京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『君の名は。』短評

FM802 Ciao! MUSICA 2016年9月16日放送分
『君の名は。』短評のDJ's カット版です。

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東京に暮らす男子高校生「瀧」と、岐阜県飛騨の奥地にある小さな村に暮らす女子高校生「三葉」。このふたりの内面と身体が入れ替わる現象が度々起こり、戸惑いながらも少しずつ順応し、その運命的な交錯から互いに惹かれ合っていくのだが、ある日、なぜかその入れ替わりが…
 
主人公、瀧と三葉の声をそれぞれ神木隆之介上白石萌音が演じています。脚本、監督、編集は新海誠。プロデュースは、超売れっ子、川村元気という座組となっています。

劇場アニメーション『言の葉の庭』 DVD

新海誠作品は、3年前にこのコーナーで『言の葉の庭』を扱ったんですが、当時の自分のメモを振り返ると、「主人公の古典教師ユキノ先生の心理がもうひとつ伝わってこない」なんて書いてましたね。作画能力の高い技術力を認めながらも、物語そのものにはわりと辛口でした。
 
それが今週火曜日昼間にも関わらず、MOVIX京都もしっかりお客さんが入っていた回を観て、さすがは社会現象化しているだけのことはあると実感した今作『君の名は。』を僕がどう評価したのか。ネタバレにできるだけ気をつけながら、3分間で短評してみます。
 
☆☆☆
 
先週の『イレブン・ミニッツ』でも言いました。「映画はそもそも時間や空間を好き勝手に伸び縮みさせたり瞬間移動させたりするのにもってこいの表現メディアだ」と。『君の名は。』も、まさにそんな映画の醍醐味を感じる作品でした。
 
そもそも、新海作品は、相容れない「2つの世界」が何かの拍子に交わる設定が多いと言われています。今作はその集大成かもしれない。都会と田舎、男と女、さらには生と死、現在と過去。それを隔てるのは、扉や窓。あちこちにこのモチーフが出てきましたね。ある時は手前と奥、ある時は右と左の平面で、それぞれ瀧と三葉を隔て、物語自体をも区切る役割を担っていて、とても効果的でした。一方、交わり、この作品では「結び」という言葉が使われていましたが、そのモチーフが、昼でも夜でもない「たそがれ」という時間帯。新海印とも言える(と思う)水・お酒・涙、そして見事なまでに美しいハイパーリアリズム的な光のグラデーション。そして、最も重要なのが三葉の村に伝わる組紐。運命の恋を象徴する赤い糸も出て来ました。三葉のおばあさんのこんな言葉がありましたね。「より集まって形を作り、捻れて絡まって、時には戻って、途切れ、またつながり。それが組紐。それが時間。それが、ムスビ」。僕が補足すると、「それが映画」となります。
 
とても分析しがいのある、何度も言ってるように、映画ならではの表現に満ち溢れた素晴らしい設定なんです。が! 僕に言わせると、その設定、シチュエーション、それを形作る絵は絶対的に魅力を放っているのに対して、具体的な脚本にはかなり無理があるし、気づいてしまうと急に白けてしまうような穴も空いているのは間違いないです。ここでは触れている時間はないですが、「よくよく考えるとおかしくない?」っていう矛盾があります。
 
特に後ろから1/3くらいは、あるとてつもなく大きなミッションが発動されるんですが、正直なところ、少々トゥーマッチというか性急でめまぐるしい描写が連続して、物語的な疑問を抱いてしまった僕は、そのジェットコースターから振り落とされました。
 
さらに言えば、僕はあのミッションの結果にも、これは映画というフィクションのあり方として、倫理的に納得がいかない。『シン・ゴジラ』と同様、ポスト3.11的な展開があるんだけど、物語上の疑問だけではなく、語弊を恐れずに言えば、この映画ではゴジラから逃げているようにすら思えるんです。それはダメだろうと。受け止めてどう対処するかが問題であって、無かったことにはできないだろうと。

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はい、ネタバレから逃げ続けた結果、観てない人にはよく分からない話になってるかもしれませんが、僕はやっぱり今回も、新海誠監督、技術と作家性をまだ活かしきれていない、逆に言えば、今後とんでもなく化ける、それこそゴジラ的進化を遂げるんではないかと思う結果となりました。
 
☆☆☆
 
以上、絶賛の声ばかりが目に耳に入る中、針のむしろに座る気持ちで短評しました。
 
Radwimpsの話をしなかったですね。今作では、これまで以上に物語(そのものというよりリズム)のエンジンとして音楽が機能していると思いましたが、歌詞のあるものが4曲というのは、ちょっと多すぎるかなと思いました。野田洋次郎が書く歌詞には力があり過ぎるので。
 
小説版にも目を通したんですが、正直なところ、文字表現ではこの設定は表現しきれないなと思ったりしました。映画だと感覚的にダイナミックに入れ替わる2つの世界が、小説版だと、俺と私といった人称の変化や、改行の仕方の工夫など、あくまで実験的な試みにとどまっていて、映画ほどシチュエーションを活かしきれていないなという印象です。
 
根本的なことをひとつ。僕は人が恋に落ちることに理由なんてないと思うし、そこに運命的なものを感じるのはいいんだけど、この物語の構造上、三葉は巫女の家系だから超自然的なことが起こるのはいいとして、相手が瀧である理由がどうしても掴めないんです。すると、ラストのあの展開にどうしても白けてしまいました。


さ〜て、次回、9月23日(金)に扱うのは、『スーサイド・スクワッドになりました。泣かない自信あるぞ(笑) ちなみに、FM802のDJ樋口大喜くんが、「マーゴット・ロビーのは好きなおっぱい殿堂入り!」とSNSで発言していましたが、その意味では『君の名は。』に続くおっぱい映画ということになりますね(たぶん違うし、そもそも映画のくくり方がおかしい)。鑑賞したら、#ciao802を付けてのTweetをよろしく!