京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『女王陛下のお気に入り』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2019年2月21日放送分
映画『女王陛下のお気に入り』短評のDJ's カット版です。

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18世紀初頭。アン女王が統治するイングランドはフランスと戦争中。アンの幼馴染である側近のサラは、身体が弱く政治的手腕に乏しい女王を意のままに操り、絶大な権力を握っていました。たとえば… 
 
当時のイングランド議会では、増税してでも戦争を進めるべきだとする与党と、一日も早く和平を推進するべきとする野党で、意見が対立していたのですが、夫のモールバラ公爵がイングランド軍を率いているサラは与党に肩入れ。アン女王はサラに言われるがままに戦争継続を命じるのでした。
 
そんな折、没落した貴族の娘で、サラの従兄弟に当たるアビゲイルが宮廷にやって来ます。アビゲイルはうまくサラに取り入って召使いからキャリアをスタートさせつつ、やがてはアン女王の侍女へと昇進。アビゲイル支配下においたつもりのサラでしたが、アビゲイルは再び貴族の座に返り咲き、さらには虎視眈々とサラの権力をも奪おうと狙っていたのでした。さて、アン女王のお気に入りとして生き残るのはどちらなのか。

ロブスター(字幕版) 籠の中の乙女 (字幕版) 

もちろん実在した王室や貴族の秘話を描いた歴史もの。もともとは脚本家のデボラ・デイヴィスが『Balance of Power』、つまり「権力のバランス」というタイトルで書いていたプロットが10年前にラジオドラマになり、そして今回映画化という流れです。監督として白羽の矢が立ったのは、ギリシャ出身ののヨルゴス・ランティモス、45歳。『籠の中の乙女』『ロブスター』『聖なる鹿殺し』など、特に日本では映画通の間では知られた人です。カンヌでは主要な賞を既に2度獲得している他、アカデミーにも何度かノミネートしていました。人間の欲望や社会の常識をグロテスクなまでに極端に描き、どす黒い笑いで風刺してみせるという作家性がある人です。
 
アン女王にオリヴィア・コールマン、側近のサラにレイチェル・ワイズ、その従兄弟で貴族返り咲きを狙うアビゲイルエマ・ストーンが抜擢されました。
 
ランティモス作品としては、これまでで一番規模の大きなフォックス・サーチライト・ピクチャーズが配給をしています。要は20世紀フォックスの子会社なんですけど、インディー色の強い質の高いものを扱うレーベルみたいなもので、最近だと『バードマン』『スリー・ビルボード』『シェイプ・オブ・ウォーター』『犬ケ島』、これすべてサーチライトです。案の定、今作は昨年のヴェネツィア映画祭で審査員大賞と女優賞を獲得。アカデミーでは、作品賞、監督賞、主演・助演女優賞脚本賞など、今回最多の10ノミネートとなっています。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、そろそろいってみよう!

あらすじから多くの人が思い浮かべるように、そして公式ホームページでも謳われている通り、これは「英国版大奥」です。確かにその側面はある。でも、ポイントはそのトップが「殿」ではなくて「女王」であることですね。痛快なのは、トップが女で、それを影で操るのも女。議会の政治家たち、男どもがその支配下にあるってことです。そこが大奥とは違う。ただ、表面上はもちろん男社会ですから、あくまでその裏で陰湿極まりない駆け引きが行われるのが見どころとなります。
 
オープニングを思い出してみましょう。アビゲイルが宮殿にやって来る乗合馬車のシーンから、早速監督のスタンスが表明されます。一度綺麗な描写をしておいてから、すかさず、乗り合わせた面々の下劣な本性を暴いてみせる。人間の表裏、美醜をとっとと見せちゃう導入です。しかも、アビゲイルは宮殿脇で馬車から突き落とされて、糞尿まみれの泥の中へ。僕ら観客は否が応でも、アビゲイルの味方をしてしまうんですが、これがそう簡単な話ではないミスリードの類だとすぐわかります。徐々にアビゲイルの思惑・欲望・野心が顕になってくると、だんだん僕らはむず痒く居心地が悪くなる。すると今度は、サラも不憫に思えてくるし、アン女王だってなんなら時には… こんな調子なんで、僕らは権力と欲望のトライアングルの中で身の毛のよだつ思いをし続けるわけです。
 
てなことを言ってますが、これ、よりによって国は戦争中なんです。ところがどうでしょう? 戦闘シーンは出てこないばかりか、カメラは宮殿とその周囲から外へは出ません。つまり、この宮殿に巣食う国家の支配者たちは、民のことなど文字通り目もくれていないわけです。
 
ついでに技術的な話をちらっとすると、今回、宮中のシーンで魚眼に近い広角レンズが使われてました。劇映画では珍しい手法なんで、誰もが気づきますよね。まっすぐ廊下が歪んでみえるわけだし。これはもちろん監督の世界観そのものです。それ以外は、極めてナチュラルな撮影法だけに、際立ちますね。病と不摂生がたたって精神状態は不安定で身体は痛風にやられ太りまくって動けなくなっているアン女王ですが、彼女が神輿に乗ったり、巨大な車椅子で移動する様子は、そのまま撮影するだけで権力の中枢の非人間性が浮かび上がります。

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しかし、なぜ今こうした時代ものを撮るのか。意義は少なくともふたつあるとみてます。
 
その1。ミートゥーやタイムズ・アップに端を発するここ数年の女性のエンパワーメントを巡る動きは踏まえているでしょう。たとえば性的にいいよってくる獣同然の男たちは、彼女たちに完全に手玉に取られていました。ただ、それで終わらないのがランティモス監督です。だって、サラやアビゲイルが良心的に描かれているかと言えば、むしろその逆だし、それで彼女たちが幸せなのかと言えば…ってことですよ。
 
その2。権力や富がいかに人を堕落させるかというメッセージでしょう。資本主義がグローバル社会の中で暴走・肥大化した挙げ句、世界中で格差が深刻化していて、今現在、世界の富の8割が、1%の富裕層に集中しているという異常事態が進行しています。政治家たちは世界中で排他的・独善的になり、民のことなど考えていないのではないかという問いかけですね。

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この2点を考え合わせると、僕たちは遠い時代の出来事だと傍観していられないわけです。子どもを持てなかったアン女王が、その代わりにかわいがっている17匹のウサギたち。権力闘争の小道具として、うわべだけかわいがられたかと思えば、足蹴にもされてしまういたいけな動物たちです。ラストショットにも登場しますが、あれは僕たち観客の姿が映り込んでいるのかもしれません。
 
いやはや、笑うに笑えない。僕らの笑みを引きつらせる、強烈なインパクトで人間と社会の本質をえぐる1本でした。

 ラストカットと確か重なって鳴り始めたと記憶しているのが、この主題歌でした。Elton Johnキャリア最初期のものですが、ピアノではなくチェンバロを使っているのが、映画にマッチしていました。チェンバロはピアノが生まれる前の楽器だから物語の時台とも合うし、歌詞も登場人物たちの心情に重なるところがあります。

さ〜て、次回、2019年2月28日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『翔んで埼玉』です。番組スタッフとは、もし関西を舞台とするならどうなるかしら、なんて不埒な話題で盛り上がってしまいました。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!