京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

キッスと駐車のテクニック (旧ウェブサイトコラム 『イタリアの小噺バルゼッレッテ』)

 だいたいが、女の子は男の子よりも早熟だって相場が決まってるものだけど、そういう意味では僕は例外だと言えるだろう。性についての関心は、かなり早い段階からあったものと記憶している。小学校3年生くらいには和歌山市図書館で『愛ってなんだろう』という、「高校生(中学生だったかな?)の女の子が妊娠してしまい、彼氏とともに愛と性について深く考える」という内容の漫画を借り、熱心に読んだ覚えもある。僕が男女の営みがどのようなものかを学んだのはまさにこのときだ。また、避妊の大事さを学んだのもこのときだ。あと、日本の教育制度では、小学校の高学年になると、女の子だけが体育館に集まってビデオを見せられることになっており、あれはいったいなんなんだろうなんていうやりとりが少年たちの間では繰り広げられるわけだけど、その頃の僕は既に、いたいけな彼らに「あれは性教育だよ」と教えてあげることができた。とにかく早熟だったわけだ。

 だが、名著『愛ってなんだろう』に出会う前の僕は、性に興味はあるものの、はっきりとした知識のない、凡百の少年たちの一員にすぎなかった。せいぜいが、

「大人って、バーでカクテルを飲むんだろう?」
「大人って、毛が生えてるんだろう?」
「大人って、キスするんだろう?」

くらいの曖昧な知識しか持ち合わせてなかったのだから、今から振り返ると、まったく青かったと反省することしきりだ。でも、言い訳するわけじゃないけど、和歌山の片田舎で生まれ育った小学生に、これ以上の知識を身につけろと言っても無理な話じゃないですか。

 で、まあ本題に入ることにしよう。キスの話だ。

 これは僕だけかもしれないが、敢えて断言すると、少年がもつキスという行為に対する憧れは、はっきり言って並大抵のものじゃないのである。はやく大人になりたいという願望は、はやくキスをしたいという願望と表裏一体だ。僕もご多分にもれず、キスをしたかった。なんなら、うまくキスをしたかった。とろけるようなキスを。冴羽遼(シティーハンター)ばりのキスを。TMNのサウンドにのせて。冴羽遼は、さぞかしキスがうまかろう。あと、ルパン(3世)もうまかろう。あの頃僕が憧れていたヒーローたちは、みな「大人」で、キスがうまいように見えたものだ。

 ある日のこと。あれはたしか小1のときだったかな。その日もキスのことを考えていた僕は、将来のために、キスの練習をしておくのがベターだという結論に達した。そこで「かっこいいキスとは、ヒーローのするキスだ」という思い込みに従って、当時僕のはまっていたヒーローのひとり、ヤッターマンのまねをしながら、キスの練習をすることにした。まねといっても特になにをするわけでもなく、単に気構えの問題だ。場所は、誰にも見つからないところをと考えに考え、居間のこたつの中をチョイスした。冬だったのだ。さて、首尾よくこたつにもぐりこんだ僕は、ヤッターマンの気持ちになり、こたつの中の、なにもない空間に向かってキスをする。空気イスならぬ空気キスだ。僕は夢中になっていた。ところが、その心躍る行為のさなか、僕は言い知れぬ気配を感じた。

 視線? そう、これは、視線だ。

 振り返ると、こたつぶとんをめくって僕を見ているおじいちゃんのにやにやとした笑い顔がそこにはあった。僕は心臓が止まりそうになった。後にも先にも、あれ以上に恥ずかしい状況に僕はめぐりあったことがない。キスをしているところを見つかったのならまだいい。しかし、キスの練習をしているところを見つかるのは人生における最大の汚点と言えよう! しかも血のつながったおじいちゃんに! 今ならわかるが、キスというのは、練習などする類のものではないのだ! 実戦にまさる練習はないとはよく言われるが、あれはキスのことを言っているのだ。例えばテニスならば、練習法として「壁打ち」というものが存在する。だが「壁キス」をしている者を誰か見たことがあるだろうか? 「シャドーボクシング」ならよい。だが「シャドーキス」ほどむなしいものはこの世にないのだ! 僕はこの時、身をもってそれを体験した。僕はその時、とっさにどうしたかというと、腕立て伏せをしているふりをした。よっぽどパニクっていたのだろうが、そんなごまかしかたでごまかせるとでも思ったのだろうか? 浅はかとはこのことだ! 子供の浅知恵! おじいちゃんは「ほどほどにな」と言い、こたつぶとんを下ろし、僕をひとりにしてくれた。行かないで、おじいちゃん! もっと言い訳させて! そして、誰にも言わないで! 僕は心の中で叫んだ。

 僕の願いが天に届いたのか、どうやらおじいちゃんはそのことを内緒にしてくれていたみたいだった。夕食の時も、次の日も、また次の日も、家族の誰も僕の秘密の行為について追求しなかったから。僕は兄や母親に「おまえ、キス練してたんだって」とからかわれることを覚悟していただけに、心からほっとした。おじいちゃんはそれから何年かして、儚くなった。僕の秘密を墓場まで持っていってくれたのだ。

 たとえば、イタリアのbarzelletta(小噺)に、こんな話がある。

Un distinto vecchietto inglese sta facendo lentamente manovra con la sua Rolls Royce nell'ultimo posto rimasto nell'area di parcheggio, quando una velocissima spider rossa si insinua nello spazio occupando il parcheggio prima della Rolls.
  Saltando la portiera, un giovanotto scende dalla spider e dice al vecchietto: "Mi scusi, nonno, ma bisogna essere giovani e scattanti per fare quello che ho fatto io". Il vecchietto con una flemma tutta inglese ingrana la retromarcia e schiaccia l'auto sportiva riducendola a un ammasso di rottamio. Quindi si rivolge al ragazzo e gli dice: "Mi scusi, giovanotto, ma bisogna essere vecchi e ricchi per fare quello che ho fatto io!"

 あるイギリス人のおじいさんが、ロールスロイスを駐車場の最後にひとつだけ空いたスペースにのろのろと停めようとしていた。ところが、そこに赤いスパイダーがやってきて、おじいさんが停めようとしていたスペースに素早く駐車し、横取りしてしまった。車のドアを開けて、スパイダーから若い男が降りてくる。彼はおじいさんに言った。
「悪いんだけどさ、おじいさん、僕がやったみたいにやるためには、若くてはつらつとしてなくっちゃ」
そこでおじいさんはロールスロイスをじりじりとスポーツカーへと突っ込ませ、そのまま押しつぶし、スクラップにしてしまった。「な、なんてことすんだよ!」先ほどまでの余裕から一転、若者は青ざめた。おじいさんは若者に向かってこう言った。
「悪いんじゃが、若いの、わしのやったようにするためには、年をとって、金持ちにならんとのう」

 お盆で里帰りしたとき、おかんが、おじいちゃんは恋愛結婚だったと教えてくれた。職場結婚だったとも。その後、おじいちゃんは商売を始めた。5人の娘を育て、嫁にやった。そして、死の数年前に、孫がキスの練習をしているのを目撃した。

 僕はキスのことを考えるとき、いつもおじいちゃんのことを思い出す。おじいちゃんのことを思い出すと、キスのことを考える。僕にとって、おじいちゃんとキスは表裏一体だ。

 こないだコンビニで雑誌を立ち読みしていると、偶然「彼女をとろけさすキス・テクニック特集」が組まれていた。読んでみると、「キスをするにあたって大事なことは、まず清潔なこと! 歯周病や虫歯は治しましょう!」だそうだ。そうか、ムードとか、テクがどうとか、そういうことではないのか。まずは歯周病のケアか。冴羽遼も、ルパンも、ヤッターマンも、みんな歯周病を気にしていたのか。うーん、僕があの頃思い描いていた大人って、そういうもんじゃなかったんだけどなあ。歯周病を気にするのが大人のキス・テクニックだとは思いもよらなかった。

 どうやら僕はまだ、こたつの中でおじいちゃんに見つかった、あのときの僕のままなのだ。