京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

映画は終わらない 〜トリノ国立映画博物館     (旧ウェブサイトコラム『ローマから遠く離れて』)

 前回の冬季オリンピック開催地として日本でも名前が通りやすくなったトリノ(Torino)は、ユヴェントストリノというふたつのチームを有する「サッカーの街」であり、スイス人の経営者を迎えて目覚ましい回復を遂げ、昨今は同業他社との合併話で日本の紙面をも賑わせるフィアットを抱える「自動車の街」であり、美食の地ピエモンテ(Piemonte)州の州都として料理やワインでも有名であり、わけても「チョコレートの街」として名高い。

 こうした異名はまだいくつかつけられるのかもしれないが、もうひとつ絶対に忘れてはならないのが、「映画の街」という呼び名だろう。

 映画の街というニックネームが冠せられたのは、前回のコラムで紹介した、チネポルトという映画に特化したビジネスセンターがオープンしたからでも、この都市を舞台としたフィルムが数多くあるからでも、国立の映画博物館(Museo nazionale del cinema)があるからでも、あるいは充実したトリノ映画祭が催されるからでもない。むしろ、こうした現在のトリノと映画を結び付ける赤い糸は、1896年2月、パリのサロン・インディアンから2か月後、イタリアで初めての有料による映画の公開上映が行われたのがトリノであり、要はイタリアにおける映画発祥の地であったことに端を発する。

イタリア映画史入門―1905‐2003
特に日本ではあまり知られていないことであるが、トリノは1861年に一応の成立をみたイタリア王国の首都であった。1870年にローマに遷都してからも、法王庁とのいざこざが絶えなかったローマを尻目に、トリノは政治・経済・文化など、様々な面でイタリアの中心的な役割を担っていた。これは新しいメディアであった映画についても言えることで、たくさんの都市で雨後の筍のように映画の制作会社が設立されても、そもそも写真芸術の中心地として名高かったトリノは、イタリア映画というだけで飛ぶように列強各国に売れまくっていた第一次世界大戦頃までのイタリア映画の最初の黄金期(そんな時代が確かにあった)において、先導的かつ支配的な街としてイタリア映画界の中心にあった。この時代のイタリア映画史の流れについて日本語で読めるテクストとしては、『世界の映画作家32 秋の号 イギリス映画史/イタリア映画史』(キネマ旬報社、1976年)と『イタリア映画史入門1905−2003』(ジャン・ピエーロ・ブルネッタ<Gian Piero Brunetta>、川本英明訳、鳥影社、2008年、画像右)があるけれど、やはり黎明期というのは何事によらず事情が複雑になるのだろう、同時多発的にいくつもの小さな動きが頻発していて、少しでも分け入ると途端に固有名詞が大挙して押し寄せるものだから、すぐに目眩がしてこめかみがずきずき痛くなる。そのせいで、無数の細部に翻弄されるあまり、それらを秩序だてて結びつけ、さらにはズームアウトして全体像を構築するといった作業がいつもうまくいかず、ごくごく大づかみ(というより鷲づかみ)にでないと把握しにくいところがある。ささやかとはいえイタリア映画を研究する身でありながら、そしてトリノに生まれた身でありながら、あの街の映画的栄光の時代に潜在的な興味を抱きつつも、思い出したようにそこへ近づこうとするたびに見上げるほど高い壁に阻まれ、毎度毎度しょんぼりとんぼがえりするという情けない往復運動を繰り返すばかりだ。

 というわけだから、興味のある方には先のふたつのテクストに触れていただくとして(すみません…)、ここではトリノがイタリアでの映画発祥の地であるという事実を今さらながら紹介するにとどめたい。僕が言い訳まじりに言いたかったのは、チネポルトも映画博物館も映画祭も、すべては1896年2月からはじまっているのですよ、ということだ。

 さて、今トリノを映画というキーワードを携えて訪れるとするなら、国立の映画博物館を外すことは絶対にできない。僕もトリノへ足を運ぶたびにここに足を運んでいて、ファンシーゆず、オールドファッション幹太と行った前回にいたっては、丸2日間をこの聖地訪問にさいてしまったくらいだ。

鏡の迷路―映画分類学序説 *1

 場所はまさにど真ん中で、最も高い建築物(167メートル)としてトリノのシンボルでもあるモーレ・アントネッリアーナ(Mole Antonelliana、画像は右上でクリックすると拡大)。それが丸ごと博物館になっているのだから、規模はかなりのものだ。このモーレ、写真からわかるように四角錐の形をしているのだけれど、3階だか4階だかの上に巨大なホールがあって、外壁がそのまま天井みたいな造りになっているものだから、天井(というべきかなんというべきか)が異様なまでに高い開放的な空間を備えている。この映画博物館、展示方法が凝っていて、建物の構造を存分に活かしている。大雑把には、ホールの下に映画の技術史を学べるセクションがあって、豊富な現物資料に実際に触れながら、その成立と変遷をわかりやすく学ぶことができる。ホールには、視覚的なしかけがたくさん施してあって、こちらもまた楽しい。入ってしばらくは、口をポカンと開けて、ただひたすらにぼーっとあちこちを眺めてしまう。愛、食べ物、音楽、カフェなどなど、「映画と○○」という切り口で、古今東西の作品を加藤幹郎が『鏡の迷路 -映画の分類学序説-』(みすず書房、1993年)でいう化学周期法的なカテゴライズで見せてくれるのが、このホールの大きな特徴だ。セクションのひとつひとつにたくさんの発見があって、しかもその見せ方に工夫が凝らされていて、思わず童心に返ったように興奮してしまう。中央には四角錐の頂点と地階とを結ぶエレベーターがあって、ホールに数ある寝椅子に横たわって眺めていると、人を乗せた箱が空中をすいすい音もなく上下するものだから、ついつい見入ってしまう。定期的にホールの窓が閉じられて室内が暗くなると、どこからともなく荘厳な音楽が聴こえてきて、天井をスクリーン代わりにいくつもの幾何学模様が映し出され、途方もないサイズの幻燈を見ているような気になる…。

トリノ、24時からの恋人たち [DVD]
ああもう、じれったい。文章で説明するのがもどかしい。本当にこの映画博物館の盛りだくさん具合ときたら、何をどこから描写していいやら見当もつかないくらいで、文才の乏しい僕は匙も筆もキーボードも一切合切投げ出してしまいたくなる。これはもう実際に体験していただくほかない、と言いたいところだけれど、僕たちはそう簡単にはトリノまで行けない。僕だっていくら行きたくとも、その時間もお金もない。じゃあ、どうするか。僕はひとつの解決策として、とあるDVDをデッキに挿入する。タイトルは、『トリノ、24時からの恋人たち』(Dopo mezzanotte、ダヴィデ・フェッラーリオ<Davide Ferrario>、2004年、画像右)。これ、トリノ国立映画博物館の夜警を務める映画青年が主人公のお話。男2女1の三角関係を描いたラブコメディーの体裁を背骨としつつも、時にあからさまに、時につつましやかに折り込まれる、映画史を彩るたくさんのフィルム、さらには映画そのものへのオマージュで肉付けをした、実にほほえましい好作だ。つい今しがた映画青年が主人公と書いたけれど、少し見方を変えれば、主役は映画博物館とモーレ・アントネッリアーナそれ自体とも言える。イタリア映画祭2009にもゲストで来日していた名優シルヴィオオルランド(Silvio Orlando)の少しこもり気味の味のある声で楽しませてくれるナレーターが、いちいち粋なセリフを連発するのだからこちらは頬が緩みっぱなしなのだが、そのひとつにこんなのがある

"Al cinema ormai gli spettatori si interessano solo alle storie di personaggi. Eppure, all’inizio, nelle prime proiezioni delle vetrini e delle lanterne magiche i personaggi non esistevano. La gente si entusiasmava di fronte ai paesaggi e alle vedute delle citta. Forse sono i luoghi che raccontano le storie nella maniera giusta."

「最近のお客はもっぱら登場人物の話ばかりに夢中になっている。だが、ガラスと魔法のランプ(マジック・ランタン)で映していた頃は、登場人物なんて存在しなかったものだ。誰もが風景や街並みに目を見張っていたのだ。ストーリーを適切な形で物語るのは、場所なのかもしれない」

 その通りだ。このフィルムでも、監督はモーレという建築物、あるいはトリノという街でしか撮れない映像にこだわっている。街が借景でも背景でもなく、主人公になる映画があるのだ。このコラムを読んでいるあなた、まだこの作品を観ていないのだとしたら、一目散にレンタルショップに出向いて、DVDを借りてきてください。そして、トリノへ、映画博物館へと視覚的に足を運んで観光してくださいな。観光というのは、光を観ること。その意味で、映画の観客は観光客なのだから。

 ところで、ハリウッドが生み出した映画の文法にのっとったフィルムでは、冒頭でエスタブリッシング・ショットと呼ばれる一連の映像が展開する。これから語られる物語の舞台となる場所を鳥瞰で見せ、観客に「こういう場所なんですよ」と教えてくれるわけだ。ちょうどそれと同じように、初めて訪れる街で、何よりもまずその街で一番高いところ、その街全体を見渡せるような場所に登りたがるのが一般的な観光客の心理だろう。馬鹿と猿は高いところが好きというけれど、僕とファンシーとオールドファッションも、トリノへ行ったときには、まず最初にモーレのエレベーターに乗り込んでてっぺんへと移動した。遠くには扇形にトリノを囲むアルプスの絶景。眼下には、ローマとはまったく違う北イタリアというよりフランスっぽい様式の建物群。僕たちはあちらこちらを指さしてはやんややんやと馬鹿騒ぎをしてしっかり満足。いざ足元の映画博物館へ乗り込むべく、意気揚々とまずは下りエレベーターに乗り込もうと箱の到着を待った。今か今かと待って、しばらく待って、ずいぶん待って、待ちわびて待ちわびて、ついには待ちくたびれた。エレベーターが待てど暮らせど来ないのである。僕たちはトリノの一番高いところ、塔のてっぺんで地上と切り離されて浮かんでいた。普段から地に足のつかない僕たちではあるが、喩えではなく文字通り地に足がつかないというのは、やはり不安である。オールドファッションは、「お前といると、どうしてこうもトラブルがついてまわるんだ」と、冗談とも本気ともつかない雰囲気で僕をなじり始めた。もし致命的にエレベーターが壊れてしまったとしたら、僕たちはどうなるんだろうか。ここで夜を明かすんだろうか。ヘリコプターが飛んできて、ルパン三世の脱出劇みたいな調子で縄梯子を下ろされたりするんだろうか。どきどき後びくびく、ときどきわくわく。場所が場所だけに、映画的なスペクタクルを勝手に夢想しているところへ、エレベーター脇の床にあった小さなドアが突然ばかっと開いて、スーツ姿にヘルメットという奇抜な格好の職員が汗だくで現れた(そう、あれは真夏の出来事だった)。

 「すみません、みなさん、エレベーターが故障しまして、復旧までまだしばらくかかりそうなんです。申し訳ありませんが、ヘルメットをお配りしますので、私について階段で下りていただけますか?」
 
 そうか、階段があるんだ。気づかなかったのは、僕たちが馬鹿だったからではない(馬鹿ではあるが、決してそれが原因ではない)。エレベーターで上る間も、てっぺんに着いてからも、階段なんぞどこにも見当たらなかったのだ。それもそのはず、なんでもモーレ建造にあたって作業用に作られた階段らしく、内壁で見事に塗りこめられてしまっているのだ。最初こそ「ヘルメットなんかいらねえよ」などといきがっていたが、数段下りてみてすぐに緒を締め直すことになった。壁が曲線だから身体もそれに合わせて傾けながら下りないといけないし、天井の高さも目まぐるしく変化するのだ。さながら迷路だった。「俺たちはいったい何をしているんだ…」。足もとがおぼつかないながらも、着実に地上へと近づいているという安心感も手伝って、だんだん笑いがこみ上げてきた。そこでふと思い出したのが、『トリノ、24時からの恋人たち』。夜警のマルティーノは、博物館だけではなくて、ちょうどこんな階段も歩いてたはずだぞ! 突然襲う既視感。ついさっきまで「行きはよいよい、帰りはこわい」だなんて愚痴をこぼしていた僕たちは、「あれ、ここじゃないの、あのシーンは」なんて当てずっぽうに言いあいながら、わいわいがやがや満面の笑みで、何なら歩を緩めたりまでして、地上に着くころには名残惜しい思いまでして、その望外のロケ地特別ツアーを満喫することになった。
 
そんな予期せぬおまけもあって、僕たちは「映画の街」トリノを肌で感じることができた。もちろん、そんなごく個人的な体験を抜きにしても、トリノは映画とますます分かちがたく結びついている。チネポルトの開設は、うまくいけば将来、イタリア映画史におけるトリノの特権的な位置を改めて補強するような役割を果たすことになるかもしれない。そうなることを期待しつつ、あの街にルーツを持つひとりとして、やっぱりトリノと映画の歴史を学び直さないといけないな、これは。放り投げた匙を拾い上げて、まずは名前だけ紹介したテクストを読み直すとするか。また思い出した頃に、トリノを舞台にした映画なんかについて書いてみたい。だって、「フィルムは終わっても、映画は終わらない」(I film possono finire, ma il cinema non finisce mai.)*2のだから。

*1:モーレ・アントネッリアーナの写真は、アレッサンドロ・ベー(Alessandro Bee)の作品です。

*2:トリノ、24時からの恋人たち』エンディング・ナレーションより