京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

彼氏と彼女の文学史

 男性作家にとって、女性関係はしばしば作品を書く原動力になるようです。ダンテ・アリギエーリ(Dante Aligheri)は、9歳のときにベアトリーチェに出会い、後に、彼女の絶対的な美とともに昇天する冒険譚をつくります。世界最初で最大のひきこもり、ジャコモ・レオパルディGiacomo Leopardi)は頭の中で勝手に最愛の女性シルヴィアを妄想し、世界でもっとも美しい愛の詩を書きます。イタリア以外でも、『楽園のこちら側』のヒットから、豪奢で退廃した生活を送ったスコット・フィッツジェラルド王子とシンデレラ・ゼルダ。夭折したカフカにも、2回婚約を解消したフェリーツェ・バウアー、死を看取ったドーラなど、さまざまな女性の影がありました。そして彼女たちからの影響が、色濃く作品に及ぼされ、現在をもっても重要な研究課題となっている。そういう意味では、ゴシップも文学研究も対して差はないというのがぼくの持論です。

 そしてここ、ローマにもまた、ゴシップにまとわりつかれた一人の作家が暮らしていました。ドーナッツ・クラブでもすでに何度か紹介したことのあるルイージピランデッロ(Luigi Pirandello、画像右)がその人です。1893年、ローマで新婚生活を送るにあたって新居を探していたピランデッロは、故郷アグリジェントにいる許婚アントニエッタに向けて、それはそれは愛に満ち溢れた手紙を何通も送ります。もともとはピランデッロ父親の共同経営者の娘だったアントニエッタですが、ピランデッロが深く彼女を愛していたのは確かなようです。今日は雨が降っている、家具を買いに行ったなどの日常的報告から、アントニエッタからの返信を喜んだり怒ったり。いままでの人生は辛く暗く救いのないものだったが、きみと会ってすべてが変わった云々かんぬん…。自己を否定するナイーブさはあるものの、若きピランデッロは子供のように、シンプルに自分の感情と想いをアントニエッタに捧げています。しかし事態はすぐに急変します。1903年、父親たちの会社の倒産によるショックから、アントニエッタは精神的に異常をきたしてしまいます。夫ピランデッロが女学校で教師をしていたことから、嫉妬による突発的な発狂状態に度々陥り、1919年、ついには精神病院へと収容されてしまったのでした。妻の発狂は深く、痛々しくピランデッロの作品スタイルに影響を及ぼします。彼の作品に出てくる女性はみな、苦しみ、躁鬱を繰り返し、あるときは死んでしまうのでした。
 
 現在コッリエーレ・デッラ・セーラ(Corriere delle sera)社から、ピランデッロの戯曲DVDシリーズが毎週出ているので、ぼくも一つ買ってみました。1917年に初めて演じられた『御意にまかす』(Così è 、 1917年、画像右)という作品。アパートの最上階に閉じこもっている謎の女性がいます。近隣住民たちはその正体が知りたくてたまりません。ポンツァ氏(Signor Ponza)はそれを自分のセカンド・ワイフだと言い、フローラ夫人(Signora Frola)はそれを自分の娘だと言います。交互に近隣住民の前に登場し違ったことを言う二人。みんなはどちらが本当のことを言って、どちらが嘘をついているのか知るすべもなく、振り回され続けます。そして最後に謎の女性がみんなの前に姿を現し、こう言うのです。

真実はこれだけ… フローラ夫人の娘か、ポンツァ氏の妻かと言われると、どちらでもない。わたしはあなたがたがそう信じるならそうである存在なのです。

 そして最後に近隣住民の中で一人落ち着き払ってみんなの悶着を眺めていたラウーディシ氏(Signor Laudisi)が笑いながらこう言います。

ほら、みなさん。なんという真実でしょう。ご満足しましたか?

 違ったことを口にする二人の男女は、どちらかが狂人でどちらかが正気。または二人とも狂人、二人とも正気と言える。真実を知ろうと躍起になって空しく右往左往する近隣住民たち。そしてそれを嘲笑しながら眺める男。これらすべては、ピランデッロがつくり出した登場人物であり、ピランデッロの分身とも呼べる存在だと思います。つまり、自分の中で起こっている狂気の沙汰と、それを無益にどうにかしようとする自分、そのすべての光景を一歩離れたところで眺めてあざ笑う自分、そのすべての自分があってこそ、これらの登場人物が生み出すことができたのだと思います。
 そんなつらい日々を送った彼ですが、その後運命的な出来事が起こります。女優であるマルタ・アッバ(Marta Abba)との出逢いです。1925年、設立したばかりのローマ芸術劇場のために女優をさがしていたピランデッロは、友人を介してマルタ・アッバと知り合います。1925〜28年に行った海外を含む公演ツアーでさらに中を深めた二人は、自他共に認める人生のパートナーとなります。しかし、古風な紳士的態度を重んずるシチリア出身のピランデッロは、アッバへの想いをあからさまに言いふらすことはなく、性的関係も持たなかったと言われています。年齢や地位を築いたということも理由に挙げられますが、彼女に送った手紙においても、アントニエッタの場合とは異なり、威厳を保ち、内容的にも仕事や劇などの話が主でした。しかし仕事や劇の話ばかりするというのは、裏を返せば戯曲を書く上でマルタ・アッバの存在がそれほどまでに重要だったことを表しています。作風が劇的に変化した、ということはありませんでしたが、この時期から死に至るまでは、アントニエッタの狂気だけでなく、女優マルタ・アッバの存在が作品を書くにあたってたいへんな原動力になっていたのは明らかです。
 彼が1936年肺炎で亡くなるまで住居としていたアパートの一室が、現在ルイジ・ピランデッロ研究所となっていると聞き、今回のコラムの題材を求めて訪問してみました。その室内はしんみり暗くて(訪問時に雨が降っていたからというのも理由にあります)、ベッドルームにも書斎にも、これみよがしにアッバの写真が飾ってありました。もちろん彼の死後に付け加えられたものなのでしょうが、彼はこの部屋で何を思いながら人生最期の日々を過ごしていたのでしょう。 1936年12月4日、死の6日前、ピランデッロは劇公演でニューヨークに滞在中のアッバに向けて、最後の手紙を送りました。その内容もまた、仕事において彼女をいたわるように手配したという内容の手紙でしたが、結びの文章では彼女への熱い情愛が吐露されています。

…私のマルタよ、手紙も長くなってきたし、もう郵便局に持っていかなければならない時間だ。この手紙はいつごろきみにつくだろう? 離れている距離を思うとひどい孤独に苛まれるよ。絶望の深淵と言ったところだ。でもどうかきみはそれを考えないでくれ。きみに熱い、熱い抱擁を送るよ。心の底から。
きみの先生(ルイジ・ピランデッロ


 ルイージ・ピランデッロ研究所
 Via Antonio Bosio13 Roma
 月−木:9時〜15時
 金:9時〜14時