京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『グレタ GRETA』短評

FM COCOLO CIAO 765 朝8時台半ばのCIAO CINEMA 11月19日放送分
映画『グレタ GRETA』短評のDJ'sカット版です。

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ニューヨークの高級レストランでウェイトレスとして働くフランシス。彼女は1年前に母を亡くしたばかりで、まだその悲しみを乗り越えられないまま。ふるさとを離れて、親友のエリカとルームシェアをしています。ある日、彼女は仕事帰りに乗った地下鉄の車内で、誰かが忘れたバッグを見つけます。中身を検めると、持ち主はグレタという女性。家まで届けてあげると、グレタが孤独な未亡人であるとわかり、ふたりは互いの心の隙間を埋めるように、年の離れた友情を育むことになるのですが、フランシスがグレタの家である物を発見したことから、その関係は歪で危険なものへと様変わりしていきます。

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監督と脚本は、96年の『マイケル・コリンズ』がヴェネツィア映画祭で金獅子賞、翌97年の『ブッチャー・ボーイ』ではベルリンの銀熊賞を獲得しているニール・ジョーダン。日本では94年の『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』が一番知られていますかね。トム・クルーズブラッド・ピットの共演でした。
 
今作の共演も、最高です。イザベル・ユペールがグレタ、そしてクロエ・グレース・モレッツがフランシスを演じています。ユペールが66歳で、モレッツは22歳。いずれも、キャラクターと同じくらいの年齢で、それぞれ、のびのび魅力を振りまいています。そして、『イット・フォローズ』のマイカ・モンローが親友のエリカ役に起用されています。
 
これは日本では公開規模が比較的小さくて、大阪はステーションシティシネマだけなんですよね。もっと広がってもいいんじゃないかなぁ。僕は先週金曜の昼間の回に行ってきましたよ。久々のスリラーをどう観たのか。それでは、映画短評、今週もいってみよう!

もう怖いの嫌! 観る前はそう思って、南森町映画神社を呪いそうになっていましたが、上映が始まると、むしろ嬉々として喜んでいる僕がいました。すっかり夢中になりました。正直に言って、お話そのものに格別目新しさがあるわけではないのですが、ジャンル映画ならではの愛おしさと、丁寧に作り込まれている部分、女優の魅力の引き出し方、映画史への目配せ、この映画なりのメッセージ… そういったひとつひとつの評価ポイントを加算していくと、今思い出してもやはりこれは好きだなぁと感じられるんです。
 
ジャンルとしてはサイコ・スリラーということになりますが、まず小道具がチャーミングで品があるんですね。人を釣る餌とも言える忘れ物が、まずグレタ、というか、イザベル・ユペールに似合うハンドバッグ。家のピアノや家族写真。聴くピアノ曲。焼くクッキー。ファッション。どれを取っても、しっくりハマる。ジョーダン監督が配置するそのひとつひとつの道具立てや導くキャラクターの所作が、そもそも絶妙なキャスティングの魅力をきっちり引き立てています。これは3人の女の話ですよね。フランシスはまだあどけなさをたたえ、母親の不在がそのまま心の欠落を生んでいる。生真面目でわりと地味。唯一の趣味は読書でしょうか。一方、エリカは自由奔放で快活、ヨガに興じながら、露出度の高い服で健康的な色気を振りまき、ちょいと軽いなって感じで夜遊びもお盛んな様子。なんなら、言葉も軽いし、サイコ・スリラーというこのジャンルのセオリーでいけば、こりゃ痛い目にあうぞってフラグが立っていて、案の定、なんですがという… これ以上はここでは言いませんが。

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そしてグレタですが、彼女はジョーカーを思わせるところがありませんか。映画はフランシスの側からの恐怖ばかりが描かれるわけだけれど、見方を変えればというところ。彼女に何があったのかは描かれていないわけで。なぜ僕がそう思ったのかってことですけど、グレタは前半と後半で、つまり僕らが知識を持つとまったく違う人間に見えるわけです。あのスマイル。あの笑み。これは映画の醍醐味ですよ。そして、ジョーカーのようにも見えた最大の理由は、彼女がダンスする周辺ですね。ブラック・ユーモアにすら見えてしまう。ピエロっぽいというか。ユーモアと恐怖の間に張られたロープの上を、グレタも監督も歩いてる。

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映像面の演出でその綱から軽やかにジャンプしてみせたのは、フランシスの見る悪夢の描写。よく夢だか現実だかわからないって言いますけど、あそこはかなり新鮮な編集テクニックで見事に僕らを混乱させてくれました。そこでの小道具は、ミルク。思い出すのは、サスペンスの神様ヒッチコックの『断崖』です。僕らはそのミルクがどういうものかを知っているから、怖い。そこに、あの電子レンジを組み合わせてくるのも面白い。チン! 

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で、最後に映画のメッセージの部分ですが、打ち出すというより醸すというレベルだと思ってください。母や娘の面影を誰かに重ねすぎた結果、とんでもないことになっていく話であること、そしてトータルに見れば、家族・血縁以外の人間関係が実は人をしっかりつなぐのだということ、さらには男性がほぼ活躍できない話であることを踏まえると、女性のエンパワーメントと社会の連帯や友愛に希望を見出す、伝統という窮屈で古臭い箱に入っていては都会ぐらしなどろくなことはないという攻めた映画にも思えます。
 
いくらなんでも、手口が大胆すぎるとか、不確実性が大きすぎるとか、物語の粗もあるけれど、そんなの差し引いても余りある吸引力に、僕はすっかり吸い込まれた秀作でした。
歌手、女優として活躍したJulie Londonが62年に吹き込んだこんな歌が複数回使われていました。決して彼女の代表曲ではないところに、ジョーダン監督の粋を感じます。そして、この曲も、2回目に聞こえる頃には、なんだか意味合いが違って感じられるのがすばらしかったです。

さ〜て、次回、2019年11月26日(火)に扱う映画は、スタジオの映画おみくじを引いた結果、『ひとよ』となりました。出ました! 白石和彌監督! これまで短評してきた経緯もあるし、何より、僕が繰り返しお会いしてインタビューしている方。今作は僕はもう観ていますが、どうぞ劇場へ! すごいんだから。あなたも鑑賞したら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。

映画『マチネの終わりに』短評

FM COCOLO CIAO 765 朝8時台半ばのCIAO CINEMA 11月12日放送分
映画『マチネの終わりに』短評のDJ'sカット版です。

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クラシックギター奏者の蒔野聡史(さとし)。世界的に名の知れた才能の持ち主ではあるが、音楽家としての迷いも抱えていました。ある夜、レコード会社の女性ディレクターがコンサートの楽屋を訪れた時に連れていたのが、海外通信社に勤務するジャーナリストの小峰洋子。初めて会ったその時から、表には出さずとも強く惹かれ合うふたりでしたが、洋子には日系アメリカ人の婚約者がいました。それでも高まる恋心を抑えきれず、蒔野はスペインでの演奏会の後、洋子の住むパリへ足を伸ばし、愛を告げます。世界を飛び回る仕事で、そもそもすれ違いの多いふたりの関係を阻む要因がいくつも重なる中、物語は以外な展開を見せます。
原作は、芥川賞作家の平野啓一郎が2016年に発表した同名小説。メガホンを取ったのは、フジテレビのドラマ演出家、西谷弘。映画だと、『アマルフィ 女神の報酬』や『真夏の方程式』で知られます。蒔野を演じるのは、その『真夏の方程式』でも西谷監督とタッグを組んだ福山雅治。洋子を石田ゆり子、そのフィアンセを伊勢谷友介が演じます。他にも、蒔野のマネージャー早苗を桜井ユキが担当する他、板谷由夏風吹ジュン古谷一行などが出演しています。音楽は、西谷作品に欠かせない存在の菅野祐悟。そして、クラシックギターの監修、福山雅治の指導には、日本を代表するクラシックギタリストの福田進一が招聘されました。
 
僕は先週火曜の夕方にTOHOシネマズ梅田で観てきたんですが、女性客やカップルを中心に、結構入っていました。それでは、映画短評、今週もいってみよう!

時に揶揄の対象となるジャンルに、メロドラマあります。恋に落ちた主人公、カップルは、たいていふたりの間に立ちふさがる障害を抱えていて、それをなかなか突破できない。時代背景にもよりますが、やむにやまれぬ事情があって、行き違い、すれ違い、離ればなれになり、そこでもがくところに感傷的な音楽が流れて、観客の涙腺を刺激する。この展開があまりに型通りで、何も新鮮味がないと、お涙頂戴で安っぽいとなるわけですが、この『マチネの終わりに』は、そんなメロドラマの王道でありながら、含みをもたせた演出と、あえてリアリズムから距離をとった観念的なセリフ回しが功を奏し、自分には縁のない誰かの恋愛の話なのに、自分の人生そのものにも響く映画になっています。
 
ひとつの大きなテーマは、時間です。タイトルのマチネは、バレエやクラシックのコンサートで使われる用語で、昼公演のことを指すんですが、その文脈を離れれば、フランス語でシンプルに朝という意味です。40がらみ、アラフォーで、そろそろ人生が後半のページに差し掛かった主人公たちの人生を暗示しているわけですよ。そして、誰もが印象に残るのは、「今や未来だけでなく、過去だって変えられる」という言葉。僕たちは過去に囚われているけれど、その過去の意味、捉え方はふとした拍子に変えられるし、自ずと変わるのだということ。これは恋愛抜きに、むちゃくちゃ普遍的ですよね。

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これがたとえば10代や20代の恋愛であれば、蓄積している過去が少ないわけですから、「失うものはない」と、人は恋に大胆に飛び込んでいく。一方、40前後の大人にとっては、恋愛だけがすべてではない。自分を培ってきた仕事や人間関係があるからこそ、恋の足は重くなる。逆に言えば、それでも一歩踏み出す時、それをきっかけに過去の意味合いも変化するかもしれない。
 
この映画では、ふたりの出逢い以降、いくつもの障害がふたりの結びつきを阻みます。ギタリスト、ジャーナリストとしての仕事、婚約者の存在、世相を反映した大事件、予期せぬ第三者の介入など。それでも、孤独がふたりの愛情を育んでいく。その時に、芸術がいかに人の心を助けるのかもきっちり描かれます。映画も音楽も。そのあたりを、決して押し付けがましくなく、そっと気づかせてくれる節度ある抑制のきいた演出で見せるんですよ。海外ロケも、異国情緒を醸すためにってわけじゃなく、あくまでふたりの距離を隔てる要因をメインにしたもので、悪い意味での観光映画に陥っていなかったです。そして、画面の奥に映る人物のふとした動作や表情まで配慮が行き届いています。

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主役のふたりもすばらしかった。石田ゆり子はいつもどこか困った顔をしていて、幸が薄そうな感じがするんだけど、ある時はっきりと笑顔を作るんです。僕はそこでついに落涙。福山雅治も、惑う表情に手数があったし、僕は特に声色の使い分けを評価したいです。さすがは当代きってのラジオ・パーソナリティですよ。
 
僕は『ラ・ラ・ランド』を思い出したこの作品。台詞回しは、リチャード・リンクレイターのビフォアシリーズを彷彿ともさせました。では、そのラストは? クライマックス周辺で、コップを使った映画的な見せ場がありましたね。あれは可能性の提示だろうと思うんです。ありえたかもしれない過去と、実際に起きた過去。そこで、感情が溢れ出した蒔野の取る行動は、実際にはコップにどう反映されたのか。含みをもたせての、あのオープン・エンディングは、まことに鮮やかでした。ラストのふたりが歩みだす方向から、こうなるんだろうなという示唆はあるものの、その前にコップの件があるので、また違う解釈もできるのではと僕は考えます。いずれにせよ、あの余韻には、正直に言って、まいりました。
 
下手すりゃ、目も当てられない昼ドラになりかねない題材を、高度に洗練された味わい深い作品に仕立てた西谷監督、ブラボーだったと思います。そりゃ完璧とは言わないし、気になるところもあるにはあるけれど、邦画大作でこの質の高さ、しかも面倒でお金のかかるフィルム撮影の味わいまで画面に出してくれたんですから、やいのやいのつつくより、今はただただ余韻に浸っていたいと心底思います。
福山雅治の演奏は、立派でしたし、いくらギターは弾けるとはいえ、クラシックの訓練には相当な苦労があったろうと想像します。今回の評では、こんな教訓を改めて痛感させられました。人を見かけだけで判断してはいけない。そして、映画は予告だけで判断してはいけない。当たり前なんだけどさ。今週はネタバレに気をつけながら語りましたが、本当はトークショーなんかで、鑑賞済みの人とあれやこれやと語り合いたい作品でした。ちと、もどかしい(笑)
 
さ〜て、次回、2019年11月19日(火)に扱う映画は、スタジオの映画おみくじを引いた結果、『グレタ GRETA』となりました。イザベル・ユペールクロエ・グレース・モレッツの共演で贈る身も凍るスリラーなんですよね… 拾ってはいけない。届けてはいけないバッグ… もう怖いんだけど、どうしよう… あなたも鑑賞したら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。

『トスカーナの幸せレシピ』レビュー第2弾

どうも、僕です。野村雅夫です。現在全国順次上映中のイタリア映画『トスカーナの幸せレシピ』。先日公開したココナツくにこによるレビューに続き、今度は料理業界にいるセサミあゆみのペンによるものをご賞味あれ。

海外の超一流店で料理の腕を磨き、開業したレストランも成功させた人気シェフのアルトゥーロ(ヴィニーチョ・マルキオーニ)。しかし、共同経営者に店の権利を奪われたことで暴力事件を起こし、順風満帆だった人生から転落。地位も名誉も信頼も失った彼は、社会奉仕活動を命じられ、自立支援施設「サン・ドナート園」でアスペルガー症候群の若者たちに料理を教えることになった。 無邪気な生徒たちと、少々荒っぽい気質の料理人の間には、初日からギクシャクした空気が流れる。だがそんな生徒のなかに、ほんの少し味見をしただけで食材やスパイスを完璧に言い当てられる「絶対味覚」を持つ天才青年グイードルイージ・フェデーレ)がいた。祖父母に育てられたグイードが料理人として自立できれば、家族も安心するだろうと考えた施設で働く自立支援者のアンナ(ヴァレリア・ソラリーノ)の後押しもあり、グイードは「若手料理人コンテスト」へ出場することになった。アルトゥーロを運転手にして、グイードは祖父母のオンボロ自動車に乗り込み、コンテストが開催されるトスカーナまでの奇妙な二人旅が始まる。

 

監督:フランチェスコ・ファラスキ

脚本:フィリッポ・ボローニャ、ウーゴ・キーティ、フランチェスコ・ファラスキ

出演:ヴィニーチョ・マルキオーニ、ヴァレリア・ソラリーノ、ルイージ・フェデーレ

原題:Quanto basta

配給:ハーク

2018年、92分

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トスカーナの幸せレシピ』おいしいトスカーナを探して

 

原題“Quanto basta”はレシピの用語では「適量」の意。『トスカーナの幸せレシピ』という邦題はなんだかおいしそう。イタリア映画でミシュランの星はどう描かれるのかしら。料理の世界の端の影に属して十数年、おいしいものにはますます目がなくなっている私にはちょうどいい映画かもしれないと思いつつ、鑑賞。

 

個性豊かな登場人物の料理人たちを通して、料理の面から映画を振り返ってみたい。まず、元・三ツ星シェフのアルトゥーロ。暴力沙汰を起こして、刑務所に収監された後、出所。社会奉仕活動を命じられて、自立支援施設サン・ドナート園で料理を教えることになり、そこでグイドに出会う。

 

そのサン・ドナート園での料理教室の一場面。バルサミコ酢を使うアマトリチャーナのレシピを試してみたいと言うグイドに、アルトゥーロは「アマトリチャーナバルサミコ酢なんてありえない」と反論。さらに「トマトソースのスパゲッティが最高だ。チョコレート風味の料理なんて、クソくらえだ」というような格言めいた言葉を続ける。

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現実のイタリア三ツ星シェフが作るトマトソースのパスタといったら、透明なトマトウォーターを使ったハインツ・ベックのスパゲッティが思い浮かんだ。アルトゥーロはクラシックを愛しているらしいが、トマトソースに見えない透明なトマトソースを受け入れるかどうか。彼がどんな料理で三つ星を取ったのか、気になるところ。

 

そして、アルトゥーロのライバルがマリナーリ。元々、アルトゥーロとマリナーリは同じ師匠に師事していて共同経営で店を開いたけれど、マリナーリはうまいことやって、店を自分だけのものにしてしまったよう。そして、現在四ツ星シェフ。あれ、ミシュランはいつの間に星を四つもあげるようになったんだろう。星付き店舗を複数経営していて、合計で四ツ星なのだとしたら、経営も含めた敏腕シェフだけれども、まあ、ファンタジーということにしておこう。

 

イタリアでの映画批評では、マリナーリのモデルとして、カルロ・クラッコという実在のシェフが想像されるという話がちらほら見えた。クラッコはマリナーリと同じようにテレビでも活躍する高級レストランのシェフ。たしかに、言われてみれば、二人の見た目もなんだか少し似ている?かもしれない。過去には、アマトリチャーナ協会とアマトリチャーナの作り方で一悶着あったようなので、先のアルトゥーロのアマトリチャーナ発言も、クラッコを匂わせたものなのか。

 

イタリア人の料理に対する保守的ぶりといったら、少なくとも、私の知っている十数年前には、なかなかのものだった。外国の料理に寛容な日本でさえ、「おふくろの味」という表現がまだ見られるけれど、イタリアの「マンマの手料理」や「自分のとこの料理」の呪縛はすさまじい。監督のファレスキもひょっとしたら、見慣れない食材の組み合わせや、小さなポーションできれいに盛られた皿が次々に出てくる高級料理を好まないのかもしれない。なぜって、クラッコはそんな人たちから標的にされているような節があるから。ミラノのガッレリーア(日本なら、銀座の一等地を思い浮かべるのがいい)に出しているカフェが高すぎると批判されたり、料理番組で鳩を使えば、動物愛護団体咎められたりと、気の毒に思うところもある。

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作中では、そんなクラッコをモデルにしたらしいマリナーリの解釈した「メディチ家風ティンバッロ」という料理が出てくる。パイ生地で詰め物を包んだ料理で、その詰め物は牛肉などの具材をベシャメルソースで和えたマカロニ。マリナーリのレシピでは、この重たそうな宮廷料理の焼き上がりに、ココアパウダーを振り掛けるという。

 

そこでアルトゥーロの「チョコレート風味クソくらえ」発言が関連してくるのだけれど、アルトゥーロはマリナーリの過去の料理を思い出して、その発言をしたのかな。すると、マリナーリは料理にチョコレート風味を使いがち、ということになる。いやいや、そんな星付きシェフはいないだろう。それではいくらなんでも脚本が浅すぎる、なんていろいろと考えてしまう。

 

最後に、未来の料理人、グイド。料理を食べると何が使われているのか当てられるという、絶対音感ならぬ、いわば絶対味覚の持ち主。でも、バルサミコ酢を使うアマトリチャーナを試しに作ってみたいと言うんだから、頭の中で味の足し算もある程度できるというのではない様子。

 

そしてアスペルガー症候群を患う彼にとって、レシピの「適量」はあいまいで難しい。「おいしい料理に仕上げるのに、必要だと思うだけ入れればいい。自分で決めるんだ」とアルトゥーロに諭されて、その後には、グイドが味見をするシーンが何度か挿入されている。

 

厨房では、食材の状態も環境も、日々変わっていく。自分の感覚で決断することが求められる厨房で、彼は活躍していけるのか。料理人になる若者を育てる機関に勤める者としては、彼が歩む未来を見てみたい。

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こんな料理人たちが登場しているとはいえ、今さらだけれども、実はこの映画には、料理はあまり出てこない。「塩だらのフィレンツェ風」の盛りつけと、例のティンバッロは作業工程や出来上がりが少々。他にも、調理作業や厨房の様子のシーンが少しずつ。監督が「料理の世界を舞台としただけ」と発言していたようで、まさにその通りといった印象。飲食業界を取材した感じでもなく、所作指導もたいしてありそうにもなし。食べることや業界への愛はそんなに感じられない。というわけで、私のように邦題につられて、おいしそうな料理や料理の世界を期待して臨むのはおすすめしない。

 

トスカーナの幸せレシピ」の醍醐味はやっぱり、多様性の理解について描いた物語の方。それぞれに困ったところのあるでこぼこコンビが旅を通して友情を育み、成長していく。大きな波風は立たないし、極悪人も登場しないけれど、ゆったりと安心できる穏やかな流れを楽しんだらいいんだろう。

 

<文:セサミあゆみ>

 

『ジェミニマン』短評

FM COCOLO CIAO 765 朝8時台半ばのCIAO CINEMA 11月5日放送分
映画『ジェミニマン』短評のDJ'sカット版です。

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史上最強と自他ともに認めるスナイパーのヘンリー。彼はアメリカ政府の依頼に基づき、世界の安定のためにと「必殺仕事人」的に暗殺を続けてきたのですが、50代に入って少し衰えを感じるとともに、良心の呵責にもさいなまれ、そろそろ引退しようと考えていました。これが最後かなと取り組んでいたミッションを終えて一息ついたところで、ヘンリーは何者かに襲撃されます。その若者は神出鬼没にして、とても手強いのですが、どうやら自分の動きをすべて把握している様子。それもそのはず、その男ジュニアは、かつて秘密裏に作られていたヘンリーのクローンだったのです。巨大な陰謀の渦の中で、果たしてヘンリーは生き残れるのか。
 
97年に発案されたものの、当時は技術的に困難だとしてお蔵入りしていたこの企画。20年の時を経て、いよいよ形になりました。メガホンを取ったのは、『ブロークバック・マウンテン』と『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』でアカデミー監督賞を2度も獲得している、台湾出身のアン・リー。50歳のヘンリーと23歳のジュニアを、一人二役で演じてみせたのは、ウィル・スミスです。ま、ひとり二役というと語弊があって、ウィル・スミスの動きや表情をCGで再現してあるんですが。

ブロークバック・マウンテン (字幕版) ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日 (字幕版) 

先週この『ジェミニマン』がおみくじで当たってから、eigadaysさんから、観るなら3Dのハイフレームレート方式をオススメいただいていました。一般的な映画は毎秒24コマで撮影されるんですが、これは毎秒120フレームでの撮影なんで、存分に楽しむには、その上映方式が良いと。関西だと、それを完璧な形で余すことなく観せてくれる劇場は、梅田ブルク7のみ。120まではいかなくとも、毎秒60フレーム版の上映ならあちこちであるっちゃあるんですが、上映回数に限りがある中、僕はスケジュールの都合上、不甲斐なくも、ごくごく普通の2Dで先週木曜夜観てしまいました。なので、その技術的すごさは体感しきれていないのが残念なんですが、映画短評、今週もいってみよう!
ファーストカットがいきなり僕の気に入りました。あれはベルギーのリエージュかな。高速鉄道の駅、真っ白な金属製の屋根が湾曲しながら無数に入り組んで、プラットフォームをすっぽり覆っている。その様子を、屋根だけを目いっぱいにカメラは捉え、その白い屋根の網目にまた白い文字でシンプルに「ジェミニマン」というタイトル。クールな見せ方ですよ! この世界には数え切れない思惑があって、そこに主人公が絡められていくことを予感させる。さすがはアン・リー! 待ってました! 
 
その直後、時速300キロ近い高速列車に乗っているターゲットを、数キロ離れた小高い丘からヘンリーが銃で狙う。さらに、今度はヘンリーが何者かに狙われる一連の水辺のシーンでも、僕はかなりワクワクしていました。ウィル・スミスには本当は笑っていてほしいんだよなとか、どうも話の細部で気になるなとかあったけれど、アクションの見せ方の段取りがシャープなんで、とりあえずスルーできるんです。

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で、僕の興奮が最高潮に達するのが、007やミッション・インポッシブルよろしく大胆に場所を移動してのコロンビア、カルタヘナでのバイクチェイスです。あそこで初めて、ヘンリーはジュニアという、若い頃の自分にそっくりな男と相まみえるんだけど、その鏡合わせのシチュエーションに実際に鏡を持ち込む演出でわかりやすくもゾクゾクさせます。そっから、やばい、こりゃヤられるぞってことで建物から外へ出つつ、よりによって警察のオフロードバイクを引ったくってのチェイス。旧市街から新しい街へ移動するのもモチーフに合ってるし、ここがもう最高です。どうやって撮影したんですかって臨場感と、バイクをカンフーのように使ってみせる新鮮なアイデア、しかも、相手は若い頃の自分でCGでこしらえてある。すごい! 2Dで観ざるをえなかった僕ですらシャッポを脱いだくらいなんで、3D + 120ハイフレームレートなら、そりゃもうっていうことですよ。要は、すべての映像が隅から隅まで鮮明で、下手すりゃ現実の僕らの知覚を上回るんじゃないかってな情報量を浴びるスリルときたら。かえすがえすも、体験できていないのが歯がゆいところですが、それでも、つまり普通の映画としてみても、ここには度肝を抜かれました。

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で、そこがクライマックスでしたかね、正直… というのも、今言ったような技術的なハイレベルさや演出の細かい新鮮な工夫の数々が、映画全体のテンポ、話運び、そしてほころびいっぱいの物語と、どうもうまく噛み合ってないんですよ。だいたい、クローンってそりゃDNAはまったく一緒なんだろうけど、育った環境が違うわけだし、年齢も経験も違うってのに、あんな鏡合わせに同じことを考えて同じように行動するものですかって言ったら、そりゃ素人の僕でも違うだろって思ってしまいます。人間って、後天的な要素も大きいはずでしょうから。あと、大義を信じていたとはいえ組織のコマとして動いて人を殺め続けたヘンリーの苦悩と、殺人マシンとして企業に育て上げられたジュニアが、それぞれに覚醒して人生の新たなステージへ入っていくというテーマが後半になって前に出てくると、途端にあの政府の陰謀の話がふにゃふにゃしちゃうというか、主人公たち以外の人間関係がしっかり見えないんで、よくわからなくなってきて、すごく小さな話にも見えてきちゃうという大問題が露呈しました。悪役の言っている「感情のない兵士」がいたほうがいたほうが良かろうって話はテーマとしては面白いんだけど、はっきり言って今の戦場ではドローンとか遠隔操作での爆撃なんかが当たり前になっちゃってるわけで、もちろんPTSDの問題はあるにはあるんだけど、議論の前提がそれこそ20年前からあまり進んでなくてもったいないです。

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それでも、僕は見終わった直後は急いでパンフを買いに行くくらいテンションが上ったんですけど、冷静になって思い返すほどに、技術ばかりを褒めるにいたってしまうのが残念ではありました。とはいえ、もし観られるものなら、映画史に残る果敢なチャレンジを劇場で、しかも極力環境の整った劇場で味わうべき1本であることには変わりありません。
移動手段を都合よくいつも調達してくれるアジア系の調子いい男バロンが、どこからか空飛ぶ応接室ガルフストリームをかっぱらってきて、操縦しながら歌う1曲、Ray CharlesのI Got A Womanを放送ではお送りしました。
 
それにしても、タイトルの『ジェミニマン』ってどうにかならなかったんですかね? だって、このヒーロー映画全盛のご時世ですから、アメコミか戦隊ものかって思っちゃうじゃないですか。英語での響きはわかんないけど、少なくとも日本語で考えると、正直ちとダサいと思うんだよなぁ……


さ〜て、次回、2019年11月12日(火)に扱う映画は、スタジオの映画おみくじを引いた結果、『マチネの終わりに』となりました。日本映画の海外ロケって、微妙な結果を招くことが多いような気がしますが、これはどうでしょうね。原作の平野啓一郎は好きな僕ですが、この作品は未読。はてさて。あなたも鑑賞したら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。

映画『イエスタデイ』短評

FM COCOLO CIAO 765 朝8時台半ばのCIAO CINEMA 10月29日放送分
映画『イエスタデイ』短評のDJ'sカット版です。

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イングランドの海辺の町サフォークで暮らすシンガーソングライターのジャックは、彼の才能を買う幼馴染の女性エリーに支えられて音楽活動を続けているのですが、どうにも鳴かず飛ばず。もういっそ夢は諦めて、エリーのようにフルタイムの中学教師の仕事に戻ろうか… そんな考えが頭をよぎっていたある夜、世界規模で短い停電が起こります。自転車に乗っていたジャックは、真っ暗になった路上でバスに衝突。眠りのトンネルを抜けると、そこはビートルズの存在しない世の中になっていました。何気なく『イエスタデイ』を爪弾けば、仲間もうっとり。以降、ビートルズの曲をカバーする度に、ジャックは栄光の階段を駆け上ることになるのですが、果たしてエリーとの関係は?

スラムドッグ$ミリオネア (字幕版) アバウト・タイム ?愛おしい時間について? (字幕版)

 トレインスポッティング』や『スラムドッグ・ミリオネア』で名高いダニー・ボイルと、『ラブ・アクチュアリー』『ノッティングヒルの恋人』『パイレーツ・ロック』そして僕がこのコーナーでべた褒めした『アバウト・タイム〜愛おしい時間について〜』でこちらも名高いリチャード・カーティスが初タッグを組み、それぞれ監督と脚本を担当しました。シンガーソングライターのジャックをインド系のヒメーシュ・パテルが、その幼馴染エリーを『ベイビー・ドライバー』『マンマ・ミーア! ヒア・ウィ・ゴー』のリリー・ジェームズがそれぞれ演じる他、エド・シーランが本人役で登場しています。

 
僕は先週金曜日にTOHOシネマズ梅田で観まして、公開からしばらく経っての平日昼間でも結構お客さんが入っている印象でした。それでは、映画短評、今週もいってみよう!

まずもって、発想がユニークですよね。そして、これはビートルズでないと成立しない物語でもあります。それほどに、4人が果たした功績がどれほどのものであったか、僕たちは再確認するわけです。なにしろ、ビートルズが後世に与えた影響は、ご承知のようにポピュラー音楽だけにとどまらず、ポップカルチャー全般に及ぶわけですから。病院で目覚めたジャックが、見舞いに来てくれたエリーに冗談を言います。「僕が64歳になっても、まだ僕を必要とし、ご飯を作ってくれるかい?」と。こういう音楽好きのウィットに富んだ会話には、もちろん、我らがブァブ4の『When I'm 64』をたいていの人が知っているという、言わば、現代文化の基礎知識としての前提があるわけです。ところが、エリーは笑いながらも、「どうして64歳なの?」と問い返す。このあたりから、おやおや、様子がおかしいぞとなってきます。
 
そして、このあたりに早速、パラレルワールドものであるこの物語に乗れる乗れないという分水嶺があるように思います。乗れない理由はこういうことでしょう。「もしこの世にビートルズが生まれていなかったら」という設定のSFなのだとしたら、4人が偉大だったからこそ、小ネタ、ギャグとして同じようにこの世から消えてしまったオアシス以外にも、間接的な影響を受けているグループは星の数ほどあるわけで、たとえばエド・シーランにしたところで、今とは違う音楽になっていた可能性が高いだろうと。逆に、こちらもネタとして出てくるコカ・コーラvsペプシみたいなエピソードだって、考えてみればおかしな話で、コークは19世紀、つまりビートルズのとっくの前からあるじゃないか。などなど、SFとして鑑賞すると、どうしても整合性が気になってしまうし、ビートルズのマニアであればあるほど、このネタはもっと掘り下げられただろうといったような不満が湧いてくる。僕は正直、それも致し方ないなと思えるほどに、かなり隙きのある作りだと認めざるをえません。音楽もののSFとして観ると、肩透かしを食う、あるいはまったくもって食い足りない。

アリー/ スター誕生(字幕版) 

ただ、脚本がリチャード・カーティスなんで、そこはラブコメディに寄っちゃうんですよ。で、ラブコメとして観た場合には、僕なんんかは大いに乗れるんです。有名になって巨万の富を得ることと、素朴に愛する人と音楽を大事にして慎ましくも穏やかに暮らすことのどちらを選ぶのか。どちらをも獲得することはかなわないのか? そうした価値を僕たちにも問うてくる内容で、その意味では『アリー/スター誕生』にテーマが近いように感じました。音楽を作ってプレイするシンプルな喜びに商業ががっちり食い込んできて、マーケティングの理論が持ち込まれ、イメージが作者本人の手の届かないところで操作されていく様子も、どちらにも出てきましたよね。それが悲劇に振れるのが「アリー」で、喜劇へ展開するのが本作。エド・シーランもよく引き受けたもんです。ヒールの役回りとなっているマネージャーに、ジャックが売れた今、エドなんてただの踏み台みたいなことを言わせてますしね。

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で、これも意見や好みの分かれるのが、後半に出てくるある人物。ハッとする場面で、取ってつけた感も冷静に考えれば拭えないんですが、今言った幸せの価値というテーマを踏まえれば、ジャックがその人を抱きしめたくなる感情の動きも頷けるし、味わい深くなってきます。

 
結果として、僕はこの作品をチャーミング極まりないものだと言いたい。その理由に、朴訥な女の子を演じさせたらピカイチのリリー・ジェームズの好演と笑顔が眩しいってことも言い忘れてはならないし、自分らしいサイズの幸せを追求することも愛おしいし、ビートルズに限らず過去の遺産が失われることがどれほどの文化的喪失につながるかということも教えてくれます。「イエスタデイ」は「トゥデイ」につながっているわけです。そのうえで、やはりビートルズの音楽があることは愛おしくなるという着地は鑑賞後の満足感も高い。これはもう、ウキウキと音のいい劇場でご覧ください。
音楽を語る時に、どうしても誰それが何年にこういうバックグラウンドで作ったものだとか、知識偏重な内容になりがちですが、良い作品というのはその文脈を離れても成立するということも思い出させてくれます。ジャックがその時々のアレンジで「カバー」する曲たちの素敵なこと。そして、この曲のレコーディング・シーンが楽しかった。世間に認められる前夜のジャックたちが、たとえばゴム手袋をはめてのクラップなど、DIYで工夫を凝らして、音を吹き込んでいく様子は、それこそビートルズたちが手探りにアイデアを反映させていった60年代の様子を彷彿ともさせていました。

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さ〜て、次回、2019年11月5日(火)に扱う映画は、スタジオの映画おみくじを引いた結果、『ジェミニマン』となりましたよ。映画館でそれはそれはよく予告を観てきましたが、イマイチ内容がよくわかっておりません(笑) とりあえず、ウィル・スミスがもうひとりのウィル・スミスと戦うという、少々ややこしそうな展開と絵面が予想されます。ただ、そこは名匠アン・リーの演出だから杞憂に終わるかな。だといいな。あなたも鑑賞したら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。
 

小説『最後の手紙』レビュー 〈核〉に人生を翻弄された女性の物語

どうも、僕です。ポンデ雅夫こと、野村雅夫です。 先月手に取ったのが、イタリアの作家が日本を舞台に書いた小説『最後の手紙』。帯にも出てくる言葉「別れがつらいのは、それだけ多くのものを受け取ったから」は、丸10年僕が在籍したFM802での最後の生放送で引用させてもらいました。

 

 

訳は例によって例のごとく、関口英子さん。小社のメンバーのほとんどが学んだ大阪外国語大学(現在の大阪大学国語学部)イタリア語学科の大先輩なわけですが、今回は共訳。僕に面識はないんですが、横山千里さんも、やはり先輩とのこと。しかも、著者のアントニエッタ・パストーレさんは、かつて我が外大で教鞭をとり、訳のお二方はその教え子なのだとか。なかなかない座組ですよ。静かに興奮した僕は、せっかくならと、女性のメンバー、シナモン陽子にレビューを依頼しました。彼女も僕の同級生なので、後輩である僕たちがリスペクトを込めてお届けする。

 

別れた夫の思い出のみを胸に戦後を生きた女性。
その遺品の手紙が語り出す、悲しい真実とは。
イタリア人の目を通して描く、実話に基づいた「原爆と戦争」の傷跡――

日本人男性と結婚したイタリア人の著者は、結婚の挨拶に広島を訪れた。
義理の叔母ゆり子と話すうち、別れた夫を想い続けるゆり子に興味をひかれていく。深く愛し合っていたふたりは、なぜ引き裂かれてしまったのか。

村上春樹作品の翻訳者が綴った感涙のノンフィクション・ノベル

「二人の悲劇を歴史のせいにするのは、虫が良すぎる事だと分かっています。ですが、幸せになる事は、強い人間だけに与えられた権利なのでしょうか。」
(本文より) 

 

最後の手紙

最後の手紙

 

   『最後の手紙』は、「わたし」によって語られる「ゆり子」の物語である。

 

イタリア人である「わたし」がゆり子と初めて会ったのは1979年のことで、その時、ゆり子は57歳であった。二人がそこから親しい関係を築いていったわけではない。頻繁に顔を合わせる間柄でもなかった。広島県出身の日本人男性とパリで知り合い、結婚した「わたし」は、夫の母親である眞砂子と気が合った。ゆり子は彼女の妹であった。

 

1977年から生活の拠点を日本に移した「わたし」は、1979年、大阪の眞砂子の家で初めてゆり子に会う。再会したのは3年後の1982年で、「わたし」が眞砂子と一緒に数日間、広島の江田島を訪ねたときであった。ゆり子は、この島にある広い平屋造りの生家にひとりで暮らしていた。

 

「わたし」は、ゆり子とそれ以上の接点を持っていない。だが、彼女の持つ雰囲気やその佇まいに「わたし」は惹かれるものを感じていた。ゆり子はいちど結婚したけれど別れたという断片的な情報や、周囲の人たちが彼女に見せる気遣いから、過去に何かがあったことを「わたし」は察する。ゆり子に何があったのか? 江田島で過ごした数日間の出来事を通して、そして眞砂子から聞く話によって、「わたし」はゆり子の来し方を少しずつ理解してゆく。

 

かつてゆり子は、海軍兵学校の学生であった島津嘉昭と知り合い、心を通わせた。1944年春に結婚する頃には士官となっていた彼は、やがて出征する。彼からの便りが途絶えて久しくなった頃、ゆり子は連絡船に乗って広島へと渡った。それが、1945年8月6日の朝のことであった。「本能的に、あと三十分早く着いていたら、自分も命を落としていただろうと悟っていた」。1947年に甲状腺に悪性の腫瘍が見つかり、しばらくしてさらに白血病も発症した。

 

「わたし」はその後離婚し、1993年にイタリアへ帰国。だが眞砂子とは連絡を取り続けていた。この二人の揺るぎない信頼関係こそが物語を成立させている。

 

1995年、ゆり子は73歳でこの世を去った。生前、彼女が誰にも明かすことのなかった秘密を、その4年後に「わたし」は眞砂子から知らされる。原題『愛しいゆり子へ』(Mia amata Yuriko)と邦題『最後の手紙』はこの秘密に関係している。

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著者アントニエッタ・パストーレによる付記では、この小説が実話に基づいていることが明らかにされている。何も語らずに亡くなった一人の被爆者の人生が、表現者を得て、このような物語として紡がれた。そのめぐり合わせに驚く。

 

この作品は、日本と深く関わりをもったパストーレ自身の記録でもある。ほぼ著者自身のものと思われる日本社会の観察や戦争に関する考察は、本書の読みどころのひとつである。

 

付記によれば、この小説は2011年3月の原発事故を受けて書かれた。現在またあらたに、核に生を翻弄される人々がいることへの危惧が本書には込められている。

 

文:シナモン陽子

 

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↑ イタリアでももちろん大人気の村上春樹を多く訳しているアントニエッタ・パストーレ。彼女の翻訳術に迫ったインタビューはこちら。イタリア語だけど、興味のある方はぜひ。

いかがだっただろう。広島・長崎に続き、福島という美しき土地の名を、FUKUSHIMAというアルファベットで、そう、核と放射能の代名詞として世界に知らしめることになるにいたったことに、僕は改めてうなだれてしまいもした。読後、パストーレさんが筆を執った意味に、あなたも思いを致してほしい。

『トスカーナの幸せレシピ』レビュー

どうも、僕です。野村雅夫です。今月11日にYEBIS GARDEN CINEMAで封切られ、現在全国順次公開中のイタリア映画『トスカーナの幸せレシピ』。また1本、こうしてイタリアの作品が日本に紹介されたことを記念して、京都ドーナッツクラブでは2本のレビューを順次こちらで綴ります。まずは、関東在住で、メンバーの中ではいち早く鑑賞したココナツくにこによる文章を、オフィシャルサイトから引用したあらすじに続いてどうぞ。(セサミあゆみによる2本目のレビューは、11月6日にアップしました)

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海外の超一流店で料理の腕を磨き、開業したレストランも成功させた人気シェフのアルトゥーロ(ヴィニーチョ・マルキオーニ)。しかし、共同経営者に店の権利を奪われたことで暴力事件を起こし、順風満帆だった人生から転落。地位も名誉も信頼も失った彼は、社会奉仕活動を命じられ、自立支援施設「サン・ドナート園」でアスペルガー症候群の若者たちに料理を教えることになった。 無邪気な生徒たちと、少々荒っぽい気質の料理人の間には、初日からギクシャクした空気が流れる。だがそんな生徒のなかに、ほんの少し味見をしただけで食材やスパイスを完璧に言い当てられる「絶対味覚」を持つ天才青年グイードルイージ・フェデーレ)がいた。祖父母に育てられたグイードが料理人として自立できれば、家族も安心するだろうと考えた施設で働く自立支援者のアンナ(ヴァレリア・ソラリーノ)の後押しもあり、グイードは「若手料理人コンテスト」へ出場することになった。アルトゥーロを運転手にして、グイードは祖父母のオンボロ自動車に乗り込み、コンテストが開催されるトスカーナまでの奇妙な二人旅が始まる。

 

監督:フランチェスコ・ファラスキ

脚本:フィリッポ・ボローニャ、ウーゴ・キーティ、フランチェスコ・ファラスキ

出演:ヴィニーチョ・マルキオーニ、ヴァレリア・ソラリーノ、ルイージ・フェデーレ

原題:Quanto basta

配給:ハーク

2018年、92分

短気な元一流シェフのアルトゥーロと、アスペルガー症候群の青年、グイードが料理を通じて友情を育む物語。トスカーナの美しい景色を背景に、笑いや感動をQtanto basta(程々)に織り込んだイタリアらしい、心温まる映画である。

 

傷害罪で逮捕されたアルトゥーロは減刑の条件として社会奉仕活動を命じられ、障害者支援センターで料理を教えることになる。そこで出会ったのが僅かな味見で食材と調味料を全て言い当てることのできる、絶対味覚の持ち主グイード。そんな彼がトスカーナで開催される若手料理コンテストに出場することになり、指導役のアルトゥーロと共に初めての旅行に出発するが…

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全体的に物語がうまく行き過ぎている感じがするが、意外にも深みのある映画である。アスペルガー症候群とは、知的障害を伴わない自閉症の一つで近年、年齢を問わず拡大している障害の一種。見た目では判断しにくく、世間の認知度も低いため、いじめやトラブルになることが多い。そんな中、口が悪く怒りっぽい中年男と世間知らずで融通の利かない青年が感化し合うのが新鮮だ。付添人のはずが、逆に主人公が人間性を取り戻していく様に、観客は胸が熱くなる。そのほか恋愛面においてもQuanto basta(程々)を上手に効かせるあたり、さすがはアモーレ(愛)の国、イタリアである。近頃発達障害者の社会適応が問題になる中、本作品がアスペルガーを知るきっかけとなり、一つの生き方に囚われない多様性を理解する社会になって欲しいと思う。

 

とはいえ世間にはどうしても理解し合えない人達もいるわけで… その辺りの演出も見事だった。また脇役陣も素晴らしく、旅する2人を大きな愛で見守る自立支援責任者兼心理学者のアンナや、アルトゥーロの師である伝説の料理人チェルソも良い味を出していた。本作は、日頃生きづらさを感じている人、人生の意味を見い出したい人に特にお勧めである。きっと誰もが鑑賞後に、何らかのヒントを得られることだろう。

 

最後に欲を言うならタイトルにもうひと工夫欲しかった。さすがに邦題で「適量」あるいは「程々」の漢字二文字は厳しかったのかもしれないが、『トスカーナの幸せレシピ』だとどうも違和感を感じるのは私だけなのだろうか。

 

文:ココナツくにこ