京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝紹介グループ「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM802で行っている映画短評について綴ります。

おススメの本 『なぜ古典を読むのか』 イタロ・カルヴィーノ著 

 ――― 今日比較研究をやっていく場合に一番重要な課題は何かというと、文化は普通そうは考えられていないけれども、危機、クライシスに直面する技術であるということね。―――
 
 文化人類学者の山口昌男氏のこの言葉は、作家の大江健三郎さんが、定期的に朝日新聞の夕刊に寄稿されている「定義集」の中で、2009年9月22日の「未知にのめり込む地殻変動」と題した回で紹介されていました。

 この言葉を受けて大江さんは、「今現在、危機はこの国に居座っています。それにつながっての(さらには弧絶した)個人の危機も乗り超えられねばなりません。書店は、ありとあらゆる分野の、しかも揃って実用的な本の山です。こういう時、危機に直面する技術としてもっとも古い、文化について語る本に私は注目します。」と結んでおられました。

 この記事を最初に読んだとき、私は浅薄にも古典の力について語られているのだと早計しました。しかし、いま読み返してみると、《危機に直面する技術として、もっとも古い文化ついて語る本》ではなく、《危機に直面する技術としてもっとも古い、文化について語る本》だったことがわかります。しかし、こうして昨秋から古典の力とは具体的にどういうものなのかという疑問を抱いていた私には、この早合点のおかげで、カルヴィーノの、文学にとどまらず広くさまざまな層に思いをめぐらせてくれる力を持った『なぜ古典をよむのか』に出会うことができました。三十篇の文学評論のエッセーを集めた本ですが、どのページにも、読んだ人それぞれを今後新たな跳躍にみちびいてくれるような深い示唆に富んだ種がたくさん蒔かれています。

 三十篇にものぼるエッセーのなかには、なかなか読み込むには難い篇もあります。しかし、全部を通読できなくても、1981年に書かれた本のタイトルにもなっている最初の一篇「なぜ古典をよむのか」だけは、ぜひ読んでもらいたいと思うのです。カルヴィーノは14の定義をあげて、古典をなぜ読むのかという問いに答えています。人によっては、もしかするとこの定義にもう幾つか付け足したいと思う人もいるかもしれません。しかし、この14の定義を一つでも省こうという人は決していないでしょう。古典のもつ力を優しい言葉で簡潔に、そしてそれを紐解く喜びも忘れずに、強い説得力をもって書いています。その定義のひとつひとつが文化のもつ力について語っていることとしても、読めるでしょう。カルヴィーノのこの本も、《危機に直面する技術としてもっとも古い、文化について語る本》だということがよくわかります。

 ひとつひとつのものの価値を見極める暇もないほどに次々と大量に情報や物が押し寄せてくるなか、一時的に神経に直接訴えかけるようなものばかりで、自分にとってより深いところへ連れて行ってくれるようなものとの出会いが少ないことに愕然とすることがあります。そこには、より自由な時間を作り出せるはずの文明の進歩が、反対に息継ぎもできないほどの時間の圧縮にいたっている矛盾があります。
なぜ古典を読むのか
 カルヴィーノが古典として対象としているのは、古代のものだけではなく、近、現代のものにせよ、反響効果をもちながら、文化の継続性のなかで、すでにひとつの場を獲得したものをあげています。文学だけでなく様々な文化の古典に触れることが、思考だけでなく、感覚にさえも、反響が振動となって再び新鮮な息吹を吹き込んでくれるのではないかとおもいます。また、あらゆる<大量>に流されて身動きが取れないように感じる自身も、古典に触れ、時事を知る中で、今自分がどのあたりにいるのか初めてわかるという安堵の一息もつけるように思うのです。

(『なぜ古典を読むのか』 Perché leggere i classici、イタロ・カルヴィーノ著、須賀敦子訳、みすず書房、1997年)