京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

イタリアからの手紙5:「ドキュメンタリー映画プロデューサーの苦悩」 フェデリーコ・ミネッティ

 「アカデミー賞にイタリア映画は一本もノミネートされず」という記事を二週間ほど前に読んだ。イタリアの映画業界の停滞に関する記事は、ヴェネツィア映画祭やカンヌ映画祭の時期にもよく見受けられ、そして決まって文化活動省の大臣、サンドロ・ボンディ(Sandro Bondi)が、商業的な映画にばかり製作費を提供すると批判されている。でも実際に、私が国内の新作映画を観賞してみると、個人的にはどれも結構面白くて、映画業界が停滞しているという印象をあまり受けない。今回はイタリアで映画製作に関わるフェデリーコ・ミネッティ(Federico Minetti)さんに一筆書いてもらいました。(ハムエッグ大輔)

イタリア日本往復旅行

 アリガトウゴザイマス。それが初めての日本滞在でぼくが覚えた唯一の言葉であり、人に会う度、何かのまじないのように繰り返した。それ以上の言葉を覚えなかったことを残念に思っている。日本での滞在は短かったものの、とても濃密な経験となったからだ。
 2008年10月、ドキュメンタリー映画『スタンディング・アーミー』撮影のため、ぼくは沖縄にいた。そこで過ごしたその二週間は、ぼくが覚えている中でも人生最高の日々であったと言える。実はというと、ぼくは日本へ行く予定ではなかった。幸運にもいくつかの偶然が重なって日本行きに参加することになった。とりわけ格安チケットをみつけたことが大きい。当時撮影中の『スタンディング・アーミー』は完全な自主製作ドキュメンタリーであり、その費用は本当に少なかったのだ。とは言っても、この業界の駆け出しは誰でもそうである。あふれんばかりのやる気があるのに金はない。特にイタリアでは、自国の文化が、ポンペイ遺跡のように、日々ボロボロと崩れている。その意味でポンペイは我が国が歩んでいる方向性を示しているとも言えるだろう。
 ほそぼそとプロデューサー業をしているぼくのような人間は、現在イタリアで、映画という分野が大変な状況にあることを重々に承知している。
 アイデアが足りないのではなく、資金と人々の心もちが足りないのだ。特にドキュメンタリーでは、プロダクションが一つの作品に賭けようとしても、外国からの援助に期待するしかない。イタリアでは援助の口をみつけようがないのだ。その点ではみなあきらめの境地に達しており、また海外でもイタリアが抱えるこの問題は認知されているようだ。少し前なら、外国のテレビ関係者がイタリアの作品製作に興味を持つと、必ずイタリア国内で製作費は調達できるか、イタリアの放送局と共同で取り組めるか、と尋ねられたものだった。しかし現在ではそれすらも尋ねられない。プロジェクト自体を買い取るものだと思われているのだ。
 近年他国でドキュメンタリーの分野が活発になる一方で、イタリアはまだ1980年代のままだ。後退しているようにさえも見える。国営放送Raiはドキュメンタリーにほとんど投資していない。俗に「創作ドキュメンタリー」と呼ばれるものを扱うdoc3という番組が一つあるだけで、重要ではあるものの、その枠は非常に少ない。事実、そこで放映されるドキュメンタリーは20本にも満たない。残りのドキュメンタリーの可能性はというと、日曜の昼にやるような、家族向けのバラエティー番組の一部に使われるだけで、それとて外国にはより高いクオリティーのものが存在している。
 クオリティーというものも、使用可能な製作費によって左右される。以上のことは、ドキュメンタリーとは違った種類の番組にたっぷりと投資したがる我が国が持っている問題を明確にしている。そして、テレビ視聴者もそれで満足しているように思える。ぼくは先ほどこの国を揺るがす文化的退廃について話した。現在、少しずつではあるが、状況は変わってきているのかもしれない。政治制度が、ではもちろんなく、小さな現実社会から見た場合ではあるが。現実社会では、生き延びるために、常に代替案が模索されているのだ。弱小なイタリアにおいてドキュメンタリーという分野で成功を成し遂げるためには、社会とメディアに立ち向かわなければならない。そのような賭けに挑むのは、たやすくもあるが、同時に、とても厳しく、刺激的でもある。
 ぼくが立ち上げたEffendemfilmも同じ状況にある。地域の持つ財源を見極め、巨大な競争相手に対抗できるよう、可能な限り強力なプロジェクトを打ち立てる。
 ぼくが企画を考えるときはいつも、国外で企画のテーマに引きつけることはできるかどうかを念頭にしている。そして国内・外の両方向から、どのような資金源が企画に協力してくれるかをさぐるのだ。
 いつもうまくいくわけではないし、困難な作業だ。近年ぼくがそれに成功した例として挙げられるのは、『大きな愛の小さな物語』(Breve storia di un piccolo amore)である。巨匠ティント・ブラス(Tinto Brass)にも友情出演してもらった短編映画だ。北イタリアの田舎町、小さいけれど力を持った養豚場の一家で育った二人の娘が、父親に反抗しながら自らの夢をつかもうとする物語だ。このケースでは、マントヴァ(北イタリアの地方都市)の映画協会が、私の友人でこの短編の監督を務めたマッシミリアーノ・ザニンに、期限付きで援助をしてくれた。さらにアウレリオ・グリマルディ監督作品の『愛しあったものの子供たち』(Figli di chi si amava)では両親が離婚、または別居してしまった子供たちに質問を行い、どのように自分の状況を受け止めているかに焦点を当てた。この作品では、文化活動省から助成金を受ける他、国家利益(Interesse Nazionale 同省が文化的に意義の深い映像作品に与える称号)に認められた。
 そして今現在、私が力を入れているプロジェクトが二つある。一つは『ドン・エルヴィス』(Don Elvis)という、最高に素晴らしいルーマニア人神父、アントニウ・ペトレスクについてのドキュメンタリーだ。彼はイタリアに住んで長いのだが、昼は普通の神父をしている。ミサや葬式に従事し、祝福を与え、懺悔を聴く。だが、夜になると、エルヴィス・プレスリーのものまねミュージシャン、ドン・エルヴィスに変身するのだ。彼は本物のエルヴィスの生誕地メンフィスでライブをすることを夢見ている…。この作品は2010年のローマ・フィクション・フェスティヴァルのドキュメンタリー部門で最優秀Pitch(作品紹介のための映像)に選ばれ、シンガポールのプロダクションOak3filmsから興味があるとの申し出を受けた。イタリア国内でも、その他の協力者をみつけることができるかもしれないと考えている。
 もう一つ、紹介したいのは、女流画家清原お玉についてのドキュメンタリーだ。彼女は、そのきゃしゃな体つきからは想像できない強い意志を持った女性で、1800年代の半ば、後年夫となるパレルモの彫刻家ヴィンチェンツォ・ラグーザと共にイタリアに移り住んだ。おそらく、50年以上もヨーロッパで生活した初めての日本人女性だったことだろう。彼女は当時の習慣や規範を破り、愛する男性につき従い、別世界にやってきた。すぐにイタリア、そしてシチリアを気に入り、その中に溶け込んだ。ロマンチックでありながら、大きな犠牲を共にしている素晴らしいストーリーだ。そしてここでは、イタリア・日本の両国の文化が出会い、交差し、相互にそのエッセンスを交換する。イタリアは彼女の女性としての勇気と、その作品に大きく感動させられた。ちょうど去年、パレルモのある通りにお玉の名前が捧げられてはいるものの、その知名度はまだまだ低く、それが、このプロジェクトを製作したいと思うきっかけとなった。
 このプロジェクトを実現させるために、現在私たちはシチリア、日本で資金源をさぐりながら、両国の放送メディアとコンタクトをとっている。イタリア建国と清原お玉の生誕150周年が重なる今年、このプロジェクトが実現することを心から願っている。

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