京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

映画『蜜蜂と遠雷』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 5月26日放送分
映画『蜜蜂と遠雷』短評のDJ'sカット版です。

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新人ピアニストにとって、世界で活躍できるか、その登竜門となっている芳ケ江国際ピアノコンクール。その予選会に集った4人を追った、音楽群像劇です。同じくピアニストだった母親の死をきっかけにピアノが弾けなくなった天才少女、栄伝亜夜は7年ぶりに出場。優勝候補は、かつて栄伝と一緒にピアノを習い、現在は名門ジュリアード音楽院に在学しているマサル・レビ=アナトール。楽器店で働きながら、生活者の奏でる音楽を構築したいと意気込む年齢制限ぎりぎりの高島明石。そして、最近亡くなった著名なピアニストの推薦状を持って風のように現れた謎の少年、風間塵。映画は予選から本戦までを描きます。

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)蜜蜂と遠雷(下) (幻冬舎文庫)

原作は、直木賞本屋大賞をダブル受賞して話題を作った恩田陸の同名小説。監督・脚本、そして編集まで手掛けるのは、ポーランドで映画作りを学んだ俊英、『愚行録』の石川慶。キャストは、栄伝亜夜を松岡茉優マサル森崎ウィン、高島を松坂桃李が演じます。他に、斉藤由貴平田満鹿賀丈史臼田あさ美ブルゾンちえみ片桐はいりなどが出演しています。
 
去年の10月4日、公開されましたが、当時はおみくじが当たらず、今回配信でリベンジ。僕はポイントをこれでU-nextの持てるポイントを使い切ってレンタルして、先週金曜日に鑑賞しました。それでは、今週の映画短評いってみよう!

 

世の中には、「映像化不可能と言われた」とか「奇跡の映像化」とかいった常套句がありますが、この映画の場合は、それに加えて、「渾身の音楽的再現」なんて言葉も欲しいところです。残念ながら仕事に追われて、原作をこの機会に読むことはかないませんでしたが、ハードカバー、上下段に分かれて508ページもあるわけです。まずそれを2時間の尺にまとめるにあたってのエピソードの取捨選択が必要になる。それだけでも大変なのに加えて、劇中で演奏される曲の再現も必要です。ここ半年の間だと、『マチネの終わりに』という僕も高く評価した作品があって、あれも小説では文字で表現されていたものを映画ではもちろん聴かせないといけない難しさがありましたが、言ってもあちらはクラシックギターのソロで、演奏はひとりだったのに対し、こちらは4人のピアニストそれぞれの特性を素人にも察することができるレベルで再現できる演奏者が必要で、しかもオーケストラとのコラボレーションまである。『春と修羅』という、小説の中にしかなかった架空の作曲家の作品を映画独自に作曲する必要もあった。これは気の遠くなる作業ですよ。撮影に取り掛かる前に準備すべきことがありすぎる。しかも、下手を打つと、原作ファンが黙っちゃいない。リスクが高すぎる。作曲家、本物のピアニストたちのキャスティングも打ち合わせも入念にしなくちゃいけないし、もちろん俳優たちのキャスティングも。しかも、謎の天才少年、風間塵を演じた鈴鹿央士という、言ってもまだ新人にも主役レベルの存在感を与えられるよう演出しないといけない。脚本、監督、編集と、まさに大車輪の活躍を見せた石川慶はとんでもない才能だし、映画的野心家です。

マチネの終わりに (文春文庫)

原作者の恩田陸に言わせれば、この小説は「ほとんどが心理描写」なんです。映画にとって厳しいですよ。ナレーションや独白も入れられるとはいえ、映画は登場人物の心理を表情も含めたアクションに潜ませる表現です。その意味で映画とは相性の悪い原作に思えるものを、石川監督は真正面から音楽で突破しようと企んで、それに成功しています。小説とは違って、本当の演奏を聴かせられるのだから、その音の流れに、指の運びに、そして演奏している(ように見える)役者の動きに、それぞれの感情を反映させています。つまりは、どのキャラクターにも特徴があって、まだ若手なので未熟さもあって、それがコンクールの間で変化していく。その様子を純粋に楽しむことができる映画なんです。そんな体験はなかなかないです。

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(c)2019 映画「蜜蜂と遠雷」製作委員会
もちろん、コンクールなわけですから、誰が優勝するのか、その結果が大きなサスペンスとして観客の興味をテンポ良く強く引っ張っていく。そんな音楽青春映画、だとまとめることもできるんですが、僕に言わせると、それではこの映画を説明したことにならない。群像劇ですから、それぞれの背景や立場、コンクールにかける想いや、それぞれの関係性とその変化が描かれます。普通はですね、ドラマとして盛り上がるように、ライバル心をむき出しにさせてみたり、何か不正を企てさせたり、恋愛要素を入れてみたり、するものですよ。なんなら、音楽はそこでBGMに後退して、その関係性そのものが前景になるものです。がしかし! この作品は違う。あくまで音楽なんです。潔く、音楽です。それぞれに悩み、もがく4人が、互いに響き合って、誰かを蹴落とすんではなく、それぞれの理想の音楽を奏でる。ただ、それだけです。それがかくも面白いのが画期的なんです。遠くで鳴る雷を察知する才能に恵まれた4人は、その能力を努力で研ぎ澄ませ、世界をすぐれた音楽で満たす。この世界に向き合う。恩田陸は、小説のエントリーでこう書いています。「明るい野山を群れ飛ぶ無数の蜜蜂は、世界を祝福する音符」だと。若きピアニストたちが、ひとりひとり世界を祝福する様子は、観ているだけで幸せな気分になるんです。
 
蜜蜂、そして遠雷という比喩、メタファーも、妙に説明的にならず、映画独自だと思いますが、馬の映像も手際良く挟みます。挟むと言えば、フラッシュバックで過去の場面もいくつか入りますが、それも必要最小限で品があります。こちらの解釈の余地を残しています。そして、何度か、あっと驚く映画ならではの仕掛けも用意されていて、たとえば、演奏中のグランドピアノの天板に過去の映像が映り込むとか、ハッとさせられました。といったように、これは小説とは適度な距離を取った、言わばシネマティック・ディスタンスをキープした健全な映画化です。はっきり言って、この映画を観ても、小説を読む喜びは減じないでしょう。

砂の器 デジタルリマスター版

特に、ラストの鮮やかさにはしびれました。朝日新聞編集委員の市川速水さんが論座というサイトで言及していて、僕も同じように思い出した映画は、野村芳太郎監督、松本清張原作、74年の『砂の器』です。同じように、オーケストラで大団円を迎えます。あの日本映画史に残る作品を思い出させる。内容はまるで違う、下手すりゃ、正反対なんですが、オーケストラシーンの余韻と解放は、勝るとも劣らないのではないでしょうか。惜しむらくは、家ではなく、蜜蜂の羽音すら聞き取れるような、映画館で観たかったことでしょうか。
サウンドトラックからお送りしたのは、松岡茉優が演じた栄伝亜夜の演奏を再現した河村尚子さんのピアノで、ドビュッシー『月の光』でした。


さ〜て、次回、2020年6月2日(火)も、まだ引き続き「お家でCIAO CINEMA」です。スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『閉鎖病棟-それぞれの朝-』でした。精神科病棟を題材にした作品。実はイタリアは公立の精神科病院をとうの昔に廃絶した国でして、僕はこのテーマ、かなり関心があり、同様のテーマのものをそこそこ観ています。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!