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京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝紹介グループ「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM802で行っている映画短評について綴ります。

中庭にある風景 〜エピローグ〜

 このあいだパリに行ったとき、シャンゼリゼ通りにあるラデュレというお菓子屋さんに立ち寄りました。マカロンという名のお茶菓子が非常に名高いラデュレは、東京の銀座かどこかにも店舗があるらしいのですが、天下のシャンゼリゼ通りにある本店の門構えはやはり格別なもの。本場のマカロンでお茶でもしばこうと、店に入り、案内されるままアンティーク調のカフェのある2階へとやってきました。ティーブレイクを終え、店を出る前にトイレへ行こうと立ち上がり、慣れない仏単語でトイレの場所を尋ねると、どうやら廊下の奥にあるらしい。奥へ歩いていくと、トイレへと通じる廊下の窓から中庭が見えました。ちらりと見て通り過ぎてしまっただけのその中庭は、低木が殺風景に茂った地味なもので、一等地にある華やかなカフェとは明らかに不釣合いでした。手すりから洗面所までこだわって装飾されているのに、窓から見える中庭の風景にはまったく手をつけていない。おそらく中庭はラデュレの所有物ではないため、放置しているのでしょうが、ヨーロッパ建築における中庭という空間の特殊性にあらためて気づかされた瞬間でした。
 中庭(cortile)という単語は日本語に存在していますが、イタリアの日常生活で目の当たりにする中庭は、和の庭園にみるそれからはおよそかけ離れたものです。新旧は別にして、イタリア都市圏の大部分の住居は、何世帯もの家屋が一つのビルに集まり形成されています。平たく言うなら集合住宅アパートです。隣接するアパートの各々が一つのムラとなり、エレベーターの点検やらゴミ収集のための共益費を払い、ともに生活をやりくりします。郊外にはちらほら見受けられる広大な敷地を備えた邸宅は、中心地に存在せず、庭を持たない都市の住人たちはバルコニーや室内に植物を置くことになります。このように、都市の生活では、外にではなく、内に向けて飾るため、ビル郡が立ち並ぶ通りを闊歩すると、外観にみるビルの素っ気なさに圧倒されることもあります。そして中庭もまた、この都市における内に向けた空間のひとつで、ビルの建築構造上、生まれざるをえないものです。
  
 上の写真を例にとって説明を続けます。この写真は飲み屋街である花の広場(Campo de’fiori)から一本入った筋にある、きれいな中庭が見れるスポットです。表通りに通じるのトンネル(画像上左)を抜けると中庭(画像上右)に到達します。この中庭は映画などでも度々使われおり、住居者以外の一般人が出入りできるこのような場所は非常に珍しいです。中庭は、4辺が家で囲まれており(画像右はその内の2辺です)、つまり、表通りに面したビルの裏側同士で囲まれた余りの空間です。真上から見ると、ちょうど四角いドーナッツの真ん中に開いた穴のようになっており、さらに高い位置で俯瞰すると、町は、道路と、一区画ごとに出来上がった四角いドーナッツの集まりであることがわかります。このように、雑多とした表通りの裏側、または素っ気ないビルの群れの裏側には、静かで、きれいに手入れされた中庭が必ず存在しているのです。国鉄オスティエンセ (Ostiense)駅の真裏に位置するある友達の家にお邪魔したときもそうでした。「電車の音はうるさくないのか?」と質問したところ、「いや、うちは中庭に面しているからね」という答えが返ってきました。その家の窓からも、駅の近くとは思えないひっそりとした中庭が見えるのでした。
 
 同じ建物に属しながら、表とはまったく違った顔をみせる中庭。都市の生活に意外な落ち着きをもたらす小気味よい存在でもあるのですが、ラデュレで見たそれのように、ビルの隙間にできた余剰空間として野放しにされている場合も多々あります。一般的なアパートの中庭では、個人ではなく居住者たちの共同管理下に置かれるため、極度な装飾や手入れもできません。このように、あいまいで不思議だけれど、確実に日常生活と存在をともにする中庭は、もちろんイタリア文学の中にもたびたび登場し、作品に華を添えています。例えばエンニオ・フライアーノ(Ennio Flaiano)の短編『モデル・ルーム(訳は筆者)』(L’appartamento campione)。この作品は別名で1957年にコッリエーレ・デッラ・セーラ(Corriere della sera)紙に発表され、1972年、短編集『白い影』(Le ombre bianche、画像上)に収録されています。ストーリーは、モデル・ルームを見学するために、急進的な開発がされている新興住宅地のアパートにやってきた一組のカップルに対し、不動産屋が皮肉たっぷりの美辞麗句を並べて家を紹介するというものです。

 「…さあ、もういいでしょう。寝室へ行きましょう。ほら、ここです。上階も下階も、アパート中同じ配置に寝室があるんですよ。よくある手抜き建築だなんて思わないでくださいよ。同じアパートに住む人に会うとき、愛くるしい笑顔で愛称で呼び交わさずにはいられないでしょう。プッピ、プッチ、ねんねちゃん、おデブちゃん、ベイビー、かわいこちゃん、ちびっこちゃん、マイ・ハート、ベイビー・ハート、ハニー、シュガー。私と同じアパートのカップルなんて、まあ、ビンゴとリンゴですよ。私たちアパートの住人は、ご想像できるでしょう、うらやましげに彼らを見やるんですよ。だって、ナントカいうスペインの詩人が言っていたでしょう? コノ世界、ウラヤマシガルノハ悪イ癖ってね」
 不動産屋は少し考え込み、窓際に立って中庭を指差した。
 「こちらが中庭になります」彼は言った。「ガレージ付きです。時代が進めばこいつらも華やぎますよ。この地区は発展するにまかせてください。あっちのビルにはもうすでに、室内装飾の店ができている。そっちの右のビルには、バイクを修理する小さな工場ができるでしょう。もう片方のとなりには――どういうわけだか知りませんが――家具職人の工房ができます。そこから聞こえる音といったら、なんと味わい深いものでしょう! レオパルディの詩を覚えていますか? 『急いで がんばって/夜明けよりも 品物をみせろ』詩のタイトルは『土曜日の村』ですよ。そう、家具職人はときには夜なべもしますから」

 部屋の見学にきたカップルに口をはさむ隙も与えずしゃべり続けてきた不動産屋が、中庭を指差すその直前、一瞬だけ黙り込んでしまいます。そしてまたスイッチが入ったようににぎやかにしゃべり始める。その一瞬彼は何を考えたのでしょうか? 新興住宅を売りつけようとする不動産屋は、発展を遂げる当時の社会の肯定者です。そんな彼がガレージ付きの中庭と、その周りで発展を遂げる予定の新興住宅地を前に一瞬だけ沈黙するという事実は、彼の躁鬱性、つまりは現代社会の病理をほのかに表しているのではないでしょうか。居間、キッチン、寝室と家の各所を紹介していく過程で、中庭の登場が非常に効果的に用いられています。このように、西洋の中庭という空間の特殊性は、その文学作品の中にも示されているのでした。