレアリズモ映画を撮りたいオランダ人、ミラノから来た神経質な大学教授などなど。それぞれがアメデオと事件の真相について、それぞれの視点で意見を述べます。それがさらには、各人種を通したローマ観にもなっているというしくみです。アパートの管理人であるナポリのおばちゃん、ベネデッタの証言の一部に次のようなものがあります。

 言わせてもらうけど、犯罪ってやつは行き過ぎちゃってるね。先月、エリザベッタ・ファビアーニがさ、三階の家に住んでる未亡人なんだけど、飼ってた小犬のヴァレンティーノがいなくなったって言うの。いつもと同じように、ヴィットリオ広場の公園で犬を散歩してたんだってさ。用を足したりさせるために。お日さまを浴びようってんで、彼女が座ってさ、右、左と見回しました。犬の影も形もなくなちまってたってわけ。手伝ってって頼まれてさぁ、公園の中も外も探したんだけど、見つかりゃしなかったね。ヴァレンティーノがいなくなっちまって、エリザベッタはたいそう泣いたよ。だからみんな彼女の息子のアルベルトが死んだもんだと思っちまったのさ。あたしゃ彼女に言ったよ。ヴァレンティーノがいなくなちまったのは、なんだか怪しいねって。確かな証拠があるわけじゃないけど、あちこちで聞いたことから、誘拐じゃないかって考えたわけさ。

一つには、ここ数年、ヴィットリオ広場でたくさんの中華屋が開いた。

二つ、ヴィットリオ広場は中国人の子供たちが遊ぶのにやってくる場所だ。

三つ、中国人は猫や犬の肉を食うらしい。

 もうあたしが言いたいことはわかったろう。間違いないさ。中国人のやつらが、ヴァレンティーナを誘拐しちまったのさ。かわいそうに、食っちまったんだよ!

 ベネデッタは作中、おしゃべりが好きで見識のせまい典型的なイタリアのおばちゃんという設定で描かれています。しかしそれは、映画好きのオランダ人、ヨハンが言う通り、『カンポ・デ・フィオーリ』(Campo de’ fiori、マリオ・ボナール、1943年)に出てくるアンナ・マニャーニ(Anna Magnani)のような、現代のローマを表すにはもってこいのコテコテな人物で、つまり先の証言レベルのことを言いかねない人たちは、実際そこら中にいるのです。その他にも、証言を通して、ぶつかったり、交錯したりするさまざまな人たちの視点はとてもリアルで、この作品もまた、現在のヴィットリオ広場を見事に伝えていると思わされました。それもそのはず、作者のAmara Lakhousはアルジェリア出身の作家で、ローマ大学での彼の専攻は、「イタリアでの移民問題イスラム、アラブ系移民第一世代のケースについて」なのです。イタリア語、アラビア語の両言語で書かれた本作は、まさに当事者が内から見たヴィットリオ広場なのです。 
 さて、今回は『ヴィットリオ広場のオーケストラ』からやたらと派生して、3つの文学作品を紹介いたしました。過去から変遷してなお、作品の舞台として魅力を保っているヴィットリオ広場。しかしそこには複雑で深刻で、遠い海の向こうには伝わりにくい移民問題が横たわっており、そのために、ヴィットリオ広場の描かれ方もまた大きく変わったのでした。最後にインフォメーションを付け足しておくと、『ヴィットリオ広場のオーケストラ』、関西圏では、神戸アートビレッジセンター(2008年4月19日〜25日)での上映が残っております。もしこの記事を読んで気になった方は、パソコンの電源をオフにして映画館へゴー!そして『ヴィットリオ広場のエレベーター』のほうも映画化が決定しており、今年の6月から撮影が開始されるのだとか。さてさて、その映画はどんなメッセージを伝えてくれるのやら。ヴィットリオ広場の中心で愛を叫びながら上映を待ちたいと思います。


=参考リンク=
映画『ヴィットリオ広場のオーケストラ』(日本語)
『メルラーナ街の怖るべき混乱』千種堅訳、リンク先のPDFファイルで無料で読めます)