2007年7月8日、ボローニャの中心マッジョーレ広場でチャールズ・チャップリンの代表作『黄金狂時代』(The Gold Rush、Charles Chaplin、1925年)が上映されました。市立劇場の70名にも及ぶオーケストラの演奏つきです。恐ろしい人だかりの中、なんとかそれをかいくぐって中央最前列に席を確保して堪能してきました。
あれは高校2年生の頃でしょうか、ジョニー・デップ(Johny Depp)とメアリー・スチュアート・マスターソン(Mary Stuart Masterson)共演の『妹の恋人』(Benny & Joon、1993年)でその存在を知り、すぐに本物を確認して以来、チャップリンのあのパンのダンスは、僕の心というフィルムに若干露出過剰気味に焼きついています。焼きつき過ぎています。あれから10年以上が過ぎ、こうしてボローニャでまたこの映画を見ることができる幸せの後味を楽しみながら、今これを記しております。思えばずいぶん遠くまで来たものです。ずいぶん長い時間が過ぎました。
そして、『黄金狂時代』の上映が終わり、映写機のライトが消えたときに、今年の復元映画祭は幕を閉じました。ボローニャ市立シネマテーク(通称チネテカ)の代表であり、映画祭の代表でもあるジャン・ルーカ・ファリネッリ(Gian Luca Farinelli)は、上映前の挨拶を「また来年」という言葉で締めくくりましたが、果たして来年の今頃、またこの地にやって来ることはできるのでしょうか。僕もできることなら「また来年」と言って、映画祭に別れを告げたかったのですけれど。
この映画祭の報告を何か書こうとして、途方に暮れています。あまりに多くの映画を見過ぎて、あまりに長い時間を上映室のスクリーンの前に座り過ぎて、まったくまとめることができません。あえて言うならば、「まとまったもの」はあの8日間それ自体だったのです。
「映画のアーカイヴの映画祭」という紹介もされるボローニャの映画祭は、映画に関する何らかの「再発見」をテーマにしていることは、前回のコラムで記したとおりです。映画史的な再定義、作家やジャンルの再評価、フィルム素材としての再発見、「ふたたび見出された映画」(“Il cinema ritrovato”の日本語訳)の祭典は、シネマテークの存在に魅せられ、映画のすべてに興味がある僕たちにとっては、欠かすことのできない最も重要な映画祭のひとつだと思っています。
アーカイヴの映画祭、という表現を僕は用いました。なぜならこの映画祭は、アーカイヴとそこで働く人たちの発表の場でもあるからです。仕事の成果を持ち寄って、情報を共有することによって、これからの仕事のための分野全体の底上げを目指し、同時に新たな協力関係を築く。ただ単に古くて新しい映画を見て楽しむだけではなく、世界のアーカイヴの仕事を知ることが、この映画祭の大きな目的でもあるのだと、単なる学生ながら、一参加者としてその場の雰囲気を捉えています。
実に多くの「映画関係者」が、期間中ボローニャに集いました。世界に名の知れたアーカイヴ関係者、ラボ関係者、映画監督、製作者、批評家、教育関係者…、一般客の方が少なかったんじゃないでしょうか。こうした映画関係者が、それぞれが関わった企画の上映前に解説をし、その仕事の背景についてカタログには載っていない情報でもって補足します。カタログ上で、「●アーカイヴと▲シネマテークと■ラボの協力によって復元」と説明があるものでも、実際にそれぞれから代表者が集って、ほとんど友達のように壇上で満足げに自分たちの仕事を振り返っている姿を見ると、そうした密な関係の存在がより具体的に理解できます。
アーカイヴ間の関係の存在を特徴的に示していたのは、期間中、僕が参加した中では最も観客を集めた『地獄篇(訳は筆者)』(L’inferno、Adolfo Padovan/Francesco Bertolini、1911年)の上映で、大勢の立ち見客が出たばかりではなく、イタリアでは有名な批評家タッティ・サングイネーティ(Tatti Sanguineti)までもが、通路に持ち出した特設のパイプ椅子をその巨躯で軋ませてまで鑑賞を望んだ作品です。『地獄篇』は1911年の作品で、この頃イタリア映画は長尺化が顕著な時代を迎えています。イタリア映画史において、長編映画の最初の例のひとつに挙げられる『トロイ陥落(訳は筆者)』(La caduta di Troia、Romano Luigi Borgnetto/Giovanni Pastrone)は、同じ1911年にイタリアで公開されましたが、それでもその全長は600m超です。全長1300mとされる『地獄篇』がいかに異例の作品であったかがよくわかります。*1『地獄篇』の復元は、ボローニャのチネテカ主導で行なわれましたが、世界各地のシネマテークやアーカイヴからフィルム素材が取り寄せられました。まず、基礎となる素材は、ブリティッシュ・フィルム・インスティテュート(British Film Institute)とUCLAフィルム・テレヴィジョン・アーカイヴ(UCLA Film and Telvision Archive)からのふたつの染色調色*2によるカラー・プリント(可燃性ポジ)、次いで、デンマーク映画博物館(Danske Filmmuseum)とブルガリア国立フィルモテーカ(Bulgarska Nacionalna Filmoteka)とアメリカン・フィルム・インスティテュート(American Film Institute)からの、3つの白黒ネガ・プリントが集められました。それらを調査し、ボローニャのラボ(Immagine Ritrovata)で実際の作業が行なわれたのです。
公開当時のオリジナル・プリントが失われている、あるいは劣化が著しくて使用できない、そういう時にこのようして各地各国に現存する複数のプリントから、極力オリジナルに近いフィルムを再構築するというのが、映画復元の仕事の大きな流れのひとつと言えます。どこに素材はあるのか、そしてそれはどういう素材なのか、状態はどうなのか、そうしたことが明らかになるためには、それぞれのシネマテークやアーカイヴの資料化(カタロギング、カタログ化などとも言います)の仕事が何よりも基礎となり、逆に言えば、映画の復元は、そうした映画保存に従事する施設や団体の基本的な仕事の集大成と、国や組織を超えた協力関係の結実なのです。
『地獄篇』の他にも、スペインのシネマテーク(Filmoteca de Catalunya)が所蔵していた複数のイタリア短編喜劇映画を、ボローニャのチネテカ、ミラノのチネテカ・イタリアーナ(Cineteca italiana)、トリノの国立映画博物館(Museo nazionale del cinema)が出資して復元するプロジェクトもその成果を披露しました。100年前の映画を特集した「1907年の映画」という企画も、世界各地のシネマテークの協力がなければ、合計100作品に達するかという非常に充実したプログラムは組めなかったはずです。アスタ・ニールセンの特集でも、ある作品の終幕後に、素材を提供を求める字幕が流れました。今年はうれしいことに、日本の映画も紹介されましたし、また、日本の研究者が発見に携わった外国映画の上映もありました。前者はスイスのシネマテークで見つかった作品で、3本の日本映画を編集して日本の歴史を描いた1本の作品『NIPPON』に仕上げたもの*3、後者は、失われたとされるジョセフ・フォン・スタンバーグの『女の一生』(The Case of Lena Smith、Josef von Sternberg、1929年)の断片を発見した日本が参加したプロジェクトの発表です。いずれも早稲田大学の小松弘先生が解説に参加されていました。こうしたひとつひとつの企画、プロジェクトの中に、イタリア映画の『地獄篇』の復元と同様、それぞれに密な各国間の協力関係を垣間見ることができます。
ボローニャ復元映画祭はとても学ぶことの多い映画祭です。材料提供は消化不良を起こすほどに豊富ですし、少なくとも、シネマテークの活動や映画保存と復元に関心のある僕にとっては、すべてが垂涎の企画です。それぞれ個々の企画が再発見(時には発見)であることはもちろんで、それら企画を超えたところにある映画保存のひとつの現状、言い換えれば、どの企画にも共通する地下水脈のようなアーカイヴ間の結び付きが、映画祭の数多い魅力の中でも、今回は強烈に印象に残ったわけです。
アーカイヴやシネマテーク間の協力関係は、何もこうした華やかな映画祭にのみ実を結ぶものではなく、チネテカでの普段の上映プログラムにも、その関係は見て取れます。プログラムを眺めていても、「〜シネマテーク収蔵作品」とか「…ラボの復元プリント」とかという記述をよく目にします。フィルムの移動が、組織間の関係の現れであり、フィルムの移動の頻度はその結びつきの緊密さの表れであると言えるかもしれません。
フィルムの存在はとても大事なものです。「見せるために保存する」のか、あるいは「保存それ自体が重要」なのか、その議論は分かれるところではあるとは言え、その素材の存在に次いで大事なのは、それを保存するアーカイヴ、復元するラボ、収集上映するシネマテークの存在じゃないかと思います。復元の最先端を行くボローニャに暮らし、その街で開催される復元とアーカイヴの映画祭に2年続けて参加し、それを痛感しているところです。
日本やアジアは、そうした国際関係においてどういう位置を占めているのか、気になるところです。イタリアと世界の現状を見た僕は、いったい日本の映画のために何ができるのでしょうか。模索は続きますが、この映画祭で感じたことが何か知らんで活かされれば、いつの日か、ふたたび7月のボローニャに戻ってきて、映画祭の後では、「じゃあ、また来年」、そう言って去ることもできるようになるのではないでしょうか。
※オールドファッション幹太のブログ KANTA CANTA LA VITA
*1:今回の復元版の全長は1200mで、解説したダヴィデ・ポッツィ(Davide Pozzi)も、『地獄篇』の復元は過程段階にあると言っていました。
*2:イタリア語の imbibizione/imbibito(英語のtinted)を「染色」、同 viraggio/virato(toned)を「調色」と僕は訳しています。前者はフィルムの基礎となる部分(あるいは表面)に直接色素を染み込ませ、後者はフィルム上で光に反応した銀塩を化学変化によって発色させます。染色では、一番明るい部分で最も発色し、対して調色は一番暗いところで最も発色します。両者のそうした構造から、組み合わせて用いることも可能です。
*3:再編集、短縮化された3本とは、小石栄一の『天平時代 怪盗沙弥麿』(1928年)、星哲郎の『篝火』(1928年)、牛原虚彦の『大都会 労働編』(1930年)です。今回の上映では前の2本のみの上映でした。1932年にドイツ在住の日本人を起用してサウンド化されたため、なかなか可笑しい部分もありましたが、映像自体はすばらしく、オリジナルだけでなく編集版の完全版も見てみたい気がします。