『私をくいとめて』短評
監督・脚本は大九明子。原作は綿矢りさの同名小説。あの痛快な映画『勝手にふるえてろ』のタッグが再び実現です。みつ子を演じたのは、のん。多田くんは林遣都。そして、みつ子の親友でイタリアに嫁いだ皐月を橋本愛が担当したほか、臼田あさ美や片桐はいりも個性あふれる演技で作品に華を添えています。コロナ禍で予定していたイタリアロケができなくなるなど、いくつものハードルを乗り越えながら公開にこぎつけたこの作品。第30回東京国際映画祭では観客賞を獲得しました。
『ネクスト・ドリーム ふたりで叶える夢』短評
さ〜て、次回、2020年12月29日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『私をくいとめて』です。攻めた映画を撮り続ける大九明子監督と綿矢りさの原作と言えば、すばらしかった『勝手にふるえてろ』があるじゃないですか。今回は、のんちゃんと林遣都を巻き込んで、どうしたって抱いてしまう期待に応えてくれるのか。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!
『100日間のシンプルライフ』短評
IT系のベンチャー企業を経営する30代の幼馴染パウルとトニー。ふたりはまずまずの成功を収め、好きなものに囲まれながら、結構広いこじゃれたフラットに上下で住んでいます。プログラマーのパウルは、自分が作った人工知能搭載アプリNANAを恋人のようにしていて、デジタル依存気味。トニーは自分の見た目を過度に気にする自分大好き人間。ふたりは、ひょんなことから、ある勝負を始めます。持ち物すべてを倉庫に預け、取り戻せるのは1日ひとつずつのみ。期間は100日。どちらが先にギブアップするのか。
まぁ、しかし、小難しくはなくて、語り口はポップそのもの。巧みだと言ったのは、そこです。冒頭、ふたりがゲームに突入するまでの日常描写が既に噴飯ものです。自意識高すぎるイケメンのトニーは、見た目の手入れと筋トレに無我夢中で、鏡の前でも笑顔の練習は欠かさない。明らかに恋も仕事もできるが、どうも胡散臭く、見かけ倒しな雰囲気も。プログラマーである相棒のパウルはと言えば、仮想世界と現実をシームレスに行き来していて、好きなスニーカーの新製品が発売されようものなら、たとえ既に何十足と持っていたとしても手に入れずにはいられない買い物依存症。このあたりの描写のテンポ良く、ネタが細かいので、すべて当てはまらずとも、誰でもひとつくらいは心当たりがあるっていう、前フリになっています。そして、どうやらいいコンビなんですよ、このふたりは。互いに抜けている部分を補い合える間柄。生活にも困っていない独身貴族で、会社まで持ってる。なんなら、持ち過ぎなくらいなんだけど、そこで例のアプリがアメリカのザッカーバーグ的なSNSのキングに売れてしまったもんだから、また大金が転がり込んでくる予定。普通なら、会社のみんなと大喜びでパーティーやって、もうエンドマークなんですが、そこでかねてよりの互いの不満が爆発。「取らぬ狸の大金」を巡ってのゲーム、賭けに酔っ払った勢いで突入。目が覚めると、それぞれの家で裸ですよ。首から鍵をぶら下げてるだけで、あとは文字通り映像通りの裸一貫、すっぽんぽん。
寒い! ふたりはまず食い物よりもあったまる服だと、倉庫へ走るんだけど、会社の仲間たちが押さえた貸し倉庫がまた微妙に遠いのね。ふたりは股間を隠しながら、ベルリンの名所を走る。この手の、小学生、あるいは思春期レベルのライトな下ネタいっぱいで、万国共通の笑いがいい具合です。そして、倉庫にたどり着くと、俺、こんなにものを持ってたのかという家財道具の数々。ところが、向かいのコンテナを借りている美女ときたら、さらに多くの服、また服を所有している様子。なんだ彼女は。ここでトニーとのロマンスが持ち上がる、と同時に、テーマは一段、深くなります。
アッと驚くほどの結論が出るわけではないものの、自分たちの暮らしぶりと価値観の問い直しへとやさしく導いてくれるストーリーラインと映像運び、そして、最後のカメラ目線でのパウルの問いかけも含めて、とにかく巧い1本。正直、話を広げて目先の笑いに夢中になった結果、盛り込みすぎて、テーマのピントがぼやけた印象もありますが… タイトルのわりに、設定がシンプルじゃないのでね。これ、ドイツでの公開は2年前ですが、コロナ禍でそもそもワークライフバランスも改めて見直され、プレゼントを贈り合うクリスマス・シーズン、そして大掃除の時期にぜひご覧いただきたい作品に出会いました。
さ〜て、次回、2020年12月22日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ネクスト・ドリーム ふたりで叶える夢』です。ダイアナ・ロスの娘やらダコタ・ジョンソンやらアイス・キューブやらが出てくる、ハリウッドの音楽業界内幕ものと聞いてます。そりゃ、音楽ファンにはたまらないでしょうよ、きっと。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!
『エイブのキッチンストーリー』短評
恋の賜物としてのエイブのような子どもがいて、料理の場合だと、新しいレシピが僕たちの舌と胃袋を満たしてくれる。その最先端の場所のひとつとして、ブルックリンが今回は舞台になっているんだと思います。それにしても、ですよ。ユダヤ教とイスラム教ってだけでなく、イスラエルとパレスティナの領土問題まであの小さなエイブの家庭の外堀にあるってんですから、まぁ大変です。ここでひとつツイストしてあるのが、両親が結婚を機に無宗教を選択しているということですね。積極的には宗教的なことはしないんだと。ただ、宗教から完全に離れているかというと、そうでもないんですね。結局、親や親戚も近くに住んでいるから、それなりの頻度で会うわけで、彼らが日常的に行っている祈りや儀式、習慣の影響から免れることはできないわけです。このあたりの描写と感覚は非常によくわかります。僕のイタリア人の母も無宗教ですが、向こうのクリスマスの街の雰囲気を懐かしんで話すこともあるわけです。結局、信仰のあるなしとか深浅は別にして、宗教はその社会に根づいていますからね。そのシンボルが食習慣というわけです。
ここで大事になるのが、チコがフュージョン料理を得意としていること。故郷ブラジルの食習慣をベースに持ちながらも、発想・着想は常に大胆で自由です。そのアイデアがエイブにとって翼となるわけですね。フュージョンという言葉は日本ではともすると料理よりも音楽の方が馴染みがあるかもしれません。ただ、現代の日本の料理はフュージョンそのものだと思います。僕がよく例に出すたらこスパゲティや海鮮のカルパッチョ、いわゆる洋食がその好例ですよ。もともと日本のものでないものを、日本の味付けになじませているわけですから。ただ、考えたら、保守的に見えるイタリア料理だって、素材の代表格トマトが日常的に使われるようになったのは、ここ150年ほどです。原産地のアンデスからやって来た当初は「魔の果物」と言われて日陰者の野菜だったんですね。
頭の柔らかいエイブは、愛する自分の家族・親戚をフュージョンさせたいと、皿の上で奮闘するわけですが、生み出すのはコンフュージョン、混乱でした。それは料理を習う過程で、誰もが経験するプロセスでもあります。味がまとまらない。それがどう曲がりなりにもまとまっていくのかってのが、物語のテーマと見事に一致しているので、とても観やすい作品になっています。ジャーナリストであり、YouTuberでもあるアンドラーデ監督の柔軟で軽快なカメラワーク、編集技術も、作品の口当たりの良さに貢献しています。尺も89分と観やすいんですが、ドスンとした素材、いくらでも深堀りできる内容なだけに、食い足りなさもありました。それこそ、それぞれの伝統料理の描写、料理のバックグラウンドがもう少し見えても良かったんじゃないか。もうちょい食べたいぞという感じも否めませんが、監督としては安心して楽しめる腹八分目を目指したのかもしれません。それこそ屋台料理のような感覚でこのテーマを味わえる良作でした。
映画『ホテルローヤル』短評
モルタッチは魔法のことば
「ブオニッシモ」という言葉を耳にしたことはないだろうか。「美味しい」を意味する「ブオーノ」の語尾が変化したもので、協調の意味が加わり「めちゃくちゃ美味しい」となる。イタリア語で書くと”buono”の語尾の“o”の部分が”issimo”に変わって”buonissimo”だ。音楽用語の「フォルテ」から「フォルティッシモ」、「ピアノ」から「ピアニッシモ」も同様の変化で、前者は「強く(演奏する)」が「めちゃくちゃ強く(演奏する)」となり、後者は「静かに(演奏する)」が「めちゃくちゃ静かに(演奏する)」となる。このように語尾をいじることで、もとの言葉に意味合いが加わるのが、イタリア語の大きな特徴だ。
”issimo”以外にも、さまざまな語尾変化がある。例えば”ino”とすると「小さな」の意味が付加され、”one”は「バカでかい」となる。そして今回のテーマとなる”accio”は侮蔑としての「クソ」の意味合いが加えられる。例えば、少年は”ragazzo”というのだが、”ragazzaccio”は「クソ少年」ということになる。いたずらをした少年を、近所のおばさんが「このラガッツァッチョめ!」と叱りつけるのだ。
つまり”accio”の語尾変化は悪口を言うときに頻出するのだが、ローマ弁の悪口で”accio”を活用した「リ・モルタッチ・トゥア」なるものが存在する。この“Li mortacci tua”をスタンダードなイタリア語に直すと”I mortacci tuoi”だ。冒頭の”I”は男性名の複数形につける定冠詞、”tuoi”は所有形容詞の「あなたの」。これらに挟まれた名詞”mortacci”というのは死人を意味する”morto”の語尾をaccioに変化させて”mortaccio”、さらにそれを複数形になって”mortacci”だ。まとめると「お前のクソ死人ども」ということになるが、ここで言う死人というのはご先祖さまのことで、つまり悪口を言われる対象の自分だけではなく、先祖もろともクソ扱いされるという超ド級の悪口になる。
ゼロカルカーレ、言われてみると、ちょっとフランス人っぽいですね~♪
そんな「リ・モルタッチ・トゥア」も、TPOによっては良い意味にもなると、漫画家ゼロカルカーレは主張する。フランス人とイタリア人のハーフであるゼロは、生まれはローマではないが、子どもの頃にローマ郊外レビッビアに引っ越し、高校時代から落書きのような独特のタッチで漫画を描き始め、そこで暮らす自らの無為な生活と、社会問題を絡めたとめどない独白を描き散らし、ローマのアンダーグラウンド・シーンで多くのファンを獲得し、いっきに全国区に上り詰めた。
彼の育ったレビッビアというのは、地下鉄の終点という閉塞感、刑務所があるという圧迫感、郊外に延びる幹線道路のわびしさなどの特徴から、治安の悪いローマ郊外のなかでも異彩を放っている。そこでは、まさに「リ・モルタッチ・トゥア!」とののしり合う日常生活が営まれているのだが、レビッビアの「リ・モルタッチ・トゥア」には、ドギツイ方言を耳にしたときに覚えるほっこり感もある。言うなれば、石川啄木が上野駅で故郷の訛りを聞いて安堵するのと同じ効用がある……のかもしれない。とにかく、額面通りの「クソ先祖ども」の意味合いだけではない、親しみのニュアンスがそこにはにじみ出ている。
こうなってくると難しいのが日本語訳だ。誇張するとイタリアで『鬼滅の刃』くらい売れているゼロカルカーレなので、マニアックな内容ではあるが、日本でも作品が発表されている。ゼロカルカーレの原作をもとに映画化された『アルマジロの予言』が2019年イタリア映画祭の機会に東京と大阪で上映され、2015年の代表作『コバニ・コーリング』が今年の9月に出版された。『アルマジロの予言』は、子どものころ好きだった女の子の訃報を受け、戸惑いながらも悶々とした日々を過ごす実話風の青春物語で、字幕を付けたのは、このブログの主、野村雅夫を中心とする京都ドーナッツクラブのメンバーだ。いっぽう『コバニ・コーリング』はレビッビアで鬱屈した生活を過ごすゼロが、シリア北部の自治区ロジャヴァを訪れるルポルタージュで、主に現代イタリア文学を訳している栗原俊秀さんが訳された。
La Profezia dell'Armadillo - Trailer Ufficiale Italiano HD
ジャンルは違えど、両作品のなかに、悪い意味ばかりではないという文脈で「リ・モルタッチ・トゥア」というセリフが出てくる。映画『アルマジロの予言』では「チクショ-」と訳され、単行本『コバニ・コーリング』では「これはローマ方言で『お前のご先祖でべそ』を意味するが、文脈によって侮辱にも愛情表現にもなる、たいへん可塑性に富んだ表現である」と原註が付けられた。
正しい答えがないのが翻訳なので、同じ訳にならないのは当然だ。そして映画では長くて数秒という厳しい時間制限があり、単行本でも物語の流れを止めてしまわない巧みなテクニックが必要となる。当然ながら、私がここでつらつらと解説した「リ・モルタッチ・トゥア」の意味に触れる暇なんてまったくない。それは裏を返すと、ゼロカルカーレの仕掛ける言葉には、それだけ意味が濃く詰まっている場合もあるということだ。数秒、数ページで過ぎ去る訳文のはざまに、その濃さを感じ取ることができれば、最高の鑑賞/読書体験になるに違いない。
ちなみに12月20日までオンラインで特別に開催されているイタリア映画祭で『アルマジロの予言』は鑑賞できるし、単行本『コバニ・コーリング』も絶賛発売中だ。ぜひ「視聴する」をクリックして、手に取って、濃厚なゼロカルカーレの世界を味わってほしい。
そして両作品の訳者である栗原さんと京都ドーナッツクラブ野村が参加するオンライン講演会が来る11月28日(土)に開催される。この記事や作品に触れて気になった方は、ご参加のほど、よろしくお願いします。
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