京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

ネーロ健在 〜Forever Blues〜

 明後日(4月30日)から、今年も東京・有楽町でイタリア映画祭が催される。2000年の「日本におけるイタリア年」に始まったわけだから、早いもので、今年で9回目だ。今回は私たちドーナッツクラブのメンバーでは、私とポンデのみの参加となりそうだ。だって遠いんですもの、東京は。私たち大阪ドーナッツクラブは、大阪というだけあって、メンバーの多くは関西に住んでいるのだ。いくらイタリアのものだからといって、たかが映画のためにわざわざ500キロも離れた東京へ出向くというのは、つくづく奇特なことだと思う。メンバーの間ではよく愚痴っていることだけれど、朝日新聞社イタリア文化会館には、ぜひとももっと気概を持って全国主要都市の巡回ぐらいはしてほしいものだ。それができないというのなら、私たちでやるしかないと思いながらも、なかなかその実現には至っていないのが現状だ。やっぱり映画は何かと金がかかるのだ。でも、いつかは東京のイタリア映画祭からこぼれおちた近年の佳作や歴史に残る名画をピックアップして、あの欲望渦巻くメガロポリスではできない映画上映会を私たちの手で開催したいものだ。


さて、ぼやきもそこそこにして、本題とまいりましょう。世の中便利になったもので、パブリックな上映会の実現は難しくとも、プライベートなものであれば、イタリアから通販でDVDを取り寄せていつでも自宅で開催できる。くやしいところだが、日本の地方都市に住む者としては、今のところこれがイタリア映画に触れる一番手っ取り早い方法なのだ。ということで、最近鑑賞したのが、『フォーエバー・ブルース』(Forever Blues、2005年)という作品だ。マカロニ・ウェスタン(spaghetti western)の代表作のひとつ『続・荒野の用心棒』(Gjango、セルジョ・コルブッチ<Sergio Corbucci>、1966年)のジャンゴ役で日本でも勇名を馳せたフランコ・ネーロ(Franco Nero、日本では、「フランコ・ネロ」と発音するのが一般的でしたが、本来は「ネーロ」とのばして発音するので、ODCでも「ネーロ」に統一しました、)が、監督・主演はおろか、脚本や製作までこなしているというのだから、私も含めたファンにとっては垂涎ものだ。といったって、これは決して西部劇ではない。意外に思われるだろうが、ジャズやブルースを軸にした少年と中年トランペッターの交流を描いたヒューマン・ドラマだ。

 実はこれ、ちょうど私がローマにいた2006年にお宝アーティストであるシルヴァーノ・アゴスティが経営する映画館アッズッロ・シピオーニでかかっていて、ぜひにと観にいこうと思っていたフィルムだった。しかも、ネーロ本人が舞台挨拶をする他、上映後には劇中で使われたジャズ・ナンバーをバンドが生演奏してくれるという贅沢なイベントが企画されていたものだから、その晩はしっかり予定を空けて、余裕をみていつもより少し早めに家を出たというのに、ローマ名物の地下鉄のストライキにものの見事に行く手を阻まれた私は、結局は悔し涙を拭きながら家路についた。それからもしばらくは上映されていたのだけれど、なんだかすっかりげんなりしてしまって、結局今になってDVDで観る羽目になってしまった。

 『イル・ポスティーノ』(Il Postino、1994年)を監督したマイケル・ラドフォード(Michael Radford)が「子供のころを思い出させる感動的な雰囲気」と評していたり、『Ray/レイ』(Ray、2004年)を撮ったテイラー・ハックフォード(Taylor Hackford)が「心の奥深くに訴えるものがあって、実に感動した」と言っていたりするように、最後にはきっちり泣かせてくれる、なかなかよくできた物語だった。実力ある若きトランペット吹きの青年マルコ(Marco)が、彼女を連れて田舎町にやってくる。そこは彼が音楽(トランペット)と出会った場所。その記憶を物語として回想するという設定だ。幼い頃(11歳)、彼はアル中の父親が母親をしょっちゅう引っぱたくのを見ていて、心を固く閉ざしていた。美しい母親は口をきかない彼を心配し、特別な診療のために彼をこの町に連れてきた。母親と立ち寄った宿の傍にあるジャズ・クラブで、彼はネーロ演じるルーカ(Luca)の演奏を偶然耳にする。ルーカは孤独な町の演奏家で、ジャズ・クラブの女主人といい仲ではあるが、彼女よりも音楽を大事にしてきたので、結婚もしていなければ、子供もいない。マルコは父親こそいるものの、精神的には孤児に近い状態で育ってきた。そんなふたりが音楽を通して出会い、決定的な別れを経験するまでの、短くも濃密な、悲しくも愛おしい、たった2日間の交流が幼きマルコに植えつけた種がやがて人格形成を促し、今や彼は一流の音楽家になったというお話。

 このルーカはなかなかお茶目な嘘つきで、自分はサッチモブルース・リーの友達だなどと吹聴するのだけれど、別れの前に彼がマルコにあっけなく本当のことを打ち明けることで、なるほどあの一連の嘘は少年の心を刺激するためだったんだということが痛いほどわかるようになっていて、私たちの心まで締めつけられる。低予算の小さな小さな映画だから、登場人物は少ない。セットも作らず、撮影はオール・ロケーション。それでも、まったくちゃちな印象がないのは、演出がしっかりと物語の核と分かちがたく結びついているからだろう。思い返せば、脚本には、リアリティーを追求するなら、ご都合主義的としか言いようがないような部分もいくつかあったけれど、それがまったく気にならないのだって、ネーロの伝えたかったメッセージがどこまでも明確だったからで、しかもそれがちゃんと観客に伝わっていたからだろう。それに、演じているのは何と言ってもあのフランコ・ネーロだ。細部の演出がどことなく強引だろうと、いわゆる臭い場面になろうと、この人の演技力にかかれば、違和感は見事に払拭されてしまうのだから、やっぱりすごいもんだと思う。劇中の彼は哲学者っぽい名言を次々マルコに浴びせるのだけれど、それもまったく変に感じないどころか、「ああ、この人ならこんなこと言うだろうな」とこちらに思わせてしまうのだから、立派なものだ。脇役もそれぞれに魅力的な人物で、キャスティングも実に悪くない。似たような設定の「精神的な父親もの」は枚挙にいとまがないし、正直ストーリーを前もって聞かされると、なんだかなと思ってしまうんだけれど、このフィルムはそういう懸念を見事に大外刈りで撥ね退けてくれる。こういう小さい話、小さい映画、私は愛していたいのです。

 映像的には、過去と現在がワンショットの中で交錯するところが確か2度ほどあって、これもともするとベタとかやり過ぎとか言われてしまうのかもしれないけれど、私は気に入った。ベンチに座って彼女に昔話をしているところに、昔の自分が通りかかるのなんて結構シャレていた。あと、個人的には、かつてルーカと惚れ合ったこともあったというジャズ・クラブの女主人を演じていたミニー・ミノープリオ(Minnie
Minoprio)というイギリス人の歌手・ショウガールを発見できたのが収穫だった。この女性、どういういきさつかは知らないが、50年代の終わりからローマを中心としたイタリアのキャバレー界でならしたお色気シンガーだったらしく、出演作は少ないながらも映画女優としても知られていたのだとか。公式サイトを覗いてびっくり、今もローマのジャズ・クラブなんかで歌っていたりするようだ。しかも、お上手。ぜひとも生で聴きたい。ああ、何だかすっかりローマが恋しくなってきちゃいました…。

 =参考動画=
 予告編 http://www.youtube.com/v/L8VB3NzkqMQ&hl