京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

アイデンティティー・クライシス 〜君の名は〜     (旧ウェブサイトコラム『ローマで夜だった』)

 おぎゃあとこの世に生を受けてから早くも、そして辛くも四半世紀を超えている僕ですから、当然ながら、人生の酸いも甘いもそれなりに人並みに経験してきました。たくさんのものを手にしてきましたし、同時に多くのものを失いもしてきました。失うというと何かとネガティブなイメージがつきまといがちですが、必ずしも悪いことばかりではないんですよ。もともと自分にとってマイナスだったものを失った場合には、転じてプラスになってしまうこともありますから。

 ここでとっておきの暇つぶしをお教えしましょう。大学ノートを用意して、ページに3本の縦線を引きます。左から、失いたいもの、失っても構わないもの、できれば失いたくないもの、何が何でも失いたくないものをそれぞれリスト・アップしていくんです。こうすると暇がつぶれるだけでなく、自然と自分自身と向かい合うことになり、今自分が置かれている状況とか普段は意識しない深層心理と対峙することができますよね。まさに一石二鳥です。忙しい生活の間隙を縫ってリストを作り続ければ、もしかすると日記なんかよりもずっと雄弁に自分の足跡を語ってくれるやも知れません。さて、このリストの右端、つまり「何が何でも失いたくないもの」の欄にはどんなものが書き込まれるものでしょうか? 恋人とかお金とか地位とか土地とか、いろいろあるでしょうね。こういうのは裏を返せば、ほしいものリストにも当てはまるようなものですね。ちょっとキザな人は情熱とか書いてしまうかもしれません。考え出せばそれこそキリがないように思えてくるんですけど、アイデンティティーと書く人もいるのではないでしょうか。これは確かに大事ですよね。ただ、この言葉は意味場が広いので、いささか曖昧な感じがしますね。そこで、アイデンティティーの中で最も具体的なもののひとつは何かと考えたときに、名前があると思うんです。よくよく考えてみると、こんなに重要なものもないじゃないかしら。僕はどこまでいってもポンデ雅夫であって、有北クルーラーではないんです。当たり前なんだけど、要するに一生付いて回るものなんですよね。ごくごく稀に改名する人もいるけど、それだって名前が重要なものだからこそですね。例によって前置きが長くなったんですが、今回は名前の話をしたいんです。

 コメディーのいわゆる「ツカミ」とか「くすぐり」のモチーフとして名前を呼び間違えるという手法は実によく使われます。例を挙げてもいいのだけど、枚挙に暇がないのでやめます。心当たりがない人はレンタルビデオ屋さんのコメディー・コーナーで映画を2、3本借りてくれば、きっとこのギャグが用いられているケースに出会うと思うんで、やってみてください。これって他人事である場合には笑ってられるんですよね。だけど自分の名前が間違われた日には、笑ってなどいられません。誰しもが電光石火でつっこむはずです。まさにアイデンティティー・クライシス。ただごとじゃないんですよ。

 でも、やっぱり覚えにくい名前ってありますね。山崎さん、梶原さんなんか大変だと思うんです。濁るか否かは他人にとってはどうでもいいことに思えるんですけど、当事者にとってはどうでもいいわけありませんから。単純に漢字が読めにくい名前もありますね。巽さんもきっと苦い経験をされていることでしょう。誰ですか? 巽さん本人のいないところで「あいつ何ていったっけ? 選挙の選のしんにょうのない人だよね?」とか言ってるのは?

 ただですよ、日本人なら人生経験で徐々にカバーしていくとしても、外国人の名前はこれまた厄介なものです。何たって馴染みが薄いですからね。間違っているのではないかという疑いすら湧いてきません。ハリウッドのアクション俳優のブルース・***スさんとかね。まぁ、かく言う僕も中学校のときにはフビライ・ハンのことをフライビ・ハンだと思ってましたし、ハンなのかハーンなのかは今もってよくわかりません。ひどいもんです。この類の話は掃いて捨てるほどあるので、とにかく先を急ぐことにします。

 僕は現在ローマに住んでいるわけですが、この由々しきクライシスを迎えている日本人を頻繁に目撃します。イタリア人からすれば、当然覚えづらいでしょうからね。

 先日『瀬にうかぶ魚』(イタリア語版タイトルPesci a galla nelle secche、野村雅夫、2005年)という自分のフィルムに字幕をつけていて困ったことがあったんです。千尋さんという女性に出演してもらっていたので、エンド・クレジットには Chihiro と表記することになります。ただ、ここで僕は大いなる不安に駆られました。イタリア人はちゃんと「ちひろ」と読んでくれるだろうか? というのも、アルファベットのKを使わないイタリア語では、頭の chi で、「キ」と読むんです。「きひろ」になりました。この時点でも由々しき事態なんですが、さらにもうひとつの峠が…。実を言うと、 H はイタリア語では発音しないことになってるんです。 hotel とあれば、彼らは「オテル」と読むんです。この規則を「ちひろ」改め「きひろ」さんにあてはめると、「きいろ」になってしまうわけです。もはや誰だかわかりません。人というよりは、色の名前になっています。もちろんみんながみんなこんな読み方をするとは限りませんが、決して杞憂ではないんです、これが。千尋さんには『CREVASSE』(野村雅夫、2005年、写真下)という作品にも出演してもらっていて、以前イタリアで紹介した際にやはり間違って読んでいる人が続出したもんですから。ただ、これってどう解決していいかわからないんですよね、いろいろ考えたんですけど。というわけで、今回も結局は普通にヘボン式で綴ってしまった僕です。上映に立ち会うことができれば、電光石火のつっこみを繰り出せるんですが、そうでない場合は、もう天に祈るぐらいしか僕にできることはなさそうです。

 それでは僕の名前はどうかと言うと、幸いにしてクライシスとはあまり縁がないんです。ヘボン式で表記すると Masao ですね。どうですか? いたってシンプルでしょう? これがいいんです。まぁ、本当は間違われることもぼちぼちあるんですけどね、程度が知れてると言いますか、我慢がきくレベルにとどまることが多いんです。妙にアクセントを付けられて、マサーオになってしまう。まぁまぁ、こんなのはしょうがないですよ。イタリア語では S が母音で挟まれると音が濁ることがあるので、人によっては、マザーオになってしまう。まぁまぁまぁ、ぴくぴくっと眉が動く感じはありますけど、大目に見ましょう。ところがです。こんな寛大な僕にも大目には見切れないことがあったんです。

 去年の暮れだったでしょうか、ファンシーゆずが友人宅で催されるフェスタ(ホーム・パーティー)に呼ばれたときのことです。あらゆる点で暇だった僕は会費がタダであることを知るや否や、その友達をまったく知らないにもかかわらず、ここぞとばかりに同行を志願しました。着くなりワインを振舞われた僕らは、赤ら顔の上機嫌でパーティーの開始を待ちました。メンバーが揃えば、いよいよ食事の時間です。ここでホストである男が、気配りよろしく僕らをみんなに紹介してくれたんです。

  「やぁみんな、今晩は素敵な友達が来てくれたよ。ゆずとマカーオだ!」

 豊穣な葡萄酒に起因する心地よいゆったり感は、完全に僕の瞬発力を鈍らせていました。僕が耳を疑って、「こらこら!誰がマカーオやねん」とつっこもうとした時には、既に別のゲストが紹介されていました。それからは訂正の嵐でした。僕は必死になって誤解を解こうとしましたが、時既に遅し、なしのつぶてでした。「僕の名前はマカーオじゃなくて、マサーオ。もっと正確に言えば、マサオだから」といくら念押ししても、しばらくすると、「ところでさ、マサーオじゃなくて、マカオ、日本ではさ…」といった具合です。もはや僕は完全に東洋のラスベガスになってしまっていました。ここまでくれば、もう手遅れです。

 わかりますよね? 所詮は他人の名前です。しかも馴染みの薄い外国人の名前です。さらにアルコールまで入っているんです。間違わないのが奇跡というようなものなんでしょう。僕はそう考えて、涙を呑むことにしました。

 これから我が子に名前をつけようとかいう場合には、よくよく考えてあげてください。いいですか、こんなにもグローバルな世の中なんです。生まれ来る子どもたちの世代にもなれば、外国人と接する機会は今とは比べ物にならないくらい増えているかもしれません。姓名判断もいいでしょう。ただ、これからはローマ字でも占うようにしてください。いや、僕なんかから言わせれば、運勢なんてどうでもいいんです。誰から呼ばれても、ちゃんと自己同一性が保たれることを最優先していただきたい。地球規模で読み間違う確率が最も低い名前を付けてあげてください。

 そう、大事なお子さんにアイデンティティー・クライシスを体験させないためにも…