京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『トイ・ストーリー4』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2019年7月18日放送分
映画『トイ・ストーリー4』短評のDJ's カット版です。

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1995年、劇場公開作としては当時初となる全編CGアニメーションとして、そして今や泣く子も黙る世界最高峰のスタジオとして知られるPIXARの船出としてヒットを記録したのが『トイ・ストーリー』でした。誰もが子供の頃に遊ぶおもちゃが実は人格を持っていて、人間の目につかないところで互いにコミュニケーションを取っているという設定は、子どものみならず大人のハートもつかみました。続いて、99年に「2」が、さらに2010年には「3」が、それぞれCG技術をアップデートしながら公開され、シリーズとしての区切りが付いたと誰もが思っていたのですが、ここに来て9年ぶりに「4」がお目見えという流れ。

トイ・ストーリー (字幕版) トイ・ストーリー2(字幕版) トイ・ストーリー3(吹替版) 

前作で新たな持ち主ボニーの手に渡ったウッディやバズら、おもちゃの仲間たち。ボニーは幼稚園に通うことになるんですが、なかなか環境に馴染めずにいます。ボニーに早くも飽きられているウッディですが、彼女が心配でこっそり幼稚園についていき、工作の手伝いをしてあげます。できあがったのは、先割れスプーンやモールを使った手作りおもちゃのフォーキー。ただ、フォーキーは自分のことをあくまでゴミだと思っていて、他のおもちゃの目を盗んではゴミ箱へ戻りたがっています。そんな中、ボニー一家は、キャンピングカーでドライブ旅へ。同行したおもちゃの中から、フォーキーはやはり逃げ出すのですが、ウッディは彼を救うべく自分も車から飛び降ります。その後、通りかかったアンティークショップで、ウッディはかつての恋人ボーと再会します。新キャラも続々。ウッディはフォーキーやボーと共にボニーの元に戻ることができるのか。

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監督は長編としては初メガホンのジョシュ・クーリー。脚本には、シリーズを通して関わるアンドリュー・スタントンも関わりつつ、若き女性ステファニー・フォルサムが加わっています。声のキャストは、ウッディをトム・ハンクス、日本語は唐沢寿明バズ・ライトイヤーティム・アレン、日本語は所ジョージといったところ、もちろん引き継いでいます。新キャラでカナダ生まれのスタントマン、デューク・カブーンの声をキアヌ・リーヴスが当てていることも話題となっています。僕は日本語吹き替えで観たので、我らがキアヌの声は確認できていないんですが…
 
それでは、特に日本で賛否両論渦巻く中での制限時間3分の短評、そろそろいってみよう!

このシリーズ、3で完璧なラストを迎えていたために、4なんて必要ない。どうやったって蛇足にしかならないだろうという世評があったことも事実ですが、そこはピクサーですよ。毎回世界最先端の技術を駆使するだけでなく、チーム内で散々ディスカッションをして物語を徹底的に練り上げる伝統がある上、本シリーズはスタジオの看板ですから、商業的な理由だけでおざなりなことはやりません。そこで、決定的なネタバレは避けつつ、本作がこれまでとどう変わったのか、否定派の人たちがどこに違和感を感じているのかを踏まえながら、僕としては複雑なのは認めつつ、やはり評価してしまうのだなという理由を話していきます。
 
ピクサーが得意としている擬人化の代表作である「トイ・ストーリー」シリーズ。「だるまさんがころんだ」的な条件はありつつも、おもちゃはおもちゃでそれぞれに人格を持ち、互いに助け合う疑似家族、疑似社会を形成しているというこの設定。突き詰めて複雑化していくと同時に浮上する問題は、そんな人格のある「生き物」が、誰かの所有物であっていいのかということ。しかも、主は子どもなんですよ。子どもはまだ人格形成の途上にいるし、注意力も散漫で、それが故に時に残酷。だから、このシリーズにおけるおもちゃと子どもの関係は、僕らの生きる現実の人間関係や主従関係とは違って、少々、時にかなりいびつなんです。冷静に見れば無機物のおもちゃでありながら、映画の中では、ぶーぶー主に不満を垂れたり、逆に主に対して親のような役割を担ったりもする。こうした現実離れした設定のため、ウッディたちはこれまでも何度もアイデンティティについて悩んできました。そこに僕らも感情移入しては一喜一憂してきたという経緯があります。

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そんな中、これまで3作は、いずれもおもちゃたちが家からどこかへ出かけて、冒険をし、持ち主のもとに帰ってくるという「行って来い」の物語でした。おもちゃミュージアムで展示されることも、保育園で新入りおもちゃとしてファシスト・ベアーの下で過ごすことも拒否し、最後には必ず帰ってきた。そして、完璧なラストと呼び声の高い3では、大学生、つまり大人になったアンディーからボニーへと持ち主の世代交代が行われました。正直なところ、物語から退場していったおもちゃのことを考えると、僕としては不憫に思う部分もあったんですけれど、一応そこはあくまでおもちゃなんだからと折り合いをつけて、ある種保守的とも言える、誰もが認めざるを得ないエンディングに軟着陸してみせていました。おもちゃに寿命はないけれど、人間はどんどん成長していくものだから。
 
実際、シリーズ自体がスタートから四半世紀を経過する中で、たとえば1を小学生で観ていた人も30代半ば。今度は自分の子どもを連れて観に行っているくらいの、世代交代が起こるような時代の変化も一考に値します。で、今作は初めて、「行って来い」の物語から外れる部分があるわけです。本作に向けられた最大の批判はそこでしょう。でも、これは究極の擬人化の行き着く先として必然でもあります。これまでにも、捨てられたり飽きられたおもちゃの行く末については言及がありましたよね。彼らにも人格があるのなら、成長も、価値観の変化だってあるわけで、となると、「与えられた役割からの脱却」という今日的なテーマが前に出てくるのも必然です。

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トイ・ストーリー」でそのテーマを扱わなくてもっていう戸惑いもあるでしょうが、むしろ「トイ・ストーリー」という複雑な擬人化が行われてきたシリーズだからこそ辿りついた地平とも言えるでしょう。迷子のおもちゃという、冷静に考えればかなり謎な概念ですけど、今回はそんな呼び名が登場します。新キャラのフォーキーにウッディたちはおもちゃの何たるかを説いて迎え入れながら、自分たちもまた、役割から離れ、自分なりの出直し、セカンドライフがあっても良いのでは? と考えるわけです。これはある意味、おもちゃの余生の可能性を描いた、おもちゃも年を取るという話でもあるんじゃないでしょうか。

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そして、おもちゃが子どもの使うものである以上、僕たちは誰しもが無意識的であれ、壊したり、捨てたり、忘れたりした「罪」があるわけで、その後ろめたさを解消する効果もあります。ってのは人間に都合のいい話ではあるけど、おもちゃにしてみても切実な物語として、僕は複雑ながらも評価したい1本でした。
 
こうなると5の可能性も出てくるわけですが、今はまだそこは考えず、余韻に浸って、良くも悪くも、このモヤモヤを味わうことにします。


サントラから1曲かけるなら、やはりこれでしょう。Randy Newmanの“You've Got A Friend in Me”をオンエアしました。

 

ところで、評では省きましたが、CG技術の革新は今回もすごいです。冒頭はいつも力の入るところですが、今回のあの雨の表現。そして、移動遊園地での濃密描写力はもう手放しで賛辞を寄せる他ありません。あれだけの情報量を描きこんでいるのにゴチャッとは見せない画面の統制力もすごい。ハイパーリアルな絵を堪能しました。

 

そして、新キャラで一気に人気をかっさらった存在として、フォーキーだけでなく、デューク・カブーンも最高だったことを忘れてはなりません。物語や設定そのものが破綻スレスレとなっていた、かなり強引なハイライトを、カブーンのユーモアが和らげていたし、彼のブレイクスルーにも拍手を送りたい。イエス・アイ・キャ〜ナダ!


さ〜て、次回、2019年7月25日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『天気の子』です。夏休みに入るということで、アニメ大作が続く格好ですね。新海誠の前作『君の名は。』を必ずしも褒めなかった僕です。いわゆる「セカイ系」のアニメに対し、身構えるところもあったりなかったり。ま、フラットに観てきます。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!