京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

やっぱりシネマテークにしねまっていこ(今シリーズ最終回)〜映画のあれやこれやがある場所、それがシネマテークだ〜

 大阪ドーナッツクラブの少なからぬ面々が敬愛してやまない劇作家、井上ひさしの最新本を手にして、実のところ僕の口はドーナッツの穴のようにまん丸に開いて、しばらくふさがりませんでした。それくらい愕然としてしまったのです。ボローニャという街自体が持つあふれんばかりの魅力、事実、僕という器からはあっさりあふれ出て、表面張力を失った僕が書く機会をことごとくこぼし続けたその魅力、のみならず、一向にケジメのつかない研究、あるいは永遠に実ることのない片思いという意味で知らぬ間に長い付き合いになってしまった映画脚本家チェーザレ・ザヴァッティーニ(Cesare Zavattini)、そして、第二の我が家と勝手に決め込んで来る日も来る日も通いつめた、他でもないチネテカ・ボローニャ、そういった最近数年の僕の日々に大いに関係のあることを、僕と同じ山形出身の井上さんはびしばしと、すなわち愚コラムにはない歯切れの良さと鮮やかさ、わかりやすさとおもしろさ、幅広さと奥深さでびしっと書き上げ、ばしっと世に問うたのです。その本の名は『ボローニャ紀行』。彼が十数年に及ぶ構想と綿密な調査、数週間の滞在の後にこの本を書き上げたその一方で、無構想無計画のまま2005年11月から1年と9ヶ月の間あの街に暮らした男はいったい何を残したのだろうかと、他人事のようにわが身を振り返り、比べるまでもない歴然たる差、言い換えれば現時点で手にした結果の違いに具体的に戦慄したわけです。ボクハマダナ〜ンニモシテイナイ。

 世に広くその名が知れ渡る井上ひさしと比肩しようなどとは夢にも思いません。慣れ親しんだ街である「ボローニャ」の文字を書店で目の当たりにした僕がしたことといえば、まずその本を手に取り、「むむむ…」と表紙とにらめっこした後で、あたかもその道の大家であるかのように「うぁちゃ〜、やられた!」とうっかり叫び、逃げるように慌てて買って帰って憑かれたようにページを繰り、行から行へ章から章へ読み進むうちにそれまでゴニョゴニョ漠然と考えていたことが氏の記すことと大いに接近していることに驚き、まるで氏が僕のゴニョゴニョを代弁してくれているかのような錯覚すら覚え、「おいおい、マジかよ!?」と偉そうに独りごち、ついに読み終えて「そうそう、コレなんだよ、俺が書きたかったのは!」などという遠吠えのようなハッタリが口をついて出るに任せ、興奮冷めやらぬまま本を棚に収めようとした手をふと止め思い直し、「やっぱり井上ひさしは…、すげえな」とこれまで以上に彼に心酔している自分に気づく、ただそれだけです。そして実のところ、この本が世に出たことに、ある種、血の気の引く思いがして脇の下に嫌な汗をかき、ひとしきりぶるぶる震え終えた後では、この素晴らしい本を書いたのが井上ひさしであることを喜び、そんな彼と同じとは言わん似ていなくもない立場を取っていたことを喜んだのでした。それでは、結局僕は、ボローニャとイタリアと日本と僕自身のために何をしてきたのでしょうか?

 井上ひさしが話題を替え切り口を替え綴った数あるボローニャの魅力のうちのひとつであり、同じくボローニャに暮らした僕にとっては生活のすべての中心であったチネテカ・ボローニャ。そのチネテカを主たる例にしながら、映画を前向きに保存するシネマテークという存在、そしてそんなシネマテークが身近にある暮らしの素晴らしさを、元来その言葉の存在しなかった日本の人々に少しでも伝えたい。そうした素朴な思いから、この『シネマテークにしねまっていこ』は始まりました。このコラムを書くにあたり、連載の初回から呆けたように繰り返した「シネマテーク」について、ある時には「映画のすべてを保存する」と言い、別のある時には「映画資料館機能を持つ上映施設であり、上映施設機能を持つ映画資料館」などと僕は言ってきました。このひとまずの定義は、その言葉の厳密な意味、つまり「シネマ(映画)のテーク(保存する場所)」という狭い意味を採用した結果であり、このとりあえずの定義づけは裏を返せば、映画についての何がしかを残そうとしている場所であれば、すべてが「シネマテーク」であることも意味します。映画についての何がしかとは、映画を見たい、映画について知りたいという僕たちの要求に答えるあらゆるもののことで、もちろんそれは、フィルムやビデオ、さらにはDVDを含み、あるいは例えば撮影や編集、映写の関連機材であり、映画についての書籍やその他の物的資料であったり、突きつめれば映画館という施設自体や、映画を見るという行為そのものであったりするわけです。そんな概念としてのシネマテークに対する勝手な理解と解釈をこのコラム上で繰り広げるにつけ、翻って日本におけるシネマテークとは、むしろこの広義のシネマテークにこそより近く、各地の「シネマテーク」と呼ばれる施設がフィルムや資料、各種機材を熱心に収集しているところばかりではなく、他方、収集・保存・上映という本来的なシネマテーク的活動を行なっている施設でも、シネマテークを名乗っていないものがたくさんあるという実情も見えてきました。言い換えれば、シネマテークの名を冠せずとも、映画がそこにあるならば、それが映画館だろうが、映画資料館だろうが、ソフトの無料貸し出しをする図書館からレンタルビデオ店まで、すべては広い意味での映画の保存施設、シネマテークなんじゃないかとまで思ったりもします。外来語が日本として根付く間に、その最初の意味を変えていくということはよくあることで、変遷の末に滅びつつある「ディスコ(テーク)」という言葉が、本来は「レコードがたくさん置いてある場所」のことで、いつの間にかそのレコードの音楽に合わせて「踊る場所」になったことはわかりやすい例です。「シネマテーク」も同様に、日本では派生した語義で用いられているようです。

 コラムの最終回にしてようやく日本の現状に触れたので、もう少し。日本における映画保存をもっとも強力に担っているのは、言わずと知れた東京国立近代美術館フィルムセンターです。日本を代表する公的な映画の保存機関であり、同時に世界に向けて開かれた窓口です。今年2008年は、4月末から「発掘された映画たち」という特集が組まれ、ここ数年のフィルムセンターの復元活動を一挙に公開します。同様の企画を、毎年夏に世界規模で行なっているのが、このコラムでも紹介したボローニャの復元映画祭 “Cinema ritrovato(チネマ・リトロヴァート=再び見出された映画)”であるとも言え、あくまで貪欲な観客のひとりである僕なんかは、窓口たるこのフィルムセンターこそが日本中にそうした世界の映画保存活動を紹介してくれたらいいのになあと考えるわけです(ぶつぶつ)。フィルムセンターが代表的な存在になることに異論はありませんが、しかし唯一無二であっては困る。誰も彼もが東京は京橋のフィルムセンターに映画を見に行けるわけではないのです。そこで、より地域に密着した上映施設が大きな意味を持ちます。福岡市総合図書館、京都文化博物館川崎市市民ミュージアムせんだいメディアテーク、山形ドキュメンタリーフィルムライブラリーなどが有名で、規模的にも大きく、それぞれに興味深い上映活動や資料収集を行なっています。いずれもシネマテークを名乗っていませんが、すでに記した広い意味においては、隠れたシネマテークではあると思います。これらに比して容器としての建物自体は小規模ながら、さらに深く広い草の根的な「町の上映会」の傾向を色濃く出しているのが、各地のミニシアター、シネクラブ、映画祭、その他の非営利団体などです。例えば関西なら、大阪のプラネット映画図書館(大阪市北区)の持つ影響力は古くからの語り草になっていますし、昨年神戸映画資料館(神戸市長田区)がオープンしたことは、記念碑的な出来事として記憶されているはずです。こと映画保存について考えるならば、NPOである映画保存協会の発足によってこの分野に新しい風が吹いたと思いますし、ドキュメンタリー映画やB級ホラー映画、無声映画や古典作品といった各ジャンルを牽引する特集上映会は数え出したら切りがありません。もちろん、それら規模の上での最小単位としての有名無名の地域密着型シネマテーク(あえてここではシネマテークと呼びましょう)に、多様な人材を供給する地元の教育機関、資金面や技術面で支持する地元の企業を忘れるわけにもいかきません。そして、こうしたひとつひとつの施設や団体が、ハコの大小や活動の特色、あるいは集客力の強弱に従って縦割り一方通行の矢印になることなく、互いに刺激・影響しあって交流の網の目を細かくしていくことができれば、いつかこのコラムでも書いたように、映画を見に行くことが「ちょっとしたお出かけ」になることなく、遠路はるばるという仰々しさを払拭してほとんど散歩の一部分としてふらりと映画館に入ることも可能になると思います。

 ボローニャのチネテカには、イタリア国内外の老若男女、様々な人間が「ふらりと散歩の一環」的につどいます。そのにぎやかな様子には、さながら街の「文化的交差点」のような印象を受けたものです。時に年配者が好むプログラムが組まれ、時に子供たちのための上映があり、知識人も一般人も労働者も学生も、分け隔てなくチネテカに集う。映写中に消された上映室の明かりがまるで青信号のように灯って、それぞれが再び動き出すまでのひとときを、チネテカという共有スペースでみんな一緒に過ごす。井上ひさしが言う「ボローニャ精神といわれるものの本質」、すなわち過去と現在と未来の一本の糸は、チネテカにこそ象徴的に集約されていた、今ではそう確信しています。そして、そんな人間の交差点としてのシネマテークを、ボローニャを離れた僕がこれから暮らす街にも欲しい。映画館が街のコミュニティ形成の一端を担っている、そんな街に住みたい。失われた過去を追体験するかのようにボローニャのチネテカに通いつめたことで、「町の映画館」の美味をおぼえてしまった70年代後半生まれのビデオ世代である僕が、「シネマテークにしねまっていこ」という誘い文句で表したかったことは、大筋でそういうことです。やっぱりシネマテークの大きな銀幕、どんなに小さくても、少なくともわが家の21インチテレビよりは間違いなく大きいスクリーンで見る映画は、それだけで楽しい。作品としての映画以上の楽しみが、あの共有空間にはあると信じています。それは決して僕ひとりの考えではなく、コラムを書き進める上でいろんな仲間と話したり聞いたり学んだりしたことからゆっくり育てた理想論です。コラムに書ききれなかったことは多く、書いたところで、結局は偉大な作家ほどの影響力も説得力も持ちません。ただ、僕(と数人の仲間たち)が偏執的に理想だと考えていた、地域に根ざしたシネマテークや映画館を中心とする暮らし、ODCのお宝アーティストであるシルヴァーノ・アゴスティ(Silvano Agosti)ならば「良く生きる」ためとでも言うであろうその生活圏、そしてその典型と僕が信じて疑わないボローニャという街に、井上ひさしのように興味深い持論を展開する知識人が僕以前から関心を持っていたことを知って(繰り返しますが、氏の話題は多岐に渡り、チネテカはそのうちのひとつに過ぎないのだけれども)、どれほど勇気づけられたことか。のみならず、コラム上で「僕らの街のシネマテーク」を日本の人々に喚起することで僕が願った街のあり方が、今、まさに「コミュニティシネマ」という用語でもって大いに論じられ、日本中に刺激的な上映会と施設が着実に生まれつつあるということを知って、震えるほどの共鳴を僕が感じたことはほとんど必然だったかのようにも思え、ここにいたってようやく、脱サラならぬ「脱チネテカ・ボローニャ」、乳離れならぬ「チネテカ・ボローニャ離れ」を果たし、日本のシネマテークという道を歩めそうな気がしてくるのです。今の僕はボローニャで培った何がしかを信頼しながら、それでも日本で生きていこうとしているのです。僕の個人的なチネテカ発見(シネマテーク発見)と井上ひさしボローニャ本の刊行、そして日本における地域密着型映画館という考え方の再評価、これらすべてがもし単なる偶然の一致ならば、何かに導かれるようにしてその偶然にたどり着いたわが宿命にいさぎよく感謝しちゃいます。ボローニャに行って本当に良かった、と。

 大阪ドーナッツクラブはその名とは裏腹に、単なる大阪在住のドーナッツ好きの集まりではなく、イタリアのお宝アーティストを発掘するという特殊な大阪在住ドーナッツ好き集団です。シネマテークはアーティストではないけれど、アーティスティックでカルチュラルなお宝、さらには、そこに行けばお宝アーティストに出会える宝の箱であるという思いは、連載を始めた1年半前も今も変わりません。お宝と宝箱を発掘するだけでなくそれを日本に伝えることをドーナッツクラブの信条とするならば、僕は愚直にその信条に従おうとしたのです。お宝のお宝具合を確かめる術を今はまだ知り得ませんが、そのお宝のようなものについて好き勝手にあれやこれやと書く作業は、とても楽しいものでした。願わくばこの楽しみが、日本のシネマテークというお宝の末永い享受という形で続かんことを。そうあって初めて、井上ひさし井上ひさしなりにボローニャへの思いを本として物したように、オールドファッションはオールドファッションなりにボローニャとチネテカとシネマテークへの思いをコラムという形にしたのだと、胸を張って言うことができるんじゃあないかなあと、今は考えています。

 それでは改めまして、最後にもう一度。さあさあ皆さん、「シネマテークにしねまっていこ!!」   (おわり)

=参考ホームページ=   
チネテカ・ボローニャ(Cineteca di Bologna)
東京国立近代美術館フィルムセンター
福岡市総合図書館
京都府文化博物館
川崎市市民ミュージアム
せんだいメディアテーク
山形ドキュメンタリーフィルムライブラリー
プラネット映画資料図書館
神戸映画資料館
特定非営利活動法人映画保存協会
コミュニティシネマ支援センター


=オールドファッション幹太自身による後記=
 私、オールドファッション幹太がお届けするシネマテークについてのコラム『シネマテークにしねまっていこ』は今回が最終回です。脱チネテカを目指したオールドファッションはどこへ行くのか? オールドファッションから映画とシネマテークを取ったら何が残るのか? 新連載に乞うご期待(まずい、自分で言ってしまった)! 新連載開始は6月10日を予定しております。その間、更新が滞っているお宝アーティスト「ヴィットリオ・デ・セータ」への寄稿や同「アクスティマンティコ」の紹介、東京で開催されるイタリア映画祭2008の報告などをしようと思っています。こちらも併せてご期待ください。26回に渡る愚コラム『シネマテークにしねまっていこ』のご愛読、ありがとうございました。  

※オールドファッション幹太のブログ  KANTA CANTA LA VITA