京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『ラ・ラ・ランド』短評

FM802 Ciao! MUSICA 2017年3月10日放送分
『ラ・ラ・ランド』短評のDJ's カット版です。
本当は3月3日の放送で扱う予定だったこの作品ですが、僕野村雅夫のインフルエンザ罹患による病欠のため、今週に持ち越しとなったこと、改めてご報告しておきます。

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夢をかなえたい人があちこちから集まる街、ロサンゼルス。映画スタジオのカフェで働く、エマ・ストーン演じるミアは女優を目指しているんだけれど、オーディションには毎度落ちてばかり。片やライアン・ゴズリング演じるセブは、いつか自分の店を持ちたいと夢見るジャズ・ピアニスト。ふたりは何度かの偶然の出会いを通して恋に落ち、互いの夢を応援するのだが…
 
監督は『セッション』のデイミアン・チャゼル。まだ32歳。これが長編2本目。史上最多の14ノミネートとなったアカデミー賞では、1931年以来の最年少となる監督賞、主演女優賞、主題歌賞、作曲賞、撮影賞、そして美術賞と、もちろん最多の6部門を獲得しました。
 
この作品については大絶賛と、それに対抗する強烈な批判が乱れ飛んでいる状況で、正直なところ批評は難しいというかやりにくいんですが、僕も僕なりにささやかですが喋ってみます。世の中に流れている、特に文字情報で出ている意見に比べれば、スパイス程度にしか話せませんが、やってみるか。
 
それでは、映画短評という名の3分間のクリティカル・トリップ、今週はラ・ラ・ランドへいざ入場。

この映画の主人公は、自分の夢を叶えることを人生における最上位課題とする「愛すべき愚か者たち」です。ハリウッドで大女優になりたいミアの夢。自分ならではの個性あるジャズの店を開きたいセブの夢。そして、もうひとつ、チャゼル監督自身の映画を撮る夢。さらに、僕はそこに、映画というシステムが持つ夢のような機能そのものも強く意識して作られていると思うんです。これ、鼻につくとか不正確だとか揚げ足も取られているおびただしいオマージュ(目配せ)のことを言ってるんじゃなくて、映画そのものが「夢を見せてくれる装置」だってことを活かした作りになってるんじゃないかと。
 
2箇所に絞って例を挙げます。ひとつは、ミアがセブの弾くピアノの音色に誘われてクラブに入り、ふたりがあの高速道路以来の偶然の再会をするところ。僕が予告を観すぎていたせいもあるだろうけど、しっかり予想を裏切ってきますよね。「ええ!?」っていう。あそこは言わば、まさに夢のような、映画のような恋の展開と、「そう甘くないで」っていう現実の双方を意識させられるわけですよ。ははぁ、このテイストなんだ、面白くなってきたで〜。僕は手ぐすね引きましたけど、それは置いといて…
 
もうひとつは、あのエンディングです。ミアとセブの再会。セブの奏でるピアノの音色に耳を澄ませながら、ミアは「ありえたかもしれない過去を思い出す」わけです。そこで何と、今言ったシーンが別の形で再現される。記憶と過去が書き換えられる。かつて思い描いた夢の中。もうひとつの人生を束の間、彼女は生きる。そして、現実に戻ってくる。何かを悟ったようにうなずくセブ。それを見るミア。純映画的、映画ならではの表現で、これは僕ら観客が映画に求めていることでもあり、ミアの想像は映画体験そのものでもあるという、まあビタースイートな名場面です。
 
この2箇所に共通しているのは、その導入がセブのピアノであること。FM802リスナーであればわかると思いますが、ふと聴こえてきた音楽が夢の入口になったり、その夢を魅力あるものにもしてくれることがある。ミュージカルだから当然と言えば当然ではあるけれど、ふたりの人生の転機に音楽を伴わせていること、そしてそこに「映画」というものの本質的な喜びを伴わせていること、この2点を見事にやってのけただけで、僕はもうスタンディングオベーションでした。
 
確かにラブ・ストーリーとして新鮮味には欠けるかもしれない。ふたりが抱える葛藤やフラストレーションが十全には伝わってこないかもしれない。でも、一度でも今の自分ではない何かになりたいと思ったことのある人ならば、たとえばミアが大事なオーディションで披露したあの”The Fools Who Dream”という「夢見る愚か者たち」の賛歌を聴いて涙しないわけにはいかないでしょう。
 
”You’re a baby”と言われていたミアが、なりふり構わず全力で自分の夢に向かう姿と、その後、大胆な省略を挟んで繰り広げられる先ほど僕が褒めたシーンがつながっていくあたり。チャゼル監督は歌も踊りも吹き替えを使わずにあえて完璧でないままに残したのは、ふたりが何者かになりたくて不完全ながらも最終的に突き進んでいったことを文字通り体現させるためではないか。
 
今年は実はジャズ・レコードの歴史が始まって100周年です。映画に音が付いて90周年。最初のトーキーは『ジャズ・シンガー』という作品だと言われています。『ラ・ラ・ランド』は純ミュージカルではない。サントラのジャンルもつぎはぎですよ。意地悪に見ればごちゃ混ぜ。でも、はっきり言えるのは、純映画的な喜びに満ちた、しかも2010年代だからこその、音楽恋愛劇をチャゼルは完全オリジナルで作りきって人々をこれだけ高揚させ、それがアカデミー賞での多数の評価へと結びついた。
 
映画と音楽のファンとして、僕はこの映画作品を通し、今一度「映画という夢」を見ることができたすばらしい体験でした。
↑ 生放送ではここまで。


絶賛の声が多いオープニングのダンスシーン。もう褒めなくていいか、とも思ったんですが、一応(笑)

ウィークエンド [DVD]

ポイントはカーステレオ。ジャン=リュック・ゴダールの『ウィークエンド』という映画を彷彿とさせる、渋滞中の高速道路のカメラ横移動から始まるんだけど、車の1台1台に個性があって、人種も様々で、カーステレオから鳴るラジオや音楽もそれぞれ。これって、『ラ・ラ・ランド』の住人はこんな風に十人十色でみんな自分たちの夢を見てるんだってことの表れだと僕は理解しました。この映画ではたまたまセブとミアにフォーカスするけど、みんなそれぞれのビートでステップを踏んでいるんだと。「そう、こんな風に」という、ラジオDJがやる映画全体のイントロ紹介的な役割と果たしているのではないかと。で、あの継ぎ目なくワンカットに「見える」、実に面倒な撮影を敢行した。もうつかみとして申し分ないですよ。あの狭い車の間や車の上、そして中と、役者たちは文字通り縦横無尽に動き回るし、フィルムで撮影したカメラもしっかり踊ってる。

これは余談ですが、今作のエンディング、僕が純映画的だと指摘したあのシーンを観ながら思い出したのは、グザヴィエ・ドランの『マミー』でした。あちらでも、「こうあってくれれば」っていう登場人物の願望が挟まれていましたね。

 

『ラ・ラ・ランド』に話を戻して、賛否が分かれるのはある程度仕方ないにしても、観るたびに発見のある、間口の広い豊かなテクストであることに異論はないのではないでしょうか。たくさんの映画を鑑賞し直したり、「新しく発見」したくなる仕掛けが随所にあります。音楽については僕にも言いたいことがないわけではないのですが、映画については十分「愛情のある」作品。こういうビッグタイトルを「踏み絵」にするような態度を取る好戦的な映画評論には、僕はどうにも馴染めない。そもそも、「踏み絵」なんて言葉を軽々しく持ち出す人は、『沈黙』を思い出してくれと。僕はそう思います。


さ〜て、次回、3月17日(金)の109シネマズ FRIDAY NEW CINEMA CLUBで扱う映画 aka「映画の女神様から授かったお告げ」は、『モアナと伝説の海』です。ゴズリング祭を終えて海へと漕ぎ出します。あなたも観たら #ciao802を付けてのTweetをよろしく!