京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

生肉でだらだら書かせて     (旧ウェブサイトコラム『ローマから遠く離れて』)

 やはり生に限るよ、なんていうセリフをよく耳にする。ビールしかり、大相撲しかり、とんねるずしかり、卵しかり、生瀬勝久しかり。あるとき知り合いが、「オレさ、昨日ナマ米朝を堪能してきたよ。なんなら大胆にも激写すらしたんだ。ナマ米朝のナマ写真だぜ! すげぇよ、まじで」と鼻息荒く報告してくれたこともある。まったくもって面倒でこうるさい輩だが、とにかく、こうした発言からもわかるのは、ナマには何かしら人を興奮させる作用があるらしいということだ。

 かくいう僕だって御多分に洩れず、ナマには目がない。世には実に多くのナマあれど、わけても口に運ぶモノについては、好きの度合いがより顕著になってくる。わりと引っ込み思案で外出を億劫がることも多いナマケモノの僕ですら、ナマのつく食材が食えるとあらば、いろめきたって家を飛び出すほどである(食すとかっきり3時間後には吐瀉を余儀なくされる生牡蠣は唯一の例外であり、オイスターバーなどというのは僕にとって断固として論外であるが、まあ、その話はいいでしょう)。

 ナマでいけるものは、極力ナマで。これは、食における僕の確固たる信条である。生野菜や生卵、生麩に生味噌ずい。生搾りの果実は麗しいし、生パスタを筆頭に、生麺は麺界のイケメンであることに異議を唱える者はいないだろう。とにかくなんでもナマで食わせろという生粋のナマ至上主義者なのである。これが肉や魚ともなれば、僕の鼻腔はさらに肥大化し、うなりをあげる。鮮度良好なら刺身でよろしく。ナマの食材と俺をサシで勝負させろ、とこういうわけだ。魚介類はもちろんのこと、肉もまたナマでありたい。馬刺し、牛刺し、朝引き鳥の刺身。豚はさすがに生は抵抗があるけど、近頃は僕みたいなナマ愛好家の存在を見越しているのか、無菌豚というものがいるから、あれもいつか刺身でいきたいと隙をうかがっている。僕の場合は、肉の部位も問わない。どこだろうとかまやしない。「ユッケはいけるけど、内臓系のものはちょっと…」と選り好みをする不逞の輩に時折出会うけれども、そんな生半可かつ生っちょろい気持ちで生意気な口を叩かないでいただきたいもんだ。

 牛馬鳥を問わず、内臓がまた格別なのだ。「こんなうまいものを内に秘めていたのかこのヤロー、ずりーぞ」と生可笑しな気分になってくるから不思議だ。生肉には、「食べる」というより「喰らう」という動詞がしっくり馴染む。日本語のナマという音が生放送というようなライブ感や「今」感を表すからかもしれないが、生肉を喰らうにつれ、「今、俺、生肉ライブ中だぜ、イエイ!」てなメールのひとつも打ちたくなるほどに、だんだんと気分がロッカーみたく高揚し、さらには会話も筋肉質になって大きなことを言い出すようになる。生酒でもグビリとやりながら夢を語るには絶好のアテだと信じて疑わない僕だが、皆さんはどうだろうか。

 さて、そんなわけで、焼き肉屋に行ってもなかなか焼こうとしないことを理由に、周囲から「ここは生肉屋じゃねぇぞ」と、よく業を煮やされる僕だから、概ね日本の生肉環境には満足しているんですが、その食べ方のバリエーションには少し不満があるんです。だいたいにおいて、刺身と呼ばれているものは醤油やゴマ油に薬味を添えてというスタイルだ。あとはユッケみたいに、卵黄をからめるパターン。いやいや、もちろんこれだけでも十分満足できていたのだけれど、やはり世界は広いものです。パリでタルタルステーキに魅せられてからというもの、あるいは、イタリアでカルパッチョに舌鼓を打ってからというもの、僕は生肉と聞くだけで生唾を飲むような人間に生まれ変わってしまった。生肉の背後に広がるその遠大な可能性の沃野を発見し、僕はまるで新大陸を発見したような喜びに打ち震えたわけなのです。嗚呼、京都の町屋のようにどこまでも奥深き生肉とスパイスの融合。肉に対する粗野で生々しい欲望をゆかしく上品に包み込んでくれる芳しい香草たち。日本でもこうした生肉界の貴公子との口内舞踏会をもっと頻繁かつリーズナブルに開催できるようになるといいなと夢見る僕だ。

 ここでこのコラムを閉じてしまうと、ただ「僕は生肉が好きなんです」というだけのことについて生長く書いたどうでもいい文章になってしまい、アントニオーニについて書いた翌月にこのざまかい、とさすがに体裁が悪いので、罪滅ぼしの意味も込めて、ここからはイタリアの生肉料理代表であるカルパッチョについて要領よく書いてみたいと思う(そのつもりですけど、うまくいくかはやってみないとわかりません)。

 日本でカルパッチョというと、やれ鮪だとか鯛だとか魚が登場することになるわけだが、イタリアのそれは基本的に肉である(彼の地の魚のカルパッチョは、日本からの逆輸入だと考えてもらいたい)。そして、1950年生まれというから、以外に歴史が浅い。ヴェネツィアにハリーズ・バー(Harry's Bar)という伝説的なレストランがある。ジュゼッペ・チプリアーニ(Giuseppe Cipriani)というバーテンダーが1931年にオープンした店で、ヘミングウェイオーソン・ウェルズチャップリンウディ・アレンといった外国の超有名人も贔屓にした(あるいは今でも贔屓にする)店として名高い。店主のチプリアーニは最高品質のマティーニを作る高い技能を持つ一方で、ベッリーニというスプマンテと桃のピューレを組み合わせたカクテルで世界中の女性の頬を桃色に染め上げたかと思えば、問題のカルパッチョでアンティパストに新しい風を吹き込んだ才人である。そんな料理の鉄人が発明したベッリーニカルパッチョには、共通点がある。それは、両者ともに画家の名前を冠していること。ベッリーニ(Giovanni Bellini)はルネサンス期の、カルパッチョ(Vittore Carpaccio)は15世紀から16世紀にかけて活躍したヴェネツィア派の絵描きだ。ベッリーニのほうは、発案したときにちょうどヴェネツィアの美術館で展覧会をやってたとかいった結構いい加減な動機で名前をつけたらしいけれど、カルパッチョのほうは、肉の赤とソースの白っぽい感じがちょうどカルパッチョさんの絵の特徴と似通っているというもっともらしいようなそうでもないような一応の理由があるんですって。

 本家カルパッチョとも言うべきハリーズ・バーのソースはこうだ。マヨネーズとウスターソース、レモン汁と牛乳、そして塩胡椒適量。こうしてソースの材料を点検してみると、なんだか馴染みのあるものばかりですね。でも、マヨにしろウスターにしろ、日本のモノとは似て非なるモノなんじゃないかなあという気がする。ウスターは普段ほとんど使わないのでよくわからないけれど、マヨネーズならわかる。これはもう日本とイタリアでは断然違う。あちらでは手作りする家庭も多いから、市販の商品も手を抜いて添加物を入れすぎたり、酢を必要以上に投入して酸っぱくしたりすることはない。しっとりとコクとまろみのある味わいが特徴だ。ものはためしで、一度は手間暇と丹精をかけたりこめたりしてマヨネーズを手作りしてみていただきたい。ほんとにマヨ観が一変しますから。それから、肝心の生肉。どの部位を使うのか。これはもう、ヒレ肉に限る。欲を言えば、背中に近い部分。イタリアではコントロフィレットと呼ばれる場所だ。ヒレよりも味がしっかりしていて、生臭さも弱い。そして何よりも大事なのは、一度でも冷凍したものは避けることと、これでもかと薄造りにすること。こうした条件が揃えば、我らがカルパッチョは、もはや向かうところ敵なしだ。

 このカルパッチョという洗練された料理法が比較的新しいものだとしても、ヨーロッパの肉食文化自体は歴史が長いし奥も深い。カルパッチョの親父にあたるようなものに、ソースをシンプルにしてトリュフやパルミジャーノをふんだんに使うケースや、ルーコラなどの野菜やハーブ類を合わせる場合もあって、生肉料理界の選手層の厚さには舌を巻いてしまう。馬も使うし、サルデーニャの秘境では豚のレバーを生でいっちゃうこともあるらしい。知れば知るほど、舌と胃袋は好奇心に駆られてくる、とこういうわけだ。

 まあ、生肉なんて野蛮だわという人にはほんとにどうでもいい話ですけどね(そして、結局要領良くは書けませんでした、いつものごとく)。あ、そうそう、生肉ってあれですよ、基本的に雑菌や寄生虫も同時に摂取してしまいかねないリスキーな食べ物だから、食生活に取り込むのであれば、まずは信頼がおけて腕のたつ肉屋さんを囲い込む必要があるんです。気をつけてくださいね、くれぐれも。生爪に火を灯して安い肉に飛びついたり、生噛みの知識となまった鑑識眼で生欠伸でもしながら閉店前のスーパーで購入したりしないように。なまじっか生肉好きだったりすると、残さず全部胃袋に放り込んだりして、後でエライことになりますから。それでは皆さん、ごきげんよう。ナマステ。