京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

映画作家想田和弘さんインタビューその3 @十三第七藝術劇場(2011年7月30日)

 『選挙』『精神』に続いて、観察映画第三弾となる最新作『Peace』(公式サイトはコチラ)が公開中の映画作家想田和弘さん。前回前々回に引き続き、想田さんのロングインタビューをお届けします。今回は「観察映画はアンチ数字だ!」ということについて語っていただいています。

観察映画はアンチ数字だ!

野村:「観察映画」というコンセプトでいうと、今まで『選挙』、『精神』、『Peace』があります。
どれもフォーカスが大きなところというよりは、個人、あるいはひとつのコミュニティーなどを描いていますよね。それこそ、『選挙』は象徴的だと思うんですけど、あれは市議選の補欠選挙ですからね。川崎全体のことはもちろん描いていないわけです。
観察映画というコンセプトの中では、そういう描き方しかできないと考えてらっしゃいます? それとも、観察した結果として、そういう小さなところに目が向いたのでしょうか?
想田:まず、小さいものの方が観察しやすいんですよ。観察する範囲が小さければ小さいほど、深く観察できるので、山さんの選挙なんてのは、本当にうってつけだったんです。小さな範囲内でいろんなことが起きるし、それがしかも短い時間に凝縮されていましたから。大きいものを観察することが不可能だとは思いませんが、そのためには相当な時間と体力とお金が必要だと思います。
これは僕の世界観とも関係すると思うんですけど、「神は細部に宿る」というか、「世界は入れ子構造になっている」というイメージがありまして。人間のことを知りたかったら、100万人をざっと調べるよりも、一人をじっくり観るほうがかえってよく分かるのではないか、っていう発想があるのね。
野村:統計はしばしば人為的に操作されますよね。我々の多くは数字に弱かったりしますし。ついつい客観的なものだと信じ込まされがちです。だから統計とはまったく逆の発想ですよね。
想田:そうです。おっしゃる通り。「観察映画=アンチ数字」なんです。
数字・統計によって世界を把握しようとするのが、我々が生きている社会の主流の価値観だと思います。たとえば「日本ってどんな国?」と聞かれると、「人口が1億2000万人 で…」とかなんとか言いますけど、あれってわかったようでわからないでしょ。1億2000万人ってどんな数なのか(笑)。
野村:一度に見たことないですもんね!
想田:見たことないです。それはフィクションなんです。それこそ、コンセプト、観念なんです。コンセプトではなく、もっと実際の目の前のものを見ることによって何かを学ぼうという姿勢が観察映画なんです。数字はコンセプトだから観察できないんですよ!観察できるのは目の前の現実だけなんです。だから、そういう意味で「観察映画」は、個別性というか、その人とか、その猫とか、この木とか…、目の前にあるものしかよく見ない、よく見えないっていう、そういう姿勢です。
公開中の『Peace』 なんかでも、「平和と共存」というテーマを課題として与えられた時点では、コンセプトじゃないですか。だから、その時点では「撮れない」と思ったんですね。だけど、猫同士の摩擦を偶然目撃して、そこから撮影が始まる。そういう具体的な事象だったら撮れるんですね。
野村:そうですよね。まさにそういう細部から、あの庭の細部から色々なものが見えてくるんですよね。
想田:はい、そうです。アンチ数字主義、アンチコンセプトなんです。
野村:僕なんかはきわめて誠実な撮り方だなと感じています。
普通はどっかで最後に落としどころを作るじゃないですか。たとえば『精神』の場合だったら、まとめとして、NHK的に「こういう施設が日本全国にいくつあって…」という風に落とすのが、わかりやすい作りだと思いますけど、監督はそういうことされない。
観察映画としては、安易にそこで数字を見せたりしないっていうあたりなんてのも、誠実だなと思っちゃいます。
なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか (講談社現代新書)
ところで、先ほど監督は「グレーな現実の中を泳ぐ」とおっしゃっていましたが、我々もスクリーンを凝視しながら泳いでるんだと思うんですね。監督のちょっと後ろの方でというか。その際に、予備知識ゼロでご覧になった方もいらっしゃいましたが、理想的な鑑賞の仕方についてはどう思われます? 予備知識があってもいいんでしょうか? 下手をすると、観察の妨げにならないのでしょうか?
明日、僕の担当するラジオ番組で話すにあたって、非常に紹介が難しい作品だなと思っていたんですよ、実は。
想田:予備知識がないにこしたことはないです。ただ、予備知識になるような情報を与えずに作品をラジオで紹介するのは難しいですよね(笑)。
野村:観察映画というコンセプトとか、これまでの監督の経緯とか、公開情報なんかは伝えるべきなんですけど(笑)
いや、というのも、たまたま今日FM802の別番組のディレクターがお昼に観に来ていたようなんです。彼はロビーの新聞切り抜きなど目もくれずに、『Peace』を観たんですって。そのうえで予備知識なしで観るのをおススメなんてツイートをしていたもんですから。
今ってネットなんかで作品の情報が溢れかえってますから、気になる作品は公開前から結構芋づる式にそういう情報に接してしまうことがあるんですよ。
想田:僕もそうです(笑)。
野村:「こう観察してみては?」なんて情報に触れるのはあんまりなのかなと思ったりもするんですけど。
想田:そうですね。確かに理想的にはない方がいいですよ。
野村:たとえばひとつの解釈に引っ張られて、最初からあの泥棒猫を北朝鮮に見立ててしまっていたら… あいつはいつ出てくるんだみたいな、変な観察の仕方になりますもんね(笑)。
想田:映画の観方については、「人にもよるかな」と思っています。ある程度ドキュメンタリーや映画を見慣れている人については、予備知識なしで観てもらう方が圧倒的に良いと思います。
でも、たとえば普段はあまり映画を観ない人、バラエティ番組しか見ない人にとっては、もし予備知識が全然なしだったりすると、「なにこれ、言いたいことがわかんない!」ってことになりますよね…。
僕は、「自分の映画には言いたいことはない、メッセージはない」と常々言っているわけですけど、その前提に辿り着く前に拒絶されてしまうかもしれない。だからそういう人にとっては、ある程度、補助線みたいなものがあった方が入って行きやすいのかなぁと思います。
野村:補助線ですか! 難問を前にして身動きとれなくなることもありますので、ピュッと一本補助線があると、急に見え方が変わってくるというのは、確かに学生時分に誰しも経験がありますからね。とてもわかりやすいたとえですね、これは。それでは明日の番組内では、作品そのものの詳細については補助線程度にお話することにしますね(笑)。
今日はどうも、長時間にわたってありがとうございました。
★★★
3回にわたってお届けした想田和弘監督へのインタビューは今回でで最終回となりましたが、お楽しみいただけたでしょうか。
ぜひ『Peace』を「観察」しに行ってみてくださいね。
『Peace』上映館について