京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝紹介グループ「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM802で行っている映画短評について綴ります。

欧米で社会現象化の小説『リラとわたし』クロスレビュー

 翻訳家集団でもある京都ドーナッツクラブのメンバーは、定期的に開く会議の場で、イタリア文学の最新事情について情報交換をすることがある。そこで何度か話題にのぼっていた作家が、エレナ・フェッランテだ。

 イタリアとアメリカでそれぞれ100万部以上を売り上げ、世界40カ国以上での出版が決定した『リラとわたし』。「ナポリの物語1」という副題が付いているが、全4部にわたる大作。ドラマシリーズ化もされるという。各種雑誌やブックレビューはもちろん、ヒラリー・クリントンや俳優のジェームズ・フランコが絶賛し、もはや社会現象化しているにも関わらず、実はフェッランテは公衆の面前に姿を現すことはなく、女性の名前ではあるが、その性別すら明かされていない正体不明の作家なのだ。サリンジャーじゃないんだから! 

 名実ともにイタリアを代表する(謎の)作家となったフェッランテの代表作が、いよいよ日本にもやって来た。原文に真摯でありながら読みやすい訳で僕も(嫉妬混じりに)リスペクトする飯田亮介氏のフィルターを通って。

 この『リラとわたし』出版を記念して、京都ドーナッツクラブでは、ふたりの30代女性メンバーがそれぞれ異なる切り口でレビューを書いた。この作品が、多くの人の現代イタリア文学への入口となりますようにと願いを込めつつ。

 野村雅夫akaポンデ雅夫

リラとわたし (ナポリの物語(1))

リラとわたし (ナポリの物語(1))

 

*「ココナッツくにこ」の場合* 

 60代の作家エレナはある日、長年の親友リラが失踪したことを知る。エレナは直感で事件がリラの意図的な仕業であると確信する。そして過去の記憶を辿りながら、エレナは親友との物語を静かに語り始める… 本書は1950年代のイタリア・ナポリを舞台に、対照的な二人の少女の成長を描いた作品。本好きで勤勉なエレナと頭脳明晰な反逆児リラ。強い絆で結ばれた二人は助け合いながらも、唯一無二のライバルとして生涯の友情を育んでゆく。

 著者のエレナ・フェッランテは1943年、イタリア・ナポリ生まれの作家で、デビュー作は1992年の“L'amore molesto”(「愛に戸惑って」)。2011年に発表した『リラとわたし』をはじめとするナポリ四部作が世界的ベストセラーになり、現在40カ国以上での刊行が決定している。2016年にはタイム誌により「世界で最も影響力のある100人」に選出された。本書は初の日本語によるシリーズ一作目。著者はデビュー以来、性別すら明かさない覆面作家として名高い。

 物語はリラの失踪後、二人の幼年期から思春期までが描かれている。日々の生活を心豊かにしてくれる女友達の存在に心癒される二人。だがそんな仲のいい友人同士でも嫉妬心や競争心といった複雑な心情を伴うのが常である。そんな人間の性を著者は赤裸々に描き出す。同時に母娘の確執にも触れ、母に怯える娘の心情をまるで実体験のように綴る。こうして親友を“羨望の的”に、母親を“恐怖の対象”として対極化させることで、多感な思春期の心情を実に上手く描いている。他にも“優越感への欲”や、“格付け”といった無意識うちに行われる行為についても人間の本質を突いており、著者の鋭い洞察力がうかがえる。

 こうした負の感情を互いに持ちつつも、エレナとリラの友情は壊れるどころか日増しに強くなってゆく。二人の間には常に絶対的な信頼と愛情が存在するのであった。この二つが二人の生命力といっていい程の強さを放つ。「孤独」という言葉をよく耳にする現代の希薄な人間関係とは全くもって正反対である。現代人が忘れかけている人との真の絆というものを、本書は私達に教えてくれる。人によっては過去の友情を思い出す人もいるだろう。

 そんな健気な二人の友情を際立たせているのが当時の時代背景である。日常的な暴力と貧困にあえぐ1950年代のナポリは男性優位の社会。女性の地位は低く、生活基盤は地元住民との密接な繋がりが必要不可欠であった。商売ともなれば地元有力者との関わりは避けて通れず、これが後のリラの結婚に影響を及ぼすことになる。結婚式という地域の一大イベントの裏でうごめくビジネスと金。物語後半では愛情と打算が渦巻く世界に二人は翻弄される。

 最後に物語の鍵を握る「靴」の存在について触れておきたい。靴職人の娘であるリラは兄と共に一足の靴を作る。世界でただ一足しかないこの靴をリラの未来の夫がある日、多額の金で購入する。ところがこの「二人の恋の貴重な証人となるはずの靴」が、予想外の展開を招く。この映画さながらの小物使いのテクニックには恐れ入る。正体不明のミステリアスな著者が放つ仕掛けをぜひ皆さんにも味わって頂きたく思う。確実に興味をそそられるはずだ。

 本書は現在、世界でシリーズ累計550万部を突破し、アメリカとイタリアでミリオンセラーを記録。既にTVドラマや舞台化も決定している。覆面作家の本が売れているこの現象、海の向こうでは「フェッランテ・フェノミナン」と呼ぶそうだ。果たして日本ではどうか。一度読んだら病みつきになる『リラとわたし』、この夏お勧めの一冊である。

L'amica geniale

L'amica geniale

 

 *「チョコチップゆうこ」の場合*

 「向上心のない者は馬鹿だ」

 この言葉に出会ったのは、夏目漱石の本を読んだからではない。

 私が中学の時の担任教師が、宿題や諸々のプリント類に毎度毎度印字していたのだ。それはそれは常にキツイ女性教師だった。宿題を忘れた生徒にはビンタで応えていた。今なら大問題になりかねないのだろうが、20年前にはこんな教師もチラホラいたものだ。だから当時の私は「なんかまたキツイ言い方してるなー」くらいにしか感じていなかった。この『リラとわたし』を読むうちに、そんな思い出が蘇ってきた。 

 この物語は、戦後間もないイタリア・ナポリの貧しい地区で育つふたりの少女の成長を描いたものだ。話は主に「わたし」であるほうのエレナの言葉で綴られている。

 このふたりの小学校の先生がまだ幼いエレナに語った言葉がある。私が冒頭のフレーズを思い出したきっかけだ。進路の話の際、唐突に「平民」とは何かをエレナに問うのだが、彼女の答えに先生はこう加える。

 「(平民という)身分に甘んじる人間がいるとすれば、つまり自分も、自分の息子たちも、そのまた息子たちもずっと平民でいいと考えるとしたら、その人間にはまるで価値がないわ」

 もちろん、幼い彼女にはその意味を掴みきれない。先生は「平民」を相当に惨めな存在というが、彼女にとっては古代ローマ時代の階級のひとつにすぎなかった。

 タイプは違えど勉強のできるふたりは、先生からも大いに褒められ期待されていた。しかし、一生懸命勉強してふたりで本を書いてお金持ちになろう、という無邪気な発想さえしていた幼い少女たちも、貧困や時代の流れといった自分たちでは変えようのない現実によって次第に別々の道を歩くことになる。手段は異なるが、ふたりが求めていたのは「力」だ。貧しくて、暴力的で、古臭い、自分たちを取り巻く現実を変える力。現状に甘んじず、力を手に入れようともがく姿が彼女たちの成長とともに描かれている。

 私は当初スローペースで読み進めていたのだが、だんだんとページをめくる手が止まらなくなり、一気に最後のページにたどり着いてしまった。

 なぜか。それは、彼女たちが成長する過程で味わう気持ち、特に嫉妬、劣等感、優越感、挫折といった口に出しづらい気持ちが、私もいつかどこかで感じたことがあるものだからだ。「となりのあの子のほうが可愛いよね」とか、「勉強したってどうせあの子が一番とるだろうな」とか、認めたくないけど認めざるを得なかった、少しだけもやもやした気持ちを思い出してしまう。だから彼女たちに早く成長してほしくて、どんな風に成長するのかを知りたくて、ついついページをめくってしまうのだ。私だって成長しているはずだから、と思いながら。

 この物語は四部作の一作目なのだが、リラもエレナも幼いながらに自分たちなりの方法で上を目指して努力し、その努力が節目を迎えるところで終わる。その努力の結果を聞いてエレナは「平民」の意味を思い知るのだが、身分に甘んじず上に向かっていこうとしていた矢先だっただけに切ない。それでも、先生のあの言葉はキツイ言い方だけれども彼女への愛があったから発せられたことに気づくのではないだろうか。気づいたとして、さてそれからどう進んでいくのか。どんな力を手に入れるのか。それは続編でのお楽しみだ。

 そういえば、ただキツイだけの教師だと思っていたあの私の担任も、冒頭の言葉の裏には生徒たちへの愛情を込めていたのかもしれない。苦手意識しかなかったけれど、そういえば英語の課題で私が当時好きだったリンドバークの某曲を英訳した時は、いま思えば拙い訳だったけれど絶賛してくれて、私の外国語への興味を深めてくれたような気がする。『リラとわたし』を読んで、思いがけず先生に感謝することにもなった。