京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝紹介グループ「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM802で行っている映画短評について綴ります。

アントニオーニ、霧の彼方へ(前篇)     (旧ウェブサイトコラム『ローマから遠く離れて』)

 つい先日の、7月30日。それは、アントニオーニ監督の一回忌にあたる日でした。追悼の意味も込めて、少し変則的ではありますが、今月は彼について書いた文章を2回にわたってお届けしたいと思います。拙いものではありますが、読者の方々にかの巨匠を思い出していただくきっかけになればと願い、公開することにしました。ご笑読ください。

私には言うべきことはない。だが、おそらく見せるべきことはあるだろう。
私が知っているのは自分のすべきことであって、自分の言いたいことではない。
                  ―ミケランジェロ・アントニオーニ
 

 2007年7月30日。2年に及ぶ長逗留となったイタリア滞在を終えた僕は、日本へ帰国するため、その日の大半を機中で過ごしていた。まさかそうやって僕が空の上にいる間に、映画史に名を深く刻むふたりの巨匠が天の上の人となるとは夢にも思わなかった。イングマール・ベルイマン(Ingmar Bergman、1918年生まれ)とミケランジェロ・アントニオーニ(Michelangelo Antonioni、1912年生まれ)の話である。帰郷してはみたものの、しばらく宿無し同然で情報から疎外されていた僕は、不覚にも彼らの訃報をかなり遅れて耳にすることになった。もはや神話化されて久しいあの60年代という「新しい映画」を産み出した時代の主人公がわずか数時間のうちにふたりもこの世を去り、彼らの紡いできた物語もいよいよ歴史と化したのかと感慨深い想いに駆られたのは、僕の生活がようやく落ち着きを取り戻し、地に足がついてきた頃のことだった。巷の良識ある映画館や放送局は、このふたりの死者を追悼するプログラムや企画上映、座談会といった催しをささやかながらも準備し、俄か作りの感が滲み出ない程度に力を抜いた広報活動を行っていた。ただ、僕がそこで気付かされると同時に驚かされたのは、両者の人気というか注目の差である。どうでもいいことと言われればそれまでだが、追悼の機会も内容も、日本ではベルイマンのほうが充実していたように感じられた。何だか気になったので、それぞれの死は僕たちの国のような第3国でどう報じられたのかさらってみると、特に統計を取ったわけではないが、印象としてフランスではアントニオーニ、アメリカではベルイマンの人気・注目度がそれぞれ高いように思えた。『タイム』誌でリチャード・コーリスが評しているように*1ベルイマン映画の登場人物(とりわけ女性たち)が現代社会に漂うぼんやりとした憂鬱というものに対して往々にして果敢に立ち向かっていた一方、アントニオーニ映画の登場人物(とりわけ男性たち)はその鬱屈した靄の中に首元までどっぷり浸かっていた。そういった主人公たちの生き様と描かれ方の相違をどう受け止めるかということが、プロテスタント文化であるアメリカとカトリックの価値観を背景に持つフランスとでは異なった様相を呈してくるのかしらと勘ぐってみたくなる。そう言えば、イタリアではベルイマン作品の上映機会は驚くほど少ないし、DVDもようやくまともなものが出始めたといったところで、知名度も人気も日本でのそれに比すればかなりの低空飛行だった。しかし、社会的な価値観やそれに依拠する嗜好に基づいてこうぼんやりと推測してみたところで、日本でのアントニオーニ評価がここ何十年かでいつのまにか矮小化してしまった原因にたどりつけるわけでもない。多くの人が言うように、アントニオーニは1970年代以降制作本数もその質も先細り、映画史的にはとうの昔に過去の人だったのだろうか? 抱えた病とその後遺症。プロデューサーとの折り合いの悪さ。人生も後半にさしかかるとメガホンを手にする機会が極端に少なくなっていったのは事実である。しかしフィルムの完成度まで下がったと簡単に言い切れるのだろうか? 一部を除いて日本の映画批評がぼんやりしていただけではなかったか? 名実ともにアントニオーニが歴史となった今、そのフィルム群をもう一度隈なく洗い直し、彼が探究した技術の道程を辿り直し、しかるべき評価を与えていく必要があるはずだ。そうした機運がこれから高まることを期待したい。

 さて、50年代に『カイエ・デュ・シネマ』誌から生まれ、直後のヌーヴェル・ヴァーグを下支えすることになった映画における作家主義は、映画作家というものを「自分のフィルムを通してテーマやスタイルに統一性を持たせる映画監督」と緩やかに定義したわけだが、これをそのままアントニオーニに当てはめて考えてみると、彼は紛れもなく映画作家と呼ばれるに値する監督であり、頑なと言ってもいいほどに首尾一貫したテーマとスタイルを保持してきた。実際のところ、彼の映像にはタイトル・クレジットなど不要だと思われるほどの特徴があった。その様子をアルベルト・モラーヴィア(Alberto Moravia)は、「アントニオーニは持ち歌を一曲しか持っていない孤独な鳥に似ている。そういった鳥は昼も夜もその歌を稽古する。すべてのフィルムを通して、この自分の歌、彼はこれのみを歌ってきたのだ。彼の中にあるのはたったひとつではあるが深みを持った通達なのである。それというのが、関係の不毛であり、現代生活の残酷さであり、人間の運命の悲しさなのである」と的確に評している。

 こうしたアントニオーニの作家性が如実に顕在化するのが60年の『情事』(L’avventura)であることを疑う人は少ないだろう。このフィルムはフェデリーコ・フェッリーニ(Federico Fellini)の『甘い生活』(La dolce vita、1959年)とほぼ同時期に陽の目を見て、どちらもカンヌ映画祭で一世を風靡した。『無防備都市』(Roma, città aperta、ロベルト・ロッセッリーニ<Roberto Rossellini>、1945年)から15年。奇跡的復興を遂げたローマの街を、ハンサムでチャーミングだが底抜けの虚しさを抱えたマルチェッロ・マストロヤンニ(Marcello Mastroianni)とフェッリーニ的グラマー女優のアイコンであるアニタ・エクバーグ(Anita Ekberg)が天真爛漫に彷徨する『甘い生活』は、ショー・ビジネスに象徴される煌びやかな光の世界とそのすぐ裏側にあんぐりと口を開ける闇の世界を効果的に対比させつついくつもの小さなエピソードを交錯させ、フィルムを観ていない人をも巻き込む形で大衆的な人気を勝ち取り、一種の社会現象にさえなった。批評家と呼ばれる人たちは、考えうるありとあらゆるツールを使ってこのフィルムを論じてみせた。この名峰のごとき映画作品には、当時から無数の取っ掛かりがあって、玄人も素人も自分の好みのルートを辿って登り詰めることができたのだ(少なくとも登り詰めたような気にさせることができた)。一方、ヒロインと思しき女性のひとりが開始20分ほどでスクリーンから「サイコ的に」失踪を遂げて観客を戸惑わせる『情事』は(そう言えばアルフレッド・ヒッチコックAlfred Hitchcock>の『サイコ』<Psycho>も60年であった)、男女がふらふらとあてどなく「さすらう」という点では『甘い生活』と共通しているものの、その演出はフェッリーニとはまったく異なる、いや、さらに言えば、それまでの映画史においても類を見ない方法論に基づいていた。アントニオーニが我々を驚かせるのは、名著『鏡の迷路―映画分類学序説』(みすず書房、1993年)において加藤幹郎が端的に指摘しているように、彼のフィルムが提示する情報量の圧倒的なまでの少なさである。それは足し算よりも引き算を旨とする「映画のミニマリズム」のひとつの極を担うほどの寡黙な演出であり、フェッリーニの雄弁さとちょうど好対照をなしている。『情事』は、イタリアはおろか国際的に見ても伝統との関わりが薄く、カテゴライズしづらい作品であった。そもそもが未見の友人にストーリーをつい語って聞かせたくなる類のものではない。たとえば人があるフィルムの物語を要約しようとするとき、一般的には物語世界内で起こる出来事や登場人物の感情の起伏などといった要素を因果律や時系列に代表される論理に従って整理するものであろう。そういった常套手段を体よく封じ込めてしまうほど取っ掛かりをなくすのがアントニオーニだったのだ。『情事』を封切り直後に観た人たちは言葉を失ったに違いない。この困った監督について多くが語られるようになるには、構造主義精神分析、あるいは記号論といった映画を読み解く新しい道具が巷に出回るのを待たねばならなかった。アントニオーニの出現によって、人々は映画を受動的に眺めるのではなく積極的に読み解く(あるいは観解く)ことを学んだとも言えるかもしれない。そうでもしないことには、ただでさえ曖昧模糊でぼんやりとしたフィルム内の各要素は、あくまで物語世界内でふわふわと漂い続けるからだ。我々はまるでレゴブロックを手に夢中で試行錯誤する子供のように、ひとつひとつのできごとを組み立てる必要がある。その作業を拒んでしまえば、ばらばらのブロックはいつまでもそこに無秩序に積みあがったままになる。この監督の映画作品はそのどれもが恐ろしく退屈なものに見えるに違いない。        
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 では、どうしてアントニオーニの作品はこういう特徴を持つにいたったのか。それは、彼のフィルムにおいては映画史が半世紀ほどかけて築き上げてきたなフレームの力学が歪曲してしまっていて、登場人物がもはやその中心にはいないからだと考えられている。アントニオーニ的フレームの中にあって、主人公たちはもはやその絶対的・特権的な地位を失し、彼らを取り囲む風景や物質の中で相対化・客体化され周縁に追いやられてしまっているというわけだ。とは言っても、そのような「手法」がやみくもに先行しているのではない。それは物語の枠内で、彼の扱うテーマ、もっと言えば登場人物たちのあり方や心理とわかちがたくそして巧妙に結び付けられているからこそ、注意深い人々を強く揺さぶる深い感動に導くのだということは言うまでもない。アントニオーニの描く人間は、きまって自分以外の人々や事物との距離を測りかねているばかりか、往々にして自分自身をすら見失いかけている。あるいは完全に見失っている。この監督に貼り付けるラベルとして60年代当時から言われ続けているのはコミュニケーションの希薄さや欠落である。コミュニケーションというのは煎じ詰めれば距離の問題である。その距離を測るメジャーを持ち合わせない彼らは、シチリアの荒涼たる広野を、行く手と視界を遮るかのように次々と建設されるミラノのビル群の合間を、抜け殻と化した真夏なのにさめざめしいローマを、ついさっきまできゃっきゃはしゃぎあった近しい仲間たちをもかき消す埠頭の霧の中を、夢の国アメリカの真ん中に果てしなく広がる砂漠や砂丘を、現代の迷宮である巨大なホテルやブルジョワの豪邸やその広大な敷地の中を、今までの自分から逃げるように、さらには自分と世界や自分と自分との距離を測定する物差しを探し求めてさすらい続ける。こうした場所は、作品全体の主題と構造を暗示するトポスにはなる。ただし、彼らは実際にどこかにたどり着くわけではない。彼らはただただ世界をさまよい続け、最後にはそこに吸い込まれるようにして姿を消す。『太陽はひとりぼっち』(L’eclisse、1962年)のラストシーンにおける人物の不在は、まさにそんなアントニオーニ映画の典型であろう。  (つづく)

*1:When Antonioni Blew Up the Movies, Richard Corliss, Time, Aug. 05, 2007