京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝紹介グループ「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM802で行っている映画短評について綴ります。

かたつむりなら今からでも追いつける 〜スローフードな人生!     (旧ウェブサイトコラム『ローマから遠く離れて』)

 スローフードスローライフロハス…。目まぐるしく変化を続け、猛スピードで駆け抜けていく日常に疲れた現代人に、癒しというよりは束の間の現実逃避を与えてくれる清涼感のある言葉として登場したこれらカタカナ語は、形あるものだけでなく、概念的あるいは抽象的なものまできれいにプロダクト化してしまう高度資本主義社会の習わしとして、とうの昔に本来の意味を失い、ともするとファッションに近い感覚でぼんやりと捉えられているように思う。「スロー」という響きのせいもあってか、エコほど切迫感をもって人々に受け入れられてもいない。

 スローフードというコンセプト、もしくは運動がイタリアで生まれたことは知っていた。なんなら、僕の生まれたトリノのあるピエモンテ州ブラー(Brà)という田舎町であるということも。ただ、好むと好まざるにかかわらず、現代という迷宮に取り込まれ、何かに追われるようにして生きる僕も、何を隠そうスローフードの何たるかを深く知ろうとも考えようともせず、原っぱでシートを敷いてオープンサンドでも頬張るピクニックのような牧歌的でどこか浮薄なイメージとしてしか捉えきれていなかった。

 一方で、『ブルーゴールド 狙われた水の真実』(Blue Gold : World Water Wars、サム・ボッゾ、アメリカ、2008年)や『おいしいコーヒーの真実』(Black Gold、マーク・フランシス&ニック・フランシス、イギリス・アメリカ、2006年)といった告発系のドキュメンタリーフィルムに頭を金づちで殴られたような衝撃を受けては、懐かしの猿よろしく頭を垂れて反省してみたりしながら、清師匠よろしくできることからこつこつとばかりに、自分が口にするものの生まれた場所やその工程(食べ物に使う言葉ではないかもしれないが、もはや「食」が「工」でないと誰が言えるだろう?)やら、それがここまで(往々にして遙か遠くから)運ばれてきた行程に気を配り、そこに選択の余地がある場合にはよりよい(であろう)選択をして、選択の余地がなければ嘆息しつつも結局は口に入れてきた。つまりは、「できればもう少しスローでありたいものだね。暮らしも食も、なんなら地球の自転も」などとぼやきつつ何となく生きているわけだ。
スローフードな人生!―イタリアの食卓から始まる (新潮文庫) ブルー・ゴールド 狙われた水の真実 [DVD] おいしいコーヒーの真実 [DVD]   
 そんな僕に、島村菜津の『スローフードな人生! イタリアの食卓から始まる』(新潮文庫、2003年)はうってつけだった。彼女は丹念で辛抱強く、時に果敢な取材を通して、スローフードという運動、いやこの高邁な哲学の深い根っこから枝葉まで調べ上げるというか自ら体験し、お得意のユーモアを隠し味にした親しみやすい文体でそれを惜しげもなく披露してくれる。なるほど、そういうこことだったのか。実に考えさせられる深みとコク。ん? 何か違うな。いや、本について思い出すと、ついつい彼女が食してきたスローな料理のこともセットで思い出してしまうのだ。どれもおいしそうなこと。読者にそう思わせる彼女の筆力と食欲に脱帽だ。スローフードというこの(繰り返すが)高邁な思想哲学が、自らの舌と胃袋でもって咀嚼して味わい、吸収していくべきものなのだということが、彼女の手腕でようくわかる。

 長きにわたる潜入調査の果てに、島村氏は東京でスローフード協会の支部を立ち上げてしまったお人だ。それじゃまるでミイラ捕りがミイラだなどと言う前に考えてみてほしい。東京でスローですよ。この矛盾を痛いほど承知の上で、ドン・キホーテよろしくトキオという超高速回転する風車に一矢報いようというのだ。いや、矛盾があるからこそ、もしかすると的を得ているのかもしれない。言わばファストライフの本丸のような場所なのだから。

 そんな彼女が書き上げたこの本は、スローフードって、要するにアンチファストフードってことでしょ、と信じ込んでいた人(僕も含めて)はもちろん、自称スローフーダーだって目から鱗に違いない。ところで、「もともと単行本だったものが文庫本になって、なんならもうその文庫がブックオフにだってあるっていうじゃない。そんなスローフード情報、カビが生えてるんじゃない?」なんて急いた心配はご無用だ。読後の僕は、今なら自信を持って言える。スローフードはファッションではない。焦らずとも大丈夫。せっかちにならなくても、かたつむりをマークにしているこの運動には、その気になればすぐ追いつけるはずだ。そう、その気になれば。