京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

影のかぞえうた     (旧ブログ『大阪ドーナッツクラブのあれこれ』への投稿記事)

 先日の『みやびないと』で上映した2本目の作品です。

 イメージフォーラム付属映像研究所の夏課題の作品でした。

 夏っぽい映像が撮りたくて仕方がなかったんですよ。浴衣とか花火とか日傘とか。夏独特の小道具ってありますよね。薄手のワンピースもそうだ。断じて。そんなありふれたイメージを使って、僕も何かしたい。しておきたいってことですね。やっぱり夏は“熱い”。くらくらしてましたよ。ロケをした滋賀県朽木村で。

 2004年の僕というのは、詩を映画にすることばかり考えてました。詩は散文と違って文法の拘束を受けなくてもいい。物語を見せるというよりも、表現そのものをできる限り裸に近い状態で見せたい。そんなことを考えてました。10分そこそこの映画だったら、それでも十分付き合ってもらえるんではないかなと。

 都会から夏休みに田舎へ帰ってきた女性の胸に去来する、過ぎた恋の記憶。今はもう使われなくなった蔵の脇にそびえる大木から、苔や土に覆われかけたアスファルトから、真っ盛りの夏を冷やしむる夕立から、彼女の想いは徐々に息を吹き返していきます。眠れぬ夜は、たとう紙をほどいて姿見に大事な浴衣を焼き付ける。でも、うたかたの恋の思い出ですから、どうしたってあまりのはかなさにつらくもなってしまいます。もはや帰らない憧憬に、彼女はしとど枕を濡らすのです。翌朝、彼女は浴衣を川へ流します。淋しいけれどもきっぱりと。決然と。

 ひとりぼっちなんだと気づいたけれど、それは決して無為なことではなかった。夏の帰郷が、これからの彼女をそっと後押しする。やわらかく彼女の背を押す。

 ラストシーンは、観る人の心理によって、捉えかたによって、意見が分かれているようです。どこまでも彼女から遠ざかっていく映像が切ないという人もいれば、いやいや淡い希望をはらんでいるではないかと微笑む人も。

 作品の冒頭と後半で一部引用した寺山修司の詩が、この映画を作るきっかけでした。
 「魚はみんな誰かの流した手紙です」

 って言われたらね、映画撮りますよ、人は。撮らないか、人は。どっちだ。ま、ともかく寺山修司の詩には僕の好きなものが多いんですが、今年は生誕70年、角川が装いも新たにこの春文庫を刷りなおしましたよね。装丁も素敵だし(モデルの娘がかわいいんだな)、フェアーなんかもやってます。宣伝してもしょうがないんだけど、寺山へのせめてもの恩返しですよ。彼も困るかもしれないけど。