京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

イタリア映画『幸福なラザロ』レビュー

第71回カンヌ国際映画祭脚本賞を獲得し、日本での公開が待たれていた、アリーチェ・ロルヴァケル監督の『幸福なラザロ』(原題『Lazzaro felice』)。イタリア映画の日本公開への道筋として定石となっているイタリア映画祭を経由せず、ダイレクトに4月19日から全国公開されていて話題を呼んでいる。

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今回は、かつてボローニャに留学して浴びるようにイタリア映画を鑑賞し、今はとある映画関係の会社に務めるオールドファッション幹太がレビューを書いた。言及される作品への興味も広がると嬉しい限りだ。レビューに入る前に、公式サイトから、あらすじなど基本的な情報を引用しておこう。

 

時は20世紀後半。イタリアの小さな村で純朴なラザロと村人たちは、小作制度の廃止を隠蔽する侯爵夫人に騙され、社会と隔絶した生活を強いられていた。ところが夫人の息子タンクレディが起こした誘拐騒ぎをきっかけに、村人たちは初めて外の世界へ出て行くことになる。だが、ラザロにある事件が起き・・・

 

フェリーニヴィスコンティパゾリーニ、イタリア映画史に燦然と輝く巨匠たちの遺伝子を受け継ぐロルヴァケル監督は、本作で時空を超えた壮大なドラマを生み出し、新しい地平を切り開いた。

 

『幸福なラザロ』は、1980年代初頭にイタリアで実際にあった詐欺事件を知った監督の驚きから生まれた。人間が享受してきた文明はそのスピードを加速させ、人間を疲弊させ、世界を荒廃させた。富める者はさらに富み、持たざる者はさらに失う現代に、世界をありのままに見つめるラザロの汚れなき瞳はあまりにも衝撃的だ。その無垢なる魂は観る者を浄化し、かつて味わったことのない幸福感を与えてくれるだろう。そして思いもよらぬ展開を経て迎えるクライマックスは、私たちに忘れがたき至福の映画体験をもたらすはずだ。

 

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映画フィルムの現像所で働くという仕事柄、イタリアから届いたこの作品が、16mmフィルムで撮影されたことは、配信登録しているコダックメールマガジンを通じて知っていた。映画製作の現場でフィルムが採用されることがずいぶん少なくなった時代にあって、この映画は「フィルムで撮りたい」映画なんだなということは頭に入っていた。とは言え裏返せば、それ以外の情報はまったく持たずにこの映画を見始めた。ウェブで検索すれば、作品情報や物語内容だけでなく、(たとえ未公開であっても)どこかで見る機会を得た人の感想なり批評なりを読むことができる世の中である。最近では完全に丸腰で、つまり何の関連情報も持たずに映画を見る機会が、僕自身とても少なくなっていた。ある意味で、作品に対してフェアな態度で臨む久しぶりの映画体験となった。そして映画を観終わった2時間後に、この『幸福なラザロ』という作品がいかに幸福であるかということを思い知る。

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最初のカットに古びた小屋の傍に朽ちた廃車が(周到に)置かれていることから、少なくとも戦後のイタリアの、比較的現代に近い時代の農村の物語であることが示されているのだけれど、夜中に屋外から聞こえてくる求愛の歌に誘われるようにして時代を遡り、「小作人」とか「侯爵夫人」というセリフもあいまって、いつの間にか舞台はエルマンノ・オルミの『木靴の樹』やベルナルド・ベルトルッチの『1900年』の前半と同じくらいの頃の話だと錯覚していた。実際に、集団生活する農民たちの暮らしは(電球がある時代の話だが電球がないほど)貧しく、婚約する若者を祝うワインも食事もない。着る物は素朴で、農作業の多くが手仕事だ。それでもそこで働く人々の表情は明るく、飢えてはいるけれど満ち足りた笑顔をたくさんのカットの中に見ることができる。その登場人物の表情の味わい深さたるや! どうやらこの作品は、1950年代のネオレアリズモについて卒業論文修士論文を書いた(そして、今も決着がつかず胸に抱えたままの)僕好みの作品らしいぞと思うに至り、今思えばすっかり作者の術中にハマっていたことがわかる。

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まるで人生の深淵そのものであるかのような顔のシワ。ヴィットリオ・デ・セータの50年代の短編ドキュメンタリーを思わせる農作業風景。そしてこの作品の物語が動き出すきっかけとなる、ラザロとタンクレディ(現在4K修復版が35mmフィルムで絶賛公開中『山猫』のアラン・ドロンを想わずにいられない)の隠れ家になる荒涼とした丘陵地帯。そうした美しくも荒々しい人々と風景(ローマの北のヴィテルボや崩れゆく街として有名なヴァニョレージョがロケ地であることをイタリア政府観光局のサイトが教えてくれてます)のみならず、物語の後半の舞台となるどこかいびつで殺伐とした都市風景(こちらはミラノやトリノらしい)を含め、エレーヌ・ルヴァール撮影監督による16mmフィルム撮影は見事に切り取っている。この人はヴィム・ヴェンダースや最近惜しまれつつ世を去ったアニエス・ヴァルダあたりと組んだ撮影監督らしいですね。ロルヴァケル監督の前回作品もこの人。

 

一般的には、大きなスクリーンで見る劇場公開用の作品の撮影に16mmフィルムを使うのは、(デジタルのべたっとした画とは異なる)フィルムが持つ独特のザラッとした粒状感や荒い感じが作品の趣旨や意図にマッチする場合だと言われる。それだけではないかもしれないけど、間違いではないはずだ。そしてそうであれば、フィルムという選択はこの作品の「幸福」のひとつだと断言できる。偶発的なラッキーではなく、ねらいと成果が合致していることは、映画を見た人ならば誰でもはっきりと感じると思う。

 

僕は一瞬目を疑ったのだけれども、フィルム撮影であることを示すためか、本来は撮影者からは嫌われる「窓ゴミ」とか「窓ホコリ」と呼ばれるカメラの中の異物まで残してあることに気づくはずだ。画面の四辺のどこからか、糸のようにぴょろっと出ている、それだ。カメラのメンテナンスの悪さだという人もいれば、フィルムカメラであるからには仕方がないという人もいるのだけれど、いずれにしろ、僕の知る限りでは、仕上げの段階でそれは見えなくするものであって、現代の映画ではまず、スクリーン上で見ることができるものではない。同じ意味で上下左右の四つの角が丸くなっているのも、カメラの撮影用のマスクと思われる。普通ならきちっと90度に角ばった長方形のフレームになるはずだ。残念ながらこの原稿を書いている段階では、僕はこの映画を映画館では見ていないので、映画館のスクリーンにもそうした窓ホコリや丸い角が映るかはわからないのだけど(フィルム映写機の時代は、映写機のマスクでそれらが切られていたのだけど、デジタル上映がどうなっているのかよく知らない)、もし写っていたら、お宝だと思って良いと思います。ちなみに、テレビなどでノスタルジーの演出として画面にザーザー雨のような縦線が入ったり、パラパラと点状のものが一瞬写ったりするけど、僕が言っているのはそれらとは違う。

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是枝裕和の『万引き家族』が最高賞であるパルム・ドールを獲得した去年2018年のカンヌ国際映画祭で、この『幸福なラザロ』も上映されている。プレミア上映の映写が終わって、アリーチェ・ロルヴァケル監督や共演したアルバ・ロルヴァケル(アリーチェのお姉さん、下の写真右)と一緒に、観客の温かいスタンディング・オベーションに包まれるアドリアーノ・タルディオーロの姿が印象的だ。主役のラザロを演じた彼だ。初主演作がカンヌで評価されて、テンションマックスの興奮状態にある新人俳優の姿はそこにはない。誰に対しても同じ笑顔で応え、促されて意思に反して振る手はめちぇめちゃぎこちない。善良で幸福なラザロがとまどいながら微笑んでいるようだ。つまり『幸福なラザロ』に幸福がさらにあるとすれば、それは主演アドリアーノ・タルディオーロの発見だ。本人のインタビューによると狭き関門をくぐり抜けるようなオーディションによって選ばれたのではないらしい。偶然、監督の知人の知人の中に彼がいたのだとか。プロセスはどうあれ、彼の存在感は、その外見・演技・演出において、完璧だったと思う。今も大学生らしい彼の、今後のキャリアを心配してしまったほどだ。

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時空を飛び越え、死をも超越するラザロの物語を根底に据えて、寓話でもって現実を描き、現実に隠れた寓話を随所に散りばめた『幸福なラザロ』の一番の幸福は、「現実を映す」だけのドキュメントにとどまることなく、「現実にはありえないこと」をも取り込んでひとつの物語の中に描き尽くした点だ。前半の前時代的で封建制度の残りカスのようなコミュニティの描写は、(本稿では書かなかった)後半で描かれる、望んだはずの都市生活の暗部や歪みを際立たせる最高の布石だった。過去と現在。農村と都市。聖と俗。イタリアと非イタリア。たくさんの対比とコントラストの中を、そのいずれに染まることなく通り過ぎていくラザロの無垢な姿は、静かにしかし力強く問う。「幸福って何だい?」と。

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幸福の意味を突きつけてくる優れた作品はイタリア映画の中にも少なくはないが、強烈さからすれば、ヴィットリオ・デ・シーカの『ミラノの奇跡』で善人トトがほうきに乗って「良い一日をBuon giorno」と心から言える国に旅立ってしまった時以来の衝撃だった。本気で、「ラザロ、お前もトトと同じか。あれから70年も経ったのに、俺たちは何も変わっていないんだな」とつぶやくほどだった。と同時に、すべてをネオレアリズモや巨匠たちに関連づけてしまう失礼を承知の上で、豊かな映画史を継承する現在のイタリアの映画監督の代表的存在のひとりとなったアリーチェ・ロルヴァケルはじめ、この映画に関わったたくさんの才能の未来に今後もますます期待したくなる、そういう幸福な映画でもあると思う。

 

文:オールドファッション幹太