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京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝紹介グループ「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM802で行っている映画短評について綴ります。

純情ハートと片手鍋 (旧ウェブサイトコラム 『イタリアの小噺バルゼッレッテ』)

 先日なにかの単語を調べるために和伊辞書をぱらぱらとめくっていると、赤線をひっぱっている箇所が目に留まった。僕はあまり辞書にマーカーを引かないたちなので、なんだろうと思って読んでみると、“miseria nera”という言い回しだった。意味は「極貧」。「黒い貧窮」=「極貧」とはなかなか粋な言い回しだな…とか思う前に、おいおい、なんでこの言葉をそんなに覚えたかったんだよと、マーカーを引いた当時の僕に対してつっこみばかりがわいてきた。かなり濃い赤ペンで、かなりくっきりとマークしている。この小学館伊和中辞典は見出し語7万、用例9万の充実した内容だが、ぱらぱらとめくってみた限り、シャーペンで書き込みをしているところなどは発見できたものの、赤で印をつけている箇所なんて他には見当たらない。うーん、なにがあった? なにがあってそこまでこのフレーズを記憶に残したかったのか? 今となってはなにもわからない。“notte bianca(白い夜=徹夜)”とか“l'arma azzurra(青い軍隊=空軍)”とか“occasione d'oro(金色の機会=絶好の機会)”とかいう言い回しは全くスルーなくせに、なぜ「極貧」だけを・・・。
 このマーキングをしたのは大学時代のことだと思う。たぶん、あの頃の僕は、このフレーズになにかを感じ入ったのかもしれないな。なんせあの頃の僕は絵に描いたような貧乏学生、家賃1万5千円のあばらや(もちろん風呂トイレ共同)に住んでいて、かつて一世を風靡した貧乏人紹介番組「銭形金太郎」、いわゆる「銭金」にスカウトされたこともあるくらいだから、「極貧」という言葉自体になにか親近感を感じたのかもしれない。ちなみに僕は番組ディレクターとの打ち合わせの末、放送にはいたらなかったが、同じアパートの住人は後日番組で紹介されていた。
 僕が大学時代と卒業後しばらくを過ごしたこのあばらやの特徴の一つは、猫が大量に住みついているということだった。同じような柄の三毛猫ばかりが何匹も、たぶん10匹以上はいたと思う。こいつらがまたたちが悪く、一度など、僕が共同トイレに行くために部屋の扉を半開きにして出て行くと、用を足して帰ってきたら、部屋の中に猫が勝手に侵入していて、僕が食べ残してあった缶詰をきれいになめつくしていたことがあった。不法侵入、無銭飲食なんて屁とも思わない。まったく我が家はとんでもない不良集団の脅威に絶えず取り囲まれていたんだ。
 さてある日のこと、このアパートに、真っ白な猫が住みついた。僕はあまり猫の種類というのは詳しくないが、あくまでイメージで言うと「ペルシャ猫」のような感じで、古代エジプトの女神を彷彿とさせた。まあそこまでいかずとも「姫」あるいは「お嬢様」的な気品がその全身を満たしており、他のありふれた三毛猫たちとは完全に一線を画したなにかがあった。まさに「はきだめに鶴」! 僕は彼女に完全に一目ぼれをした。なんとか彼女を振り向かせたいと、ピュアな男子高校生のような気持ちにもさせられた。同じアパートの住人たちと、「彼女のこと、見たかい?」「ああ」「僕、実は彼女のことが…」「なに、おまえもか」などと、純情可憐なトークに花を咲かせたりした。そんなある日、奇跡が訪れた。再三の僕のアプローチ(ミルクやさば缶)の甲斐もあり、ついに彼女を僕の部屋に誘い出すことに成功したのだ。僕は有頂天だった。
「ミルク、飲むだろ?」
 僕は彼女を引きっぱなしだった布団の上に座らせて、冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、浅めの皿に注いでやろうとした。同じアパートの住人たちに自慢してやりたかった。ふと僕は彼女の方に目をやった。すると彼女は、さっきまで布団の上に寝そべっていたにもかかわらず、いつの間にか四肢をぴんと伸ばし、首と尻尾もぐいと伸ばし、ぷるぷると小刻みに体を震わせていた。はじめ、僕は理解できなかった。いったいなんだ? 彼女はなにをしているんだ? だが一瞬の戸惑いののち、僕はすべてを理解した。便意だ。小さいのか大きいのか、そこまでは判別できない。しかし間違いない、あれは便意だ。人間とか猫とかそういう種族の隔たりを超えて、僕にはそのときなぜか理解できた。
「あたし、もう、我慢できないの」
 そういう声すら聞こえた気がした。そのとき僕はおそるべき反射神経と動体視力を駆使し、運よく手の届くところにあった片手鍋を手にとり、彼女のもとにダッシュした。僕は鍋を彼女の真下に差し入れる。本当にコンマ何秒の世界だったかもしれない。直後、彼女は粗相をした。大きい方だった。奇跡的に僕はその粗相すべてを鍋の中にキャッチした。そんな僕の横をたくみにすり抜けて、彼女は半開きだった玄関の扉へ向かう。まさに用は済んだとばかりに。えっ、おい、まさか。行っちゃうのかい? ちょっと待てよ。うちは…、うちは…、便所じゃねえぞ! 僕の目は去り行く彼女の後ろ姿(下半身)を追いかけていた。僕の手は彼女の粗相で満たされた鍋を握りしめていた。どうでもいいことだけど、この時僕は彼女が実はオスだったということに気がついた。

 さて、イタリアの小噺(barzelletta)に、こんな話がある。

La prima notte di nozze.
Lei: Caro, ti devo confessare che ho un piccolo segreto: sono daltonica!
Lui: Anch'io cara, ho un piccolo segreto da confessarti: non sono svedese, sono del Ruanda!

ふたりが結婚してはじめての夜。妻が夫に告白した。
「あなた、実は私、今まであなたに秘密にしてたことがあるの。たいしたことじゃないって言えばないんだけど…。私、色盲なのよ」
すると夫は答えた。
「実は僕も、たいしたことじゃないんだけど、今まできみに秘密にしてたことがあるんだ。僕、白人じゃなくて、黒人なんだ」

このようにして美しい白猫は、黒き貧窮の部屋から去っていった。
 手痛い経験だったが、これにより僕は、何事も外見に騙されてはいけないという教訓を得ることができた。見えるものが全てじゃない。見えるものしか見ないというのは、なにも見ていないというのと同義なのだ。
 その晩僕はアパートのゴミ捨て場に、片手鍋と純情のかけらを投げ捨てた。
 なあに、鍋はまた買えばいい。純情は、損なわれるべくして損なわれたのだと理解すればいい。新しい鍋を買い、純情を打ち砕かれ、そうして僕たちは大人になっていく。