京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

本物が観たい 〜盗作騒ぎの祭りの後に〜♪  (旧ウェブサイトコラム『ローマで夜だった』)

 しばらく日本のニュースチェックを怠っていると、和田とスギという名前がネット上に踊っていた。スギスギ書いてあるからわからなかったが、よく見るとイタリア人画家ではないか。ヤフーが僕を日本とがっちり繋げてくれているものと安心しきっていたが、電脳世界でぼんやりあぐらをかいていると、ときどきこうした情報を受け止め損ねることがある。しかも今回は、イタリアと日本にまたがるスキャンダル。これは知らないでは済まされないということで、僕も遅ればせながら事の次第を追いかけてみた。

 しかし、オリジナルをほとんどトレースしたと言っても過言ではないそっくりさ加減、そしてそんな絵をばんばん画壇に出してしまう潔さ。すべてが明るみになった今だから言えることだけれど、和田氏は本当にあっぱれというかおめでたい人である。ローマの露店でイタリアン・ブランドの偽物を買っていく日本人を見かけることがあるけれど、和田氏もそれと同様の現象を日本の画壇に期待したんだろうか?

 まぁ、それはともかくとして、コピーが出てきたとなると、俄然湧いてくるのはオリジナルへの興味である。いったいどんな人物が描くどんな絵なのか? そこで僕としても、ODCローマ支部としても、このコラムを書くことは急務となった。ただし、残念ながら高校時代には芸術科目で美術を選択したことが災いして危うく落第の憂き目に会いかけた僕である。美術評論のようなものは一行たりとも書けそうにない。というわけなので、スギ氏の簡単な人となりと功績、それから、絵画そのものというよりも絵画を取りまく環境に話題が終始することになったとしても、いや、そうなるということがもう現時点でわかりきっているとしても、どうかご容赦願いたい。コラムを読んで煮え切らなくなってしまった方は、文末にオフィシャルホームページへのリンクを張っておくので、どうかそちらをとくとご覧いただいて、「本物を観たい」という願望を成就させていただきたい。このコラムは彼の広い世界への小さな入り口なのです。

 まずは名前をはっきりさせておこう。つづりは、Alberto Sughi 。日本ではスギだスギだと樹木みたいに呼ばれているけれど、発音に忠実に表記するなら、アルベルト・スーギとなる(右の写真が彼です)。1928年生まれというから、今年で78歳。日本でこそこれまであまり知られていなかった人物だが、イタリアの現代美術界では重要な美術家として認識されていたし、ヨーロッパはもちろんのこと、大西洋を隔てたアメリカでも一定の評価があるようだ。実際に各地で催されるイタリア現代美術の展覧会において、彼の作品は欠かすことのできないものとなっている。ここ数年もスーギの作品を取り上げた雑誌の特集は国内外にたくさんあるし、2000年にはローマで「ミケランジェロ賞」を受賞している。これだけの長いキャリアを通じて高い評価を受けているのにはいくつか理由があるのだろう。
  
 門外漢がやいのやいの言っても仕方ないのだが、どうしても触れざるをえないのはそのテーマと題材だ。スーギは40年代から画家としての活動を開始していたものの、自分の言語を獲得して頭角を現すのは50年代のことである。この時期に、彼は「社会派リアリズム」から「実存的な、もっと生活に根ざしたリアリズム」に移行したと言われている。僕は初めてスーギの絵を目にしたときに、エドワード・ホッパーを思い浮かべた。

 ホッパーが現代の都市生活を好んで描いたように、スーギも(プチ)ブルジョワたちの生活を鋭く切り取っている。もちろんこの二人が題材にしたのは、まったく違う国の人々である。タッチも色使いも異なっている。では何が似ているのか? それは一定以上の生活水準を満たした現代人が抱える「孤独」を扱っているということだ(少なくとも僕にはそう思える)。端的に言ってこれらの絵を見たときに希望を感じることはない。どの作品のモデルたちも、それなりに不自由のない生活を送っているように見える。画家が描く光景も、いたって日常的なものだ。上に掲載した5点は、膨大な作品群から複数の人間が描かれているものだけを選んでみた(上の4点がスーギの作品で、下のはホッパーの作品。それぞれクリックすると大きくなります)。既にお気づきの方も多いと思うが、面白いことに、人物たちの視線が交わっているものはひとつもないのだ。彼らの視線は、決定的に、そして致命的にねじれの位置にある。どこまでいっても交わることはない。そのせいか、どの絵にものっぺりとした空間があり、そこには様々な種類の沈黙が充満している。

 スーギはこうした作品で、現代生活の危機を描いている。しかし、そこには過剰なメッセージや作者の価値判断やモラルが織り込まれるというようなことはない、と思う。彼はただ提示しているのだ。生活の根底を流れるざらざらした苦味を。限りなく薄まった人と人との関わり、ごくごく表面的なコミュニケーション、そして途方もない孤独感を。僕たちは彼の作品を前にして、そういった目には見えないけれど実に本質的な現実を覗き込むことになってしまう。なぜなら、彼の取り上げるテーマが決して過去のものではなく、僕らが今もなおそれを引きずっているからである。

 次回も、アルベルト・スーギについてもうひとくさりしたいと考えています。ODCのフィールドである映画との関わりについて。僕としてはさすがに何度も書けませんが、しかるべき人がしかるべき分析をするに値する人だと確信しています。今回書いた文章についても、彼の作品への些細で拙いアプローチにしか過ぎません。ずいぶんと偏った見方しかできていないかもしれませんが、それでもないよりはマシなんじゃないかと勝手に考えています。というわけなので、今しばらくのお待ちを。

 さて、文中でお約束した彼のオフィシャルサイトはこちらです。ぜひとも一度覗いてみてください。イタリア語だけではなく、英語にも対応しています。そして何よりも実際に彼の作品にたくさん触れることができるので、何となく画像を追っていくだけでも十分楽しめます。

 そして、驚いたことに、トップページに「みの」がいます。そうです、あの「みの」です。「もんた」です。「えっ、どうして!?」。素直な疑問ですね。その辺はご自分の目で確認してみてください。実際のところ、いつまで「みの」がいるかはわかりませんので、お早めに。

 =追記=
 残念ながらと言うべきかわかりませんが、「みの」はもう削除されてしまいました。跡形もありません。この事件も幕切れしたということなんでしょうね。当時は日本から彼のサイトにアクセスする人があまりに多かったようなんです。そして、みんなが事の真相を知りたがっていたんだけれど、そんなものはサイトを見てもわからない。そこで、「和田の事件のことが知りたい日本人はこっちを見ろ」というようなあんばいで、日本のとあるサイトが掲載されていたんです。「盗作事件の真相を暴く」みたいな内容のサイトでした。そこに、テレビ番組内でこの事件についてコメントする「みのもんた」の映像が掲載されてたんです。スーギのサイト管理者は、あろうことかその「みの」画像をリンクバナーとして貼り付けていたんですね。そういうわけで、スーギのサイトのトップページに「みの」が登場するという珍事が発生したわけなんです。まぁ、どうでもいいことなんですけどね、一応の補足でした(2007年1月29日)。