京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『天外者』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 1月5日放送分
映画『天外者』短評のDJ'sカット版です。

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江戸末期、黒船の登場に動揺が広がる日本。新時代の到来を予見する薩摩出身の青年武士、五代才助は、攘夷か開国かという短期的な視野ではなく、もっと長い射程で世の中を見ていました。誰もが自由に夢を見て、それを叶えられる社会を作りたい。五代は坂本龍馬岩崎弥太郎伊藤博文らと志をともにしながら、時代のうねりの中へ飛び込んでいきます。

利休にたずねよ 海難1890

監督は、『利休にたずねよ』や『海難1890』の田中光敏。脚本は今挙げた2本でもタッグを組んだ小松江里子。原作小説があるわけではなく、オリジナル・ストーリーです。五代才助、のちの五代友厚を演じたのは、三浦春馬。これが遺作となりました。坂本龍馬を三浦翔平、岩崎弥太郎西川貴教伊藤博文森永悠希と主要キャストを担当した他、森川葵が若き五代に長崎で出会う遊女に扮しています。
 
僕は先週火曜日の昼、TOHOシネマズ梅田で観てまいりましたよ。公開から日が経っていたのでスクリーンは小さい場所になっていますが、驚いたことにほぼ満席。女性ファンを中心に、大勢リピーターも詰めかけているという印象。なんと、終映後には拍手もわきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

まずタイトルとなった耳慣れない言葉、天外者ですが、鹿児島の方言で「お利口さん」「功績をあげた人」という意味と「いたずら小僧」という相反する意味を内包しているのだと、鹿児島弁ネット辞典にありました。天からの子、典雅な人、手柄のある人、語源についても諸説あり。でも、その複数の意味が、すごい才能を持った五代の伝記映画を作る上でハマるということで名付けられました。
 
五代才助という人物は、武士、役人、商売人と、49年の短い生涯の中で、肩書をみるみる変えていきました。彼は世間からどう見られるかにこだわらず柔軟にその時々でなすべきことをなし、あくまでも視線は高く遠く、自らの描く、当時としては相当に進歩的な国の将来像そのものにこだわった。その生き様を、「てんがらもん」と言い表すのは的を射ていると僕も思います。そして、三浦春馬がどの五代を演じても、つまり刀を奮っていても、大阪商工会議所で熱弁を振るっていても、和服でも洋服でも、堂に入っていました。これを見応えと呼ばずして何と呼ぶ。さらに、彼が昨年7月に五代よりも早く他界してしまったことを観ている誰もが知っているがゆえに、僕らは目頭が熱くなります。

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(C)2020「五代友厚」製作委員会
ただですね、残念ながら、映画そのものの出来栄えを客観的に分析すると、評価は厳しくなります。主な原因は脚本です。幕末、明治維新を描くのが難しいのはわかります。登場人物が多くなるし、それぞれの立場もいろいろで変化もしていくから、とかく複雑になりがち。マニアも大勢いるから、批判もされやすいだろうし。それを逆手に取ったと言うべきか、竜馬暗殺など、誰もが知るようなところは大胆に端折ってあるし、僕はそれはそれで良いと思うんですが、僕がよくわからなかったのは、語り手を、物語の導入になる長崎の商人トーマス・グラバーにしてあることです。複雑な人物だから、どっかに貫く視点が必要だということも、グラバーと五代の交友関係がそれほどに豊かだったことはわかるんですが、それならもっとふたりの関係を掘り下げないといけないでしょう。現状、グラバーはナレーターとしての役割のほうが大きいんですよ。たとえばですが、僕は竜馬からの五代、岩崎弥太郎からの、はるからの、妻豊子からのと、時代ごとに彼のことを語る構成にした方が良かったのではないかと考えています。

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(C)2020「五代友厚」製作委員会
「てんがらもん」を描くにあたって、時系列で展開するという伝記映画のスタンダードを採用した結果、五代の生きるスピードに脚本が置いてきぼりをくらったような格好で、結局はダイジェストになっちゃっているんです。演出もそれに引っ張られて、シーンごとにぶつ切れだから、ひとつひとつに力が入っちゃって見せ場をこしらえようとするんで、映画というより紙芝居的なんです。ぶつ切れになるので、状況を説明するためにキャストはよく喋る。で、見せ場ばかりのダイジェストだから、口角泡を飛ばす場面が多くて、竜馬と弥太郎に関しては、なんだかよくわからないが、常にガハハと笑っているか怒っているかっていう感じなんです。平気で独り言も言いますし。で、音楽も悲しいところには悲しい音楽、勇ましいところには勇ましい音楽と、平板な劇伴になっちゃうし… そして、そこまでみんな喋ってるわりには、結局ダイジェストなんで、できごとベースで、肝心の彼の胸の内は大きな声でかき消されています。ハイライトのひとつとなるだろう大阪商工会議所の場面にも、僕は言いたいことがたくさんあるんですが、まぁ、胸の内にしまっておきましょう。

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(C)2020「五代友厚」製作委員会
と、かなり手厳しい評価をくだしてしまいましたが、三浦春馬の勇姿はもちろんそれだけで一見の価値があるし、僕自身はあの時代にそう詳しくないので、五代友厚という英雄のひとりについて、かなり興味が湧いたことは事実です。ただ、この映画だけ観ていると、なんか彼だけで日本の近代化と大阪経済の近代化が図られたみたいにみえるので、そこは今後自分でも調べて見識を広げたいなと思いました。

国の将来を想って、時に孤独な戦いを辞さなかった五代友厚を演じた三浦春馬の叫びをみんなで聴こうと、Fight for your heartをオンエアしました。

 

さ〜て、次回、2021年1月12日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『えんとつ町のプペル』です。キング・コング西野亮廣さんの絵本が、ご自身のプロデュースのもと、ついに劇場アニメ化。話題になっていますね。僕は絵本も含めて、まだ接したことがないので、この機会にえんとつ町を探索します。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す! 

『私をくいとめて』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 12月29日放送分
映画『私をくいとめて』短評のDJ'sカット版です。

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31歳、みつ子。会社員。独身。一人暮らし。休日はひとりで気ままにどこへでも。特に不自由も不満も不安もないのだけれど、なんか足りないような、そうでもないような。そんな彼女が久々に恋に落ちたのです。お相手はみつ子の会社に出入りする少し年下の営業マン、多田くん。両思いかもしれないけれど、なかなか踏み込めない。どうしようかな。彼女に助言をするのは、Aという男性の声。実は、みつ子の脳内には、いつも親身になってくれる相談役Aがいて、みつ子の問いに正しい答えAnswerをくれるのです。

勝手にふるえてろ 私をくいとめて (朝日文庫)

 監督・脚本は大九明子。原作は綿矢りさの同名小説。あの痛快な映画『勝手にふるえてろ』のタッグが再び実現です。みつ子を演じたのは、のん。多田くんは林遣都。そして、みつ子の親友でイタリアに嫁いだ皐月を橋本愛が担当したほか、臼田あさ美片桐はいりも個性あふれる演技で作品に華を添えています。コロナ禍で予定していたイタリアロケができなくなるなど、いくつものハードルを乗り越えながら公開にこぎつけたこの作品。第30回東京国際映画祭では観客賞を獲得しました。

 
僕は先週水曜日の昼過ぎにテアトル梅田で観てまいりましたよ。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

大九明子X綿矢りさのタッグ、今回もすごくいいです。パンフレットによれば、監督は原作を読んで、こう思ったそうです。「切れ味のいい言葉たちの間を、さまざまな色が漂い、ある時はスパークする。この色と言葉をどう映像で描こうかと考え始めていました。私、これ撮らなくちゃ」と。実際、確かに言葉が多いんですよね。みつ子は一人暮らしなんだけど、なにしろ家だろうが外だろうがどこだろうが、常に脳内のAと会話をしている状態なので、めっちゃ喋ってます。これ、ある程度は誰でも経験があると思うんですよ。別の人格というか、Aと名づけるところまでいくのはレアケースかもしれないけれど、ぶつくさ脳内で何か言ってみたり、ひとりでボケてひとりでツッコんだり。何を隠そう、僕がそうですから。でも、これって、映画で普通にやると、主人公のモノローグとして同じ声でアフレコすることになるので、視聴覚的な変化に乏しくて、観客はすぐに飽きちゃうんですよね。言葉数は多いけれど、なんか閉じちゃうというか。それに対して、このAは一応別人格で、感覚としてはSiriとかAIに近いですね。冷静沈着にみつ子を分析して、的を射た提案や助言をしてきます。しかも、声が男性なんですよね。って、考えたら、似たような設定の作品がありましたね、最近。沖田修一監督の『おらおらでひとりいぐも』ですよ。あれは一人暮らしの老婆を、彼女の空想上の別の「おら」が3人も画面に登場して取り囲む。あれは、そのビジュアルが面白かった。3人のおらも、ひとりひとり似ていないという驚異の設定に笑えました。一方、この『私をくいとめて』はというと、逆にAのビジュアルは基本出さないんですよね。だから、この声の主はどんな人なんだろうかと想像が膨らみます。それはラジオを聴いているような感覚に近いんですよ。みつ子は脳内ラジオのリスナーでもあり、DJでもあるということ。

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(C)2020「私をくいとめて」製作委員会
大九監督が原作に見て取ったカラフルな文字表現を、映画ではそのまま映像化するってよりも、バリエーション豊かな音声表現に翻訳してみせたのではないかと僕は考えています。ファンタジックな脳内世界が現実と地続きに展開するという映画ならではの表現ももちろんあるんですが、そのトリガーになる要素としての音使いが冴えに冴えていたのではないかと。ご近所さんのホーミー。食品サンプルを作る揚げ物さながらの音。洗濯機の回る音。玄関ドアや蛍光灯の切れかかる音。ホテルの製氷機の音。などなど。かなり印象に残ります。それから、イケメンなんだけど、スカしているあまり社内で浮いてしまっている「カーター」と呼ばれる青年が登場する時のラテン系の音楽なんかも笑わせてくれます。音使いのうまい監督は信頼できるなと。

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(C)2020「私をくいとめて」製作委員会
ラテンと言えば、ローマに嫁いだ親友皐月のシーン、みつ子が意を決してローマへ尋ねるパートも良かったです。本来なら向こうへ行って撮影するつもりだったそうですが、コロナ禍でかなわなかったんです。でも、転んでもただでは起きないというか、撮影機材をあちらへ送って、現地のチームにこういう映像を撮ってくれと指示。届いたものに、日本でイタリア人と一緒に撮影した屋内や半屋内の演技パートを引っ付けて成立させています。訪問してみたら皐月が妊娠していたという設定は映画オリジナルのようですが、それに加えて、COVID-19を想起させるマスクの演出や、外出を不安がる皐月という要素も加えて、彼女が遠い異国に移住したことをちょっぴり後悔しているという感じが物語に奥行きを出していました。いくらイタリア語ができても、そりゃ不安ですよ。海外に移住して家族を持った友人って、みつ子からすれば格好良くて頼もしい親友なんだけど、それは記号的な捉え方であって、生身の人間としてあえいでいるんだという様子がよく伝わりました。そして、ある種、音使いの変化球として、向こうで皐月の家族・親戚が話すイタリア語に字幕に出さないのがすごく良かったです。僕はイタリア語がわかるけれど、みつ子にはさっぱりなわけで、外国語が言葉でなしに意味のわからない音として入ってくる感じがとてもリアルですね。

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(C)2020「私をくいとめて」製作委員会
大九監督の人の描き方が丁寧だなと思うのは、サブキャラクターの造形です。会社の先輩ノゾミさん、上司の澤田さん、コロッケ屋の親父、姿は見えないけれどクリーニング屋のおばあさんまで、ひとりひとり、あの街に暮らしている実感が持てます。ひとづきあいは大変。ノゾミさんが言うように、人といるためには努力が必要なんだけど、その努力をしたくなるって素直に思えてくるくらい、誰もが愛おしい。みつ子は20代と30代の恋愛の違いにもんどり打っていますが、多田くんとの恋愛が物語の中ですごく大事でありながら、恋愛至上主義になっていない、ただのハッピーなラブコメになっていないのがすごく現代的。みつ子よ、型通りの幸せなんかどうでもいい。君の幸せを抱いて生きていくんだってエールを送りたくなる、そして誰かにやさしくなれる1本でした。

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(C)2020「私をくいとめて」製作委員会
最後にやさしくないことを言えば、尺が長い。あのイタリア・パートと日帰り温泉旅のパートはもっとタイトに運んでほしいって感じました。まぁ、でも、起承転結のくっきりした物語ではなくて、登場人物が自分の感情をどう受け止めるか、あるいは受け止めそこねるかが主眼の話だし、コロナ禍での奮闘もあったろうしって、あっさり良しとしています。それよりも何よりも、おひとりさまの哲学がますます重要になっていると感じる現代社会にとって、ひとつの指標とも言える映画がここに生まれたことを、僕はとても歓迎しています。
 
最後に音楽について。僕はひとりっこでもあるし、みつ子のおひとりさまな思考にとても共感するし、似たような経験もあるなって思うんですね。そんな好意的な観客の一人である僕の「わかりみ」が沸点に達したのは、彼女が大滝詠一の『君は天然色』をココぞという時の勝負曲、人生のテーマソングのひとつにしているとわかった時でした。僕にはいないけど、お前は妹なのかと!
映画のサントラではありませんが、歌手のんの歌も聴きたいなと、物語の内容を踏まえて、『わたしは部屋充』お送りしました。

さ〜て、次回、2021年1月5日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『天外者』です。三浦春馬の勇姿を心して胸に刻んでおけというご託宣だと受け止めました。行ってまいります! あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す! 

『ネクスト・ドリーム ふたりで叶える夢』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 12月22日放送分
映画『ネクスト・ドリーム ふたりで叶える夢』短評のDJ'sカット版です。

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ハリウッドの音楽業界でトップに君臨するベテラン黒人女性シンガー、グレース。いつか音楽プロデューサーとして一旗揚げたいという夢を持つマギーは、グレースの付き人として日々の雑用をこなしてはいるのですが、製作にはまったく関与できず悶々としていました。ある日、マギーの前に現れたのは、才能はあるがまだ磨きがかからずくすぶっているシンガーソングライターのデヴィッド。マギーは彼をプロデュースしたいと仕事の合間にレコーディングを始めるのですが…

WAVES/ウェイブス(字幕版)

本作は脚本家も監督も女性です。脚本は音楽業界に身をおいたこともあるフローラ・グリーソン。監督は配信作品で名を挙げてきたニーシャ・ガナトラ。さらに付け加えるなら、製作総指揮のアレクサンドラ・ローウィーも女性なんですね。マギーには『フィフティ・シェイズ』シリーズや『ソーシャル・ネットワーク』のダコタ・ジョンソン、グレースにはダイアナ・ロスの娘であるトレイシー・エリス・ロスが扮した他、デヴィッド役として『WAVES/ウェイブス』のケルヴィン・ハリソン・Jr.、そしてグレースのマネージャー役としてラッパーのアイス・キューブも出演しています。
 
僕は先週火曜日の昼過ぎに大阪ステーションシティシネマで観てまいりました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

この映画のすばらしいところを、まず列挙しましょう。キャスティングが良い。ロケーションが良い。サントラが良い。脚本が良い。はい、だいたい良いんです。欠点を挙げることもできますが、それら欠点を補って余りある美点がゴロゴロしているのが、この作品の長所です。
 
まずキャスティング。グレースの役どころはとても難しいです。ハリウッドを舞台に、本当にいそうだけど実際にはいないグレースという40代のシンガーソングライターを演じられるのは、トレイシー・エリス・ロス以外にあり得ないし、彼女はグレースを見事に体現しました。大ヒット曲を複数持っていて、キャリアも十分というオーラと自信を放ちつつ、その栄光を傷つけずに新たな挑戦をするにはどうすれば良いのか、焦燥感を募らせているという繊細な弱みも表現する必要がある。練られた衣装やメーキャップの助けを借りながら、トレイシーはグレースとしてスクリーンにいます。
そして、プロデューサーを目指しているマギーを演じたダコタ・ジョンソン。豊富な音楽知識と豊かなセンスを持つマニアであり、野心を持ってグレースに近づいたのは良いけれど、このままではいけないという、これまた焦燥感を抱えながら、チャーミングでユーモアがあって、生真面目だけれど少し抜けている。ダコタ史上最高のダコタを引き出してくれた監督のガナトラさんに感謝です。マギーの前傾姿勢で夢は、きっと若い女性を勇気づけることでしょう。42歳のおじさんですら、そうでした。さらに、彼女は劇中で恋をするんですが、夢を追いながら、今は恋をしている場合じゃないと思いながら、ためらいながらも恋に落ちる様子が最高でした。
加えて、アイスキューブの強面で「こういう人いるんだろうな」っていう敏腕マネージャー感、ケルヴィン・ハリソン・Jr.の愚直で素直な青年っぷりも良かったし、極めつけはビル・プルマンが演じたマギーの父親にしてラジオDJのマックスがすばらしい。かつてはビッグなラジオ局で活躍していて、今はリゾート地の小さなローカル局で番組を持っているマックスの娘との距離感なんて絶妙。あんなDJ、憧れるなぁ。
ロケーションは、もちろんハリウッド、LAなんですが、映画はなかなか舞台の街そのもので撮影できないのが常です。使用許可とか大変ですから。ところが、この作品は幸運にも、そしてスタッフのロケハンと許可取りの成果がスクリーンいっぱいに広がっているので、観光映画的な側面と、そこで生活している感覚を疑似体験させてくれるんです。グレースの豪奢な邸宅も、市民の憩いの場であるトレッキングコースも小さなライブハウスも味わえるんですね。
 
そして、サントラ。音楽映画ですからこれが肝ですが、この映画ではまずアルバムを先に作ってるんです。しかも、統括したのは、マイケル、ホイットニー、マライア、アリアナ・グランデビヨンセ、マルーン5などなどなど… ジャンルを問わず活躍してきた名プロデューサーのロドニー・ジャーキンスコリーヌ・ベイリー・レイ、サラ・アーロンズ、レノン・ステラといった作家陣が曲を書き下ろしています。盤石の布陣ですね。
最後に脚本。業界の裏側を垣間見せながら、ふたりの立場の違う女性の来し方行く末を希望を込めて描き、起承転結の前半は少々もたつくものの、転結の鮮やかさと美しさには目頭が熱くなりました。パンフに評論家の宇野維正氏が寄せた文章に詳しくは譲りますが、グレースが抱える葛藤は真に迫っています。男社会の音楽業界で、表舞台に立つ女性で、40代で、有色人種であるグレースが未来をどう意欲的に描けるのか。実際にそういう条件で全米ナンバーワンを獲得するシンガーはほとんどいません。だから、それが茨の道であることと、だからと言ってひるまずに進むには女性の連帯が必要なことを見事に描いたと思います。
 
以上の理由から、若干甘い評価であることは百も承知で、この映画を僕は強く推したい。映画の神様に感謝感謝の1本でした。

トレイシー・エリス・ロスの堂々たる歌声とグッド・メロディーを楽しめるこの曲のみならず、サントラはどれもすばらしいです。今回の評はずっと流しっぱで書いていました。それから、あちこちで引用される曲たちも、的を射た選曲で、ただ雰囲気を醸すBGMとしてではなく、物語にしっかり組み込んでいたことに好感が持てました。


さ〜て、次回、2020年12月29日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『私をくいとめて』です。攻めた映画を撮り続ける大九明子監督と綿矢りさの原作と言えば、すばらしかった『勝手にふるえてろ』があるじゃないですか。今回は、のんちゃんと林遣都を巻き込んで、どうしたって抱いてしまう期待に応えてくれるのか。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す! 

『100日間のシンプルライフ』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 12月15日放送分
映画『100日間のシンプルライフ』短評のDJ'sカット版です。

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IT系のベンチャー企業を経営する30代の幼馴染パウルとトニー。ふたりはまずまずの成功を収め、好きなものに囲まれながら、結構広いこじゃれたフラットに上下で住んでいます。プログラマーパウルは、自分が作った人工知能搭載アプリNANAを恋人のようにしていて、デジタル依存気味。トニーは自分の見た目を過度に気にする自分大好き人間。ふたりは、ひょんなことから、ある勝負を始めます。持ち物すべてを倉庫に預け、取り戻せるのは1日ひとつずつのみ。期間は100日。どちらが先にギブアップするのか。

365日のシンプルライフ(字幕版)

この話は、もともとドキュメンタリーがあったんですね。フィンランドでブームになりました。そちらのタイトルは、100日ではなく、『365日のシンプルライフ』。その設定をベースに、舞台をドイツ・ベルリンに移しつつ、働き盛りの独身男が財産をかけるゲームへと脚色しました。主役のパウルを演じているフロリアン・ダーヴィト・フィッツが、なんと監督・脚本も手がけています。豊かな才能ですね。そして、親友のトニーはあちらの人気俳優マティアス・シュヴァイクホファーが演じています。
 
僕は先週水曜日の昼過ぎにまたまた京都シネマで観てまいりました。会員になるべきだよってくらいに通っております。最近は課題作がミニシアター作品続きなもんでね。それでは、今週の映画短評、いってみよう。
結論から先にお伝えすると、ハートフルで風刺の効いた巧みなコメディーでした。縦軸には、100日間のゲームとその勝敗の行方があって、横軸に、トニーの恋の行方、パウルの家族との関係、ふたりの会社の今後、浮上するわだかまり、価値観の変化といった要素がいいタイミングで絡んできて、ストーリーラインに起伏と刺激を与えていくという構成。もともとドキュメンタリーがあったということで、フィッツ監督も、これ、自分だったら、あの人だったらどうして乗り越えていくんだろうと、想像を働かせたんだと思うんですよね。映画を観終わると、僕たち観客も、きっと似たような感覚を覚えて帰路につき、家に溢れるものを見ながら、こんなにもたくさんのものが必要なんだろうか、むしろものがたくさんあることによって失われていることもあるだろうし、それにしたってこれはかけがえのないものなんだと愛おしさが増すアイテムを再発見したりと、自分に引き寄せて考えることになるはずです。

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© 2018 Pantaleon Films GmbH / Erfttal Film & Fernsehproduktion GmbH & Co. KG/ WS Filmproduktion / Warner Bros. Entertainment GmbH

まぁ、しかし、小難しくはなくて、語り口はポップそのもの。巧みだと言ったのは、そこです。冒頭、ふたりがゲームに突入するまでの日常描写が既に噴飯ものです。自意識高すぎるイケメンのトニーは、見た目の手入れと筋トレに無我夢中で、鏡の前でも笑顔の練習は欠かさない。明らかに恋も仕事もできるが、どうも胡散臭く、見かけ倒しな雰囲気も。プログラマーである相棒のパウルはと言えば、仮想世界と現実をシームレスに行き来していて、好きなスニーカーの新製品が発売されようものなら、たとえ既に何十足と持っていたとしても手に入れずにはいられない買い物依存症。このあたりの描写のテンポ良く、ネタが細かいので、すべて当てはまらずとも、誰でもひとつくらいは心当たりがあるっていう、前フリになっています。そして、どうやらいいコンビなんですよ、このふたりは。互いに抜けている部分を補い合える間柄。生活にも困っていない独身貴族で、会社まで持ってる。なんなら、持ち過ぎなくらいなんだけど、そこで例のアプリがアメリカのザッカーバーグ的なSNSのキングに売れてしまったもんだから、また大金が転がり込んでくる予定。普通なら、会社のみんなと大喜びでパーティーやって、もうエンドマークなんですが、そこでかねてよりの互いの不満が爆発。「取らぬ狸の大金」を巡ってのゲーム、賭けに酔っ払った勢いで突入。目が覚めると、それぞれの家で裸ですよ。首から鍵をぶら下げてるだけで、あとは文字通り映像通りの裸一貫、すっぽんぽん。

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© 2018 Pantaleon Films GmbH / Erfttal Film & Fernsehproduktion GmbH & Co. KG/ WS Filmproduktion / Warner Bros. Entertainment GmbH

寒い! ふたりはまず食い物よりもあったまる服だと、倉庫へ走るんだけど、会社の仲間たちが押さえた貸し倉庫がまた微妙に遠いのね。ふたりは股間を隠しながら、ベルリンの名所を走る。この手の、小学生、あるいは思春期レベルのライトな下ネタいっぱいで、万国共通の笑いがいい具合です。そして、倉庫にたどり着くと、俺、こんなにものを持ってたのかという家財道具の数々。ところが、向かいのコンテナを借りている美女ときたら、さらに多くの服、また服を所有している様子。なんだ彼女は。ここでトニーとのロマンスが持ち上がる、と同時に、テーマは一段、深くなります。
 
考えてみたら、ドイツは東西に分かれていたわけで、時々見かけますが、過度の消費主義社会へのアンチとしての、東ドイツ懐古描写ってのがここでもスパイスになります。案の定、主人公たちの親、祖父母の世代は、まさにそこで揺れていたわけですから。認知が怪しくなってきているパウルのお祖母さんが大事に所有しているものは何か。達観しているような母親の眼差しがぬくもりを宿すのはなぜか。大の男が恋人でもない女性の膝枕でホッとして心開くのはなぜか。

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© 2018 Pantaleon Films GmbH / Erfttal Film & Fernsehproduktion GmbH & Co. KG/ WS Filmproduktion / Warner Bros. Entertainment GmbH

アッと驚くほどの結論が出るわけではないものの、自分たちの暮らしぶりと価値観の問い直しへとやさしく導いてくれるストーリーラインと映像運び、そして、最後のカメラ目線でのパウルの問いかけも含めて、とにかく巧い1本。正直、話を広げて目先の笑いに夢中になった結果、盛り込みすぎて、テーマのピントがぼやけた印象もありますが… タイトルのわりに、設定がシンプルじゃないのでね。これ、ドイツでの公開は2年前ですが、コロナ禍でそもそもワークライフバランスも改めて見直され、プレゼントを贈り合うクリスマス・シーズン、そして大掃除の時期にぜひご覧いただきたい作品に出会いました。
主題歌は、ベルギーのシンガーソングライター、Milowでした。


さ〜て、次回、2020年12月22日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ネクスト・ドリーム ふたりで叶える夢』です。ダイアナ・ロスの娘やらダコタ・ジョンソンやらアイス・キューブやらが出てくる、ハリウッドの音楽業界内幕ものと聞いてます。そりゃ、音楽ファンにはたまらないでしょうよ、きっと。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す! 

『エイブのキッチンストーリー』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 12月8日放送分
映画『エイブのキッチンストーリー』短評のDJ'sカット版です。

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なんだか知らないけれど、「エイプのキッチン・ストーリー」って予定表に入力してしまっていたんですが、エイプ、類人猿の料理の話ではありません。12歳の少年エイブくんの物語。舞台はニューヨークのブルックリン。デジタルネイティブ世代、エイブくんの家庭は少々複雑。母親はイスラエル人、父親はパレスティナ人。ふたりとも無宗教ではあるものの、双方の両親や親戚の信仰まではコントロールできないし、習慣やもろもろの儀式も違うとあって、なかなか大変。そんな環境でエイブが夢中になっているのは、料理。ある日、フュージョン料理を作るブラジル人シェフ、チコとの出会いが彼に大いなる刺激を与えます。
 
物語の原案と監督を務めたのは、81年生まれ、ブラジル出身でユダヤ系の若手映像作家、フェルナンド・グロスタイン・アンドラーデ。脚本はパレスティナアメリカ人のラミース・イサックとジェイコブ・カデルに頼み、撮影はイタリア人といった具合に、スタッフもかなり国際色豊かです。主演はNetflixのSFホラーシリーズ「ストレンジャー・シングス」で一躍スターとなったノア・シュナップで、彼の映画初主演作となります。ちなみに、現在公開中の『アーニャは、きっと来る』も彼の主演作。引っ張りだこなのがうかがえますね。
 
僕は先週水曜日の昼過ぎに京都シネマで観てまいりました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。
 

昨今、日本だけでなく、世界のあちこちで分断の時代と言われていますね。グローバル化が進んだ一方で、民族・宗教・政治的スタンスなど、それぞれの特性によって似た者同士が近づく一方、それぞれの集団同士は交わらず、理解し合うことがなくなってきている。こうした、たとえばカルチャーギャップが引き起こす軋轢ですけれども、考えてみれば別に最近始まったものではありませんね。それこそ、エイプの時代からあったものだと思います。古くからの問題がここにきて複雑化し、ネットで急加速した高度情報化社会によって、ますますのっぴきならないものになっている状況なんでしょう。争いはないほうが良いけれど、接触・交錯・衝突がやがては融和し、その先に生まれる新しいものってのも必ずあるわけですよ。そんな融和を促してくれるものに、恋と料理があるわけです。

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© 2019 Spray Films S.A.

恋の賜物としてのエイブのような子どもがいて、料理の場合だと、新しいレシピが僕たちの舌と胃袋を満たしてくれる。その最先端の場所のひとつとして、ブルックリンが今回は舞台になっているんだと思います。それにしても、ですよ。ユダヤ教イスラム教ってだけでなく、イスラエルパレスティナの領土問題まであの小さなエイブの家庭の外堀にあるってんですから、まぁ大変です。ここでひとつツイストしてあるのが、両親が結婚を機に無宗教を選択しているということですね。積極的には宗教的なことはしないんだと。ただ、宗教から完全に離れているかというと、そうでもないんですね。結局、親や親戚も近くに住んでいるから、それなりの頻度で会うわけで、彼らが日常的に行っている祈りや儀式、習慣の影響から免れることはできないわけです。このあたりの描写と感覚は非常によくわかります。僕のイタリア人の母も無宗教ですが、向こうのクリスマスの街の雰囲気を懐かしんで話すこともあるわけです。結局、信仰のあるなしとか深浅は別にして、宗教はその社会に根づいていますからね。そのシンボルが食習慣というわけです。

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© 2019 Spray Films S.A.
エイブの気持ち、アイデンティティの揺れというのは、日本とイタリアの血を引く僕にはよくわかります。ひとりっ子という共通点もある。子はかすがいなんて表現もありますけど、かすがいという部品になる子にかかる圧力は、特にまだ未熟な思春期には相当なもので、きっと大人には想像もつかないものです。だからこそ、避難所になるような場所が必要なんですが、それがエイブにとってはSNSでありキッチン=料理というわけです。ひとりっ子なので、家庭内に同世代がいませんから、そこはSNSでカバーして独自のコミュニティーを形成しつつ、家族や親戚以外に自分を導いてくれるような年長者=メンターが必要になれば、親に無断ででも外出して、彼の場合はブラジル人のチコという料理人に大いに影響を受けていきます。

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© 2019 Spray Films S.A.

ここで大事になるのが、チコがフュージョン料理を得意としていること。故郷ブラジルの食習慣をベースに持ちながらも、発想・着想は常に大胆で自由です。そのアイデアがエイブにとって翼となるわけですね。フュージョンという言葉は日本ではともすると料理よりも音楽の方が馴染みがあるかもしれません。ただ、現代の日本の料理はフュージョンそのものだと思います。僕がよく例に出すたらこスパゲティや海鮮のカルパッチョ、いわゆる洋食がその好例ですよ。もともと日本のものでないものを、日本の味付けになじませているわけですから。ただ、考えたら、保守的に見えるイタリア料理だって、素材の代表格トマトが日常的に使われるようになったのは、ここ150年ほどです。原産地のアンデスからやって来た当初は「魔の果物」と言われて日陰者の野菜だったんですね。

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© 2019 Spray Films S.A.

頭の柔らかいエイブは、愛する自分の家族・親戚をフュージョンさせたいと、皿の上で奮闘するわけですが、生み出すのはコンフュージョン、混乱でした。それは料理を習う過程で、誰もが経験するプロセスでもあります。味がまとまらない。それがどう曲がりなりにもまとまっていくのかってのが、物語のテーマと見事に一致しているので、とても観やすい作品になっています。ジャーナリストであり、YouTuberでもあるアンドラーデ監督の柔軟で軽快なカメラワーク、編集技術も、作品の口当たりの良さに貢献しています。尺も89分と観やすいんですが、ドスンとした素材、いくらでも深堀りできる内容なだけに、食い足りなさもありました。それこそ、それぞれの伝統料理の描写、料理のバックグラウンドがもう少し見えても良かったんじゃないか。もうちょい食べたいぞという感じも否めませんが、監督としては安心して楽しめる腹八分目を目指したのかもしれません。それこそ屋台料理のような感覚でこのテーマを味わえる良作でした。
曲はラテンよりのジャズ・カルテットquasimodeを選びました。サントラも、南米の要素を巧みに取り入れたもので、料理のリズムともあっていて楽しかったですよ。
 
さ〜て、次回、2020年12月15日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『100日間のシンプルライフ』です。この超のつく消費主義社会にあって、ゲームとして、あえて所持品すべてを倉庫に預け、本当に必要なものだけを1日ひとつ持ち出していく。そんな設定を読みましたが、まさかすっぽんぽんからスタートするとは… 面白そうじゃないですか。そして、自分の生活の見直しを余儀なくされそうだ。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す! 

映画『ホテルローヤル』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 12月1日放送分
映画『ホテルローヤル』短評のDJ'sカット版です。

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北海道の釧路湿原。最高の景色をバックに佇む小ぢんまりとしたラブホテル、ホテルローヤル。経営者の一人娘である雅代は、得意の絵の才能を伸ばそうと挑んだ美大の受験に失敗。失意のもとに地元に戻り、ホテルを手伝うようになります。出入り業者でアダルトグッズ会社の営業マン宮川への恋心を秘めつつも言い出せないまま、黙々と仕事をこなしています。ある日、ホテルローヤルで死体が見つかる事件が発生。マスコミによる取材攻勢の中、オーナーが病に倒れます。雅代の人生の選択やいかに。
 
原作はこの物語で直木賞を受賞した桜木紫乃の自伝的同名小説。『百円の恋』やNetflixオリジナルの『全裸監督』の監督である武正晴が演出しました。主人公の雅代に波瑠、アダルトグッズの営業マンに松山ケンイチ、父親に安田顕が扮した他、夏川結衣余貴美子友近岡山天音といった面々が脇を固めています。

百円の恋 ホテルローヤル (集英社文庫)

僕は先週の水曜日のお昼にTOHOシネマズ梅田で観てまいりました。平日昼間というタイミングということもあって、僕より上の世代が多めで、女性も多かった印象でしたよ。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

1932年の映画のタイトルがそのままジャンルになった「グランドホテル形式」という物語展開があります。それぞれある程度バラバラにも機能する短い話が、ひとつの場所で相互作用を起こしていく、響き合うようなタイプの群像劇です。原作は7本の連作小説になっているものを、映画ではグランド・ホテル形式で描くことにしたと、武監督はインタビューで語っています。ホテルのオープンから現在に至るまでの30年。オーナーの娘である雅代にとっては、ホテルの歴史がそのまま自分の人生と年齢的に重なるので、狂言回しのようにしてそのところどころに立ち会っていくという構成です。メインとなるのは、死体発見を筆頭に、大小様々なできごとの起こる象徴的な一部屋と、事務所・倉庫・雅代の部屋などホテルの裏側。これはラブホテルという特性上、客室が非日常というハレ、スタッフのいる側が日常というケでもあります。表と裏という言い方もできますが、利用客は社会という表舞台から逃避する場所と捉えるわけでもあるので、この表裏がきっちり分かれるのではなく、交錯するところに面白みがあるなと思いました。

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(C)桜木紫乃集英社 (C)2020映画「ホテルローヤル」製作委員会
たとえば利用客は普通だれかと鉢合わせたくないし、そのためにチェックイン方法なども考えられているわけですけど、そこで火災報知器が鳴ったとしたら… あるいは、清掃員たちスタッフが休憩をする倉庫に換気口を通じて漏れ聞こえてくる会話や喘ぎ声に、固唾を飲んで聞き耳を立てるとか… そして、ホテルの職員が誰かと逢瀬をするとなると、客室ではなく、離れの倉庫を使うとか…
 
いろんなエピソードがありましたが、大別すると2種類でしょうか。ひとつは、愛情の維持・管理の難しさ。その時々で本気で愛したとしても、その感情を持続することが何らかの理由で難しくなった時にどう対処するか。その失敗がゆえに、当人やその家族が深く傷ついてしまうことがままありました。その対比としての、深く長い結びつきが感じられる例も出てきましたね。刹那的な愛の発露の舞台として描かれがちなラブホテルという空間ならではの展開だったと言えます。

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(C)桜木紫乃集英社 (C)2020映画「ホテルローヤル」製作委員会
もうひとつは、自分なりに人生を歩もうとした人と、その人の生み出したものが、長い年月の中で否応なしに廃れてしまうこと。時間の経過の残酷さと言い換えてもいいでしょう。プロローグは、廃墟になっているホテルでヌード写真を撮影しようとした男女の話でした。そこから、カメラのシャッターという仕掛けを通して、長いフラッシュバックとして物語が始まるという構成も、このテーマの効果的な表現を狙ったものです。フラッシュバックは、今では失われてしまったものを描く時により力を発揮しますから。
 
ただ、以上のテーマ設定と演出の狙い、それぞれのエピソードの潜在的な面白みを、映画全体としてうまくまとめられていたかと問われれば、僕には大いに疑問があります。時間が不用意に行ったり来たりしすぎて、多少画面のトーンを変えてはいるものの、時系列がわかりづらいんですね。前後関係が判然としないがために、そもそもグランド・ホテル形式で描き込みづらい登場人物の心理もぼんやりするので、それぞれの転機が急すぎて、紙芝居ばりに、間がスコンと抜けたような印象を持つ場面が多かったです。グランド・ホテル形式は、ひとつ屋根の下で同時間に別のことが起こるのが面白いので、30年ていう時代の変化を描くには、もっと焦点を絞らないと散漫になるなと。そして、雅代という狂言回し的な主人公が、狂言回しには少なくともなってないくらいに傍観者に見えるんです。彼女の人生への踏み込みの浅さも問題でした。

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(C)桜木紫乃集英社 (C)2020映画「ホテルローヤル」製作委員会
一方で、バブル以降の地方都市の疲弊っぷりが街そのものの衰退する景色に見事に重ねられるエピローグは僕は気に入っています。そのグッとくる場面がホテルより街のロケだってのもどうなんだよって感じですが、ともあれ、部分部分でかなり楽しんだことも事実だし、俳優の演技もあちこちで光っているので、どうぞ劇場であなたもご覧になってみてください。

主題歌は、78年、柴田まゆみのカバーなんです。この選曲もおつなもんだし、シンガー・ソングライターLeolaが歌うバージョンも良かった。

さ〜て、次回、2020年12月8日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『エイブのキッチンストーリー』です。先日、ぴあ関西版映画担当の華崎さんが番組で紹介してくれていた、この作品。複雑な出自を持つ少年が料理を通してアイデンティティを確立していけるのかというお話のようですが、ある種の寓話としても読み解けそうですね。ノア・シュナップくんの映画では初主演かな? あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す! 

モルタッチは魔法のことば

「ブオニッシモ」という言葉を耳にしたことはないだろうか。「美味しい」を意味する「ブオーノ」の語尾が変化したもので、協調の意味が加わり「めちゃくちゃ美味しい」となる。イタリア語で書くと”buono”の語尾の“o”の部分が”issimo”に変わって”buonissimo”だ。音楽用語の「フォルテ」から「フォルティッシモ」、「ピアノ」から「ピアニッシモ」も同様の変化で、前者は「強く(演奏する)」が「めちゃくちゃ強く(演奏する)」となり、後者は「静かに(演奏する)」が「めちゃくちゃ静かに(演奏する)」となる。このように語尾をいじることで、もとの言葉に意味合いが加わるのが、イタリア語の大きな特徴だ。

”issimo”以外にも、さまざまな語尾変化がある。例えば”ino”とすると「小さな」の意味が付加され、”one”は「バカでかい」となる。そして今回のテーマとなる”accio”は侮蔑としての「クソ」の意味合いが加えられる。例えば、少年は”ragazzo”というのだが、”ragazzaccio”は「クソ少年」ということになる。いたずらをした少年を、近所のおばさんが「このラガッツァッチョめ!」と叱りつけるのだ。

つまり”accio”の語尾変化は悪口を言うときに頻出するのだが、ローマ弁の悪口で”accio”を活用した「リ・モルタッチ・トゥア」なるものが存在する。この“Li mortacci tua”をスタンダードなイタリア語に直すと”I mortacci tuoi”だ。冒頭の”I”は男性名の複数形につける定冠詞、”tuoi”は所有形容詞の「あなたの」。これらに挟まれた名詞”mortacci”というのは死人を意味する”morto”の語尾をaccioに変化させて”mortaccio”、さらにそれを複数形になって”mortacci”だ。まとめると「お前のクソ死人ども」ということになるが、ここで言う死人というのはご先祖さまのことで、つまり悪口を言われる対象の自分だけではなく、先祖もろともクソ扱いされるという超ド級の悪口になる。

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ゼロカルカーレ、言われてみると、ちょっとフランス人っぽいですね~♪

 

そんな「リ・モルタッチ・トゥア」も、TPOによっては良い意味にもなると、漫画家ゼロカルカーレは主張する。フランス人とイタリア人のハーフであるゼロは、生まれはローマではないが、子どもの頃にローマ郊外レビッビアに引っ越し、高校時代から落書きのような独特のタッチで漫画を描き始め、そこで暮らす自らの無為な生活と、社会問題を絡めたとめどない独白を描き散らし、ローマのアンダーグラウンド・シーンで多くのファンを獲得し、いっきに全国区に上り詰めた。

彼の育ったレビッビアというのは、地下鉄の終点という閉塞感、刑務所があるという圧迫感、郊外に延びる幹線道路のわびしさなどの特徴から、治安の悪いローマ郊外のなかでも異彩を放っている。そこでは、まさに「リ・モルタッチ・トゥア!」とののしり合う日常生活が営まれているのだが、レビッビアの「リ・モルタッチ・トゥア」には、ドギツイ方言を耳にしたときに覚えるほっこり感もある。言うなれば、石川啄木上野駅で故郷の訛りを聞いて安堵するのと同じ効用がある……のかもしれない。とにかく、額面通りの「クソ先祖ども」の意味合いだけではない、親しみのニュアンスがそこにはにじみ出ている。

こうなってくると難しいのが日本語訳だ。誇張するとイタリアで『鬼滅の刃』くらい売れているゼロカルカーレなので、マニアックな内容ではあるが、日本でも作品が発表されている。ゼロカルカーレの原作をもとに映画化された『アルマジロの予言』が2019年イタリア映画祭の機会に東京と大阪で上映され、2015年の代表作『コバニ・コーリング』が今年の9月に出版された。『アルマジロの予言』は、子どものころ好きだった女の子の訃報を受け、戸惑いながらも悶々とした日々を過ごす実話風の青春物語で、字幕を付けたのは、このブログの主、野村雅夫を中心とする京都ドーナッツクラブのメンバーだ。いっぽう『コバニ・コーリング』はレビッビアで鬱屈した生活を過ごすゼロが、シリア北部の自治区ロジャヴァを訪れるルポルタージュで、主に現代イタリア文学を訳している栗原俊秀さんが訳された。


La Profezia dell'Armadillo - Trailer Ufficiale Italiano HD

ジャンルは違えど、両作品のなかに、悪い意味ばかりではないという文脈で「リ・モルタッチ・トゥア」というセリフが出てくる。映画『アルマジロの予言』では「チクショ-」と訳され、単行本『コバニ・コーリング』では「これはローマ方言で『お前のご先祖でべそ』を意味するが、文脈によって侮辱にも愛情表現にもなる、たいへん可塑性に富んだ表現である」と原註が付けられた。

正しい答えがないのが翻訳なので、同じ訳にならないのは当然だ。そして映画では長くて数秒という厳しい時間制限があり、単行本でも物語の流れを止めてしまわない巧みなテクニックが必要となる。当然ながら、私がここでつらつらと解説した「リ・モルタッチ・トゥア」の意味に触れる暇なんてまったくない。それは裏を返すと、ゼロカルカーレの仕掛ける言葉には、それだけ意味が濃く詰まっている場合もあるということだ。数秒、数ページで過ぎ去る訳文のはざまに、その濃さを感じ取ることができれば、最高の鑑賞/読書体験になるに違いない。

ちなみに12月20日までオンラインで特別に開催されているイタリア映画祭で『アルマジロの予言』は鑑賞できるし、単行本『コバニ・コーリング』も絶賛発売中だ。ぜひ「視聴する」をクリックして、手に取って、濃厚なゼロカルカーレの世界を味わってほしい。

そして両作品の訳者である栗原さんと京都ドーナッツクラブ野村が参加するオンライン講演会が来る11月28日(土)に開催される。この記事や作品に触れて気になった方は、ご参加のほど、よろしくお願いします。

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イタリア映画祭『アルマジロの予言』

単行本『コバニ・コーリング』試し読み

オンラインセミナー『イタリア語翻訳の魅力:漫画家ゼロカルカーレ』

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