京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

この秋、トレヴィが黒く染まる〜     (旧ウェブサイトコラム『ローマから遠く離れて』)

 「2008年11月1日と2日、トレヴィが黒に染まる」。アドリア海での電脳波乗り(あ、イタリア語のサイトでネットサーフィンしていたってことです)していると、こんな見出しに遭遇した。なんだかテロの予告みたいでおどろおどろしい。でもよく読んでみると、もちろんそんなことではなく、実態はなかなか興味深いことだったので、紹介しようと思う。このフレーズには、誤解を招くふたつの要素がある。ひとつ、トレヴィ(Trevi)といっても、ローマの名高い噴水のことではない。イタリア中部はウンブリア(Umbria)州、ペルージャ(Perugia)県にある人口8千人ほどの小さな町のことだ(画像下)。ふたつ、「黒に染まる」というのはレトリックで(そりゃそうですね)、このトレヴィで「ノワール文学祭り」が開催されるということだ。

 「ノワールnoir)」というのは、フランス語で黒。イタリア語では「ネーロ(nero)」というのだけれど、小説のジャンルとして、このノワールという呼称が定着している。これはイタリアのジャッロ(giallo)文学のサブジャンルとして認知されている。ジャッロというのは、黄色。簡単に言えば、犯罪もの。大手出版社のモンダドーリが1929年からスタートさせた刑事もの小説のシリーズの表紙を黄色で統一したことから、この呼び方が定着している。黄と黒。文学のジャンルがこんな風に文字通り色分けされているのは、偶然とはいえなかなか面白い。まずは黄色(ジャッロ)の集合があって、その中に黒(ノワール)が含まれる構図だ。ジャッロは、何らかの犯罪と、警察・私立探偵・被害者・犯罪者といった、そこに関わる人々をストーリーの軸に据えるのが一般的だ。こう書いても、かなり漠としている。実際、ジャッロはたくさんのサブジャンルを内包している。警察や探偵もの、サイコもの、スパイものなどなど。スリラーだってジャッロに含まれる。日本でいえば、ミステリーとなるのだろうか。こうした中に、問題のノワールがある。
映画とは何か
 ノワール第二次世界大戦前後にアメリカで生まれたと言われている。犯罪が生起し、やがて解決に向かうという事件の顛末を描いている点は他のジャッロのジャンルと変わらないが、ノワールの特徴は、読者にその犯罪を生んだ現実や環境に目を向けさせるところにあるようだ。物語が提示する犯罪周辺の情報から、僕たちは事件を取り囲む世界の分析を迫られる。あくまでも主眼はそこにあるため、犯罪の解決が事細かに描かれなかったり、ともすると解決しなかったりすることだってある。ざっくりと形容するなら、社会派という言葉がしっくりくるだろう。ジャッロもそうだが、ノワールも文学ばかりでなく、映画や漫画といった他のメディアと緊密な結びつきをもっている。映画の場合、フィルム・ノワールというくくり方をされるのだけれど、これを映画学者の加藤幹郎が平易な言葉で定義した文章があって、これは恐らくノワール文学にもかなり近いものがあると思うので、引用しておこう。

 「フィルム・ノワールは車のヘッドライトが雨にけぶる夜の都市と探偵の孤独を照らしだす人間不信と社会腐敗の寓話である。探偵は過去に魂に傷を負った覚えがあり、事件の解決はただ一個の犯罪が一個の死をもって償われたにすぎず、消費と幸福を統合で結ぶ都市のシステムそのものの改編にはおよばず、探偵の心は晴れない」(『映画とは何か』、みすず書房、2001年、p.61)


 さて、いつも通り脱線してしまったが、ともかくトレヴィでノワール祭りが開かれる(画像右は、そのポスター)。この事実に僕は驚いた。イタリアというと、ノワールをはじめとするミステリー後進国との印象を持っていたからだ。僕の認識が甘かったのか、ここ最近の躍進が目覚ましいのか、よくわからないのだけれど、とにもかくにも暗黒祭りは始まる。これが記念すべき第一回。僕が読んだ記事には、主催者のミハエル・グレゴーリオ(Michael Gregorio)のふたりのインタビューが掲載されていた。まるで一人の作家の名前のようだが、それもそのはず、ミハエル・グレゴーリオとは、イギリス人である夫のミハエル・ジャコブス(Michael Jacobs)とイタリア人の妻ダニエーラ・デ・ゴレゴーリオ(Daniela De Gregorio)がカップルで小説を書く際のペンネームなのだ。ふたりはその人脈を生かして、イタリアのみならず、ノワールの伝統があるイギリスからも5人の作家を招き、ダニエーラの故郷であり、ふたりが結婚後22年にわたって住み続けているトレヴィの地でイベントを催すことにした。

 「ここ数年、私たちは本のプロモーションでイタリア中を巡ったんです。クールマイユールやブレーシャ、ラクイラではフェスティヴァルにも参加させてもらいました。そこで感じたのは、作家が読者と交流して自分の作品について語ることの大切さなんです。作家の仕事がとても孤独なものだってことはよく知られていますよね。私たちも例外ではないんです。たとえふたりで取り組んでいてもね! 書評は作品がどう受け入れられているかを理解するために重要なものですけど、読者との交流はもっと直接的ですから。こうした理由から、私たちはウンブリア・ブックフェアーのオーガナイザーに話をして、ノワールというジャンルを探る機会を設けられないかと提案したんです」

 彼ら(画像上)によると、ウンブリア州は、ノワール小説の舞台として好まれる土地で、実際に作品も多いようだ。今回の「トレヴィ・ノワール」に参加するのは、イギリスとイタリアで活躍する作家合計10数名の他に、編集者、書店員、ジャーナリストといった人たちもいて、それぞれの立場と視点から、ノワールについて意見を交わすという。新作を紹介するだけではなく、イギリスでは大衆的に発達し、イタリアでも人気が上向いているこのジャンルを深く掘り下げる議論の場になるだろう。第1回の今回予定されているテーマは、「歴史もの」と「イギリスとイタリア両国におけるノワールの比較」のふたつ。どちらもなかなか興味深いが、個人的には、グループでひとつの小説を執筆することも多い、イタリア独特の制作スタイルの特徴と変遷についても知りたいところだ。主催者であるミカエル・グレゴーリオのふたりにしてもやはりこうした方法を採用しているし、イタリアのジャッロやノワールでは珍しく邦訳のある『ミラノ殺人事件』(Tragico Loden、Pinuccia Ferrari & Stefano Jacini<ピヌッチャ・フェッラーリとステーファノ・ジャチーニ>、武田秀一、1988年、扶桑ミステリー)も、男女のコンビが書いた小説だった。さらには、最近イタリアで話題のカイ・ゼン(Kai Zen)というノワール作家集団がこの祭りに参加するということを知るにつけ、好奇心をそそられる。今回のテーマにはなっていないけれど、このトレヴィ・ノワールに足を運べば、カイ・ゼンあたりに直接話を聞けるわけで、書いているうちにどんどん気持ちがウンブリアに向いてきた。第1回の成功を願うとともに、少なくともドーナッツクラブのメンバーが参加するまで、しっかり有意義な催しを続けてほしいと心から思った。


 ローマに住んでいた頃に、本屋で立ち読みをしてそのままレジに向かってしまった作品のひとつに、ノワール短編集『暗黒に染まる都市(訳は筆者)』(Citta in nero、ジャンニ・ビオンディッロ<Gianni Biondillo>など、Guanda、2006年、画像右)がある。ミラノ、ローマ、ボローニャパレルモなど、イタリアの様々な街を舞台にした9編の短編を収録したヒット作だ。今回のインタビューによると、ウンブリアを舞台にしたノワールは数あるらしいが、イタリアはそれぞれの街がとてつもなく個性的だから、どのジャンルにおいても、「その街ならではの物語」が伝統的に育まれてきた。『暗黒に染まる都市』の扉解説には、こうある。

 「ノワールは、都市と緊密に結びついている。都市の強烈な人口密集は警察組織を生み出し、警察は捜査を、そしてその捜査からジャッロやノワールが生まれる。都市は群衆、雑踏、権力、誘惑、暗部、置き去りにされた郊外、隠れ家、刺激、病気といったものを意味する。それはつまり、あらゆるタイプの犯罪である。都市とは、人々がそれぞれの社会的な違いや不公平、不正、権力の横暴をはっきりと認識する場所であり、同時に、残忍極まりない犯罪がその許されざる言い訳、さらには避けられない言い訳を見出す場所でもある。ノワールはその犯罪の核心に到達しようと試みる。殺人者の心理に深く潜り込み、さらには、社会のいわゆる『健康な』部分に潜む暗黒の側面を浮かび上がらせる」
イタリアという国に散らばる大小さまざまな個性あふれる街の、これまた「個性あふれる」闇にスポットを当てるノワールというジャンルから目が離せそうにない。ドーナッツクラブも、映画・演劇・文学を通して、イタリアの闇に触れていくことを忘れないようにしたい。生身で触れるのはちょっと恐ろしいですからね。