京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

映画をつくる

 映画と小説が強く結びつくようになったのはいつごろのことだろうか。小説を原作として映画がつくられるという関係だけにはとどまらず、脚本家が、小説を書いたり、小説家が脚本を書いたり、小説家が映画監督をしたり、映画監督が小説を書いたりしている。実に多くの人々が言語と映像の境界を越えて、表現活動を行っている。ドメニコ・スタルノーネ(Domenico Starnone)もそんな中の一人だ。このたび発表された彼の小説『シーンをつくる』(Fare scene、Minimum Fax、2010年)は、映画と深く関わってきたその人生を自伝的に語っている。

 この小説は、第1幕、休憩、第2幕と古き良きイタリアの映画上映スタイルに見立てた3部構成となっており、第1幕は著者である主人公の幼少時代が物語の舞台だ。家で洋裁をする母親は、うるさい盛りの息子たちが仕事の邪魔にならないようにと、祖母に同伴させて映画館に行かせる。退屈がる弟たちとは対照的に、スタルノーネはそこで映画に夢中になるのだった。そして、あるとき父が買ってきた映写機、小型の撮影機を使って、映画づくりのマネごとをし、また、映像の不思議さを発見する。少年は生き生きと映画の魅力に惹きつけられていくのだった。
 そして休憩をはさんで第2部。現在大人になった主人公は、実際に映画を製作する立場の人間だ。脚本を書く彼は、監督やその他さまざまな思惑を持った仕事仲間たちと、口ゲンカ、かけひきを繰り返しながら、1本の映画をつくりだしていく。そこには、皮肉にも映画に思い焦がれていた子供のころの影はなく、製作費の捻出や、一般受けを考えて脚本を書き直すことに頭を悩ましている。それでも1本の映画が出来上がるときは、達成感を覚える。直接的な言葉ではなく、映画づくりに携わる自分の実際の行動を淡々と描くことで、現在の映画業界や制作の在り方を皮肉っているところが、実にスタルノーネらしい。
 冒頭で映画と小説の結びつき方はさまざまというふうに述べたのだが、現在は分業化がすすんでいるのだろうか、一部の例外を除いてはベストセラーの国内小説が映画化されるというパターンがほとんどだ。もちろんその中にも素晴らしい映画はあるのだが、スタルノーネ少年が映画にのめり込んだ時代のものとは、別質という気がする。そこからダイナミズムが感じられないというか、主流の中にいないというか。もちろんスタルノーネも、そこらあたりまで切り込んだ感覚で今回の小説を執筆したのだろう。
 ひとつの声帯でしか語られない言葉という存在と、ひとつのフィルムでしか語られない映画という存在は、実は非常に似ているのではないか、という意見を耳にしたことがある。映画、つまり映像を、ひとつの言語体系として捉えることは可能だと思う。だが、そうした場合、その文法はまったく違ったものになってしまう。『シーンをつくる』の中に、映画の本質を突いたこんな文章がある。

 彼(スタルノーネの父)を夢中にさせたのは、動きの再生がもたらすすべてのものだった。こどもの顔をノートの端っこに描いて私に見せてくれた初めての人が彼だった。最初は真面目な顔、それからだんだん笑顔にする。ノートを指でパラパラめくっていくと、本物の人間みたいに、顔が笑いだす。それが好きで彼はよく映画館を観に行った。曰く、映画というのは、過ぎていく時間がまさに過ぎていくところを見せてくれる。

 今まで私自身がおぼろげに考えていたことと似ていると思い、読んでいて目にとまった箇所だ。カメラで撮影された映像というのは、撮影した時点での現在を保存したものであり、それを再生するということは、現在を再生するということになる。そんな性質の映像というものをつなぎ合わせて出来上がる映画という代物は、つまり、現在の集合体であり、ゆえに映画の文法には、現在形しか存在しない。それが言葉(小説)と映像(映画)という二つの文法の根本的な違いであり、小説を映画に変換させるときに、歪みを生む原因のひとつになっているのだと思う。
 例えば、「私は昨日買ってきた牛乳を飲んだ」いう文章があるとする。ある人物が登場し牛乳を飲むという映画の1シーンで伝えられるのは、「私は牛乳を飲む」という部分だけで、従属節の「昨日買ってきた」という部分を観客に理解してもらうには、何らかの策を講じなければならない。ゆえに、単純に考えて映画という言語体系で何かを表現するほうが、ずっと制限が強いられてしまう。逆説的に、だからこそ可能になってくる表現もあるのだろうが、この問題をよく念頭に置いておかないことには、映画と小説をうまく結びつけることはできない気がする。