京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

イタリアからの手紙9:「ナポリを見て死ね」 エルネスト・テデスキ

 近年、日本でも取り沙汰されるナポリの話題は決してよろしいものではありません。ゴミ処理問題に犯罪組織カモッラの活動。それでも「ナポリを見て死ね」のことわざが表すような、風光明媚な町であることには変わりないのでしょうか? 今回はナポリ近郊の生まれであるフォトグラファー、エルネスト・テデスキ(Ernesto Tedeschi)さんに記事と写真撮影を依頼し、ナポリへ赴いてもらいました。イタリア人写真家がレンズを通してみたナポリとはどのようなものでしょう。(ハムエッグ大輔)

ナポリを見て死ね

 世界のあらゆる場所と同じように、ナポリでは今日も歌を歌い、食を楽しむ。だがここではピッツァ、スパゲッティ、マンドリンが出てくるナポリの話はやめにしたい。そういった言葉では表すことのできないナポリについて書きたいと思う。
ナポリの人口は約百万。そこには、世界でも有数の人口密度をほこる大都市が形成されている。そしてこの町では強大なウソと深遠な真実がいともたやすく芽生えるのだ。まるでヴェスヴィオ山の斜面に広がる豊かな植物群のように。
 1861年までは両シチリア王国の首都であり、今をもって、現代社会と相容れない関係を持っている。この町は一体なんなのか? 皆自分にそう問うが、誰一人として的確に答えることはできない。犯罪活動の中心であり、同時に人類の宝箱でもある。この町が不思議な財産を有しているのは確かだ。そのおかげもあって、町はあらゆる不運から奇跡的に救われてきた。
 まず物質的な財として挙げられるのがサン・ジェンナーロだ。町の伝説的守護聖人で、絵画、彫刻、織物や宝石などのモチーフとして広く扱われている。推定によると、サン・ジェンナーロに寄贈され、現在も専用の美術館に収められている宝物の価値は、イングランド女王やロシア皇帝のそれをしのいでいるらしい。今まで人の手に渡ったことはなく、映画『サン・ジェンナーロ作戦』(Operazione San Gennaro, 1966)の中で一度だけ強奪が試みられたくらいのものだ。手に取り触れられる財産というわけではないのである。
 作家ジュゼッペ・マロッタ(Giuseppe Marotta)は、ナポリの真の魅力を文学世界に移すという試みを行った。短編『ナポリの黄金』(L’oro di Napoli, 1947)*1では、主人公のドン・イニャツィオ・ズィヴィエッロはあらゆる苦悩に耐えながら生活している。第一に、彼は外面的にとてつもなく醜いのだ。そして不運なことがたびたび起こるのだが、男はいつでも底なしのエネルギーで立ち直る。ズィヴィエッロの忍耐力とは、ナポリ人の精神の象徴である。知性と伝統的ヒロイズムの観念があればこそ、耐え忍ぶことも可能なのだ。つまり著者は、それこそが真の財産、「ナポリの黄金」だと言いたいのだ。
 会話や洒落たセリフのやりとりは、ナポリに生きる人々にとって欠かせない。ここにいると、名もなき通行人がいつでも冒険の主人公になりかねない印象を受ける。ナポリ人は詮索して、その人の心中や過去までも読み取ろうとする。それはなにもサイフや時計をくすねるためだけではない。自分が話しやすくなるような新しい題材を探し求めているのだ。ナポリ人の楽しみとは、言葉で現実世界と張り合おうとすること。言語的魅力はそれを理解する者にしか味わうことができない。それは残念なことだが、大した痛手でもない。町は視覚的な楽しみにも満ちあふれているのだ。

 古代ギリシャの円形劇場を思い起こさせる地理構造。ほぼ完全な半円になった湾を見下ろす高みに、町が広がっている。それは人生劇場が体感できる超巨大観覧席といったところだ。たまには、ヴォメーロや、ポズィリッポの丘に上ってみるのも悪くないだろう。邸宅が立ち並ぶその場所からは、絵葉書のような眺めと古びた鉄筋コンクリート群を目にすることができる。バニョーリの入江にある、製鉄会社イタルシダーの古い工場だ。
 いちばんの高台にあるのは、カポディモンテ美術館だ。もともとは王族の持ち家で、十八世紀、ブルボン朝のカルロ帝によって建設された王宮だ。その中に現在展示されているのは、ティツィアーノ、ホセ・デ・リベーラなどの絵画と、唯一無二の陶器コレクション。面白いことに、最上階にいる監視員は椅子を窓のほうに向けている。クネリスの現代美術よりも、景色に見とれているほうがお好みのようだ。
 海岸沿いには外国人向けのホテルが立ち並び、団体旅行客用のバスや、ヴァカンスにやってきたアメリカ人の女の子たちがそこかしこで見られる。それを目当てに、白髪の混じった中年プレイボーイもやってくる。彼らは湾の向こうの白みがかったカプリ島を指さしながら、ナンパに精を出している。
 カラッチョロ通りやサンタ・ルチーア地区は、ナポリの写真家たちが結婚用写真撮影の腕を磨く場所だ。花嫁が白いリムジンから降りる。その服と化粧は、よくあるキッチュさを通り越している。それを囲む招待客たちも、偉そうに彼らの悪趣味を見せびらかしている。避けようがなく、耐えようもないサーカスの見世物。自己顕示欲がもはやどんな恥をも凌駕している。ナポリ人たちは完全に個人的な、笑いさえも生み出すほどに行きすぎたやり方で、演劇社会を体現しているようだ。

 浜辺ではご婦人方が、喜んで僕のカメラの前でポーズをとってくれる。ここにいると自分の家にいるような気分になる。女性はふくよかで、挑発的かつ好意的。子供のような顔をしているのに、もう結婚しているなんてこともある。ナポリでは結婚年齢がまだまだ早いのである。
 サンタ・ルチーア地区には、有名な要塞「卵城」につづく橋があり、連日写真家とそのアシスタントがライト、フラッシュ、反射鏡で遊んでいる。結婚式のカップルがさまざまなポーズをとらされている。
 橋の先では、若者たちの一団が泥だらけの海にぐちゃぐちゃの姿勢で飛び込んではしゃいでいる。そこは漁師たちの小さな港のはず。彼らは下町パッロネットから来たらしい。パッロネットとは、エキア山の斜面にもたれかかるように並ぶ小さな家々のことだ。言い伝えによると、現代ヨーロッパの小説のひな型、ペトロニウスのサテュリコンの舞台となった場所だ。この悪ガキたちは、サティリコンをにぎわすさまざまな登場人物の子孫なのかもしれない。今撮っている写真を日本に送ると言ったとたん、スタジアムにいるような歓声を上げて、見事なダイビングを見せてくれた。そして大喜びで笑うのだった。写真を撮り終えたぼくがその場を立ち去ろうとしていると、歌まで捧げてくれた。彼らの中では、ぼくが“写真家エルネスト”に早変わりしたのだ。

 実際のところは、ナポリでは犯罪や暴力などの汚い側面も待っている。それは、突然手をつかんで、大都市で生活するわがままな憂鬱を吹き飛ばすような熱情でもある。何年かすれば、さっきの若者たちの内の一人が、マリーナ通りの小道でぼくの鼻先にピストルをつきつけてくるかもしれない。携帯電話と二十ユーロほどの現金を盗んで、不条理な貧富の差を少しでも解消したのだと思い、満足気に逃げていくかもしれない。根本的には何も変わるはずないのに。
 ナポリはぼくにとって世界へと続く扉だ。ぼくの時代の最初にして最後の町。加速する時間の過程を示してくれると同時に、人類の普遍性も教えてくれる。
 カラブリット通り、マルティーリ通りからミッレ通りといった中心地の上品な街角では、店員が青の壁紙と舟の模型を使って美しいショウ・ウィンドウをかざりつけている。困惑しながら、写真を撮ってはいけないと言えないままでいる。

 そこから目抜き通りまでは目と鼻の先の距離だ。はてしなく広がる下町、旧市街のトリブナーリ通りやスパッカナーポリ。ファストフード店のハンバーガーのように、歴史がはさまれた青空博物館といったところ。もちろん質はハンバーガーよりもはるかに素晴らしい。そこで出会う顔は、十八世紀のプレゼーピオ、イエスの生誕を立体的に表したミニチュアの像のように見える。
 ピオ・モンテ・デッラ・ミゼリコールディア教会に入ると、カラヴァッジョの作品の中でももっとも激しい『慈悲の七つの行い』(Sette opere di Misericordia, 1607)を堪能することができる。
 サニタ地区にも足をのばしてみよう。そこはカモッラと呼ばれるナポリ版のマフィアがうごめく危険な地区だが、非常に魅力的なモニュメントも有している。それがフォンタネッラの地下墓地だ。

 ナポリフィレンツェ、ローマ、ヴェネツィアにあるようなテーマパークとは違う。生命あるこの町の振動には、知性と注意を持って立ち向かわなければならない。ナポリの散策から帰ってきた人の感想は、二つのうちのどちらかに分かれる。汗でびっしょりになって晴れやかな気分になるか、スリに遭うくらいなら家にいたほうがよかったと後悔するかだ。

 エルネスト・テデスキ

*1:この作品は1954年にヴィットリオ・デ・シーカ(Vittorio De Sica)によって映画化もされている。主演はトト(Totò)とソフィア・ローレンSophia Loren)。