京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

イタリアからの手紙10:「無害化された日本の反原発デモ」 ファビオ・ヴィオラ 

 今年の3月11日以降、イタリアのメディアでも日本のニュースが連日のように取り上げられました。震災もさることながら、福島の事故は原発廃止問題で揺れていたイタリアにとって、大きな注目の的となりました。イタリア人の考え方や論説には、中傷にあたるようなものも見られ、個人的には憤慨することも多々あったのですが、今回はあくまで中立の気持ちで、イタリア人の一意見を紹介したいと思います。日本で生活した経験があり、現在も一時的に大阪に滞在中の作家ファビオ・ヴィオラさんに、日本で目にした反原発デモについて書いていただきました。(ハムエッグ大輔)

無害化された日本の反原発デモ

 11月20日、大阪で行われた反原発デモもまた、成功を収めたと言っていいだろう。日本政府と警察当局にとって、という意味では。百人ちょっとの参加者が、御堂筋を通って、靭公園から、ほぼ無人のなにわ公園へと抜けていく。参加者はスローガンを叫び、プラカードをかかげ、福島原発近郊の放射性物質をふくむ瓦礫を大阪が受け入ることに反対している。彼らは道路を流れ去って行った。当局がその日のぞんでいた雨のように。いっぽう現実はよく晴れた冬の日だった。空は青く輝き、冷たくもかがやかしい太陽が照りつけていた。その日そこにいたのは、デモ参加者だけではない。デモに参加した人数をはるかにしのぐ数の人々が通りを歩き、ショッピングに精を出していた。
デモが(警察にとって)大成功だったのは、それを構成していた人々があまりにも、礼儀正しく従順で、かつ上品だったからだ。日本での慣例どおり、山ほどの数の機動隊員が、デモのまわりを包囲しながら動き、通行人の邪魔にならないようにどこを行進すればいいか誘導した。赤信号のたびに立ち止まる少人数のデモ行進とは、面白い。滑稽ではないか。
 また、デモは日本の報道メディアにとっての成功でもあった。原発について特に何の意見ももたない人々(つまり日本人の大部分)や、来年1月から100万トンの放射性廃棄物と瓦礫が岩手県から大阪に持ち込まれるだろうことを何とも思わない人々にとっての成功でもあった。それらは燃やされ灰にされ、建築現場で再利用される。メディアにとっての成功だったというのは、デモをテレビカメラに映さずにすんだため、放射性廃棄物の請負に関わる大企業の広告主が損害を被らずにすみ、国民の大部分にも本件を知らせないままにできたからである。

 もう一つ、デモが政府にとっての成功だったのは、日本の伝統と言える、異論を唱える際の無害ぶりを、今回も保つことができたからだ。前世期の学生運動では、国内外の政治に強く反発する抗議行動に対し、世界の各国と同じく、機動隊が激しい暴力で応じていた。それ以来、日本では本当の意味での抗議行動は存在していない。自らの苛立ちを伝えたいと思うよりも、誰かの邪魔になることを恐れる市民が小さなグループになってゆっくりと歩を進めるのがやっとのところだ。要するに今回のデモは、ここ数十年の傾向に沿うものだった。準備が足りず、操作を余儀なくされ、現実的な効果を生み出すには参加者の数があまりにも少なすぎるものだった。

 だが、私の気付いたところでは、もっとも顕著な、そして同時にもっとも証明しづらいデモの成功とは、参加者たちに向けられた(向けられえた)ものだった。前述で指摘した敬虔な市民にとって、非常に好ましいデモだったからだ。紙メディア、地方テレビ局から無視され、孤立させられる。彼らの訴えを取り巻く雰囲気はあまりにも軽く、清浄化されている。そのスローガンは誠実だが、紋切型で、漠然としたものばかり。警察側がデモに対して絶対的権力を行使しているようにさえも思える。参加者の一人ひとりが50センチ右を歩くべきか、左を歩くべきかまでも監視しているようだ。偶然通りかかった人なら、上層階級のパーティーのような印象を受けるのではないだろうか。自分の町で100万トンの瓦礫が焼却される事態を、さほど恐ろしいこと、重要なことではないように位置づけてしまっている。それについて意見をもつ価値がないかのようだ。そう、これが問題なのだ。価値は本当にあるのか?

 答えはもちろん「イエス」だ。自分の信じるものごとを唱え続けることには価値がある。だが、より現実に衝撃を与える形で行われることが望ましい。日本の場合、そのためにまず、元来の情報ソースに抗って行動しなければならないだろう。今までの情報ソースを非合法化し、笑い物にする。インターネット上の情報に反する、IWJ(インディペンデント・ウェb・ジャーナル)チャンネルのような、メディア(広告をもたず、政治やマフィアに隷属しないもの)の存在を、より際立たせる必要がある。大切なのは、自分が行う示威的行動を正しいと思えるだけの、鮮烈なメッセージを届けることだ。抗議の本当の意味、何かを変えようという衝動を忘れ、町の中心地を散歩するデモ行進にすり替えるような失敗は、決してあってはならない。11月20日の大阪でのデモのように、テクノやアンビエント・ミュージックまでも奏でるDJを従えていては、あまりにも、本当にあまりにも悠長すぎる。

ファビオ・ヴィオラ