京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝紹介グループ「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM802で行っている映画短評について綴ります。

日本の枕とイタリアの帽子     (旧ウェブサイトコラム『ローマから遠く離れて』)

イタリアから帰国して以来、このドーナッツクラブのサイト外で文章をしたためたり弁舌をふるったりする機会が増えた。誰かに依頼されたり、強いられたり、あるいは自分から飛びついたり。僕なんぞのアウトプットをインプットしていただけるとあらば、そのいきさつはどうあれ、ありがたやありがたやと手を合わせつつ、嬉々として作業にあたっている。

 ところで、こういった際の表現には、その媒体や場所に特有のルールがつきものである。当然のことだ。習わしがあり、枠があり、暗黙の了解がある。それを逸脱しない範囲で求めに応じていかないことには、疎まれはしても喜ばれることはまずない。自分がホームグラウンドとする媒体ではないのだから、それも致し方のないことだろう。アウェイとは言わないまでも、巡業に出るくらいの覚悟やら気概やらが必要とされてくるというわけだ。何でもかんでも自由に気の赴くままとはいかない。具体的には、たとえば文字数や時間に制限がついてまわる。使ってはいけない言葉も多い(合理的な理由が見当たらないこともままあるけれど、それはさておくとしよう)。

 こういった「枷」とでも呼ぶべきものは、それが自分で設定したものでない限り、基本的に鬱陶しいものである。独自の判断で勝手に存在しないものとしてしまいたいところなのだけれど、僕はまだまだ表現者としてあくまで青二才だから、そうは問屋が卸さない。だから渋々受け入れることになるわけだけれど、やはりどうもうまが合わない。もちろん、日本の俳句や短歌、イタリアの三行詩やソネットといった定型詩の例を出すまでもなく、「枷」というか「型」というか、そういうものがかえって表現を引き締めたり研ぎ澄ませたりするという考え方もあるよな、とは僕も理解しているつもりだ。ただ、未だに反抗期の名残が僕のどこかでくすぶっているのか、はめられた枷は無理にでも外したくなるし、あてがわれた型はこっそりとずらしたくなる。学生服のカラーを外したり、裏ボタンを付けかえたりして、ちょっこりオシャレを楽しもうとする中学生と同じ発想だ。なんて書くと、なんだかちっぽけで情けないから、まぁ、これが僕の最近の表現活動の悩ましき揺らぎ、あるいは、若きポンデなりの権力へのささやかが抗いだとでも言っておくことにしよう。

 とにかくこんなありさまだから、諸々の指摘やら注文やらお咎めやらを受けることもしばしばだ。なかでも頻度の点で頭一つ抜けて言われるのが、「君はねぇ、本題に入るのが遅いんだよ」というお言葉だ。なるほど。落語で言えば、「まくら」が長すぎて、なかなか肝心の「噺」に入らないということなんだろう。ふむふむ。返す言葉もない。確かに、半時間ほどの高座で20分も「まくら」が続いたら、それがいくらおもしろくても多少はやきもきするかもしれない。ましてや、それがもしおもしろくなかったら…。いやいや、空恐ろしくて想像したくないぞ、これは。

 だいたいが、「まくら」というのは寝具の比喩で、横になった人間の頭にあたるわけだ。となると、僕の話というのは、下手をすると枕が異様に長くて蒲団が異常に短いという、寝具としては完全に欠陥品なのではあるまいか。そのことにはいくら鈍感な僕でもうすうす気づいてはいたのだけれど、今までは、「たまにはそういう妙な枕があったっていいじゃない。ほら、抱き枕というものも世の中ではもてはやされていることだし、ピロートークだって短いよりは多少は長いほうが女性は嬉しいというじゃないか」というような調子で軽く考えていたのが正直なところだ。そうやってのんびりと胡坐をかいているところへ、申し合わせたかのようにあちこちから似たような忠告をいただいたわけだ。枕の丈を適切に。わかりました。今回ばかりは、僕も真摯に反省しております。ちなみに、比喩としての「まくら」は、イタリア語で言うとカッペッロ(cappello)。帽子のことだ。いくら僕の顔が馬面で見た目以上に頭が大きいとはいえ、帽子が大きすぎるとぶかぶかして不格好だ。もいちど反省。

 さて、こうして珍しく神妙な心もちでキーボードを叩いてみたが、このコラムの「まくら」なり「帽子」なりのサイズが適正だったかどうかについては、また別の機会に考えるとするか…。