京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

かくして私にも… アイデンティティー・クライシス

 2年に及ぶローマ生活もあと残り僅か。ピーカンの空の下、ローマ郊外の景色を特徴付ける巨大な松並木をぶらぶら歩いていると、後ろから「アユー! アユー!」という男性の叫び声が聞こえてきた。ローマの人は総じて声が大きいので、いちいち反応もしてられない。気にせず歩を進めていると、その「アユー!」のボリュームがだんだん大きくなってくる。近づいてくるのだ。もしや…。イタリア語で「助けて!」というのは「アユート!」(Aiuto!)と言う。彼は何かのトラブルに巻き込まれて助けを求めているのではなかろうか。あまりの興奮に声が上ずり、「アユート」の「ト」が抜け落ちて聞こえているのではなかろうか。私が果たして何かの役に立つかどうかはわからないけれど、彼が本当に困っているのなら…。私が矢面たまらず振り返るのと、声を上げ続ける彼が私の肩を叩くのはほぼ同じタイミングだった。驚いたことに、彼は同じ学校で監督コースに通う友達だった。これはいよいよ助けてあげなければいけない。

「どうしたの、いったい?」
彼は息を整えつつ、
「今度撮る短編にちらっと出てほしいんだよ」

 これには拍子抜けしてしまった。判明した事情はこうだ。私に出演交渉の電話をしようと思っていた矢先に町で偶然見かけたので、彼は小走りに私を後ろから追いかけてきたらしい。

 「映画に出るのはいいんだけどさ、何も助けを呼ばなくったっていいじゃない。まぎらわしいんだから」
 「何の話? 助けなんて呼んでないけど。君を呼んだだけじゃないか」
 「え…?」

 誤解はすぐに解けた。実際のところ、彼は助けではなく私を呼んでいたのだ。それだったら普通は「ゆずー!」となるところなのだけれど、ここローマではそうはいかないことが今回の件でよくわかった。ローマ方言で誰かに呼びかけるときは、名前の後ろをカット、その前に「ア」を付けて、「ア誰々〜」となるのが普通なのだ。思い当たる節はある。ミケーレはミケー、アレッサンドロはアレー、イレーネはイレー。とにかく名前の後半はことごとくカットされていくのだ。慣れないうちは、ミケーと呼ばれる友達は本当にミケーという名前なのだろうと思っていたものだ。しかしそういう法則が飲み込めてきてからも、まさか自分の名前がそこに当てはまるなんていうことは想像していなかった。というのも、そもそも学校にはイタリア全国から生徒が集まっているわけだし、いくらローマ育ちの生徒でものべつまくなしにローマ弁丸出しでいるわけではないのだ。ましてや外国人である私には標準語で話しかけてくることがほとんどだ。だから私は今回のように突如ローマ方言で話しかけられると面食らうことになる。それにしても「ゆず」が「ユー」とは…。いくらイントネーションの都合上その方が言いやすいからといったって、ここまでくると省略する意味がどこまであるのだろうか。いやはや…。

 私も今まで何度となく名前を間違えられてきた。イタリアではアルファベットのYを基本的には使わないので、やっぱり発音が難しいのだろう。ミステイクのトップツーは「じゅず」と「ゆうぞう」だ。それって、「数珠」であり「雄三」であるわけで…。私は線香臭い宗教用具でもなければ男でもないのよ、れっきとした乙女なのよ。声を大にしても、こればかりはなかなかイタリア人には通じない。そんなもどかしさは何度も味わってきていたのだけれど、今回の人名ローマ式省略法にはさすがの私も返す言葉を失ってしまった。考えてみれば、彼も別に間違っているわけではないのだし。恐るべきローマ弁。というわけで、次回は強烈なローマ弁が劇中で横行する映画作品を紹介してみたい。

=参考リンク=
ODCの在伊メンバーは名前にまつわる文章をこれまでにいくつか書き残しています。存在危機に一抹の不安のある方は以下のリンクから飛んでいってみてください。不安が解消される保証はありませんが…。

ポンデ雅夫
 アイデンティティー・クライシス 〜君の名は〜
 オールドファッション幹太(彼のブログ内での文章です)
 名前なまえナマエ。君の君のなーまえ。聞いてみてびっくり。さあ、どうぞ。(前編・後編)