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京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝紹介グループ「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM802で行っている映画短評について綴ります。

イタリアからの手紙7:「さようならイタリア、または統一150周年の話」 ジョルジョ・マリア・カヴァリエーリ

 ぼくのちょっとしたセッティング・ミスによって再びイタリア統一150周年の話です。先々月の市長選では意外や意外、ミラノをはじめ中道左派が大きく勝利したようですね。これでまた状況が一つ変わるのでしょうか? 私たちの愛するイタリアはどうなるのでしょうか?(ハムエッグ大輔)

さようならイタリア、または統一150周年の話

 1861年3月17日、トリノイタリア王国の誕生が宣言された。そしてその日付に合わせて、今年は統一150周年が祝われることとなった。そう、イタリアとイタリア人は150歳になったのだ。しかし、一世紀半という時間は本当の意味での国家を築くには不十分だったようだ。歴史家マンリオ・グラツィアーノの「私たちは国民のいない国家にいる」という言葉が示しているように。人気テレビ・バラエティー番組『ハイエナ』(Le Iene)では、国会から出てきた下院議員を呼びとめて、イタリア統一に関する簡単な歴史問題を出すという実験が行われた。三つの独立戦争、そこで起こった戦い、その指揮官たちの名前。どれも小学校で習うようなことばかりだ。だが答えられた議員はほとんどいなかった。なんと素晴らしい150周年記念だろう!


トリノの街角。統一を祝いたなびく国旗。


 おそらく2011年までの歳月は、いかに私たちイタリア人が一つになったかというよりも、いかにバラバラになっていったかという記憶なのだと思う。イタリア語という一つの言語を共有しているのは確かだ。しかしその中には多数の異なる方言があり、そのことが互いに共通点を感じさせないものにしている。さらに北部と南部のあいだに入った深い亀裂。北は裕福で活動的、工業も盛んだが、南はマフィアの犠牲となり、貧しく、政府に助けを求めざるをえない。さらにもう一つ、ファシズムを懐古する人々と、共産主義を支持する人々という二つのカテゴリーで分類されることがあるのだが、その場合、過去の記憶を共有することはさらに難しくなる。この二つのイデオロギーは、多くの犠牲者を生み出した。そして現在も、共産主義のプロフェッサーが書いた歴史書に影響されて、首相ベルルスコーニに辞任を迫る人々が山というほどいる。彼らが行ったレジスタンス運動、第二次世界大戦時のドイツ軍イタリア侵入に対する抵抗、特に休戦後の時期のそれは、激しく痛ましい記憶であり、すべてのイタリア人が共有できる見方など、到底ありえないのだ。歴史家ジャンパオロ・パンサは、「休戦後のレジスタンス運動においては、ファシスト同様、運動参加者であるパルチザンもまた、凶悪な罪を犯した」と主張し続けている。とにかくまずは一国家の礎となるヴィジョンを築くため、私たち全員で共有できる過去と未来が必要なのだ。ところが、そんなものは持ち合わせていない。過去のヴィジョンは近すぎてよく見えないままだ。イタリアという国が若すぎるゆえに、赤と黒、つまり共産主義ファシストが犯した罪を許す心の準備がまだできていないのだ。未来のヴィジョンもまた欠いている。不安定な労働条件、非常勤労働者の増加などが、イタリアの未来をいっそう不確かなものにしている。一体どれだけの若者たちが祖父母の時代と同じように、移民となることを夢見ているだろう! 一体どれだけの親が息子を、孫を実家に住まわせているだろう! それほどまでに現在、家庭を築くことは困難なのだ!

 最後に、統一された今のイタリアの姿に難色を示す政党について記しておこう。北部同盟だ。ポー川流域を中心としたパダーニャを新国家とし、裕福な北部を、貧しく、自分たちの金を食いつぶす南から分離することを目標とする政党だ。彼らは自分たちの国旗までつくっていて、イタリア150周年を祝う気などさらさらないようだ。先述した首相ベルルスコーニが150周年について明言をさけたのは、彼が北部同盟とPdL(自由の人民ベルルスコーニが党首を務める中道右派北部同盟と協定を結んでいる)という両政党の板ばさみになっていたからだろう。PdL側には少なからずイタリア統一を讃えたがっている議員もいたのに、両政党と支持者たちを刺激しないよう、ベルルスコーニは何も口にしないという選択をとったのだ。
 しかしながらイタリアは祝福されなければならない。こんな記念日は毎日訪れるわけではないのだから。テレビ番組『ハイエナ』が、悲しくも何百万人の視聴者に見せつけたように、イタリアの歴史を本当に知っている人々が少なくなっている。しかしそんなことは、重要ではない。重要なのは自分自身の意思である。自らの過去を知ることなくして、自らの未来をつくりあげることはできないと、どうか信じてほしい。